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ヘヴン・オンリー・ノウズ
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人の心は本当に分からないものだ。つくづくそれは思う。人心掌握術。僕にとってそれは難しすぎる。もし、もっと僕が相手の心を理解できていれば、あのコンビニで働いている彼女にもフられなかったかも知れない。告白して断られなかったかも知れない。それにしても二ヶ月前にカノジョと別れて以来、ここ最近の告白の失敗っぷり確率が高すぎるな。そう、二ヶ月間で三回も失敗している。僕は恋愛に対してひどく積極的なので、相手が自分の事をどう思っているのか? なんて事を考える前に、すぐに勢いあまって行動に移すクセがある。かと言って、決して結果を鑑みてないわけではないので、交際を断られたら、その都度傷心に打ちひしがれる。だが、僕は女性に惚れっぽいだけで、どんな女でもいいから付き合いを求める、という理由からたくさん告白しているわけではないのだ。純粋に自分の気持ちに従っての結果なのだ。ただ相手にその気持ちがうまいこと合致しないだけ。好きな女性と僕の好意がシンクロしない。女性の気持ちは難しいものだ。異性、いや、翻れば同性だって分からない。言ってみれば人間の心を察知できないというのは、改めて考えてみると、ひどく不便で恐ろしい事だ。相手がどんな人間か理解できないなら、それこそ善人なのか凶悪なのかも区別できないのだから。こんな息苦しい時代だからこそ、こんな隣人が不気味に見える都会だからこそ、事故や事件に巻き込まれないためにも、自らの保身として、ある程度は人との付き合いの中で、その個人の性格なりを把握しておかなければならないのではないか。そうでもしなければ、自分の身に危険や災難が降りかかるかも知れないんだ。友人関係にまで発展した人間が、とんでもなく卑劣で残虐な奴だったらどうする。はたして金をせびられ、暴力をふるわれ、自分の日常生活を無茶苦茶にされてしまう可能性だってある。そう……当然ではあるが、相手の気持ちが分からなければ、人生というのはどうにも非生産的になるだけの、言ってしまえば一方的に傷つくだけの、無慈悲かつ悲痛なものになりかねないぞ。
長い懊悩。その冗長ともいえる思案を、桂井(かつらい)健史(けんじ)本人は哲学的に昇華して捉えている最中だったので、突然、一人暮らしの自分のアパートに訪れたセールスマンを部屋に招いたのは、ある意味必然的な流れだった。
そのセールスマンが訪問販売してきた時の惹句が、
「あなたは人の心を覗きたいとは思いませんか?」
だったのだから。さらに流暢に続けて、
「今の世の中、人を見た目だけで判断するのは困難だと思いませんか? アパートやマンションの住人でいつも通りすがり挨拶をしている仲。相手も外見は好青年で社交的。いたって普通の若者の装いをしているのに、その実、部屋の中では少女を監禁していたなんて事件も、ままありますし。世間では人当たりの良い理想の父親像のようなご亭主が、家では内弁慶にしてDV常習者だった、とか。さらには察知しがたい暴力行為や犯罪は若年化も進んでいて、いかにも優等生然とした生徒や学生が、突然、同級生を何の躊躇いもなくナイフで刺し殺したり、というケースも最近では増えています。それにこの辺りでも車場荒らしの激増、挙句の果ては三件ぐらいでしたっけ、若い女性らがバラバラ殺人の被害に遭ったりしていて、遺体の一部はまだ見つからず、夜道を歩くのもままならない。そういえば近くの河川敷でもコンクリ詰めのリンチ殺人が起こったりしましたね。この事件の犯人は高校生グループですよ。被害者は同世代のフリーターの友人。犯行の動機は小さな諍いから発展して、その流れから意図せずして殺してしまった。つまりは、何となくそうなった、ということ。群集心理の脅威による殺人事件への発展の典型ですよ。そうですよ。単純に人を殺してみたかったから、なんて理由がまかり通るのも今日の殺人事件、いや、その他諸々の軽犯罪から重大事件が不明瞭化してきてそれこそ、隣は何をする人ぞ、と隣人にまで懐疑の念を抱いてしまう。善良そうな一般市民が冷酷な殺人鬼だった、なんていうのもドラマや映画だけの話じゃなくなってきています。そんな息苦しく恐ろしい社会だからこそ、その人の外見や性格の皮相的な部分だけでなく、その人の本来の中身を、その人の過去や真実を見定めないと不安じゃないですか? 誰しも他人をそう簡単に信用するのが難儀な現代だからこそ」
夕食後、おおよそセールスするには不適合な時間。にも関わらず、通常の民間人ならばその時点で逆に胡散臭さを覚え、間髪入れず家の扉を閉めてしまうはずなのだが、あまりにも桂井の心象のタイミングがそのセールスマンの長台詞の口上に、共鳴および同期しすぎた。普段の桂井なら多くの人と同じくセールスお断りのスタンスでの対応をしていたが、この時だけは桂井はどうにも運命的、否、蓋然性すら感じ、
「どうぞ」
と一言を添えて何ら疑う気色も見せず、すんなりとそのセールスマンを部屋に入れたのだった。紺のスーツに身を通し、手には黒のアタッシュ・ケースを持つ、いかにもビジネス・パーソン然としたセールスマン。痩身ではあるが肩幅のあるその体躯には背広が相応しく、見た目は二十五歳の自分と大差はないであろう彼に対して、桂井はヤリ手営業マン的な印象を抱いた。
セールスマンは玄関で一旦直立不動になり、1LDKの桂井の部屋を見渡し、
「良いお部屋ですね」
とアシンメトリーがかった頭髪を一撫でしつつ一言添えた後、桂井に促されるままフローリングの床に敷かれたジャガード織のカーペットの上に下足して足裏を置いた。
「いえ、男やもめのむさ苦しい部屋ですよ」
桂井は取り留めのない会話をしつつ、セールスマンを座椅子にかけさせ、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り、湯飲みに注いで彼に差し出した。セールスマンは一度恐縮した態度をとると、桂井からお茶を受け取り、冷茶にも関わらず、熱いものにでも触れるかのように、慎重に両手を湯飲みに携えて、それを口に含んだ。
桂井も部屋の壁際にピタリと嵌った、セールスマンとは対に位置するベッドの横側にクッションを備え、その部分を背もたれにして座布団の上に座り、脚の低い円卓を挟んだ状態で若いセールスマンと向かい合った。
そして、開口一番、
「人の心が覗きたくないか? とさっき言いましたよね」
とすぐに先のセールス・トークの核心部分を切り出した。
「はい、申し上げました」
柔和な顔をしつつも、瞬きをしない鋭い視線で即答するセールスマン。奇妙な謳い文句を売りに来訪してきたセールスマンに対して質問のつるべ打ち。それを念頭に置いておいた桂井。だが、いざ、その若い訪問販売員と着座して直面してみると、徐々に冷静さを取り戻してきて、自分はおかしいんじゃないか? と桂井は感じ始めた。人の心を覗いてみたいか? なんて言葉に引っかかって、セールスマンを部屋に入れて、わざわざ茶を出して談議する。僕はアホなんじゃないか、とも。
そんな折、セールスマンは背広の内ポケットから名刺を取り出し桂井に差し向けた。
「あ、申し遅れましたが私はこのような者でございます」
名刺には田中(たなか)一郎(いちろう)と氏名が書かれ、その上には有限会社デッドゾーンと社名が一筆。厳密に言うと、有限会社の有限の部分は二重の斜線が施され、株式と赤ボールペンで書き直されている。またその名刺には、それ以外に役職や会社の住所や電話番号は記されていなかった。名刺に書き込まれている情報は氏名と社名のみ。訝しげにそれを受け取る桂井。そんな桂井の態度を他所に、セールスマンの田中は素早く行動し、所持していたアタッシュ・ケースを開けて、腕時計のような物を取り出した。
「こちらです、あなたにご推薦したい商品は」
田中は含み笑いがち、桂井の目下にそれを置いた。
「これは?」
「まだ開発されたばかりの新製品なので、正式名称は決まってないんですが、読心の英訳がマインド・リーディングですので、アルファベットのイニシャルを取って、単純にMRと仮名称で呼んでいるモノでございます」
「MR……これが、その、さっき言っていた人の心を覗くっていうアイテムですか?」
「はい。どうぞよかったら手にお取りになって下さい」
心許ない表情でMRと命名されている、ほぼ腕時計と同型のそれを手に持った桂井。腕時計と違うのは時計盤の部分が、心電図や心拍数を計るベッドサイド・モニターに映る波長のような動きがある液晶画面になっている事だった。実際、一見すると脈拍やら血圧やらを簡易的に測定する装置だと連想してしまう。
覚束ない気色を長いこと顕にしている桂井を察してか、田中は一つ咳き込み、
「見た目は何かの健康器具に見えるでしょう。今では携帯電話でも万歩計の機能やランニングなどして血圧を計れるアメニティが付いてますからね。その液晶画面に映る波線が、それのような類いのモノに思い浮かべてしまうのも無理ありませんが、そこは気にしないで下さい。画面に表示されている波線は本機の性能とは特に関係ありませんから。ただMRが正常に動いているかどうかを示している合図のようなものです。画面に波線が映らなくなっていたら、電池切れか故障したか、ぐらいの単純な認識をして下さい」
「この腕時計、というかリストバンドみたいのが読心できる機械、つまり、これを装着すればサトリの能力が身に……付くんですね」
興味津々とMRを見つめながら桂井はそれを腕に巻いてみた。特に左手首に巻き付けた所で自分の体に異変が起こった感はない。ただ、液晶画面の波線が暫く揺れだして、波長が間延びしたり緊縮したりして、やがて落ち着き一定の波線の変化に変わった。
田中は桂井が付けたMRの液晶画面を覗くと、
「セッティングが終わりましたね。あ、そうだった……私があらかじめMRを付けて置けば良かった。説明が足らなかったんですが実際にMRが機能するには装着してからだいたい八時間ぐらいかかるんですよ。本人のバイオリズムとシンクロするために。ま、アイドリング時間というか、体に慣れるまでの所要時間と言いますか。だから今すぐにはその性能が発揮できないんですよね。私が前々から付けていればこの場でお客様をサンプルにして実践できたんですが……うっかりしてました」
「使い方は?」
「簡単です。MRを付けたまま人に触れれば良いだけです。直接に皮膚や肌、というわけでなく服の上からでも大丈夫です。さすがにガラス伝いや壁伝いでは読心できませんが、普通に二,三秒ぐらい相手に触れれば勝手に相手のデータ、つまり、相手の記憶や過去が自分の脳にそれこそ走馬灯のように流れてきます」
「……なるほど」
「それではとりあえず三日間お貸ししましょうか。お試し期間として。三日後はちょうど休日ですし。今から付けたので明日の朝にはMRの機能が作動し始めるはずです。その後に暫く試してみて下さい。それでお気に召されたらご購入という流れではどうでしょうか?」
「そう……ですね」
口ごもった唸り声で返す桂井。その顔はあからさまに不審気。それに察してか田中は空気を濁すため口を開いた。
「ちょっとシステムの説明をさせてもらいますね。人間は細胞の内と外の電位差から体中に電気が流れているんですよ。それは脳も同じです。その脳の神経経路の仕組みなんですが、シナプスという軸索が電気信号を神経伝達物質に変換してニューロンと呼ばれる神経細胞に情報を伝えるんです。その電気信号が大脳辺縁系の一部である海馬体という記憶に関わる器官を通しMRへと流れていって……」
「あ、はい、もう分かりました。明日にも試してみるんで」
難解な用語を駆使して滔々と話す田中に辟易して桂井はすぐに口を挟んで遮った。田中は十分に解説できなかった事に不満だったのか、一瞬、表情を曇らせたが、
「そうですかあ。いや、そうですね。その方がよっぽどてっとり早いですから。実践するのが一番です」
と再び顔つきをセールスマン営業スマイルに戻した。
「一度手首に巻いて八時間体に馴染ませたら、その後のMRの着脱は自由にして下さい。リセットしない限りデフォルト、いわゆる初期状態には戻らないので、ずっと付けっぱなしという必要はないです。ただ精密機械ですので、あまり手荒には扱わないようにして下さい。あと一応、防水加工はしてありますが、水につける様な事も避けて下さい」
田中は簡単に注意事項を口頭で伝えると、適当にパンフレットや説明書の類いを置いていき、そそくさとアタッシュ・ケースを手に取り、
「それでは三日間後にまたご訪問いたしますね。お茶、どうもご馳走様でした」
と言って桂井の所存も聞かずに、疾風のごとく部屋を出て行ってしまった。
ポツネンと一人残された桂井。
何やら狐につままれたような話だな、と思い返し一応は我を取り戻した桂井は、左手首に巻いたMRを見つめながら眉間に皺を寄せた。
「まあ、別に今の時点でお金を払ったわけでもないし、変な契約を結んだわけでもないから、問題は無いっちゃ無いけど」
確かに現時点で特に困るような事態は起きていない。ただ、先ほどのセールスマンの田中の口車に簡単に乗せられたような気がして、桂井は妙な気恥ずかしさを覚え始めていた。時間が経って徐々に冷静になっていくとより一層。
「馬鹿馬鹿しいな、やっぱり」
桂井は、騙されている、と思い、今まで信じて聞き込んでいた自分を一蹴して、手首に巻いたMRをはずそうとした。
だが、
「読心術、いや、テレパス能力……か」
と呟くと、はずそうとした腕を止めてその場に寝転んだ。何度か寝返りを打った末に、つい先ほど食べた夕食のカレーが残っている事を思い出し、カレーの入った鍋を温め始めた。熱でグツグツと煮込み始めたカレーを見ながら、変に空腹感を感じる自分に違和を覚えた。明日もカレーだな、カレーは二日目が一番美味しい。桂井はそう考えその奇妙な違和感を頭から取り払おうとした。
「そうだ、明日になれば……」
瞬きする事無く、ほぼ沸騰状態になったカレーを睨みながら、桂井はまた独り言を漏らした。
*
翌朝。
桂井にとって左手首に腕巻き物をした程度は睡眠に支障はきたさなかった。ただ普段起きている七時前に目が覚めて、目覚まし時計の世話にならなかった事は意外だった。桂井は不意に左手首に巻いているMRに一瞥をくれると、その後はいつも通りに昨日に会社の帰り際にスーパーで買った賞味期限間近の半額惣菜パンを朝食とし、ネクタイを締めながら朝の情報番組の占いコーナーを見て、戸締り確認、黒塗りバッグをたすき掛けに出勤した。
見かけはいつもと変わらぬ出社風景。朝の通勤満員電車に乗る前に自販機で缶コーヒーを一杯。ちょうどそれが飲み終わる頃に駅にたどり着く。到着駅で即座に階段を降りられる電車のドアのポジションでホームでは列をなす。耳には携帯用音楽プレーヤー。何も変わらない、毎度のペース、毎度のパターン。
だが、やはり左手首に巻かれた機械類が気になる。MRと呼ばれる人の心を覗ける、という現代社会的観点からすれば、胡散臭さ満点な代物が。普段から携帯電話を時計代わりにしているで、腕時計をしていない桂井だったが、別段、左手首に物を巻いている事に違和感はない。ただ違和感があるのはMRという存在自体だった。
僕はひょっとしたら週刊誌によく載ってある、金運が上昇する謎の数珠か急に女にモテるようになるパワーストーンの類いを買ってしまったのではないか? いや、まだ買ってはいない。だけどそのようなあたかも霊感商法並みにインチキ臭い品を身に付けているのは確かだ。人の心を読み取れるだって? マトモな神経の持ち主なら、そんな言葉を信用するか。昨日のあの時は気の迷いだった。そう、思いたいけど。
桂井はMRを付けている事自体に羞恥心を覚え始めた。だが、一方でこの機械を試してみたい衝動にも駆られていた。満員電車の中なら怪しまれる事無く体の接触は可能。左手を広げてそっと誰かの背中に少し当ててみれば嘘か真かは容易に分かる。男にやれば痴漢にも間違えられないだろう。しかし、そこまで桂井は考えても電車の中では実行出来なかった。半信半疑の気持ちが行動を躊躇させる。それはもし仮にMRの機能が本当だとしたら、自分の脳がどのような状況になるかを危惧したから。卒倒するかも知れない。パニック状態になるかも知れない。色々な緊急状態を予想する。
これなら説明書を斜め読みでもいいから読んでおけば良かった。だけど、つまり、そんな僕ってのは何だかんだ思っても、このMRってモノに密かな期待を込めているみたいだなあ。
先ほどまでの含羞(がんしゅう)は忘れて冷静に自分を見つめる桂井。半ば他人事のように自らを俯瞰してはみたが、やはり妙な皮算用は胸襟で望んでいると再認識した。満員電車の中、両手で釣り輪を捕まえながら桂井はMRを一瞥して、やはり最初は会社の同僚に試してみよう、と内心で決めた。
会社のある駅に到着すると、早速目前の階段を降り、改札口を定期で通る。構内の人込みラッシュの流れに身を任せ、熟(こな)れた感じで駅を出て一息吐いてから会社へ向かう。何も問題ないここ五年近くのルーティンな出勤ペースにてスタイル。
会社までは徒歩十分程度。桂井の働いている会社の社員はおおむねこの駅で乗り降りする。会社までの道程もほぼ駅沿いの大通り一本道ですむ。その間に会社の同僚と出会い相手が喋りかけてきたら桂井は対応するが、桂井の方が一方的に気付いた場合はわざわざ話しかけたりはしない。朝の挨拶は出社の際のみ。仕事が始まる前にいちいち仕事場の人間とコミュニケーションを取るのは桂井にとって煩わしい事だった。
だが、数メートル先に同じ会社、同じ課で働いている鳥越紀雄(とりごえのりお)を見かけた。紺色のスーツしか着ないという、特に理由のないポリシーを持った、肩幅のある鳥越が着こなすその見飽きた紺色のビジネススーツは、桂井の目に特徴的に映りすぐに鳥越本人と確認できた。短い歩幅でやたらと足早になっている癖も含めて。
あの後ろ姿は鳥越だよな。
鳥越と桂井は同期入社にして、時折昼飯も食べる平社員クラス仲間。特に懇意というわけではないが、気軽に声をかけられる間柄。とはいえ普段の桂井は出勤前に誰か知り合いを見つけても、道端で挨拶をしようとはしない。むしろ自分が後方にいるならば歩速を下げて、相手との距離を広げるぐらいだし、上手いこと歩道で人込みがあったらその中に紛れて隠れるぐらい接触を避ける。
だが、今日は左手首にMRが巻かれている。不意にその性能を試したくなる衝動に押される。習慣化していた出勤行動様式の禁を破ってでも! と大袈裟に思ったほどではないが。
ちょっと試してみるか?
桂井は気持ち速歩きになって鳥越に近づいていった。チラリと横顔が覗ける。間違いない、鳥越だ。そう確信した桂井は固唾を呑んで鳥越の肩に触れてみた。
「よう、鳥越」
と桂井が声をかけた直後から二,三秒経ったぐらいだった。桂井の頭の中にまさしく例のセールスマンが言った如く、走馬灯が走る感覚のようなモノが、鳥越の記憶を介して駆け巡る。いや、むしろ、一瞬にして桂井自身に鳥越の人格が乗り移り、と同時に鳥越のこれまでの人生の軌跡がダイジェストのように、桂井の脳に侵食してきた感触に近い。つまり、鳥越の内面的な部分と経験的な記憶の両面が桂井の脳内に何万倍速にしてダウンロードしてきた。だが、脳内の負担は思った以上に少なく、軽い立ちくらみが起こったぐらいだった。そして、それら一連の出来事はまさしく刹那の出来事。桂井はさすがに初の読心だったのでしばしのショックを受けていたが、すぐに鳥越が、
「おう、桂井」
と声をかけると桂井も容易く我を取り戻し、
「お、おう、鳥越」
と自身では呆然としている内面を感じていたが、鳥越の方は訝る事もなく桂井とともに歩を進めた。
鳥越の方は何も異変が感じられなかったのか?
桂井は思わず鳥越の表情をマジマジと見てみた。
「何だよ朝っぱらから気持ち悪いな。何か俺の顔に付いているのか?」
「あ、いや。何か体に変わった感じとかないか?」
「はあ? 今、インフルエンザか何かが流行っているのか」
「いや、そういう訳じゃないんだけど、まあ、その何だ。元気で何より」
「何を言ってんだ、お前。まだ、寝ぼけてるのかよ」
眉間に皺を寄せる鳥越に対して苦笑いで返す桂井。そして、しばらく考え込んだ様子を見せると、
「なあ、鳥越。お前さ昨日、いや、一昨日か。何人か引き連れて居酒屋で飲んでなかったか?」
「は?」
桂井からの意表をついた急な質問に戸惑う鳥越。すると間髪入れず桂井が、
「いや、たまたまお前に似た奴を見かけてさ。何だったら声をかけて酒を奢ってもらおうかと思ったけど、間違いだったら気まずくなるから無視したんだけどさ」
「ああ、そうだったのか。確かに一昨日の夜は学生時代の連中と飲んでたわ。何だよ、お前も近くにいたのかよ」
桂井はほんの少し戸惑いの表情を見せたが、すぐに微かに相好を崩し、
「……そう、偶然、居合わせたんだよ。偶然な」
鳥越は含み笑いをしている桂井に、僅かな違和感を覚えたが、特に穿つ事はなく歩を進めた。
MR……間違いない。
一方、桂井は気色ばんだ様子を見せながらも平静を装い、鳥越と取り留めのない会話を交わしつつ会社へと向かって行った。心中、MRに対して信任を覚えて。
終業。
桂井は仕事を終えるとわき目もふれずに即刻退社した。早く帰宅してMRの使用説明書を確認したいからだ。
本日の仕事中は鳥越以外に他の同僚にMRを使って読心をせず、一見すると桂井は落ち着き払った様子で業務をこなしていた。だが、内意では上気していて、仕事は上の空。気持ちがそわそわとして、貧乏ゆすりが止まらなかった。本当は鳥越以外にも読心を試してみたかったが、一度もしくは一日のうちで多数の人間を読心すると、脳に対して精神的負担が大きくなるのではないか、と慎重な桂井は考えたらから、複数の人間にMRを使わなかったのだ。
まずは家に帰ってセールスマンが置いていったMRに関する書類を熟読しなければ。
鳥越に読心を試す前は懸念と疑念が交差していた桂井だったが、実際に使用してみて鳥越の人格や過去の記録が、まるで履歴書を読むかのようにすんなりと頭に入ってきた事で、桂井はMRに対してかなりの信用を持つようになった。
あの感覚は妙なトリップ状態の出来事ではなかった。勿論、寝呆けの類いでもない。ちゃんと自覚症状あっての経験、いや、精神的体験だったはずだ。
桂井は確信を深める。人の心が読める、というおよそSF的かつ超現実的な行為が可能になった、と。
退社後、早歩き。駅に到着。乗車。桂井、釣り革に掴まりながら満員帰宅電車中、熱気こもる混雑にも関わらずMRについて頭を巡らす。居のある駅にて下車。帰路の途中、コンビニで夕食の確保。購買後、一目散に我がアパートへ。家に到着するとまずはジャージ姿の部屋着になり、夕食のカップラーメンを食べるためのお湯をヤカンで沸かす。そして、次に早速、桂井はMRの取り扱い説明書を手に取る。それまで無下に扱っていた例のセールスマンが渡したチュートリアルやその他の書類を、今度は聖書の一言一句を辿るかのように丁寧に読み始める桂井。
「えーと、MRを使う際の注意事項とかMRの特性的な文章は……大脳においては大脳新皮質と大脳辺縁系という構造的な……こんな小難しい箇所じゃないな。他のページ、他のページっと……えーと、記憶には言語や文字で現せる思弁的かつ思考力で処理する『陳述記憶』。実際に身体を動かし自分自身の肉体に覚えさせる、所謂、体で覚える『手続き記憶』というものがあります。前者はさらに意味記憶や出来事記憶などに分かれますが、おおむねの記憶は時間が経過するとともに忘却していきます。後者は一度覚えると、生涯忘れる事はない……って、そんな事知りたいわけじゃない。もっと易しい説明で……ん? 短期記憶の一つに『ワーキング・メモリー』というものがあって、MRで取り込まれる読心した相手方の人格や記憶はワーキング・メモリーと同じ扱いになり、情報量の多少に関わらず短時間で忘れるシステムになっています。これはMRによる情報過多状態での、MR使用者自身の脳の記憶及び情報処理能力の負担を軽減。また、精神的な問題として、脳内における記憶や情報の許容範囲の閾値(いきち)のオーバーをMRが判断し抑制する事により、脳の破綻や人格崩壊の恐れ(例えばMRを使用した結果、健忘の懸念やウツ病を罹患するなどの心的故障の蓋然性の危惧)を回避できる、つまり、オートマチックなリスクヘッジ機能が搭載されているものだと理解して下さい。む、脳の破綻やら人格崩壊とやらは何か不気味なワードだが……ん? 何なに……ただ、ワーキング・メモリーと一つ違うのはMRで取り込んだ相手方の情報の全てが自分の脳内から消去されるわけはなく、自らの脳の趣向に適った、つまり、自分好みの相手方の情報は、しばらく自身の記憶に残ります。ワーキング・メモリーは一つの仕事に対して、その仕事をこなしてしまった後、その仕事に関連した情報は忘れてしまいますが、MRのそれは相手方から得た情報を、自らの脳がそれらは自分にとって有益か無益かを自動的に精査かつ選別し、自分にとって有益、つまり、自分が関心のある情報は残してくれます。その作業は無意識下で行われているので自覚はされません。けれども、自分の脳によって積年に及び形成されてきた、言い方を変えれば長年に培ってきた(MRを使用した側の)本人の性格や趣向などに対して従順に依拠、もしくは考慮してオートマチックにMRは機能しているので、その読心に対する利便性や安全性は信頼をもって構いません……うーむ、何かこの辺の説明書きに、僕が知りたい事っぽいのが載っている気がするな」
長々とMRの取り扱い説明書について、ページを繰りながら一人言を連ねる桂井。しかし、しっかりと読解しているというと言えばそうではなく、せいぜい文章の雰囲気をつかんでいる程度の状態。そのため早くも集中力を欠き、ヤカンが僅かな蒸気音を発するぐらいにも関わらず、お湯の沸騰に気づき、早急にカップラーメンにその沸騰したお湯を注ぐ次第。
「何か内容が難しいんだよな、この説明書はいちいち。もっと簡潔かつ平易な文章にしろっての。わざと難解に書いてハイソサエティ感を出してるんじゃないか、まったく」
桂井はブツクサと文句を言いながら、カップラーメンに付属してあった割り箸を割ったものの、均等に割れず割り箸のささくれが激しい。
「うわ、食べずらっ!」
大仰にまた割り箸にも文句を吐くと、それでも桂井はその割り箸を使ってカップラーメンを食べつつ、どうにも難しいMRの説明書にまだ目を通していた。
「どうやらこのMRってヤツは手前にとって都合が良かったり、自分に興味やら関心がある相手方の性格を含めた情報だけを僕に記憶させて、その他の自分にとっては無関心な相手の事柄は、脳みそが勝手にスルーしてくれるって事かな。だったらなかなか大した代物だけど……おや? なお一日に読心する回数(人数)は、脳内負担を考慮して四人から五人までを推奨します。また、使用後に不快感や違和感を覚えたら、MRの使用を控えて下さい……いやいや、まるで薬の処方箋みたいな書き方だけど、そういう事だよ、僕が知りたかったのは」
カップラーメンをすすりながら、かたやMRの説明書を読みつつ、さらには器用に一人言を交える桂井は、その夕食の最中に説明書を概括的に斜め読みしMRの大枠の仕組みは分かるようになり、どうやらカップラーメンを食べ終える頃にはMRの理解には溜飲を下げたようだった。
食後、空になったカップラーメンの器と不格好な割り箸を捨てると、とりあえずMRの説明書から目を離して、テレビのスイッチをつけた。三十二インチ液晶画面の中では、忙しく複数の芸能人がバラエティ番組で必死に自分のキャラをアピールしている。だが、桂井の頭の中ではその様子が頭に入ってこない。気にかかるはMRの事ばかり。桂井は目をテレビ画面から逸らし手首に巻いているMRに向ける。そして、鳥越を読心した時の事を顧みた。
自分にとって有用な情報だけしばらく頭に残って、無用な情報はすぐに自分の記憶から消えていくって事だよな。つまりは相手方の自分にとって興味のある話っていうか情報やら記憶やらは、僕自身の頭の中でしばらく覚えている。自分にとって何も面白くない情報は直ぐに忘れるって事か。確かに鳥越を読心した所で奴の人格や過去に何の面白味もなかったし、特別に意外性があった情報なんてのもなかったからなあ。最近お熱のキャバ嬢とのチョメチョメやら、趣味で自分のブログであげてるラーメン屋通いの旨いランキングとか、本当、どうにも僕には関心のない内容ばかりだった。奴の過去にしても全然平々凡々で物珍しい出来事なんかなかったしなあ。せいぜい小学校の時給食中に豪快にゲロ吐いた事ぐらいか。
元々、鳥越という人間自体に桂井は興味がなかったので、その読心の成果も桂井自身の関心をひくという意味では大して実にはならなかった。だが、読心の実験が成功したのは結果として現れた。確実に桂井の脳裏に焼き付いた。
ま、MRのテストとしては無駄じゃなかったか。
桂井はMRから目を逸らし、両腕を手枕にしてその場に寝転んだ。
「さて、と」
明日からどうしようかな。いや、明日からが本番だ。どいつにMRを試してみるか……一応は五人ぐらいが一日の読心の上限としては適正人数らしいからな。やたらめったら読心を試して脳に変な負担をかけたくない。やはり会社の同僚とかの方が無難かな。全くの他人じゃ選別のキリがないしな。だけどわけの分からない他人の方が面白い過去とか持っていそうだし。とりあえずは誰に試すか悩むなあ。
「あ、そうだ」
軽く額を叩いて一人言を発した桂井。そして、上半身をムクリと起こし、
「仁科さんには……使ってみたいな」
とまた一言。
仁科亜紗美(にしなあさみ)。年齢は桂井より一つ年下で会社では仁科が二年後輩にあたる。見た目、ごく普通のOLで特段目立つような美人さはないが、ややポッチャリ気味のスタイルから醸し出す二重の瞳の笑顔には愛嬌があり、異性からも同性からも好かれるようなおっとりとした所作と気さくな性格で、社内では真面目な社員の他にマスコット的な存在にもなっている。
そんな仁科亜紗美を桂井はずっと意識していた。仕事中、チラ見するのは当然のこと、用もなく資料のコピーを頼んだり、苦手なコーヒーを無理に汲んでもらったりしたり、何とか仁科とのコミュニケーションを図っていた。だが、二人きりで食事などはした事などはなく、勿論、そんな誘いも桂井はした事はない。せいぜい会社の飲み会で雑談できる程度の仲。普段の社内でも仕事を介した話しかした事がない。
一見すると桂井が女性との接し方が苦手な性格に覚えるがそうではない。実際に二ヶ月前まではカノジョがいて、さらにここ二ヶ月の間に三人の女性に告白している。ことごとく失恋に終わっているが。兎に角、女性との付き合い方のウマさを別にすれば、桂井は自分の方からガンガン攻めていく恋愛能動者。最近の青年が草食系男子と呼ばれている時勢にしては珍しく肉食系の感のある桂井健史。好きになった女にならすぐにでも誰にでも告白できるポテンシャルを持っているメンタル面の強さがこの男にはある。
だが、そんな桂井でも仁科には奥手になっていた。会社の同僚である手前もあり、桂井の想いを仁科に告白した後に成就したならば角は立たないが、もし断られたらならばお互いの気まずい空気は元より、社内でもいずれ噂になり桂井自身が今後会社に居づらくなる。他の社員が不倫や浮気をしているという話は幾らでも跋扈している桂井の会社、ひいては一般の勤め会社もそのような不貞行為が慣例化しているとはいえ、桂井はその類いの醜聞に巻き込まれるのは人一倍嫌っていた。
そのような桂井の配慮もある。
だが、それ以上に仁科亜紗美に対する純粋な好意の方が、桂井が仁科を前にして軽率な行動を取れない理由が強い。
僕は本当に仁科さんの事が好きなんだ。だからそう簡単に告白なんて出来ない。ヘタに失敗して今の友人もしくは同僚としての友好な関係を崩したくない。
中学生レベルの及び腰恋愛観ではあるが、桂井の中では仁科には女性の理想像が出来上がっており、おいそれと簡単に手を出せる存在ではなかった。無論、仁科が他の男性社員と仲良くしていたら嫉妬する。だが、仁科亜紗美は人当たりが誰にでも良いから、あんな笑顔で対応するんだな、と無理に理由付けして自分自身納得する。それは一種の認知的不協和の思考。
兎にも角にも桂井にとって仁科は分かりやすい程に、片思い一途かつ憧れの好きな女性だった。そんな桂井が仁科について知っているだいたいの住まいや会社まで使っている沿線なのどのお定まりの見聞以外で、唯一耳にしたプライベートな情報は、今は彼氏がいないらしい、とのこと。その点に桂井は一縷の望みを託している。だが、自分が早く行動を起こさなければいずれ仁科も他の男と付き合う事になる、というリスクも覚える。
そんな葛藤する桂井にとってMRは仁科の気持ちを探る絶好のアイテムであった。少なくとも自分に脈があるかは分かる。しかし、桂井の心中には妙な躊躇いがあった。MRのような機器をつかって、自分が本当に好きな人の心を探って良いものか? というある種道徳観に依拠した思い。それが桂井を逡巡させている。仁科の本心を知る事への不安もある。もし、自分に何の興味も抱いていなかったら、それは桂井にとってショック以外の何物でもない。だが、それ以上に真に好意のある異性だからこそ、MRなどの機械に頼らず姑息な手段抜きで告白したい、という気持ちがあった。それもやはり桂井の善性の精神からというよりは、学生時分の自己満足感からなる幼稚な恋愛純愛観による発想なのだが、桂井本人は仁科を目の前にして、自分の想いを自分の口で伝えたいという意識が強かった。それに今まで仁科に限らず好きな女性の前では、しっかりと正攻法で自分の想いを告げてきた実績がある。カップル成功率は別にしても。
本当に好きな仁科さんだからこそ、敢えてMRの力を使わないで直接自分の想いを告げるべきなのではないか?
桂井は中二病的な恋愛観をこじらせている自分に気づかず、やたらとその点は生真面目に考える。一方で恋愛ピュアな自分に酔っている部分もあるように見えるが。
別に即決する必要はないか。他の人間にも色々と試してからも遅くないし。それに今はMRの試用期間なだけで、もし、気に入ったら購入すれば良いだけの話だ。
ようやく無難な答えを桂井は導き出すと、桂井は再び腕を頭の後ろに組んで寝転ぼうとした。
「あっ……」
桂井は思わず言葉を発するとキッチンに目を向けた。そして、立ち上がりガス台にある鍋を開けた。
「しまったあ、昨日のカレーが残っていたんだ。冷蔵庫に入っている肉も余り気味だから早く使わないといけないんだったなあ。夕飯買い損だったわ」
と桂井はブツクサ独言した後、鍋を軽く火にかけた。カレーを食べるわけではないが、よりコクが深くなるように、という具合と熱殺菌の意味を込めて。
明日は忘れずに食べよう。
カレーは定期的に煮こみ直せば案外日持ちする、という気構えを前に、桂井の頭の中ではMRについての考察は既に終わっていた。
*
朝の満員電車内。
MRを装着する桂井は、誰とも知れない肩を触れ合う他人の頭の中を覗き込みたい衝動に駆られる。だが、脳の負担を考え一日で読心をするのは五人までと規制している桂井はしっかりと己の欲望を抑える。
やはり優先順位としては会社の連中からだろう。
桂井はやはり身の回りの人間から秘密のパーソナリティを探る事に重きを置いた。会社の人間とは結局は強制的に長い付き合いになる仲。それならば個の本当の性情から過去の出来事、あわよくばそれらに付随する精神的弱みを握れる、というアドバンテージがあると考えたからだ。仁科亜紗美に対するモラルとは程遠い下卑た桂井の感情であるが、そのような性格が本来の桂井健史だった。
早く会社に到着しないかな。
今まで通勤する時には全く浮かばなかった思い。仕事に行く事に胸を躍らせるなんてまるで意識高い系社員だな、と桂井は自己満足。
桂井は会社のある駅で下車すると、珍しくキオスクで缶コーヒーを買って、一飲みしてから、
「よし」
と呟いてテンポ良くターミナルの階段を降りていった。
無意味にヤル気が横溢している桂井ではあるが、それは当然仕事に対しての意欲ではない。MR使用の好奇心からの気力である。桂井は通勤中から社内でMRを使う人間を脳内で吟味している。
やはり会社の中でも近しい奴を試した方が良いかな。いや、逆にあまり知らない人間の方が面白いかも。まあ、別に社内の人間の事を知って、コミュニケーションを円滑にしようとは思っている訳ではないんで、単純にこいつはどんな人間なんだ的な変わり者系の奴の頭を覗く方が楽しいかな。でも、僕の会社にはそんな一見してエキセントリックな奴は見当たらないよなあ。一応は優良な中小企業だから、ほとんどマトモな新卒始入社揃いの社員だし。いや、でも普通っぽい人間ほど腹の底では何を考えているか分からないしな。うーん、チョイスが難しい。それとも上司を狙って強請(ゆすり)のネタでも握るってのもあるか。いやいや、それは現実的にヤバいか。あくまで表には出さず個人的に楽しむ方が良い。ただイザって時の切り札の時には役に立てよう。ま、そのイザという機会がまずないだろうけど。兎に角、やはり迷うなあ。やはり実際、会社に行ってからその場のノリでMRを使って遊んでみるか。思いつくまま、気の向くままで。
桂井は左手首に巻いているMRを一瞥すると、やや駆け足気味に歩を進めた。
「おはようございます」
「おいっす」
「おはよっす」
「おはよう」
「今日もよろしくお願いします」
桂井は他の社員より一足早く出社。
徒然ない様で椅子に座りながら、デスクに肩肘ついて横を通り過ぎていく出社してくる社員の挨拶に軽く相槌で返す。一見、虚ろな目でいかにも眠そうな感じで桂井は朝の挨拶に接しているが、胸中では目の前を横切る社員からMRを使う相手を選別していた。自然と横目で瞥見している桂井の眼底に鋭意が込められていく。勿論、その桂井の真意及び行動に気づく周りの者はいないが。
すれ違う社員は主に同じ部署の社員ばかり。気心は多少知っている連中ばかりなので、逆にあまり桂井の関心は惹かなかった。
そんな折、やや桂井から座席は離れているが、仁科が出社してきて遠目でその姿を見ていた桂井と目が合い、仁科が軽く会釈をした。桂井も反射的に頷く。自然な表情を装いながら。挨拶した位置は離れていたけども、桂井の鼻にはいつもの芳しい仁科特有のフレグランスの香りが掠った。一時、悦に浸る桂井。仁科は長い髪を軽く掻き分けて自席に座った。そして、ふくよかな胸でありながら、第一ボタンまでしっかりはめているブラウスの襟首を立て直して、パステル・カラーのネイルをチェックしてから、仁科はパソコンを起動させる。
仁科さんは相変わらず、愛らしくてカワイイよなあ。
オフィスに入室してからの仁科の一連の自然な動きにさえ仁科に好意を感じる桂井にとって、やはり気になるのは隣の経理の部署で働く仁科亜紗美であった。
部署が違うとはいえ特にパーティションもなく、セクトを隔てるものもないので容易に声はかけられる状況にある。それこそトイレに行く途中、軽い感じでお菓子をおすそ分けする行為がてら談話する事など可能だ。社風自体、皆が疲れてきたら雑談をしても特に咎めるような事はないフランクかつ若手が多い環境なので、堅苦しい雰囲気はなくその点は桂井も気に入っていた。
だからこそ仁科亜紗美と何気ないコンタクトをとるなど難なき事柄、なのであるが桂井はやはりこればかりは稚拙なナイーブさに押され踏ん切りがつかない。
MRを使って愛しの仁科さんの心を覗くのは邪道だ。
もはや桂井にとってその気持ちは純化した倫理的な良心というよりも、一種の屈折した意地やら決心にも似てきていた。だが、その読心を望んでいるのも事実。欲望(リビドー)は生得的にあるモラルよりも、意固地となった精神に対しての方が攻撃をしやすく、また気張っている心の方が我慢して耐えているだけなので脆い。
煩悩に打ち勝つ。
果たして桂井がその誘惑に乗るか乗らないかは今後分からない。
兎にも角にも、そんな人間観察をしている内に、朝礼の時間がやってきた。結局、朝の出社時の間ではMRを使う候補者は決まらず、桂井は手持ち無沙汰になってしまった。皆が起立し上司の朝のいつもの伝達を桂井は聞きながら、チラリチラリと遠目から仁科の横顔を盗み見する。MRを使用したい欲に駆られる。しかし、何とか強く握り拳を作り再決意する。仁科さんのような天真爛漫な女性に、やはりMRを試してはいけない、と。桂井の胸中、仁科亜紗美の偶像化への昇華は進む一方であった。
馴染みの朝礼も終わり、三々五々、社員たちが着席する中、桂井の部署のリーダーの菅谷修平(すがやしゅうへい)が桂井の元へやって来た。桂井は軽く会釈し挨拶をしたが、菅谷はどうにも渋い表情をしている。菅谷は大袈裟に溜息を漏らすと、時代遅れのC調風の喋りで、
「いやあ、まいったよ、桂井ちゃん」
桂井とは歳もそう離れていない上役の顔には、三十代前半には見られない老けた感のある徒労をあからさまに見せていた。
「どうしたんですか、菅谷さん?」
「あのさ、工藤テクノクラートの工藤(くどう)社長は知ってるよね」
「知ってるも何も俺みたいなペーペーを連れて、わざわざ向こうの会社まで渉外しに行ったじゃないですか。一人じゃ怖い、何て言って商談の内容も知らない俺を巻き添えにして。気まずかったすよ、あの時は」
一代で自らの会社を立ち上げて成功させた、取引相手の壮年盛りの工藤の威圧感はいまだに桂井は覚えている。工藤はいかにも昔風職人気質の堅物で、鼻下にはカイゼル髭にも似たそれを生やしており、まるで軍人のような気風さえ漂わせていた。直感的に桂井は、自分とは相性が合わないタイプの人間だ、と判断したのも記憶している。
「でもさ、桂井ちゃんってさ人懐っこい顔してるじゃん。人たらし的な雰囲気を醸し出している、みたいな。それだからさ、また、付き合ってほしいんだよね、工藤社長との交渉にさ。何せ相手さん、イイって言ってるのにわざわざウチの会社に出向いて来るのよ、今日。納期の件について」
「ああ、聞いてますよ、その話。相変わらずのムチャ振りの納期日要求でしょ」
「そうなんだよ。工藤さんの所って俺らとか取引先の会社に対して、かなりキツい日数で納期の期間を設定しているんだよね。自分の会社でメンテナンスの時間をかけたいから、相手の会社に対して巻きをかけてさ、急がせるみたいな」
「毎度の事ですよね、工藤さん所の自社優先主義って。だからまた納期を急かしにくる催促ですか」
「まあ、そういう商談の展開にはなるだろうけど、正直、こっちはもう納期の期日に譲歩出来ないんだよね。既にギリのケツかっちんのスケジュールでやってるんで。でも、こっちとしては工藤テクノクラート側の方がかなりの時間の猶予をもって仕事をしているのは知っている。だから逆に何とか頼み込んで平身低頭すれば納期引き延ばし、とまでは言わないけど、とりあえず現状維持の納期日までで勘弁してってな交渉の余地はあるってこと」
「なるほど」
「だからさ、その交渉の緩衝材として桂井ちゃんについて来て欲しいのよ」
「何すか、それ。だったら僕なんかより、女子社員をお供に連れて行った方が和やかな雰囲気になりますよ。例えば……」
そこまで言って仁科亜紗美の名前を挙げようとしたが、工藤社長に変に気に入れられて愛人にされるかも知れない、という杞憂に近い思いが桂井の脳裏に走り、
「受付の冴木瑞穂(さえきみずほ)さんとか」
冴木瑞穂。桂井の会社では典型的なマドンナ的存在。目鼻立ちはくっきりして、ツヤのあるサラサラ髪のロング・ヘアのビジュアルにして、痩身のクール・ビューティ然とした実に分かりやすい男好きする美人タイプ。その容姿に愛想の良さも加わり会社の窓口である受付を任されている。
仁科も可愛い女性社員の範疇にはあるのだが、男性社員側からすると冴木がダントツで社内の注視を浴びている。それは偏(ひとえ)に性的魅力の観点から、自分の魅力を発散している。それでいて清純派の匂いもまとわりついている。つまり、色気と華もあって、さらには奥ゆかしさを保ちつつ家庭的な女性という、異性側にとっては美味しい所取りの万人受けするキャラクターを備えているのが、冴木瑞穂その人であった。
桂井も冴木に全く好意を持っていなかったといえば嘘になるが、やはり桂井の本命は仁科亜紗美にあり、仁科を守る、という勝手な考えのもと冴木を工藤との交渉の同席に推挙した。
「そう、本来なら綺麗どころの女子社員をねじ込んでお茶を濁すんだけど、工藤さんってさ、昔気質の職人肌ってヤツなのかな? 女が男の職場にいるのはけしからん的な、古いタイプの仕事人なんだよね。今時じゃ男女共同参画社会の否定の何物でもないんだけど、そういう人だから逆に機嫌を損ねそうなんだよ」
立ち姿、面倒臭そうに肩を回しながら菅谷は言う。
桂井は目を細めて鼻で息を出すと、
「僕が一緒にいた所で、ゆるキャラ扱いになるとは思いませんがね」
「いや、俺と工藤社長の間のクッションになってよ、桂井ちゃん。俺がビビりなのは知ってるだろ。工藤さんの昭和の頑固オヤジ的な迫力には毎回ブルっちゃっているんだから」
「僕のイメージでは気難しい英国紳士風の厄介オヤジって感じですけど。意外とダンディな着こなししてるじゃないですか」
「つーか、そんな事はどうでもイイっての。兎に角、頼むよ、桂井先生」
「でもなあ、僕だって一緒にいて気まずいし、それに……」
とそう喋る桂井に一つのアイディアが浮かんだ。そうだ、一つMRを使ってみてはどうかな? と。すると桂井は軽く口角を上げ、
「仕方ないっすね。じゃあ、一緒にお供しますよ、菅谷さん。その代わり今度一杯奢って下さいよ」
「おお、助かるよ、桂井ちゃん!」
菅谷も桂井の快諾に明るい表情で応える。一方、桂井は含み笑顔をしながら、MRに視線を落としていた。
「工藤さんがお見えになりました」
昼休みも終わってそぞろ、受付の冴木が菅谷のもとにやって来て、そう告げた。桂井はキャット・ウォークの上をモデルのように進んできた冴木を横目で見ながら、相変わらず艶っぽいオーラを出しているな、とよからぬ妄想をしていた。二十デニールの薄いストッキングを履きこなす健脚、細身の身体にブラウスを纏い、その華奢な容姿に似合わない胸のふくらみ、それらに自然と目が移り、桂井は思わず凝視してしまっていた。
その時、菅谷が溜め息混じりに桂井に声を掛けてきた。
「んじゃ、行こうぜ、桂井ちゃん」
「相変わらず待合時間の十分前にご登場ですか。例の如く几帳面な社長様だ」
桂井と菅谷は冴木に促されるまま、工藤が待機している小会議室へと案内されていった。菅谷はうなだれた様子で愚痴をこぼしながら歩く。
「ったく。普通こういう交渉って統括部長の仕事だろお。何で俺たち下っ端が対応しなきゃならないんだよ」
「部長も工藤さんにビビってるんでしょ。ウチらの会社って若い連中ばかりじゃないですか。威厳があってさらに大物オーラがある六十代ぐらいの上司なんていないじゃないですか。だからこういう年配の相手との商談事を互角に対応出来る人間が、どうにも不在で。若い会社ってのは活気はあるっていうメリットはあるけど、歴史ある老舗系の会社のようなハクがない分、ナメられるっていう弱みがありますからね。だいたいが自分の親ほど年齢が離れているオジさんが相手ですからね」
「何を冷静に分析しているんだよ、桂井ちゃん。これから俺らはその頑固なオジさんの典型みたいな人と対決しなきゃならんのだぞ。とは言っても付き合いは長いし、急な仕事とかも引き受けてくれたりするから、あんま関係は悪くしたくないからなあ。弱腰外交で対話しないと」
グダグダな不服を菅谷が叩いている内に、桂井たちはドアの開いていない小会議室の前に着いた。
「それでは後でお茶を持って参りますから」
と冴木が一言添えるとドアを開け、肩を落とし気味の菅谷と桂井が入室し、冴木は踵を返して給湯室へと向かった。ドアが締まると目前のソファに恰幅の良い、光沢のあるグレーのスーツを着た白髪の男の威容な後ろ姿が、菅谷と桂井の目に映った。
菅谷はテーブルを介して工藤の対面に周り、
「どうも、今日はわざわざご足労願いまして、恐縮です」
「いや、気にせんでくれたまえ」
「それでは失礼いたします」
と菅谷は返し、桂井は軽く一礼して、腰を低くしながらソファに着席した。眼前の工藤は背筋を伸ばした姿勢で、年代物の毛筆のような髭を備えた、眉間に皺を寄せた強面にて、バリトンばりの低音ボイス。ダブルのスーツを肩幅のある体躯に馴染ませ、ワイシャツは第一ボタンまで閉じて、ネクタイはタイピンをしっかりと嵌めて締めている。新入社員の面接以上に服装は凛々しく、それでいて厳格な態度で振る舞っている工藤。
どうしていつも迫力満点なオーラで来るかな。
分かってはいたが、内心、桂井は工藤の威圧感のある容姿にたじろぐ。その間に菅谷は話を進めていた。
「それにしても最近は暑からず寒からずの好天続きで、仕事もし易い環境になって助かりますね」
「うむ」
「いやあ、何と言いますか、そうは言っても物事というのは予定通りにはならないもので、仕事というのはまるで経済のように流動化するので、なかなか難しいものです、はい。ですので業者間の緻密な連携と協力がキモで、特に実に非常に重要に問答無用に必須な事と私としては理解しております」
「うむ、そうだね」
あからさまに緊張して本題を持ち出せない菅谷は、慣れない丁寧口調でたどたどしく喋りながら、額にジワリと汗して慎重に工藤に問いかける。だが、そんな菅谷の及び腰を無視して、
「そういう事だ、菅谷君。よく分かっている。話が早い。仕事というのは常に予定通り順調に運ぶものではない。会社同士、お互いの事情を鑑みてこそ成り立つ。そこで今回は私の方の都合で悪いのだが、そちらの納期を早めてほしい」
と工藤がドスの効いた声音でストレートに今回の議題のメイン・テーマを菅谷に返した。それを吐いた工藤の目線は肉食獣のように厳しく、怖い。菅谷の目が明らかに泳ぎ、桂井の方に幾度も首を向けて、
「はは、なるほど。そうですね……」
と言いながら苦笑する。
桂井は一つ深呼吸をする。
まあ、ちょっとベタなヤリ方だけど。
そう桂井は胸襟に織り交ぜながら、
「あ、社長。肩にゴミが付いてますよ」
と言って中腰で立ち上がり、MRを付けている手で工藤の肩に触れた。その瞬間、昨日に鳥越にMRを試した時と同様、脳に電流が走ったような感覚に襲われた。自分の脳に他人の記憶がコピーされていく奇妙なセンシビリティ。そして、ほんの一瞬の立ちくらみ。ここまでの過程で約五秒間。
「おお、すまんね」
「いえ」
工藤は桂井に対して何の変化も覚えず謝礼し、桂井も何も気色に見せず着席する。そして、内心、なるほどね、と桂井は思い返し、すぐに工藤との会話のプランを立てた。桂井は言葉を失いつつある菅谷を横目に一人黙して熟考している。一方、菅谷は懸命に工藤へ弁解じみた台詞で対応する。
「はい、工藤さんのご意見も最もなのですが、ウチの方も人員に限界がありまして、その、何と言うか、物理的に、その、あの、チェック機能の精度ばかりに、あの、その、人を割いていてはキリがなくて……」
「しかしだねえ、そうは言ってもお客様第一でしょう。あなたは若いからまだ分からないかも知れないが、この仕事、いや、全ての仕事に対して言える事だけど、仕事ってのは信用こそが命。そんなお座なりの仕事でやったモノをクライアントに渡せますかね。私はねえ、一所懸命にベストを尽くして今まで仕事をしてきた。だからこそバブル崩壊もリーマン・ショックも乗り越えて会社を持続出来てきた。それはひとえに信頼と実績の積み重ねの結果だよ、君ぃ。プロは仕事に妥協してはいけないのだよ」
「は、はあ……いや、いえ、全くおっしゃる通りで、グゥの音も出ません、工藤社長の仕事の流儀には」
「そうかね? いや、そうだろう」
満悦そうな工藤。結局、菅谷の言葉は提灯持ちな意見に転じ、交渉の話の流れは平行線で具体的な進展はなく変化なし。変わっていくのは菅谷の発汗量と、引きつった笑顔の口角の上がり具合のみ。
そして、しばしの沈黙が訪れた。その間隙を縫うように桂井が口を開く。
「あれ、そういえばさっき社長の肩に付いたゴミを取りに近づいた時に気づいたんですけど、社長が今日締めているネクタイは、お見受けしたところ、フェラガモのネクタイじゃありませんか?」
「ほう、よく分かったね。その通りだよ」
「いや、そのネクタイってスマイズ×スマイルのゴルフウェアとも相性が良くて、もしかしたらゴルフをなさっているのかと」
桂井がそのように話を切り出すと、工藤は半身を乗り出して桂井を注視し、
「そうなんだよ。君、よく知っているね。このネクタイはビジネスの時はもちろん、ゴルフをする際にもポロシャツでなくワイシャツのウェアとも自然とフィットするんだよ。若いのに君はゴルフをするのかね?」
と興味津々に桂井に食いついて来た。桂井はここぞとばかりに畳み掛けるように会話を弾ませた。
「いやあ、まだ駆け出しでゴルフの打ちっぱなしに行く程度で。実際にコースに出てもスコアは百を超えるか超えないかのレベルですよ。それに僕なんかの安月給サラリーマンじゃ道具一式揃えるのも中古品がいっぱいいっぱいで、社長のようなセンスの良いファッション・スタイルにはとても及びません。あ、それに社長のしているタイピンもダックス・ロンドンの物だと見受けられるんですけど、そのシルバー色がまたネクタイを引き立たせていますよね」
「おお、本当に君は目の付け所が素晴らしいな。若いのに紳士の嗜みの何たるかをよく理解しているし、私とも趣味が合いそうだ」
抑揚のある声を響かせ上機嫌になった工藤。明らかに年配の人間が若者から理解されている事の喜びからの高揚感に浸っている工藤の状態だが、無論、桂井にそのような意識はない。MRを使って得た工藤の記憶情報から取捨選択し、工藤の食いついてきそうな話題でもてなしただけのこと。勿論、ゴルフなど桂井はした事ないし興味もない。ただたった今、桂井が述べたゴルフに関するファッションの知識は、工藤の褒めて欲しい所をチョイスして語ったに過ぎない。だから工藤が、よく分かっている、とか、趣味が合いそうだ、など言う事に対しては、そりゃそうでしょうよ、僕はあなたの自分自身の嗜好を反芻しているだけなのだから、と桂井は心底ではほくそ笑んでいた。
しばらく後にお茶を運びに小会議室へやって来た冴木は、やたら和気あいあいと工藤と桂井が話している姿を目の当たりにしてキョトンとし、また、桂井に臨席する菅谷もただ呆然としていた。
途中で工藤から、じゃあ今度は一緒にコースをまわってみようじゃないか、と誘われた事には桂井はたじろいだが、適当に話を誤魔化しその後の話は和やかに進み、結局、納期の催促の交渉はなくなって、今まで通りのスケジュール進行で構わない、という工藤の結論に至った。
やはり頑迷固陋な老人だけに一度心の城壁を崩せば一気にオちる。漫画みたいに面白いほど単純だな、ジイさんって奴は。そりゃオレオレ詐欺もなくならないよ。
桂井は心の中で毒づいてはみたものの、MRの使い勝手の良さに改めて感心していた。こんなヤリ方もアリなんだな、だと。
だが、一方で妙な徒労感にも襲われていた。工藤の人生、約六十年分のデータ情報の重みというか、その経験と過去の蓄積が一度に入り込んできた脳の圧力というべきか、その理由は桂井には分からないが、どうにも目を細めるようなダルさを多少覚えた。
「凄いじゃん! 桂井ちゃん。何だよ、ゴルフとかやってたのかよ?」
と言いながら満面の笑みで身体を大きく揺さぶりながら、桂井の背中を大きく叩く菅谷。桂井は多少むせながら、
「いやいや、ほんのかじった程度ですよ」
「マジか? まあ、どうでもイイや。桂井ちゃんのトークのお陰で社長は溜飲を下げたようだし、無理な注文やムチャ振りもなかったし、ナイスだよ、ナイス、グッジョブ! これなら統括部長からクレームも来ないだろう。よし、今夜は一杯奢っちゃう!」
菅谷は一人何度も満足そうに頷き、片や桂井は微笑みながら、
「じゃあ、ご馳走になります」
と返した。
と同時に桂井は、あ、家にカレーがまだ残っているんだ、と気づいたが、まあ、まだ賞味期限的には大丈夫だろうし、むしろより味が染みてウマくなるか、と考え直し、菅谷の飲みの誘いの流れに乗じた。
一方、そんな菅谷と桂井の意気揚々な様子を不思議そうに冴木は見ながら、お盆に乗せたお茶を乗せたままポツネンと佇んでいた。
*
昨日は飲みすぎた。
桂井は菅谷からの昨晩の奢りの酒で二日酔い気味になり出社していた。昼間近くになっても頭痛が残る。一緒に飲んでいた菅谷の方はいつもと変わらずお調子者のノリで仕事をこなしている。一方、桂井はうつむき加減でこめかみを時折指で押さえながら、パソコンを操作している。と同時に昨晩の自分の行動を思い出そうとしていた。酔っぱらっていた時の自分の醜態は意外と過去に多い。
えーと、やっぱりあまり思い出せないなあ。家に帰って食わない残飯カレーを腐らせないために、鍋に火を通した事は覚えているけど、その後はテレビ見ながら寝落ちしてしまった気がする。
まあ、特に問題を起こしたような記憶はないな、と桂井はとりあえず難事なく切り抜けたという事で結論づけた。
菅谷さんも、昨日は楽しかったな、って言って機嫌が良かったしな。
再度、昨晩の飲みは安泰に終わったと確認し、桂井は仕事を続けた。そして、昼休みになる頃には二日酔いも消えて、体調も良好になっていた。
「なあ、昼飯に行こうぜ、桂井」
「ん? ああ」
同僚から桂井はそう声を掛けられた。桂井は、もう昼休憩の時間か、と思いながら反射的に腕時計をはめていると感じていた左手首に目を向けた。
「あ、そうか」
左手首にはめているのはMR。桂井は勘違いしたと思いつつ、今日がMRの試用期間の最終日である事に気づいた。
今までMRを試した人間は二人、か。
MRを所持して三日間、思ったより好き勝手にMRをランダムに乱用してなかった事に、桂井は自分自身に対して意外性をもった。だが、それは桂井の深層心理的な部分で、MRの無駄な使用を防いでいた所以もある。桂井もその点は薄々感じていた。
MRを使い他人の記憶や過去や人格をインプットする事が、予想以上に自分に負担がかかるということ。
それはMRを使う事によって脳内が支障をきたすとか、混乱してしまうとかの類ではない。MRを使う事によって、その他者の記憶や過去や人格を請け負う事が重荷になってしまうのである。言ってみれば相手の今までの生きてきた情報が、自分の頭の中に入り込むというのは、もう一人の人間の人生を背負い込むようなもの。そこに桂井はひどく生真面目にも重責を感じていた。こんな軽々しく人の頭の中を詮索してよいものか、と。月並みな表現ではあるが、今まで経てきたその人の人生の重みというものを、一瞬かつ急激に自分の脳内に流れ込んでくるのは、なかなかの疲労となりストレスにもなる。自分の人生観とシンクロする部分もあり、相反する考え方もあり、勝手に自分の脳が葛藤したり躊躇したりする。つまり、MRを使った相手と脳内で対話してしまう自分がいる事を認識してしまう。否が応でも。それは常に考え込んでいる状態と同じようなもの。思い詰めれば鬱病にもなりかねない。
別段、そこまで自分を追い込んでいたつもりはない、と桂井自身は思っていたが、MRをみだりに使う事が出来なかったのも事実。無意識的な部分でMRの使用を自分は抑えてしまっているのか、と反芻してみる。
いや、深く考えこんでも仕方ない。多分、MRと僕の相性が悪いのだろう。
そのように桂井が胸の内で活論づける頃、桂井は同僚とともに馴染みの蕎麦屋に到着していた。今日はリッチに海老天そばとミニ親子丼のセットにするか、と給料日前、清水の舞台から飛び降りる決意をもってして。
夕方。
仕事も間もなく終業となる頃。桂井は仕事終わり間近になっても、本日はMRを誰にも使っていなかった。MRを使う事によって相手の記憶や過去は勿論のこと、普段の生活でありプライベートも覗く事になる。それに対して罪悪感を覚える、という程ではないが桂井はある種の業(ごう)を背負ってしまうような嫌いがあった。考えすぎだろ、と自嘲気味に桂井は顧みるが、なかなか心中払拭できないでいる。それでも仕事はいつもの習慣と惰性でしているので、特に支障をきたす事なく業務を今日一日処理していったが。
MRを使わずして今日は終えるか……試用期間の最終日だが、結局の所、MRは僕にとって有用なモノではないという理屈に至るのか? 利用価値やその性能の良さは頭の上では理解できても、どうにも拭えない違和感か不快感の類い。人の頭の中を覗き込む事がどれだけ自分にとっての内省となるか……そこまでは配慮が出来なかったな。
予想外の、想定外の心情。MRはもっと気軽に使えるモノだと考えていた桂井にとっては意外な結果だった。
だが、MRの使用を控える思いの一方で、まだそのMRの能力を試したい衝動には駆られていた。
仁科亜紗美の記憶、過去、人格、そして、自分に対する想いを知るというために。
MRを使って仁科の心像を覗き込む事に、いささかの負の思いはある。二の足を踏む。だが、桂井はそれ以上に仁科の自分に対する気持ちを知りたかった。リスクの大きすぎる片想いと、自分の中では位置づけしていたが、そんな理性とは関係なく、情緒的な部分が桂井の中では勝り、MRを付けた左手で仁科の肩に触れたい、という余勢に押される。
しかし、仁科の本心を覗き込む事自体に恐怖も桂井は覚える。もし、僕の事を嫌いだったらどうしよう? という単純な自意識過剰感情から来る幽(かす)かさ。傷心のダメージの失墜感。そんな中で保身、というか自らが受ける衝撃に対する保険というか、そこから桂井はあざとい妙案が浮かんだ。
まずは冴木瑞穂に試してみるか。
冴木瑞穂は桂井の意中の人ではない。だが、他の男性社員と同様に、冴木に対しては異性としての魅力は十分に感じている。正直、もし冴木が自分に気があるのならば、それはそれでアリだな、と桂井は邪(よこしま)な気持ちを抱いている。甘い物は別腹、ではないが仁科亜紗美と冴木瑞穂は別物、と区分けして桂井は両者を扱う。男の性(さが)による自己都合。
とりあえず彼女の頭の中を、いや、沈黙した意見を窺ってみるか。
桂井は利己的に勝手に納得して冴木の方へと向かって行った。
またベタなヤリ方だが、と桂井は思いつつ、まだ自分のデスクで仕事をしている冴木に近づき、その背後で足が躓いたポーズをとって、
「おっと、ゴメン」
と言って冴木の肩に手をかけた。MRをしている左手を。
その瞬間、例の如く刹那の電流が身体を流れたような感覚と軽い立ちくらみが桂井を襲う。もはや知っている数秒間の慣例……なのだが、冴木の肩に左手を添えたまましばらく桂井は動けなかった。
マジか?
そんな思いが桂井を支配した事によって。
「桂井さん? 大丈夫ですか」
暫時、動きが止まっている桂井を気にして、冴木は自分の肩に左手を乗せている桂井に声をかけた。
「あ、ああ、ゴメン、ゴメン。ちょっとトイレに行こうとしたら、躓いちゃってね……」
桂井は慌てた様子でそう返すと、便意はないが実際にトイレに向かって、大のコーナーに入り鍵をかけた。
「はあ、ふう」
桂井は大のコーナーに入った途端、フタの便座を下げて椅子代わりにして、息も切れ切れにそこに座った。そして、額をコツコツと叩くと、うな垂れた格好になって、
「信じられないな」
とボソっと呟いた。
桂井が覗いた冴木の脳内。
それは澱んだ闇だった。
恐らく触れられたくはないであろう、黒歴史の堆積。
知られたくない過去、事実……。
桂井は顧みる。これは僕に対して冴木瑞穂がどう思っているか? という事を調べるレベルの話ではないぞ、と。桂井がお試し気分半分、気軽にMRを使った結果に得た冴木に関する情報は、桂井が予想もしなかった内容のものだった。少なくとも冴木が社内で振舞う一つ一つの所作や、そのクールで知的な容貌からは思いもよらない、つまり、そんな意識高い系のOLにはあまりにも不釣り合いな性分や経歴が、桂井の頭の中に潜り込んできた。
富豪の良家に生まれた冴木瑞穂は、幼い頃から両親に溺愛され甘やかされて育ち、親の権威を活かし、お受験で名門女子大系列の有名幼稚舎に合格して、そこからはエスカレーター方式で大学まで進む。だが、何の躾もされず何の苦労も知らない典型的なワガママお嬢様に育った冴木は、学校生活で如何なくその傍若無人っぷりが発揮され、イケてる女子グループの間ではヒエラルキーの頂点に立ち、気に食わない同級生は陰湿なイジメの果てに疎外。自分が常にトップに立ち、ヘゲモニーを握る。
大学に入る頃にはインカレ・サークルに属し、他大学の男たちと複数付き合いセックスの味を覚え、真っ昼間から股を黒人相手に広げる有様。同様に派手な遊びにもはまり出してクラブ通いの常連にして、不健全なパーティの主催にも参加し始めるようになる。大学入学後、一人暮らしを始めているのだが、生活費や家賃は全部親の仕送り。それでいて遊興費は膨らむ一方。冴木は再三、親に金銭の援助を催促するも流石に両親もその額が増えるに従い、その負担を抑え始める。両親は自分の娘がそれほどの浪費をしていて、どのような生活をしているのか多少は気がかりだったが、深く干渉はせずにただただ最低限、お金だけを送り続けた。なお荒れる一人娘の生活ぶりも顧みずに。
とうとう数多のクラブやホスト通いの末に経済的な苦境に立たされた冴木は、学業後には夜はキャバ嬢として働くようになる。元来、男好きする容姿にして、男に対しての媚びもうまい冴木。太客を直ぐに手に入れ、幾人かの中年男がパトロンになり、援助交際的な金銭の受け取りや、スケベおやじ社長からの奢侈な貢ぎ物で、やはり勝手気ままな生活を保ち続ける。
だが、それらプライベートの行為はあくまで裏の顔。大学では清楚なキャラクターを装い続け、実際に授業だけは真面目に出ているから、一見すると健全なキャンパス・ライフを送っているように周囲には見えた。いや、見せていた。また大学時代から卒業したら女子アナになりたいと思い立ち、読者モデルをやったりミスコンなどにも積極的に参加するようになる。だが、それらのアピールでは大した成果は残せず、良くても無名の芸能事務所かAV臭のあるスカウトマンに声を掛けられる程度。
一方それでも、女子アナとは言わずともテレビに出て有名人になりたい、という思いが強くなってきた冴木の貞操観念はより緩くなり、大学卒業後、学生時代のキャバクラ勤めの時のコネを活かし芸能の世界に近しい男連中の愛人になり、気軽に肉体関係を結びセックス接待に励むようになる。それと共に愛人の芸能関係の男からアダルト業界の仕事を斡旋され、心の内での抵抗も葛藤もなく素人AVや企画モノAVなどにも数本出演するなど、何らかのメディア露出を図る。しかし、今はまだ芸能界デビューするには空きがなく時期尚早、というような事を愛人契約月三十万の芸能関係者の一人から言われ、言わば芸能界入りの腰掛けのための待機時間として、これまたコネで現在桂井のいる会社に働いている。
桂井はそんな冴木の裏の顔など今まで聞いた事もないし、その冴木の日頃の振る舞いからもおくびを出さない。MRの故障か? とさえも疑った。だが、すぐに現実を見据えて、また、MRの機能の信憑性を思い出し、桂井は溜飲を下げた。
人にはやはり色々な歴史があって、その表面からは想像できない、経験というか経歴があるんだな。
別に冴木瑞穂のそのような過去や性格を蔑視するつもりは桂井にはない。人間、そのような権利はないし、別段、そんな唾棄すべき人生の価値基準などは定義されていない。だから冴木のそのような昔の話、いや、現在進行形で続いている彼女の人生プランを他の誰かにあえて吹聴する気は桂井にはなかった。
ただ僕個人としては冴木瑞穂を見る目はこれから変わるだろうな。
桂井はそう心に認(したた)めると用もたしていないのに、わざわざ便器を水洗して、顔を洗面台で軽く濡らした後、トイレから出て行った。
終業時間間際。
皆、パソコンをシャットダウンして帰宅の準備に取り掛かっている。先ほどMRを使って脳内を探った冴木も何も変わらぬ表情で、受付の同僚の女子社員と雑談している。そんな中、桂井が目を移したのは仁科亜紗美。
彼女に対してMRを使うべきか?
その気持ちが桂井の脳裏によぎる。仁科が想う僕へのイメージ云々を知る以上に、秘められた仁科の、自分が関知していない仁科の過去や性分を知る怖さ。好意のある相手をより知るという事はある種、恐ろしい行為になるんだ、と冴木にMRを試してみて改めて、いや、初めて募った心情。
僕には知る勇気があるのか?
そのような感情を抱きつつ、仁科を見つめる桂井。
仁科は帰り支度を終え、間もなく退社しようとしていた。
料理全品三百九十円で統一されている、チェーン店の大衆酒場に一人、桂井は安酒飲み放題コースの焼酎を遅いペースで飲んでいた。やたらと喉に絡むのは安酒の特徴だな、と虚ろな目つきで焼酎の入ったコップを揺らしながら思った。
仕事終わりの一杯。本来ならば自分に労いの意味を込めて、アルコール臭の息すら感慨一入(ひとしお)の状況なのだが、いまいち桂井の顔は冴えない。
結局、仁科亜紗美にはMRは使えなかったか。
桂井はほんのりと紅潮した頬を片手に乗せテーブルに肘付き振り返った。
だが、MRを使用しなかった最終的な理由は、最初、仁科の過去や真の性格を知る恐怖感に駆られMRを使う事を躊躇していた桂井の様子からではなく、徐々にMRを使って仁科自身を知る事に罪悪感を覚え始めたからだった。
MRを使う当初の目的。それは仁科亜紗美が自分の事をどう思っているかを知る為が狙いだった。しかし、MRを使って人の頭の中を覗き込む事自体が邪な行為ではないか? とも良心の呵責があった桂井。それらの思いの葛藤もあり、恐怖感と倫理観が入り混じって、結局、MRを使う事で悩むよりは、いっそ使わないで自然状態でいよう、と決断したのだった。とりあえずは仁科に対しては保留しよう、と。仮に仁科に告白しようとしてもMRの力を使わずに、何の小細工もなく気持ちを直接伝えよう、と。
今夜は一人酒をあおって泥酔でもしてみるか。何だか疲れたし。それに明日は休日だ。深酒した所で問題ない……ああ、そうか。明日は例のセールスマンが来るんだったな。MRの試用期間も終わりか。まあ、多分、購入する気にはなれないな。人の心を知る、という事がこんな重荷にもなりうるとは予想できなかった。このMRの試用期間中、それに気づいた事が思わぬ収穫だった。何だか、大袈裟に言うと人として一回り成長した気分になったわ。
桂井は己のそんな大団円的な結論に至った事にほくそ笑む。理性的な教訓を一つ得て、人間としての満足感、はては清々しさすら覚える含み笑い。
と同時に、あ、また今夜もカレーの残りを処分できなかった、既に満腹だし……とMR以上に自分の性分、その記憶力と計画性のなさを改めて思い知った。
*
「そうですか残念です。いえ、仕方ありませんね」
桂井にMRをセールスしに来た当人である田中一郎は、目にかかった特徴的なアシンメトリーの髪を指で避けて気落ちした声で話した。
MRの試用期間を終え、田中は予告通り桂井の家に訪問してきた。田中が訪れた時間は桂井の夕飯前だったが、予定していた事だったのですんなりと桂井は家に田中を招き入れて、
「今回はこのMRの購入を控えさせて頂きます」
と告げたのだった。
「何かMRにご不備がありましたでしょうか?」
田中が申し訳なさそうに桂井に尋ねる。
「いや、MR自体には何の不具合もありませんでした。画期的な機械で、これは使い方次第では物凄い利用価値が生まれると思いますよ。サトリのように人心を読むウェアラブルなんて聞いた事ありませんからね。ただ……」
「ただ?」
「善人ぶるつもりではないですけど、他人の記憶、性格、習慣を知るために他人の頭の中をズカズカと土足で入り込む事に、不快感を持ってしまって。やはり人を受け入れるという事はそんな機械や道具に頼るのは邪道ではないかと感じ始めたんです」
「なるほど。桂井さんの言う事も一理あるかも知れませんね」
田中はそう言うと左手首を差し出した。そこにはMRが装着されていた。
「実は桂井さんのお宅に立ち寄る前に、他の家でMRのセールスをしたんですよ。あらかじめMRをスタンバイして。そして、お客様に試してみたんですが、その機能や性能に驚くよりも、逆に不信感を抱かせた、というか相手が不気味がってしまって。特に最近では近隣で色々と不穏な事件があった事もあり、余計に不審者扱いされましたよ。プライバシーの侵害か個人情報漏れの類いを連想されたのでしょうね。全く見知らぬ他人がどうしてそこまで自分の事を知っているんだ? よく考えてみたら怪しまれるのは当然です。その点、桂井さんは賢くて人格者でいらっしゃる。MRの万能性に過大な期待を寄せず、冷静かつ倫理的にその使用を判断した事は、明晰な証拠ですよ。どうやら私はMRを過信しすぎたようです」
「いや、そんな偉ぶった考えからではないですよ。単に僕とは相性が悪かった。そういう事です」
桂井は返答しながら自らの左手首に巻いていたMRを取り、それを田中に手渡そうとした。桂井の左手に握られたMRを、握手がてらに田中は左手で受け取り、桂井の手を握り締めた。
その時、
「……ほう」
と田中は一言呟き、一瞬、握った手に力を強く込めた。だが、すぐに桂井のMRを握りつつ手を離し、
「分かりました。今回はこちらの商品はご購入されないという事で理解させて頂きます。また今後、他に良い商品がございましたら足を運ばせてもらいますので、その時はご迷惑でしょうが対応の方をお願いします」
と言って深々と頭を下げて桂井の部屋を出ようとした。
その帰り際に田中は、
「それではお気を付けて」
と神妙ではあるがどうにも話の脈絡にはない一言をして去って行った。桂井は手際よく帰っていった田中を他所に、しばらく沈黙したまま座っていたが、
「あ、そうか。そういう事か」
と一人言を放った。
彼、田中一郎はMRを付けていたんだ。だから握手した際に僕の過去や記憶や人格が、彼の頭の中に入っていってしまったんだな。という事は、僕の愛の告白を無下に断ったこの近くのコンビニの女子店員や、近所に住むストーキングしていた女子大生や、近場のガールズ・バーで働く女の子の三人を、ぶち殺してバラバラにした事もバレてしまったって事か。ああ、だから彼が言った、お気を付けて、というのは警察やもし目撃者なんかがいたら用心しなよっていう意味の事だったのかな。まさか彼自身が僕を殺人犯として警察に通報するわけはないだろうし。MRなんて頭の中が覗ける機械なんて事を説明しても眉唾にもほどがある。警察も信用などするわけないし、殺人動機もほとんど突発的な恋愛感情で起こした事だし、相手との関係で言えば全く親交がなく僕の一方的な思い込みだけ。それに証拠も残していなければ現場を目撃した証人なんてのも今の所はいない。だからその辺りは心配ないんだけどな。というかそんな事より凄いな、彼は。彼女たちをバラした事を知っても眉一つ動かさなかった。謎だ、謎が謎を呼ぶ。田中一郎、何者ぞ。だから人というのは分からない。人の心というものが分からない。あんな人間がいるから、今の世の中は空恐ろしいんだ。
桂井健史は熟慮する。だが、その時、そんなナーバス気味な桂井の思いとは他所に腹の虫が鳴り空腹を桂井は覚えた。
「よし、今夜は残り物のカレーを処分するぞ」
すると桂井は先ほどまでの思索も忘れ、無駄に意気込み立ち上がって、熟成カレーが入っている鍋に火を付けた。
「何せ肉が余り気味だからな。早めに処理しないと冷蔵庫に入っているとはいえ、まずくなってしまうよ。まあ、肉は大好物、というより大好物な肉、いや、愛したモノの肉はいつまでたっても美味しいものか」
愛、という言葉を無意識に独言した桂井。
そうだ、僕の愛する人は仁科亜紗美。彼女なら必ず僕の期待に応えてくれる理想の女性のはずだ。彼女こそが翼のないこの薄汚れた地上に舞い降りたエンジェル。僕の全身全霊の愛の告白、魂の叫びを真摯に受け止めてくれるはずだ。彼女にはドス黒い過去なんて存在しない。自身、無垢で清廉潔白な生き方しかしてないはずだし、性格も鷹揚にして天真爛漫、配慮もあって三歩下がって男を立ててくれる、そんなパーフェクトな女性なんだ。現代の聖母(マドンナ)、それが仁科亜紗美。もう、たまらないよ。
カレーの煮込む熱さに比例して、どんどん妄想のテンションが高くなる桂井。桂井は、近いうちに仁科亜紗美に告白するだろう、という気持ちが強くなってきた。自分の気持ちが伝わる自信が自ずと湧いてきた。今度こそ恋愛成就をさせるんだ、仁科亜紗美ならきっと僕を受け入れてくれる……そんな想いが。言葉にして行動として間もなく彼女に現すんだ、という確固たる動機も込めて。
そう、もう間もなく。
長い懊悩。その冗長ともいえる思案を、桂井(かつらい)健史(けんじ)本人は哲学的に昇華して捉えている最中だったので、突然、一人暮らしの自分のアパートに訪れたセールスマンを部屋に招いたのは、ある意味必然的な流れだった。
そのセールスマンが訪問販売してきた時の惹句が、
「あなたは人の心を覗きたいとは思いませんか?」
だったのだから。さらに流暢に続けて、
「今の世の中、人を見た目だけで判断するのは困難だと思いませんか? アパートやマンションの住人でいつも通りすがり挨拶をしている仲。相手も外見は好青年で社交的。いたって普通の若者の装いをしているのに、その実、部屋の中では少女を監禁していたなんて事件も、ままありますし。世間では人当たりの良い理想の父親像のようなご亭主が、家では内弁慶にしてDV常習者だった、とか。さらには察知しがたい暴力行為や犯罪は若年化も進んでいて、いかにも優等生然とした生徒や学生が、突然、同級生を何の躊躇いもなくナイフで刺し殺したり、というケースも最近では増えています。それにこの辺りでも車場荒らしの激増、挙句の果ては三件ぐらいでしたっけ、若い女性らがバラバラ殺人の被害に遭ったりしていて、遺体の一部はまだ見つからず、夜道を歩くのもままならない。そういえば近くの河川敷でもコンクリ詰めのリンチ殺人が起こったりしましたね。この事件の犯人は高校生グループですよ。被害者は同世代のフリーターの友人。犯行の動機は小さな諍いから発展して、その流れから意図せずして殺してしまった。つまりは、何となくそうなった、ということ。群集心理の脅威による殺人事件への発展の典型ですよ。そうですよ。単純に人を殺してみたかったから、なんて理由がまかり通るのも今日の殺人事件、いや、その他諸々の軽犯罪から重大事件が不明瞭化してきてそれこそ、隣は何をする人ぞ、と隣人にまで懐疑の念を抱いてしまう。善良そうな一般市民が冷酷な殺人鬼だった、なんていうのもドラマや映画だけの話じゃなくなってきています。そんな息苦しく恐ろしい社会だからこそ、その人の外見や性格の皮相的な部分だけでなく、その人の本来の中身を、その人の過去や真実を見定めないと不安じゃないですか? 誰しも他人をそう簡単に信用するのが難儀な現代だからこそ」
夕食後、おおよそセールスするには不適合な時間。にも関わらず、通常の民間人ならばその時点で逆に胡散臭さを覚え、間髪入れず家の扉を閉めてしまうはずなのだが、あまりにも桂井の心象のタイミングがそのセールスマンの長台詞の口上に、共鳴および同期しすぎた。普段の桂井なら多くの人と同じくセールスお断りのスタンスでの対応をしていたが、この時だけは桂井はどうにも運命的、否、蓋然性すら感じ、
「どうぞ」
と一言を添えて何ら疑う気色も見せず、すんなりとそのセールスマンを部屋に入れたのだった。紺のスーツに身を通し、手には黒のアタッシュ・ケースを持つ、いかにもビジネス・パーソン然としたセールスマン。痩身ではあるが肩幅のあるその体躯には背広が相応しく、見た目は二十五歳の自分と大差はないであろう彼に対して、桂井はヤリ手営業マン的な印象を抱いた。
セールスマンは玄関で一旦直立不動になり、1LDKの桂井の部屋を見渡し、
「良いお部屋ですね」
とアシンメトリーがかった頭髪を一撫でしつつ一言添えた後、桂井に促されるままフローリングの床に敷かれたジャガード織のカーペットの上に下足して足裏を置いた。
「いえ、男やもめのむさ苦しい部屋ですよ」
桂井は取り留めのない会話をしつつ、セールスマンを座椅子にかけさせ、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り、湯飲みに注いで彼に差し出した。セールスマンは一度恐縮した態度をとると、桂井からお茶を受け取り、冷茶にも関わらず、熱いものにでも触れるかのように、慎重に両手を湯飲みに携えて、それを口に含んだ。
桂井も部屋の壁際にピタリと嵌った、セールスマンとは対に位置するベッドの横側にクッションを備え、その部分を背もたれにして座布団の上に座り、脚の低い円卓を挟んだ状態で若いセールスマンと向かい合った。
そして、開口一番、
「人の心が覗きたくないか? とさっき言いましたよね」
とすぐに先のセールス・トークの核心部分を切り出した。
「はい、申し上げました」
柔和な顔をしつつも、瞬きをしない鋭い視線で即答するセールスマン。奇妙な謳い文句を売りに来訪してきたセールスマンに対して質問のつるべ打ち。それを念頭に置いておいた桂井。だが、いざ、その若い訪問販売員と着座して直面してみると、徐々に冷静さを取り戻してきて、自分はおかしいんじゃないか? と桂井は感じ始めた。人の心を覗いてみたいか? なんて言葉に引っかかって、セールスマンを部屋に入れて、わざわざ茶を出して談議する。僕はアホなんじゃないか、とも。
そんな折、セールスマンは背広の内ポケットから名刺を取り出し桂井に差し向けた。
「あ、申し遅れましたが私はこのような者でございます」
名刺には田中(たなか)一郎(いちろう)と氏名が書かれ、その上には有限会社デッドゾーンと社名が一筆。厳密に言うと、有限会社の有限の部分は二重の斜線が施され、株式と赤ボールペンで書き直されている。またその名刺には、それ以外に役職や会社の住所や電話番号は記されていなかった。名刺に書き込まれている情報は氏名と社名のみ。訝しげにそれを受け取る桂井。そんな桂井の態度を他所に、セールスマンの田中は素早く行動し、所持していたアタッシュ・ケースを開けて、腕時計のような物を取り出した。
「こちらです、あなたにご推薦したい商品は」
田中は含み笑いがち、桂井の目下にそれを置いた。
「これは?」
「まだ開発されたばかりの新製品なので、正式名称は決まってないんですが、読心の英訳がマインド・リーディングですので、アルファベットのイニシャルを取って、単純にMRと仮名称で呼んでいるモノでございます」
「MR……これが、その、さっき言っていた人の心を覗くっていうアイテムですか?」
「はい。どうぞよかったら手にお取りになって下さい」
心許ない表情でMRと命名されている、ほぼ腕時計と同型のそれを手に持った桂井。腕時計と違うのは時計盤の部分が、心電図や心拍数を計るベッドサイド・モニターに映る波長のような動きがある液晶画面になっている事だった。実際、一見すると脈拍やら血圧やらを簡易的に測定する装置だと連想してしまう。
覚束ない気色を長いこと顕にしている桂井を察してか、田中は一つ咳き込み、
「見た目は何かの健康器具に見えるでしょう。今では携帯電話でも万歩計の機能やランニングなどして血圧を計れるアメニティが付いてますからね。その液晶画面に映る波線が、それのような類いのモノに思い浮かべてしまうのも無理ありませんが、そこは気にしないで下さい。画面に表示されている波線は本機の性能とは特に関係ありませんから。ただMRが正常に動いているかどうかを示している合図のようなものです。画面に波線が映らなくなっていたら、電池切れか故障したか、ぐらいの単純な認識をして下さい」
「この腕時計、というかリストバンドみたいのが読心できる機械、つまり、これを装着すればサトリの能力が身に……付くんですね」
興味津々とMRを見つめながら桂井はそれを腕に巻いてみた。特に左手首に巻き付けた所で自分の体に異変が起こった感はない。ただ、液晶画面の波線が暫く揺れだして、波長が間延びしたり緊縮したりして、やがて落ち着き一定の波線の変化に変わった。
田中は桂井が付けたMRの液晶画面を覗くと、
「セッティングが終わりましたね。あ、そうだった……私があらかじめMRを付けて置けば良かった。説明が足らなかったんですが実際にMRが機能するには装着してからだいたい八時間ぐらいかかるんですよ。本人のバイオリズムとシンクロするために。ま、アイドリング時間というか、体に慣れるまでの所要時間と言いますか。だから今すぐにはその性能が発揮できないんですよね。私が前々から付けていればこの場でお客様をサンプルにして実践できたんですが……うっかりしてました」
「使い方は?」
「簡単です。MRを付けたまま人に触れれば良いだけです。直接に皮膚や肌、というわけでなく服の上からでも大丈夫です。さすがにガラス伝いや壁伝いでは読心できませんが、普通に二,三秒ぐらい相手に触れれば勝手に相手のデータ、つまり、相手の記憶や過去が自分の脳にそれこそ走馬灯のように流れてきます」
「……なるほど」
「それではとりあえず三日間お貸ししましょうか。お試し期間として。三日後はちょうど休日ですし。今から付けたので明日の朝にはMRの機能が作動し始めるはずです。その後に暫く試してみて下さい。それでお気に召されたらご購入という流れではどうでしょうか?」
「そう……ですね」
口ごもった唸り声で返す桂井。その顔はあからさまに不審気。それに察してか田中は空気を濁すため口を開いた。
「ちょっとシステムの説明をさせてもらいますね。人間は細胞の内と外の電位差から体中に電気が流れているんですよ。それは脳も同じです。その脳の神経経路の仕組みなんですが、シナプスという軸索が電気信号を神経伝達物質に変換してニューロンと呼ばれる神経細胞に情報を伝えるんです。その電気信号が大脳辺縁系の一部である海馬体という記憶に関わる器官を通しMRへと流れていって……」
「あ、はい、もう分かりました。明日にも試してみるんで」
難解な用語を駆使して滔々と話す田中に辟易して桂井はすぐに口を挟んで遮った。田中は十分に解説できなかった事に不満だったのか、一瞬、表情を曇らせたが、
「そうですかあ。いや、そうですね。その方がよっぽどてっとり早いですから。実践するのが一番です」
と再び顔つきをセールスマン営業スマイルに戻した。
「一度手首に巻いて八時間体に馴染ませたら、その後のMRの着脱は自由にして下さい。リセットしない限りデフォルト、いわゆる初期状態には戻らないので、ずっと付けっぱなしという必要はないです。ただ精密機械ですので、あまり手荒には扱わないようにして下さい。あと一応、防水加工はしてありますが、水につける様な事も避けて下さい」
田中は簡単に注意事項を口頭で伝えると、適当にパンフレットや説明書の類いを置いていき、そそくさとアタッシュ・ケースを手に取り、
「それでは三日間後にまたご訪問いたしますね。お茶、どうもご馳走様でした」
と言って桂井の所存も聞かずに、疾風のごとく部屋を出て行ってしまった。
ポツネンと一人残された桂井。
何やら狐につままれたような話だな、と思い返し一応は我を取り戻した桂井は、左手首に巻いたMRを見つめながら眉間に皺を寄せた。
「まあ、別に今の時点でお金を払ったわけでもないし、変な契約を結んだわけでもないから、問題は無いっちゃ無いけど」
確かに現時点で特に困るような事態は起きていない。ただ、先ほどのセールスマンの田中の口車に簡単に乗せられたような気がして、桂井は妙な気恥ずかしさを覚え始めていた。時間が経って徐々に冷静になっていくとより一層。
「馬鹿馬鹿しいな、やっぱり」
桂井は、騙されている、と思い、今まで信じて聞き込んでいた自分を一蹴して、手首に巻いたMRをはずそうとした。
だが、
「読心術、いや、テレパス能力……か」
と呟くと、はずそうとした腕を止めてその場に寝転んだ。何度か寝返りを打った末に、つい先ほど食べた夕食のカレーが残っている事を思い出し、カレーの入った鍋を温め始めた。熱でグツグツと煮込み始めたカレーを見ながら、変に空腹感を感じる自分に違和を覚えた。明日もカレーだな、カレーは二日目が一番美味しい。桂井はそう考えその奇妙な違和感を頭から取り払おうとした。
「そうだ、明日になれば……」
瞬きする事無く、ほぼ沸騰状態になったカレーを睨みながら、桂井はまた独り言を漏らした。
*
翌朝。
桂井にとって左手首に腕巻き物をした程度は睡眠に支障はきたさなかった。ただ普段起きている七時前に目が覚めて、目覚まし時計の世話にならなかった事は意外だった。桂井は不意に左手首に巻いているMRに一瞥をくれると、その後はいつも通りに昨日に会社の帰り際にスーパーで買った賞味期限間近の半額惣菜パンを朝食とし、ネクタイを締めながら朝の情報番組の占いコーナーを見て、戸締り確認、黒塗りバッグをたすき掛けに出勤した。
見かけはいつもと変わらぬ出社風景。朝の通勤満員電車に乗る前に自販機で缶コーヒーを一杯。ちょうどそれが飲み終わる頃に駅にたどり着く。到着駅で即座に階段を降りられる電車のドアのポジションでホームでは列をなす。耳には携帯用音楽プレーヤー。何も変わらない、毎度のペース、毎度のパターン。
だが、やはり左手首に巻かれた機械類が気になる。MRと呼ばれる人の心を覗ける、という現代社会的観点からすれば、胡散臭さ満点な代物が。普段から携帯電話を時計代わりにしているで、腕時計をしていない桂井だったが、別段、左手首に物を巻いている事に違和感はない。ただ違和感があるのはMRという存在自体だった。
僕はひょっとしたら週刊誌によく載ってある、金運が上昇する謎の数珠か急に女にモテるようになるパワーストーンの類いを買ってしまったのではないか? いや、まだ買ってはいない。だけどそのようなあたかも霊感商法並みにインチキ臭い品を身に付けているのは確かだ。人の心を読み取れるだって? マトモな神経の持ち主なら、そんな言葉を信用するか。昨日のあの時は気の迷いだった。そう、思いたいけど。
桂井はMRを付けている事自体に羞恥心を覚え始めた。だが、一方でこの機械を試してみたい衝動にも駆られていた。満員電車の中なら怪しまれる事無く体の接触は可能。左手を広げてそっと誰かの背中に少し当ててみれば嘘か真かは容易に分かる。男にやれば痴漢にも間違えられないだろう。しかし、そこまで桂井は考えても電車の中では実行出来なかった。半信半疑の気持ちが行動を躊躇させる。それはもし仮にMRの機能が本当だとしたら、自分の脳がどのような状況になるかを危惧したから。卒倒するかも知れない。パニック状態になるかも知れない。色々な緊急状態を予想する。
これなら説明書を斜め読みでもいいから読んでおけば良かった。だけど、つまり、そんな僕ってのは何だかんだ思っても、このMRってモノに密かな期待を込めているみたいだなあ。
先ほどまでの含羞(がんしゅう)は忘れて冷静に自分を見つめる桂井。半ば他人事のように自らを俯瞰してはみたが、やはり妙な皮算用は胸襟で望んでいると再認識した。満員電車の中、両手で釣り輪を捕まえながら桂井はMRを一瞥して、やはり最初は会社の同僚に試してみよう、と内心で決めた。
会社のある駅に到着すると、早速目前の階段を降り、改札口を定期で通る。構内の人込みラッシュの流れに身を任せ、熟(こな)れた感じで駅を出て一息吐いてから会社へ向かう。何も問題ないここ五年近くのルーティンな出勤ペースにてスタイル。
会社までは徒歩十分程度。桂井の働いている会社の社員はおおむねこの駅で乗り降りする。会社までの道程もほぼ駅沿いの大通り一本道ですむ。その間に会社の同僚と出会い相手が喋りかけてきたら桂井は対応するが、桂井の方が一方的に気付いた場合はわざわざ話しかけたりはしない。朝の挨拶は出社の際のみ。仕事が始まる前にいちいち仕事場の人間とコミュニケーションを取るのは桂井にとって煩わしい事だった。
だが、数メートル先に同じ会社、同じ課で働いている鳥越紀雄(とりごえのりお)を見かけた。紺色のスーツしか着ないという、特に理由のないポリシーを持った、肩幅のある鳥越が着こなすその見飽きた紺色のビジネススーツは、桂井の目に特徴的に映りすぐに鳥越本人と確認できた。短い歩幅でやたらと足早になっている癖も含めて。
あの後ろ姿は鳥越だよな。
鳥越と桂井は同期入社にして、時折昼飯も食べる平社員クラス仲間。特に懇意というわけではないが、気軽に声をかけられる間柄。とはいえ普段の桂井は出勤前に誰か知り合いを見つけても、道端で挨拶をしようとはしない。むしろ自分が後方にいるならば歩速を下げて、相手との距離を広げるぐらいだし、上手いこと歩道で人込みがあったらその中に紛れて隠れるぐらい接触を避ける。
だが、今日は左手首にMRが巻かれている。不意にその性能を試したくなる衝動に押される。習慣化していた出勤行動様式の禁を破ってでも! と大袈裟に思ったほどではないが。
ちょっと試してみるか?
桂井は気持ち速歩きになって鳥越に近づいていった。チラリと横顔が覗ける。間違いない、鳥越だ。そう確信した桂井は固唾を呑んで鳥越の肩に触れてみた。
「よう、鳥越」
と桂井が声をかけた直後から二,三秒経ったぐらいだった。桂井の頭の中にまさしく例のセールスマンが言った如く、走馬灯が走る感覚のようなモノが、鳥越の記憶を介して駆け巡る。いや、むしろ、一瞬にして桂井自身に鳥越の人格が乗り移り、と同時に鳥越のこれまでの人生の軌跡がダイジェストのように、桂井の脳に侵食してきた感触に近い。つまり、鳥越の内面的な部分と経験的な記憶の両面が桂井の脳内に何万倍速にしてダウンロードしてきた。だが、脳内の負担は思った以上に少なく、軽い立ちくらみが起こったぐらいだった。そして、それら一連の出来事はまさしく刹那の出来事。桂井はさすがに初の読心だったのでしばしのショックを受けていたが、すぐに鳥越が、
「おう、桂井」
と声をかけると桂井も容易く我を取り戻し、
「お、おう、鳥越」
と自身では呆然としている内面を感じていたが、鳥越の方は訝る事もなく桂井とともに歩を進めた。
鳥越の方は何も異変が感じられなかったのか?
桂井は思わず鳥越の表情をマジマジと見てみた。
「何だよ朝っぱらから気持ち悪いな。何か俺の顔に付いているのか?」
「あ、いや。何か体に変わった感じとかないか?」
「はあ? 今、インフルエンザか何かが流行っているのか」
「いや、そういう訳じゃないんだけど、まあ、その何だ。元気で何より」
「何を言ってんだ、お前。まだ、寝ぼけてるのかよ」
眉間に皺を寄せる鳥越に対して苦笑いで返す桂井。そして、しばらく考え込んだ様子を見せると、
「なあ、鳥越。お前さ昨日、いや、一昨日か。何人か引き連れて居酒屋で飲んでなかったか?」
「は?」
桂井からの意表をついた急な質問に戸惑う鳥越。すると間髪入れず桂井が、
「いや、たまたまお前に似た奴を見かけてさ。何だったら声をかけて酒を奢ってもらおうかと思ったけど、間違いだったら気まずくなるから無視したんだけどさ」
「ああ、そうだったのか。確かに一昨日の夜は学生時代の連中と飲んでたわ。何だよ、お前も近くにいたのかよ」
桂井はほんの少し戸惑いの表情を見せたが、すぐに微かに相好を崩し、
「……そう、偶然、居合わせたんだよ。偶然な」
鳥越は含み笑いをしている桂井に、僅かな違和感を覚えたが、特に穿つ事はなく歩を進めた。
MR……間違いない。
一方、桂井は気色ばんだ様子を見せながらも平静を装い、鳥越と取り留めのない会話を交わしつつ会社へと向かって行った。心中、MRに対して信任を覚えて。
終業。
桂井は仕事を終えるとわき目もふれずに即刻退社した。早く帰宅してMRの使用説明書を確認したいからだ。
本日の仕事中は鳥越以外に他の同僚にMRを使って読心をせず、一見すると桂井は落ち着き払った様子で業務をこなしていた。だが、内意では上気していて、仕事は上の空。気持ちがそわそわとして、貧乏ゆすりが止まらなかった。本当は鳥越以外にも読心を試してみたかったが、一度もしくは一日のうちで多数の人間を読心すると、脳に対して精神的負担が大きくなるのではないか、と慎重な桂井は考えたらから、複数の人間にMRを使わなかったのだ。
まずは家に帰ってセールスマンが置いていったMRに関する書類を熟読しなければ。
鳥越に読心を試す前は懸念と疑念が交差していた桂井だったが、実際に使用してみて鳥越の人格や過去の記録が、まるで履歴書を読むかのようにすんなりと頭に入ってきた事で、桂井はMRに対してかなりの信用を持つようになった。
あの感覚は妙なトリップ状態の出来事ではなかった。勿論、寝呆けの類いでもない。ちゃんと自覚症状あっての経験、いや、精神的体験だったはずだ。
桂井は確信を深める。人の心が読める、というおよそSF的かつ超現実的な行為が可能になった、と。
退社後、早歩き。駅に到着。乗車。桂井、釣り革に掴まりながら満員帰宅電車中、熱気こもる混雑にも関わらずMRについて頭を巡らす。居のある駅にて下車。帰路の途中、コンビニで夕食の確保。購買後、一目散に我がアパートへ。家に到着するとまずはジャージ姿の部屋着になり、夕食のカップラーメンを食べるためのお湯をヤカンで沸かす。そして、次に早速、桂井はMRの取り扱い説明書を手に取る。それまで無下に扱っていた例のセールスマンが渡したチュートリアルやその他の書類を、今度は聖書の一言一句を辿るかのように丁寧に読み始める桂井。
「えーと、MRを使う際の注意事項とかMRの特性的な文章は……大脳においては大脳新皮質と大脳辺縁系という構造的な……こんな小難しい箇所じゃないな。他のページ、他のページっと……えーと、記憶には言語や文字で現せる思弁的かつ思考力で処理する『陳述記憶』。実際に身体を動かし自分自身の肉体に覚えさせる、所謂、体で覚える『手続き記憶』というものがあります。前者はさらに意味記憶や出来事記憶などに分かれますが、おおむねの記憶は時間が経過するとともに忘却していきます。後者は一度覚えると、生涯忘れる事はない……って、そんな事知りたいわけじゃない。もっと易しい説明で……ん? 短期記憶の一つに『ワーキング・メモリー』というものがあって、MRで取り込まれる読心した相手方の人格や記憶はワーキング・メモリーと同じ扱いになり、情報量の多少に関わらず短時間で忘れるシステムになっています。これはMRによる情報過多状態での、MR使用者自身の脳の記憶及び情報処理能力の負担を軽減。また、精神的な問題として、脳内における記憶や情報の許容範囲の閾値(いきち)のオーバーをMRが判断し抑制する事により、脳の破綻や人格崩壊の恐れ(例えばMRを使用した結果、健忘の懸念やウツ病を罹患するなどの心的故障の蓋然性の危惧)を回避できる、つまり、オートマチックなリスクヘッジ機能が搭載されているものだと理解して下さい。む、脳の破綻やら人格崩壊とやらは何か不気味なワードだが……ん? 何なに……ただ、ワーキング・メモリーと一つ違うのはMRで取り込んだ相手方の情報の全てが自分の脳内から消去されるわけはなく、自らの脳の趣向に適った、つまり、自分好みの相手方の情報は、しばらく自身の記憶に残ります。ワーキング・メモリーは一つの仕事に対して、その仕事をこなしてしまった後、その仕事に関連した情報は忘れてしまいますが、MRのそれは相手方から得た情報を、自らの脳がそれらは自分にとって有益か無益かを自動的に精査かつ選別し、自分にとって有益、つまり、自分が関心のある情報は残してくれます。その作業は無意識下で行われているので自覚はされません。けれども、自分の脳によって積年に及び形成されてきた、言い方を変えれば長年に培ってきた(MRを使用した側の)本人の性格や趣向などに対して従順に依拠、もしくは考慮してオートマチックにMRは機能しているので、その読心に対する利便性や安全性は信頼をもって構いません……うーむ、何かこの辺の説明書きに、僕が知りたい事っぽいのが載っている気がするな」
長々とMRの取り扱い説明書について、ページを繰りながら一人言を連ねる桂井。しかし、しっかりと読解しているというと言えばそうではなく、せいぜい文章の雰囲気をつかんでいる程度の状態。そのため早くも集中力を欠き、ヤカンが僅かな蒸気音を発するぐらいにも関わらず、お湯の沸騰に気づき、早急にカップラーメンにその沸騰したお湯を注ぐ次第。
「何か内容が難しいんだよな、この説明書はいちいち。もっと簡潔かつ平易な文章にしろっての。わざと難解に書いてハイソサエティ感を出してるんじゃないか、まったく」
桂井はブツクサと文句を言いながら、カップラーメンに付属してあった割り箸を割ったものの、均等に割れず割り箸のささくれが激しい。
「うわ、食べずらっ!」
大仰にまた割り箸にも文句を吐くと、それでも桂井はその割り箸を使ってカップラーメンを食べつつ、どうにも難しいMRの説明書にまだ目を通していた。
「どうやらこのMRってヤツは手前にとって都合が良かったり、自分に興味やら関心がある相手方の性格を含めた情報だけを僕に記憶させて、その他の自分にとっては無関心な相手の事柄は、脳みそが勝手にスルーしてくれるって事かな。だったらなかなか大した代物だけど……おや? なお一日に読心する回数(人数)は、脳内負担を考慮して四人から五人までを推奨します。また、使用後に不快感や違和感を覚えたら、MRの使用を控えて下さい……いやいや、まるで薬の処方箋みたいな書き方だけど、そういう事だよ、僕が知りたかったのは」
カップラーメンをすすりながら、かたやMRの説明書を読みつつ、さらには器用に一人言を交える桂井は、その夕食の最中に説明書を概括的に斜め読みしMRの大枠の仕組みは分かるようになり、どうやらカップラーメンを食べ終える頃にはMRの理解には溜飲を下げたようだった。
食後、空になったカップラーメンの器と不格好な割り箸を捨てると、とりあえずMRの説明書から目を離して、テレビのスイッチをつけた。三十二インチ液晶画面の中では、忙しく複数の芸能人がバラエティ番組で必死に自分のキャラをアピールしている。だが、桂井の頭の中ではその様子が頭に入ってこない。気にかかるはMRの事ばかり。桂井は目をテレビ画面から逸らし手首に巻いているMRに向ける。そして、鳥越を読心した時の事を顧みた。
自分にとって有用な情報だけしばらく頭に残って、無用な情報はすぐに自分の記憶から消えていくって事だよな。つまりは相手方の自分にとって興味のある話っていうか情報やら記憶やらは、僕自身の頭の中でしばらく覚えている。自分にとって何も面白くない情報は直ぐに忘れるって事か。確かに鳥越を読心した所で奴の人格や過去に何の面白味もなかったし、特別に意外性があった情報なんてのもなかったからなあ。最近お熱のキャバ嬢とのチョメチョメやら、趣味で自分のブログであげてるラーメン屋通いの旨いランキングとか、本当、どうにも僕には関心のない内容ばかりだった。奴の過去にしても全然平々凡々で物珍しい出来事なんかなかったしなあ。せいぜい小学校の時給食中に豪快にゲロ吐いた事ぐらいか。
元々、鳥越という人間自体に桂井は興味がなかったので、その読心の成果も桂井自身の関心をひくという意味では大して実にはならなかった。だが、読心の実験が成功したのは結果として現れた。確実に桂井の脳裏に焼き付いた。
ま、MRのテストとしては無駄じゃなかったか。
桂井はMRから目を逸らし、両腕を手枕にしてその場に寝転んだ。
「さて、と」
明日からどうしようかな。いや、明日からが本番だ。どいつにMRを試してみるか……一応は五人ぐらいが一日の読心の上限としては適正人数らしいからな。やたらめったら読心を試して脳に変な負担をかけたくない。やはり会社の同僚とかの方が無難かな。全くの他人じゃ選別のキリがないしな。だけどわけの分からない他人の方が面白い過去とか持っていそうだし。とりあえずは誰に試すか悩むなあ。
「あ、そうだ」
軽く額を叩いて一人言を発した桂井。そして、上半身をムクリと起こし、
「仁科さんには……使ってみたいな」
とまた一言。
仁科亜紗美(にしなあさみ)。年齢は桂井より一つ年下で会社では仁科が二年後輩にあたる。見た目、ごく普通のOLで特段目立つような美人さはないが、ややポッチャリ気味のスタイルから醸し出す二重の瞳の笑顔には愛嬌があり、異性からも同性からも好かれるようなおっとりとした所作と気さくな性格で、社内では真面目な社員の他にマスコット的な存在にもなっている。
そんな仁科亜紗美を桂井はずっと意識していた。仕事中、チラ見するのは当然のこと、用もなく資料のコピーを頼んだり、苦手なコーヒーを無理に汲んでもらったりしたり、何とか仁科とのコミュニケーションを図っていた。だが、二人きりで食事などはした事などはなく、勿論、そんな誘いも桂井はした事はない。せいぜい会社の飲み会で雑談できる程度の仲。普段の社内でも仕事を介した話しかした事がない。
一見すると桂井が女性との接し方が苦手な性格に覚えるがそうではない。実際に二ヶ月前まではカノジョがいて、さらにここ二ヶ月の間に三人の女性に告白している。ことごとく失恋に終わっているが。兎に角、女性との付き合い方のウマさを別にすれば、桂井は自分の方からガンガン攻めていく恋愛能動者。最近の青年が草食系男子と呼ばれている時勢にしては珍しく肉食系の感のある桂井健史。好きになった女にならすぐにでも誰にでも告白できるポテンシャルを持っているメンタル面の強さがこの男にはある。
だが、そんな桂井でも仁科には奥手になっていた。会社の同僚である手前もあり、桂井の想いを仁科に告白した後に成就したならば角は立たないが、もし断られたらならばお互いの気まずい空気は元より、社内でもいずれ噂になり桂井自身が今後会社に居づらくなる。他の社員が不倫や浮気をしているという話は幾らでも跋扈している桂井の会社、ひいては一般の勤め会社もそのような不貞行為が慣例化しているとはいえ、桂井はその類いの醜聞に巻き込まれるのは人一倍嫌っていた。
そのような桂井の配慮もある。
だが、それ以上に仁科亜紗美に対する純粋な好意の方が、桂井が仁科を前にして軽率な行動を取れない理由が強い。
僕は本当に仁科さんの事が好きなんだ。だからそう簡単に告白なんて出来ない。ヘタに失敗して今の友人もしくは同僚としての友好な関係を崩したくない。
中学生レベルの及び腰恋愛観ではあるが、桂井の中では仁科には女性の理想像が出来上がっており、おいそれと簡単に手を出せる存在ではなかった。無論、仁科が他の男性社員と仲良くしていたら嫉妬する。だが、仁科亜紗美は人当たりが誰にでも良いから、あんな笑顔で対応するんだな、と無理に理由付けして自分自身納得する。それは一種の認知的不協和の思考。
兎にも角にも桂井にとって仁科は分かりやすい程に、片思い一途かつ憧れの好きな女性だった。そんな桂井が仁科について知っているだいたいの住まいや会社まで使っている沿線なのどのお定まりの見聞以外で、唯一耳にしたプライベートな情報は、今は彼氏がいないらしい、とのこと。その点に桂井は一縷の望みを託している。だが、自分が早く行動を起こさなければいずれ仁科も他の男と付き合う事になる、というリスクも覚える。
そんな葛藤する桂井にとってMRは仁科の気持ちを探る絶好のアイテムであった。少なくとも自分に脈があるかは分かる。しかし、桂井の心中には妙な躊躇いがあった。MRのような機器をつかって、自分が本当に好きな人の心を探って良いものか? というある種道徳観に依拠した思い。それが桂井を逡巡させている。仁科の本心を知る事への不安もある。もし、自分に何の興味も抱いていなかったら、それは桂井にとってショック以外の何物でもない。だが、それ以上に真に好意のある異性だからこそ、MRなどの機械に頼らず姑息な手段抜きで告白したい、という気持ちがあった。それもやはり桂井の善性の精神からというよりは、学生時分の自己満足感からなる幼稚な恋愛純愛観による発想なのだが、桂井本人は仁科を目の前にして、自分の想いを自分の口で伝えたいという意識が強かった。それに今まで仁科に限らず好きな女性の前では、しっかりと正攻法で自分の想いを告げてきた実績がある。カップル成功率は別にしても。
本当に好きな仁科さんだからこそ、敢えてMRの力を使わないで直接自分の想いを告げるべきなのではないか?
桂井は中二病的な恋愛観をこじらせている自分に気づかず、やたらとその点は生真面目に考える。一方で恋愛ピュアな自分に酔っている部分もあるように見えるが。
別に即決する必要はないか。他の人間にも色々と試してからも遅くないし。それに今はMRの試用期間なだけで、もし、気に入ったら購入すれば良いだけの話だ。
ようやく無難な答えを桂井は導き出すと、桂井は再び腕を頭の後ろに組んで寝転ぼうとした。
「あっ……」
桂井は思わず言葉を発するとキッチンに目を向けた。そして、立ち上がりガス台にある鍋を開けた。
「しまったあ、昨日のカレーが残っていたんだ。冷蔵庫に入っている肉も余り気味だから早く使わないといけないんだったなあ。夕飯買い損だったわ」
と桂井はブツクサ独言した後、鍋を軽く火にかけた。カレーを食べるわけではないが、よりコクが深くなるように、という具合と熱殺菌の意味を込めて。
明日は忘れずに食べよう。
カレーは定期的に煮こみ直せば案外日持ちする、という気構えを前に、桂井の頭の中ではMRについての考察は既に終わっていた。
*
朝の満員電車内。
MRを装着する桂井は、誰とも知れない肩を触れ合う他人の頭の中を覗き込みたい衝動に駆られる。だが、脳の負担を考え一日で読心をするのは五人までと規制している桂井はしっかりと己の欲望を抑える。
やはり優先順位としては会社の連中からだろう。
桂井はやはり身の回りの人間から秘密のパーソナリティを探る事に重きを置いた。会社の人間とは結局は強制的に長い付き合いになる仲。それならば個の本当の性情から過去の出来事、あわよくばそれらに付随する精神的弱みを握れる、というアドバンテージがあると考えたからだ。仁科亜紗美に対するモラルとは程遠い下卑た桂井の感情であるが、そのような性格が本来の桂井健史だった。
早く会社に到着しないかな。
今まで通勤する時には全く浮かばなかった思い。仕事に行く事に胸を躍らせるなんてまるで意識高い系社員だな、と桂井は自己満足。
桂井は会社のある駅で下車すると、珍しくキオスクで缶コーヒーを買って、一飲みしてから、
「よし」
と呟いてテンポ良くターミナルの階段を降りていった。
無意味にヤル気が横溢している桂井ではあるが、それは当然仕事に対しての意欲ではない。MR使用の好奇心からの気力である。桂井は通勤中から社内でMRを使う人間を脳内で吟味している。
やはり会社の中でも近しい奴を試した方が良いかな。いや、逆にあまり知らない人間の方が面白いかも。まあ、別に社内の人間の事を知って、コミュニケーションを円滑にしようとは思っている訳ではないんで、単純にこいつはどんな人間なんだ的な変わり者系の奴の頭を覗く方が楽しいかな。でも、僕の会社にはそんな一見してエキセントリックな奴は見当たらないよなあ。一応は優良な中小企業だから、ほとんどマトモな新卒始入社揃いの社員だし。いや、でも普通っぽい人間ほど腹の底では何を考えているか分からないしな。うーん、チョイスが難しい。それとも上司を狙って強請(ゆすり)のネタでも握るってのもあるか。いやいや、それは現実的にヤバいか。あくまで表には出さず個人的に楽しむ方が良い。ただイザって時の切り札の時には役に立てよう。ま、そのイザという機会がまずないだろうけど。兎に角、やはり迷うなあ。やはり実際、会社に行ってからその場のノリでMRを使って遊んでみるか。思いつくまま、気の向くままで。
桂井は左手首に巻いているMRを一瞥すると、やや駆け足気味に歩を進めた。
「おはようございます」
「おいっす」
「おはよっす」
「おはよう」
「今日もよろしくお願いします」
桂井は他の社員より一足早く出社。
徒然ない様で椅子に座りながら、デスクに肩肘ついて横を通り過ぎていく出社してくる社員の挨拶に軽く相槌で返す。一見、虚ろな目でいかにも眠そうな感じで桂井は朝の挨拶に接しているが、胸中では目の前を横切る社員からMRを使う相手を選別していた。自然と横目で瞥見している桂井の眼底に鋭意が込められていく。勿論、その桂井の真意及び行動に気づく周りの者はいないが。
すれ違う社員は主に同じ部署の社員ばかり。気心は多少知っている連中ばかりなので、逆にあまり桂井の関心は惹かなかった。
そんな折、やや桂井から座席は離れているが、仁科が出社してきて遠目でその姿を見ていた桂井と目が合い、仁科が軽く会釈をした。桂井も反射的に頷く。自然な表情を装いながら。挨拶した位置は離れていたけども、桂井の鼻にはいつもの芳しい仁科特有のフレグランスの香りが掠った。一時、悦に浸る桂井。仁科は長い髪を軽く掻き分けて自席に座った。そして、ふくよかな胸でありながら、第一ボタンまでしっかりはめているブラウスの襟首を立て直して、パステル・カラーのネイルをチェックしてから、仁科はパソコンを起動させる。
仁科さんは相変わらず、愛らしくてカワイイよなあ。
オフィスに入室してからの仁科の一連の自然な動きにさえ仁科に好意を感じる桂井にとって、やはり気になるのは隣の経理の部署で働く仁科亜紗美であった。
部署が違うとはいえ特にパーティションもなく、セクトを隔てるものもないので容易に声はかけられる状況にある。それこそトイレに行く途中、軽い感じでお菓子をおすそ分けする行為がてら談話する事など可能だ。社風自体、皆が疲れてきたら雑談をしても特に咎めるような事はないフランクかつ若手が多い環境なので、堅苦しい雰囲気はなくその点は桂井も気に入っていた。
だからこそ仁科亜紗美と何気ないコンタクトをとるなど難なき事柄、なのであるが桂井はやはりこればかりは稚拙なナイーブさに押され踏ん切りがつかない。
MRを使って愛しの仁科さんの心を覗くのは邪道だ。
もはや桂井にとってその気持ちは純化した倫理的な良心というよりも、一種の屈折した意地やら決心にも似てきていた。だが、その読心を望んでいるのも事実。欲望(リビドー)は生得的にあるモラルよりも、意固地となった精神に対しての方が攻撃をしやすく、また気張っている心の方が我慢して耐えているだけなので脆い。
煩悩に打ち勝つ。
果たして桂井がその誘惑に乗るか乗らないかは今後分からない。
兎にも角にも、そんな人間観察をしている内に、朝礼の時間がやってきた。結局、朝の出社時の間ではMRを使う候補者は決まらず、桂井は手持ち無沙汰になってしまった。皆が起立し上司の朝のいつもの伝達を桂井は聞きながら、チラリチラリと遠目から仁科の横顔を盗み見する。MRを使用したい欲に駆られる。しかし、何とか強く握り拳を作り再決意する。仁科さんのような天真爛漫な女性に、やはりMRを試してはいけない、と。桂井の胸中、仁科亜紗美の偶像化への昇華は進む一方であった。
馴染みの朝礼も終わり、三々五々、社員たちが着席する中、桂井の部署のリーダーの菅谷修平(すがやしゅうへい)が桂井の元へやって来た。桂井は軽く会釈し挨拶をしたが、菅谷はどうにも渋い表情をしている。菅谷は大袈裟に溜息を漏らすと、時代遅れのC調風の喋りで、
「いやあ、まいったよ、桂井ちゃん」
桂井とは歳もそう離れていない上役の顔には、三十代前半には見られない老けた感のある徒労をあからさまに見せていた。
「どうしたんですか、菅谷さん?」
「あのさ、工藤テクノクラートの工藤(くどう)社長は知ってるよね」
「知ってるも何も俺みたいなペーペーを連れて、わざわざ向こうの会社まで渉外しに行ったじゃないですか。一人じゃ怖い、何て言って商談の内容も知らない俺を巻き添えにして。気まずかったすよ、あの時は」
一代で自らの会社を立ち上げて成功させた、取引相手の壮年盛りの工藤の威圧感はいまだに桂井は覚えている。工藤はいかにも昔風職人気質の堅物で、鼻下にはカイゼル髭にも似たそれを生やしており、まるで軍人のような気風さえ漂わせていた。直感的に桂井は、自分とは相性が合わないタイプの人間だ、と判断したのも記憶している。
「でもさ、桂井ちゃんってさ人懐っこい顔してるじゃん。人たらし的な雰囲気を醸し出している、みたいな。それだからさ、また、付き合ってほしいんだよね、工藤社長との交渉にさ。何せ相手さん、イイって言ってるのにわざわざウチの会社に出向いて来るのよ、今日。納期の件について」
「ああ、聞いてますよ、その話。相変わらずのムチャ振りの納期日要求でしょ」
「そうなんだよ。工藤さんの所って俺らとか取引先の会社に対して、かなりキツい日数で納期の期間を設定しているんだよね。自分の会社でメンテナンスの時間をかけたいから、相手の会社に対して巻きをかけてさ、急がせるみたいな」
「毎度の事ですよね、工藤さん所の自社優先主義って。だからまた納期を急かしにくる催促ですか」
「まあ、そういう商談の展開にはなるだろうけど、正直、こっちはもう納期の期日に譲歩出来ないんだよね。既にギリのケツかっちんのスケジュールでやってるんで。でも、こっちとしては工藤テクノクラート側の方がかなりの時間の猶予をもって仕事をしているのは知っている。だから逆に何とか頼み込んで平身低頭すれば納期引き延ばし、とまでは言わないけど、とりあえず現状維持の納期日までで勘弁してってな交渉の余地はあるってこと」
「なるほど」
「だからさ、その交渉の緩衝材として桂井ちゃんについて来て欲しいのよ」
「何すか、それ。だったら僕なんかより、女子社員をお供に連れて行った方が和やかな雰囲気になりますよ。例えば……」
そこまで言って仁科亜紗美の名前を挙げようとしたが、工藤社長に変に気に入れられて愛人にされるかも知れない、という杞憂に近い思いが桂井の脳裏に走り、
「受付の冴木瑞穂(さえきみずほ)さんとか」
冴木瑞穂。桂井の会社では典型的なマドンナ的存在。目鼻立ちはくっきりして、ツヤのあるサラサラ髪のロング・ヘアのビジュアルにして、痩身のクール・ビューティ然とした実に分かりやすい男好きする美人タイプ。その容姿に愛想の良さも加わり会社の窓口である受付を任されている。
仁科も可愛い女性社員の範疇にはあるのだが、男性社員側からすると冴木がダントツで社内の注視を浴びている。それは偏(ひとえ)に性的魅力の観点から、自分の魅力を発散している。それでいて清純派の匂いもまとわりついている。つまり、色気と華もあって、さらには奥ゆかしさを保ちつつ家庭的な女性という、異性側にとっては美味しい所取りの万人受けするキャラクターを備えているのが、冴木瑞穂その人であった。
桂井も冴木に全く好意を持っていなかったといえば嘘になるが、やはり桂井の本命は仁科亜紗美にあり、仁科を守る、という勝手な考えのもと冴木を工藤との交渉の同席に推挙した。
「そう、本来なら綺麗どころの女子社員をねじ込んでお茶を濁すんだけど、工藤さんってさ、昔気質の職人肌ってヤツなのかな? 女が男の職場にいるのはけしからん的な、古いタイプの仕事人なんだよね。今時じゃ男女共同参画社会の否定の何物でもないんだけど、そういう人だから逆に機嫌を損ねそうなんだよ」
立ち姿、面倒臭そうに肩を回しながら菅谷は言う。
桂井は目を細めて鼻で息を出すと、
「僕が一緒にいた所で、ゆるキャラ扱いになるとは思いませんがね」
「いや、俺と工藤社長の間のクッションになってよ、桂井ちゃん。俺がビビりなのは知ってるだろ。工藤さんの昭和の頑固オヤジ的な迫力には毎回ブルっちゃっているんだから」
「僕のイメージでは気難しい英国紳士風の厄介オヤジって感じですけど。意外とダンディな着こなししてるじゃないですか」
「つーか、そんな事はどうでもイイっての。兎に角、頼むよ、桂井先生」
「でもなあ、僕だって一緒にいて気まずいし、それに……」
とそう喋る桂井に一つのアイディアが浮かんだ。そうだ、一つMRを使ってみてはどうかな? と。すると桂井は軽く口角を上げ、
「仕方ないっすね。じゃあ、一緒にお供しますよ、菅谷さん。その代わり今度一杯奢って下さいよ」
「おお、助かるよ、桂井ちゃん!」
菅谷も桂井の快諾に明るい表情で応える。一方、桂井は含み笑顔をしながら、MRに視線を落としていた。
「工藤さんがお見えになりました」
昼休みも終わってそぞろ、受付の冴木が菅谷のもとにやって来て、そう告げた。桂井はキャット・ウォークの上をモデルのように進んできた冴木を横目で見ながら、相変わらず艶っぽいオーラを出しているな、とよからぬ妄想をしていた。二十デニールの薄いストッキングを履きこなす健脚、細身の身体にブラウスを纏い、その華奢な容姿に似合わない胸のふくらみ、それらに自然と目が移り、桂井は思わず凝視してしまっていた。
その時、菅谷が溜め息混じりに桂井に声を掛けてきた。
「んじゃ、行こうぜ、桂井ちゃん」
「相変わらず待合時間の十分前にご登場ですか。例の如く几帳面な社長様だ」
桂井と菅谷は冴木に促されるまま、工藤が待機している小会議室へと案内されていった。菅谷はうなだれた様子で愚痴をこぼしながら歩く。
「ったく。普通こういう交渉って統括部長の仕事だろお。何で俺たち下っ端が対応しなきゃならないんだよ」
「部長も工藤さんにビビってるんでしょ。ウチらの会社って若い連中ばかりじゃないですか。威厳があってさらに大物オーラがある六十代ぐらいの上司なんていないじゃないですか。だからこういう年配の相手との商談事を互角に対応出来る人間が、どうにも不在で。若い会社ってのは活気はあるっていうメリットはあるけど、歴史ある老舗系の会社のようなハクがない分、ナメられるっていう弱みがありますからね。だいたいが自分の親ほど年齢が離れているオジさんが相手ですからね」
「何を冷静に分析しているんだよ、桂井ちゃん。これから俺らはその頑固なオジさんの典型みたいな人と対決しなきゃならんのだぞ。とは言っても付き合いは長いし、急な仕事とかも引き受けてくれたりするから、あんま関係は悪くしたくないからなあ。弱腰外交で対話しないと」
グダグダな不服を菅谷が叩いている内に、桂井たちはドアの開いていない小会議室の前に着いた。
「それでは後でお茶を持って参りますから」
と冴木が一言添えるとドアを開け、肩を落とし気味の菅谷と桂井が入室し、冴木は踵を返して給湯室へと向かった。ドアが締まると目前のソファに恰幅の良い、光沢のあるグレーのスーツを着た白髪の男の威容な後ろ姿が、菅谷と桂井の目に映った。
菅谷はテーブルを介して工藤の対面に周り、
「どうも、今日はわざわざご足労願いまして、恐縮です」
「いや、気にせんでくれたまえ」
「それでは失礼いたします」
と菅谷は返し、桂井は軽く一礼して、腰を低くしながらソファに着席した。眼前の工藤は背筋を伸ばした姿勢で、年代物の毛筆のような髭を備えた、眉間に皺を寄せた強面にて、バリトンばりの低音ボイス。ダブルのスーツを肩幅のある体躯に馴染ませ、ワイシャツは第一ボタンまで閉じて、ネクタイはタイピンをしっかりと嵌めて締めている。新入社員の面接以上に服装は凛々しく、それでいて厳格な態度で振る舞っている工藤。
どうしていつも迫力満点なオーラで来るかな。
分かってはいたが、内心、桂井は工藤の威圧感のある容姿にたじろぐ。その間に菅谷は話を進めていた。
「それにしても最近は暑からず寒からずの好天続きで、仕事もし易い環境になって助かりますね」
「うむ」
「いやあ、何と言いますか、そうは言っても物事というのは予定通りにはならないもので、仕事というのはまるで経済のように流動化するので、なかなか難しいものです、はい。ですので業者間の緻密な連携と協力がキモで、特に実に非常に重要に問答無用に必須な事と私としては理解しております」
「うむ、そうだね」
あからさまに緊張して本題を持ち出せない菅谷は、慣れない丁寧口調でたどたどしく喋りながら、額にジワリと汗して慎重に工藤に問いかける。だが、そんな菅谷の及び腰を無視して、
「そういう事だ、菅谷君。よく分かっている。話が早い。仕事というのは常に予定通り順調に運ぶものではない。会社同士、お互いの事情を鑑みてこそ成り立つ。そこで今回は私の方の都合で悪いのだが、そちらの納期を早めてほしい」
と工藤がドスの効いた声音でストレートに今回の議題のメイン・テーマを菅谷に返した。それを吐いた工藤の目線は肉食獣のように厳しく、怖い。菅谷の目が明らかに泳ぎ、桂井の方に幾度も首を向けて、
「はは、なるほど。そうですね……」
と言いながら苦笑する。
桂井は一つ深呼吸をする。
まあ、ちょっとベタなヤリ方だけど。
そう桂井は胸襟に織り交ぜながら、
「あ、社長。肩にゴミが付いてますよ」
と言って中腰で立ち上がり、MRを付けている手で工藤の肩に触れた。その瞬間、昨日に鳥越にMRを試した時と同様、脳に電流が走ったような感覚に襲われた。自分の脳に他人の記憶がコピーされていく奇妙なセンシビリティ。そして、ほんの一瞬の立ちくらみ。ここまでの過程で約五秒間。
「おお、すまんね」
「いえ」
工藤は桂井に対して何の変化も覚えず謝礼し、桂井も何も気色に見せず着席する。そして、内心、なるほどね、と桂井は思い返し、すぐに工藤との会話のプランを立てた。桂井は言葉を失いつつある菅谷を横目に一人黙して熟考している。一方、菅谷は懸命に工藤へ弁解じみた台詞で対応する。
「はい、工藤さんのご意見も最もなのですが、ウチの方も人員に限界がありまして、その、何と言うか、物理的に、その、あの、チェック機能の精度ばかりに、あの、その、人を割いていてはキリがなくて……」
「しかしだねえ、そうは言ってもお客様第一でしょう。あなたは若いからまだ分からないかも知れないが、この仕事、いや、全ての仕事に対して言える事だけど、仕事ってのは信用こそが命。そんなお座なりの仕事でやったモノをクライアントに渡せますかね。私はねえ、一所懸命にベストを尽くして今まで仕事をしてきた。だからこそバブル崩壊もリーマン・ショックも乗り越えて会社を持続出来てきた。それはひとえに信頼と実績の積み重ねの結果だよ、君ぃ。プロは仕事に妥協してはいけないのだよ」
「は、はあ……いや、いえ、全くおっしゃる通りで、グゥの音も出ません、工藤社長の仕事の流儀には」
「そうかね? いや、そうだろう」
満悦そうな工藤。結局、菅谷の言葉は提灯持ちな意見に転じ、交渉の話の流れは平行線で具体的な進展はなく変化なし。変わっていくのは菅谷の発汗量と、引きつった笑顔の口角の上がり具合のみ。
そして、しばしの沈黙が訪れた。その間隙を縫うように桂井が口を開く。
「あれ、そういえばさっき社長の肩に付いたゴミを取りに近づいた時に気づいたんですけど、社長が今日締めているネクタイは、お見受けしたところ、フェラガモのネクタイじゃありませんか?」
「ほう、よく分かったね。その通りだよ」
「いや、そのネクタイってスマイズ×スマイルのゴルフウェアとも相性が良くて、もしかしたらゴルフをなさっているのかと」
桂井がそのように話を切り出すと、工藤は半身を乗り出して桂井を注視し、
「そうなんだよ。君、よく知っているね。このネクタイはビジネスの時はもちろん、ゴルフをする際にもポロシャツでなくワイシャツのウェアとも自然とフィットするんだよ。若いのに君はゴルフをするのかね?」
と興味津々に桂井に食いついて来た。桂井はここぞとばかりに畳み掛けるように会話を弾ませた。
「いやあ、まだ駆け出しでゴルフの打ちっぱなしに行く程度で。実際にコースに出てもスコアは百を超えるか超えないかのレベルですよ。それに僕なんかの安月給サラリーマンじゃ道具一式揃えるのも中古品がいっぱいいっぱいで、社長のようなセンスの良いファッション・スタイルにはとても及びません。あ、それに社長のしているタイピンもダックス・ロンドンの物だと見受けられるんですけど、そのシルバー色がまたネクタイを引き立たせていますよね」
「おお、本当に君は目の付け所が素晴らしいな。若いのに紳士の嗜みの何たるかをよく理解しているし、私とも趣味が合いそうだ」
抑揚のある声を響かせ上機嫌になった工藤。明らかに年配の人間が若者から理解されている事の喜びからの高揚感に浸っている工藤の状態だが、無論、桂井にそのような意識はない。MRを使って得た工藤の記憶情報から取捨選択し、工藤の食いついてきそうな話題でもてなしただけのこと。勿論、ゴルフなど桂井はした事ないし興味もない。ただたった今、桂井が述べたゴルフに関するファッションの知識は、工藤の褒めて欲しい所をチョイスして語ったに過ぎない。だから工藤が、よく分かっている、とか、趣味が合いそうだ、など言う事に対しては、そりゃそうでしょうよ、僕はあなたの自分自身の嗜好を反芻しているだけなのだから、と桂井は心底ではほくそ笑んでいた。
しばらく後にお茶を運びに小会議室へやって来た冴木は、やたら和気あいあいと工藤と桂井が話している姿を目の当たりにしてキョトンとし、また、桂井に臨席する菅谷もただ呆然としていた。
途中で工藤から、じゃあ今度は一緒にコースをまわってみようじゃないか、と誘われた事には桂井はたじろいだが、適当に話を誤魔化しその後の話は和やかに進み、結局、納期の催促の交渉はなくなって、今まで通りのスケジュール進行で構わない、という工藤の結論に至った。
やはり頑迷固陋な老人だけに一度心の城壁を崩せば一気にオちる。漫画みたいに面白いほど単純だな、ジイさんって奴は。そりゃオレオレ詐欺もなくならないよ。
桂井は心の中で毒づいてはみたものの、MRの使い勝手の良さに改めて感心していた。こんなヤリ方もアリなんだな、だと。
だが、一方で妙な徒労感にも襲われていた。工藤の人生、約六十年分のデータ情報の重みというか、その経験と過去の蓄積が一度に入り込んできた脳の圧力というべきか、その理由は桂井には分からないが、どうにも目を細めるようなダルさを多少覚えた。
「凄いじゃん! 桂井ちゃん。何だよ、ゴルフとかやってたのかよ?」
と言いながら満面の笑みで身体を大きく揺さぶりながら、桂井の背中を大きく叩く菅谷。桂井は多少むせながら、
「いやいや、ほんのかじった程度ですよ」
「マジか? まあ、どうでもイイや。桂井ちゃんのトークのお陰で社長は溜飲を下げたようだし、無理な注文やムチャ振りもなかったし、ナイスだよ、ナイス、グッジョブ! これなら統括部長からクレームも来ないだろう。よし、今夜は一杯奢っちゃう!」
菅谷は一人何度も満足そうに頷き、片や桂井は微笑みながら、
「じゃあ、ご馳走になります」
と返した。
と同時に桂井は、あ、家にカレーがまだ残っているんだ、と気づいたが、まあ、まだ賞味期限的には大丈夫だろうし、むしろより味が染みてウマくなるか、と考え直し、菅谷の飲みの誘いの流れに乗じた。
一方、そんな菅谷と桂井の意気揚々な様子を不思議そうに冴木は見ながら、お盆に乗せたお茶を乗せたままポツネンと佇んでいた。
*
昨日は飲みすぎた。
桂井は菅谷からの昨晩の奢りの酒で二日酔い気味になり出社していた。昼間近くになっても頭痛が残る。一緒に飲んでいた菅谷の方はいつもと変わらずお調子者のノリで仕事をこなしている。一方、桂井はうつむき加減でこめかみを時折指で押さえながら、パソコンを操作している。と同時に昨晩の自分の行動を思い出そうとしていた。酔っぱらっていた時の自分の醜態は意外と過去に多い。
えーと、やっぱりあまり思い出せないなあ。家に帰って食わない残飯カレーを腐らせないために、鍋に火を通した事は覚えているけど、その後はテレビ見ながら寝落ちしてしまった気がする。
まあ、特に問題を起こしたような記憶はないな、と桂井はとりあえず難事なく切り抜けたという事で結論づけた。
菅谷さんも、昨日は楽しかったな、って言って機嫌が良かったしな。
再度、昨晩の飲みは安泰に終わったと確認し、桂井は仕事を続けた。そして、昼休みになる頃には二日酔いも消えて、体調も良好になっていた。
「なあ、昼飯に行こうぜ、桂井」
「ん? ああ」
同僚から桂井はそう声を掛けられた。桂井は、もう昼休憩の時間か、と思いながら反射的に腕時計をはめていると感じていた左手首に目を向けた。
「あ、そうか」
左手首にはめているのはMR。桂井は勘違いしたと思いつつ、今日がMRの試用期間の最終日である事に気づいた。
今までMRを試した人間は二人、か。
MRを所持して三日間、思ったより好き勝手にMRをランダムに乱用してなかった事に、桂井は自分自身に対して意外性をもった。だが、それは桂井の深層心理的な部分で、MRの無駄な使用を防いでいた所以もある。桂井もその点は薄々感じていた。
MRを使い他人の記憶や過去や人格をインプットする事が、予想以上に自分に負担がかかるということ。
それはMRを使う事によって脳内が支障をきたすとか、混乱してしまうとかの類ではない。MRを使う事によって、その他者の記憶や過去や人格を請け負う事が重荷になってしまうのである。言ってみれば相手の今までの生きてきた情報が、自分の頭の中に入り込むというのは、もう一人の人間の人生を背負い込むようなもの。そこに桂井はひどく生真面目にも重責を感じていた。こんな軽々しく人の頭の中を詮索してよいものか、と。月並みな表現ではあるが、今まで経てきたその人の人生の重みというものを、一瞬かつ急激に自分の脳内に流れ込んでくるのは、なかなかの疲労となりストレスにもなる。自分の人生観とシンクロする部分もあり、相反する考え方もあり、勝手に自分の脳が葛藤したり躊躇したりする。つまり、MRを使った相手と脳内で対話してしまう自分がいる事を認識してしまう。否が応でも。それは常に考え込んでいる状態と同じようなもの。思い詰めれば鬱病にもなりかねない。
別段、そこまで自分を追い込んでいたつもりはない、と桂井自身は思っていたが、MRをみだりに使う事が出来なかったのも事実。無意識的な部分でMRの使用を自分は抑えてしまっているのか、と反芻してみる。
いや、深く考えこんでも仕方ない。多分、MRと僕の相性が悪いのだろう。
そのように桂井が胸の内で活論づける頃、桂井は同僚とともに馴染みの蕎麦屋に到着していた。今日はリッチに海老天そばとミニ親子丼のセットにするか、と給料日前、清水の舞台から飛び降りる決意をもってして。
夕方。
仕事も間もなく終業となる頃。桂井は仕事終わり間近になっても、本日はMRを誰にも使っていなかった。MRを使う事によって相手の記憶や過去は勿論のこと、普段の生活でありプライベートも覗く事になる。それに対して罪悪感を覚える、という程ではないが桂井はある種の業(ごう)を背負ってしまうような嫌いがあった。考えすぎだろ、と自嘲気味に桂井は顧みるが、なかなか心中払拭できないでいる。それでも仕事はいつもの習慣と惰性でしているので、特に支障をきたす事なく業務を今日一日処理していったが。
MRを使わずして今日は終えるか……試用期間の最終日だが、結局の所、MRは僕にとって有用なモノではないという理屈に至るのか? 利用価値やその性能の良さは頭の上では理解できても、どうにも拭えない違和感か不快感の類い。人の頭の中を覗き込む事がどれだけ自分にとっての内省となるか……そこまでは配慮が出来なかったな。
予想外の、想定外の心情。MRはもっと気軽に使えるモノだと考えていた桂井にとっては意外な結果だった。
だが、MRの使用を控える思いの一方で、まだそのMRの能力を試したい衝動には駆られていた。
仁科亜紗美の記憶、過去、人格、そして、自分に対する想いを知るというために。
MRを使って仁科の心像を覗き込む事に、いささかの負の思いはある。二の足を踏む。だが、桂井はそれ以上に仁科の自分に対する気持ちを知りたかった。リスクの大きすぎる片想いと、自分の中では位置づけしていたが、そんな理性とは関係なく、情緒的な部分が桂井の中では勝り、MRを付けた左手で仁科の肩に触れたい、という余勢に押される。
しかし、仁科の本心を覗き込む事自体に恐怖も桂井は覚える。もし、僕の事を嫌いだったらどうしよう? という単純な自意識過剰感情から来る幽(かす)かさ。傷心のダメージの失墜感。そんな中で保身、というか自らが受ける衝撃に対する保険というか、そこから桂井はあざとい妙案が浮かんだ。
まずは冴木瑞穂に試してみるか。
冴木瑞穂は桂井の意中の人ではない。だが、他の男性社員と同様に、冴木に対しては異性としての魅力は十分に感じている。正直、もし冴木が自分に気があるのならば、それはそれでアリだな、と桂井は邪(よこしま)な気持ちを抱いている。甘い物は別腹、ではないが仁科亜紗美と冴木瑞穂は別物、と区分けして桂井は両者を扱う。男の性(さが)による自己都合。
とりあえず彼女の頭の中を、いや、沈黙した意見を窺ってみるか。
桂井は利己的に勝手に納得して冴木の方へと向かって行った。
またベタなヤリ方だが、と桂井は思いつつ、まだ自分のデスクで仕事をしている冴木に近づき、その背後で足が躓いたポーズをとって、
「おっと、ゴメン」
と言って冴木の肩に手をかけた。MRをしている左手を。
その瞬間、例の如く刹那の電流が身体を流れたような感覚と軽い立ちくらみが桂井を襲う。もはや知っている数秒間の慣例……なのだが、冴木の肩に左手を添えたまましばらく桂井は動けなかった。
マジか?
そんな思いが桂井を支配した事によって。
「桂井さん? 大丈夫ですか」
暫時、動きが止まっている桂井を気にして、冴木は自分の肩に左手を乗せている桂井に声をかけた。
「あ、ああ、ゴメン、ゴメン。ちょっとトイレに行こうとしたら、躓いちゃってね……」
桂井は慌てた様子でそう返すと、便意はないが実際にトイレに向かって、大のコーナーに入り鍵をかけた。
「はあ、ふう」
桂井は大のコーナーに入った途端、フタの便座を下げて椅子代わりにして、息も切れ切れにそこに座った。そして、額をコツコツと叩くと、うな垂れた格好になって、
「信じられないな」
とボソっと呟いた。
桂井が覗いた冴木の脳内。
それは澱んだ闇だった。
恐らく触れられたくはないであろう、黒歴史の堆積。
知られたくない過去、事実……。
桂井は顧みる。これは僕に対して冴木瑞穂がどう思っているか? という事を調べるレベルの話ではないぞ、と。桂井がお試し気分半分、気軽にMRを使った結果に得た冴木に関する情報は、桂井が予想もしなかった内容のものだった。少なくとも冴木が社内で振舞う一つ一つの所作や、そのクールで知的な容貌からは思いもよらない、つまり、そんな意識高い系のOLにはあまりにも不釣り合いな性分や経歴が、桂井の頭の中に潜り込んできた。
富豪の良家に生まれた冴木瑞穂は、幼い頃から両親に溺愛され甘やかされて育ち、親の権威を活かし、お受験で名門女子大系列の有名幼稚舎に合格して、そこからはエスカレーター方式で大学まで進む。だが、何の躾もされず何の苦労も知らない典型的なワガママお嬢様に育った冴木は、学校生活で如何なくその傍若無人っぷりが発揮され、イケてる女子グループの間ではヒエラルキーの頂点に立ち、気に食わない同級生は陰湿なイジメの果てに疎外。自分が常にトップに立ち、ヘゲモニーを握る。
大学に入る頃にはインカレ・サークルに属し、他大学の男たちと複数付き合いセックスの味を覚え、真っ昼間から股を黒人相手に広げる有様。同様に派手な遊びにもはまり出してクラブ通いの常連にして、不健全なパーティの主催にも参加し始めるようになる。大学入学後、一人暮らしを始めているのだが、生活費や家賃は全部親の仕送り。それでいて遊興費は膨らむ一方。冴木は再三、親に金銭の援助を催促するも流石に両親もその額が増えるに従い、その負担を抑え始める。両親は自分の娘がそれほどの浪費をしていて、どのような生活をしているのか多少は気がかりだったが、深く干渉はせずにただただ最低限、お金だけを送り続けた。なお荒れる一人娘の生活ぶりも顧みずに。
とうとう数多のクラブやホスト通いの末に経済的な苦境に立たされた冴木は、学業後には夜はキャバ嬢として働くようになる。元来、男好きする容姿にして、男に対しての媚びもうまい冴木。太客を直ぐに手に入れ、幾人かの中年男がパトロンになり、援助交際的な金銭の受け取りや、スケベおやじ社長からの奢侈な貢ぎ物で、やはり勝手気ままな生活を保ち続ける。
だが、それらプライベートの行為はあくまで裏の顔。大学では清楚なキャラクターを装い続け、実際に授業だけは真面目に出ているから、一見すると健全なキャンパス・ライフを送っているように周囲には見えた。いや、見せていた。また大学時代から卒業したら女子アナになりたいと思い立ち、読者モデルをやったりミスコンなどにも積極的に参加するようになる。だが、それらのアピールでは大した成果は残せず、良くても無名の芸能事務所かAV臭のあるスカウトマンに声を掛けられる程度。
一方それでも、女子アナとは言わずともテレビに出て有名人になりたい、という思いが強くなってきた冴木の貞操観念はより緩くなり、大学卒業後、学生時代のキャバクラ勤めの時のコネを活かし芸能の世界に近しい男連中の愛人になり、気軽に肉体関係を結びセックス接待に励むようになる。それと共に愛人の芸能関係の男からアダルト業界の仕事を斡旋され、心の内での抵抗も葛藤もなく素人AVや企画モノAVなどにも数本出演するなど、何らかのメディア露出を図る。しかし、今はまだ芸能界デビューするには空きがなく時期尚早、というような事を愛人契約月三十万の芸能関係者の一人から言われ、言わば芸能界入りの腰掛けのための待機時間として、これまたコネで現在桂井のいる会社に働いている。
桂井はそんな冴木の裏の顔など今まで聞いた事もないし、その冴木の日頃の振る舞いからもおくびを出さない。MRの故障か? とさえも疑った。だが、すぐに現実を見据えて、また、MRの機能の信憑性を思い出し、桂井は溜飲を下げた。
人にはやはり色々な歴史があって、その表面からは想像できない、経験というか経歴があるんだな。
別に冴木瑞穂のそのような過去や性格を蔑視するつもりは桂井にはない。人間、そのような権利はないし、別段、そんな唾棄すべき人生の価値基準などは定義されていない。だから冴木のそのような昔の話、いや、現在進行形で続いている彼女の人生プランを他の誰かにあえて吹聴する気は桂井にはなかった。
ただ僕個人としては冴木瑞穂を見る目はこれから変わるだろうな。
桂井はそう心に認(したた)めると用もたしていないのに、わざわざ便器を水洗して、顔を洗面台で軽く濡らした後、トイレから出て行った。
終業時間間際。
皆、パソコンをシャットダウンして帰宅の準備に取り掛かっている。先ほどMRを使って脳内を探った冴木も何も変わらぬ表情で、受付の同僚の女子社員と雑談している。そんな中、桂井が目を移したのは仁科亜紗美。
彼女に対してMRを使うべきか?
その気持ちが桂井の脳裏によぎる。仁科が想う僕へのイメージ云々を知る以上に、秘められた仁科の、自分が関知していない仁科の過去や性分を知る怖さ。好意のある相手をより知るという事はある種、恐ろしい行為になるんだ、と冴木にMRを試してみて改めて、いや、初めて募った心情。
僕には知る勇気があるのか?
そのような感情を抱きつつ、仁科を見つめる桂井。
仁科は帰り支度を終え、間もなく退社しようとしていた。
料理全品三百九十円で統一されている、チェーン店の大衆酒場に一人、桂井は安酒飲み放題コースの焼酎を遅いペースで飲んでいた。やたらと喉に絡むのは安酒の特徴だな、と虚ろな目つきで焼酎の入ったコップを揺らしながら思った。
仕事終わりの一杯。本来ならば自分に労いの意味を込めて、アルコール臭の息すら感慨一入(ひとしお)の状況なのだが、いまいち桂井の顔は冴えない。
結局、仁科亜紗美にはMRは使えなかったか。
桂井はほんのりと紅潮した頬を片手に乗せテーブルに肘付き振り返った。
だが、MRを使用しなかった最終的な理由は、最初、仁科の過去や真の性格を知る恐怖感に駆られMRを使う事を躊躇していた桂井の様子からではなく、徐々にMRを使って仁科自身を知る事に罪悪感を覚え始めたからだった。
MRを使う当初の目的。それは仁科亜紗美が自分の事をどう思っているかを知る為が狙いだった。しかし、MRを使って人の頭の中を覗き込む事自体が邪な行為ではないか? とも良心の呵責があった桂井。それらの思いの葛藤もあり、恐怖感と倫理観が入り混じって、結局、MRを使う事で悩むよりは、いっそ使わないで自然状態でいよう、と決断したのだった。とりあえずは仁科に対しては保留しよう、と。仮に仁科に告白しようとしてもMRの力を使わずに、何の小細工もなく気持ちを直接伝えよう、と。
今夜は一人酒をあおって泥酔でもしてみるか。何だか疲れたし。それに明日は休日だ。深酒した所で問題ない……ああ、そうか。明日は例のセールスマンが来るんだったな。MRの試用期間も終わりか。まあ、多分、購入する気にはなれないな。人の心を知る、という事がこんな重荷にもなりうるとは予想できなかった。このMRの試用期間中、それに気づいた事が思わぬ収穫だった。何だか、大袈裟に言うと人として一回り成長した気分になったわ。
桂井は己のそんな大団円的な結論に至った事にほくそ笑む。理性的な教訓を一つ得て、人間としての満足感、はては清々しさすら覚える含み笑い。
と同時に、あ、また今夜もカレーの残りを処分できなかった、既に満腹だし……とMR以上に自分の性分、その記憶力と計画性のなさを改めて思い知った。
*
「そうですか残念です。いえ、仕方ありませんね」
桂井にMRをセールスしに来た当人である田中一郎は、目にかかった特徴的なアシンメトリーの髪を指で避けて気落ちした声で話した。
MRの試用期間を終え、田中は予告通り桂井の家に訪問してきた。田中が訪れた時間は桂井の夕飯前だったが、予定していた事だったのですんなりと桂井は家に田中を招き入れて、
「今回はこのMRの購入を控えさせて頂きます」
と告げたのだった。
「何かMRにご不備がありましたでしょうか?」
田中が申し訳なさそうに桂井に尋ねる。
「いや、MR自体には何の不具合もありませんでした。画期的な機械で、これは使い方次第では物凄い利用価値が生まれると思いますよ。サトリのように人心を読むウェアラブルなんて聞いた事ありませんからね。ただ……」
「ただ?」
「善人ぶるつもりではないですけど、他人の記憶、性格、習慣を知るために他人の頭の中をズカズカと土足で入り込む事に、不快感を持ってしまって。やはり人を受け入れるという事はそんな機械や道具に頼るのは邪道ではないかと感じ始めたんです」
「なるほど。桂井さんの言う事も一理あるかも知れませんね」
田中はそう言うと左手首を差し出した。そこにはMRが装着されていた。
「実は桂井さんのお宅に立ち寄る前に、他の家でMRのセールスをしたんですよ。あらかじめMRをスタンバイして。そして、お客様に試してみたんですが、その機能や性能に驚くよりも、逆に不信感を抱かせた、というか相手が不気味がってしまって。特に最近では近隣で色々と不穏な事件があった事もあり、余計に不審者扱いされましたよ。プライバシーの侵害か個人情報漏れの類いを連想されたのでしょうね。全く見知らぬ他人がどうしてそこまで自分の事を知っているんだ? よく考えてみたら怪しまれるのは当然です。その点、桂井さんは賢くて人格者でいらっしゃる。MRの万能性に過大な期待を寄せず、冷静かつ倫理的にその使用を判断した事は、明晰な証拠ですよ。どうやら私はMRを過信しすぎたようです」
「いや、そんな偉ぶった考えからではないですよ。単に僕とは相性が悪かった。そういう事です」
桂井は返答しながら自らの左手首に巻いていたMRを取り、それを田中に手渡そうとした。桂井の左手に握られたMRを、握手がてらに田中は左手で受け取り、桂井の手を握り締めた。
その時、
「……ほう」
と田中は一言呟き、一瞬、握った手に力を強く込めた。だが、すぐに桂井のMRを握りつつ手を離し、
「分かりました。今回はこちらの商品はご購入されないという事で理解させて頂きます。また今後、他に良い商品がございましたら足を運ばせてもらいますので、その時はご迷惑でしょうが対応の方をお願いします」
と言って深々と頭を下げて桂井の部屋を出ようとした。
その帰り際に田中は、
「それではお気を付けて」
と神妙ではあるがどうにも話の脈絡にはない一言をして去って行った。桂井は手際よく帰っていった田中を他所に、しばらく沈黙したまま座っていたが、
「あ、そうか。そういう事か」
と一人言を放った。
彼、田中一郎はMRを付けていたんだ。だから握手した際に僕の過去や記憶や人格が、彼の頭の中に入っていってしまったんだな。という事は、僕の愛の告白を無下に断ったこの近くのコンビニの女子店員や、近所に住むストーキングしていた女子大生や、近場のガールズ・バーで働く女の子の三人を、ぶち殺してバラバラにした事もバレてしまったって事か。ああ、だから彼が言った、お気を付けて、というのは警察やもし目撃者なんかがいたら用心しなよっていう意味の事だったのかな。まさか彼自身が僕を殺人犯として警察に通報するわけはないだろうし。MRなんて頭の中が覗ける機械なんて事を説明しても眉唾にもほどがある。警察も信用などするわけないし、殺人動機もほとんど突発的な恋愛感情で起こした事だし、相手との関係で言えば全く親交がなく僕の一方的な思い込みだけ。それに証拠も残していなければ現場を目撃した証人なんてのも今の所はいない。だからその辺りは心配ないんだけどな。というかそんな事より凄いな、彼は。彼女たちをバラした事を知っても眉一つ動かさなかった。謎だ、謎が謎を呼ぶ。田中一郎、何者ぞ。だから人というのは分からない。人の心というものが分からない。あんな人間がいるから、今の世の中は空恐ろしいんだ。
桂井健史は熟慮する。だが、その時、そんなナーバス気味な桂井の思いとは他所に腹の虫が鳴り空腹を桂井は覚えた。
「よし、今夜は残り物のカレーを処分するぞ」
すると桂井は先ほどまでの思索も忘れ、無駄に意気込み立ち上がって、熟成カレーが入っている鍋に火を付けた。
「何せ肉が余り気味だからな。早めに処理しないと冷蔵庫に入っているとはいえ、まずくなってしまうよ。まあ、肉は大好物、というより大好物な肉、いや、愛したモノの肉はいつまでたっても美味しいものか」
愛、という言葉を無意識に独言した桂井。
そうだ、僕の愛する人は仁科亜紗美。彼女なら必ず僕の期待に応えてくれる理想の女性のはずだ。彼女こそが翼のないこの薄汚れた地上に舞い降りたエンジェル。僕の全身全霊の愛の告白、魂の叫びを真摯に受け止めてくれるはずだ。彼女にはドス黒い過去なんて存在しない。自身、無垢で清廉潔白な生き方しかしてないはずだし、性格も鷹揚にして天真爛漫、配慮もあって三歩下がって男を立ててくれる、そんなパーフェクトな女性なんだ。現代の聖母(マドンナ)、それが仁科亜紗美。もう、たまらないよ。
カレーの煮込む熱さに比例して、どんどん妄想のテンションが高くなる桂井。桂井は、近いうちに仁科亜紗美に告白するだろう、という気持ちが強くなってきた。自分の気持ちが伝わる自信が自ずと湧いてきた。今度こそ恋愛成就をさせるんだ、仁科亜紗美ならきっと僕を受け入れてくれる……そんな想いが。言葉にして行動として間もなく彼女に現すんだ、という確固たる動機も込めて。
そう、もう間もなく。
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