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それは、君だけが気づくために、残されたものかもしれない。
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【プロローグ(今)】
定年の翌日は、静かな日曜日だった。
いつものように目を覚まし、コーヒーを淹れ、顔を洗う。ただ、それだけで十分に「昨日と違う今日」を感じ取れた。スーツの代わりに軽いシャツを羽織り、駅までの道を歩く。ほんの3分。会社員時代は毎日のように通った、この道。
でも、今日の電車は──通勤ではない。
目指すは、潮騒の町。
西戸崎行きの電車に乗り換え、車窓に流れる緑と青を眺めているうちに、どこか遠くへ旅に出るような心地になる。
海浜公園駅で下車した。だが、目的はリゾートではない。
人の少ない通りを選び、潮の香りをたどるように歩く。ひっそりと並ぶ古びた店、色褪せたアーケードの看板。
──その中に、ふと目についた。
《古本 風ノ杜書房》
漁師街には似つかわしくない木製のガラス戸。
戸を開けると、潮の香りに混ざって、紙とインクの懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
店内は、思ったよりも狭く、書棚が3列──それぞれが縦に2つずつ並び、まるで迷路のような通路をつくっていた。
背の低い棚には、児童書が多く並び、カラフルな背表紙が目を引く。
僕は、自然とその一角へ引き寄せられた。
中学生の頃──図書室で何度も読んだ、あの文庫シリーズ。
表紙絵は色褪せ、ページの角は擦れている。でも、なぜだろう。ひとつひとつに見覚えがある気がした。
記憶の引き出しを、ゆっくり開けるように、棚を順に見ていく。
──最下段に、それはあった。
薄い水色の背表紙。
少し日焼けしたページ。角が丸く削れている。
あの頃の僕の、指の感触まで甦ってくる。
手に取り、表紙を開く。
──誰かが借りたページの端が、三角に折れていた。
僕は、そっとその角を撫でた。
ゆっくりと、折れを戻す。
「君が、触れた場所かもしれない」
思わず、そんなふうに思った。
君が当時好んだ“あの世界”に、自分も忍び込むようにして。
60歳になった今も、あの“しるし”は、確かにここに残っていた。
僕はそっと本を閉じ、胸に抱えた。
この物語は、君に贈る物語だ。
【第1章 卵を見つけた日】
放課後のチャーリは、いつもと違って足早だった。ベッキーの「また明日ね!」の声も聞こえないふりをして、防波堤の向こうへと駆けていく。
潮の香りが濃くなる。
誰も来ない入り江の奥、小さな洞窟──そこが、チャーリの誰にも教えていない秘密基地だった。
その日は潮が大きく引いていて、いつもより深く洞窟の中へと進むことができた。
ぬれた岩肌を手で探りながら奥へ──
そのとき、仄暗い空間の中に、何かがぼんやり光っていた。
チャーリは息をのんだ。
大人の頭ほどの大きさの、青白く光る卵。
表面はガラスのように滑らかで、雫のような光沢があった。手を当てると、ほんのりと温かい。
「……なんだろ、これ」
不思議と怖くなかった。むしろ、大切なもののような気がして、チャーリはバスタオルでそれを包み、そっと抱えて洞窟を出た。
それが、すべての始まりだった。
* * *
その日から、チャーリは毎日、放課後になると家に直帰した。
もちろん、ベッキーは見逃さない。
「ちょっと、最近のチャーリおかしくない?」
教室の前で腕を組み、じっと睨む。
「え? な、なんでさ」
チャーリは目を逸らしながら鞄を閉じる。
「毎日まっすぐ帰ってるし、なんかコソコソしてるし。おばさん、病気なの?」
「そ、そんなことないよ! 元気だし!」
「じゃあ何?」
「……いや、ホントに何でもないってば!」
ベッキーは一歩詰め寄る。
チャーリは観念した。幼なじみの追及には、かなわない。
「わかった。見せるから、うち来てよ」
* * *
「おばさーん、お邪魔しまーす!」
ベッキーはずかずかと家に上がりこみ、いつものように勝手知ったる様子でチャーリの部屋へ向かう。
「で? 何があるのよ?」
チャーリのベッドに座り、わくわく顔で待ち構える。
「ベッキー、ちょっとどいてよ」
「えー、なんで?」
「……そこ、開けたいんだ」
渋々どいたベッキーをよそに、チャーリはベッドの下から木箱を引き出した。箱の中から、そっとタオルをめくる。
「なにこれ……卵?」
「……拾ったんだ。海の洞窟で」
「ひとりで行ったの? 危ないじゃん!」
「大丈夫だったよ。でも、これ──なんだろうなって思って……」
ベッキーは、信じられないというような顔で卵を覗き込む。
青白く光るその殻は、まるで生きているかのように微かに脈打っていた。
「触っていい?」
「うん……温かいよ」
ベッキーはそっと手のひらを添える。
「……ほんとだ。これ、生きてるんだね」
その瞬間、ふたりの間に、言葉にならない“秘密の感情”が芽生えた。
「これ、どうするの?」
「育てる。僕たちで」
ベッキーは少し目を見開いたあと、にっこり笑ってうなずいた。
「じゃあ、私も手伝う!」
その日から、チャーリとベッキーの部屋には、新しい命の気配が宿ることになる。
【第2章 誕生!楽しい日々】
あれから五日が経った夜だった。
チャーリの部屋の空気が、ほんの少しだけ違っていた。
灯りを落とし、寝床に入ったあとも、彼は木箱にそっと手を伸ばす。
青白く光る卵の殻は、毎日わずかに色を変え、まるでゆっくりと息をしているようだった。
そのとき──
「……クゥ」
小さく、濡れたような声が聞こえた。
チャーリは驚いて跳ね起き、木箱を覗き込む。
卵の表面に、細いヒビが走っていた。
パキッ、という音とともに、殻がゆっくりと開いていく。
中から現れたのは、濡れた青い体の、小さな生き物だった。
魚のような鱗、竜のような角、宝石のように光る瞳。
その姿は、どの図鑑にも載っていない“何か”だった。
チャーリはそっと両手で抱き上げた。
「……君、生まれたんだね」
* * *
翌朝。ベッキーはチャーリの部屋に飛び込むなり、叫んだ。
「チャーリ! 産まれたってホント!?」
「うん……夜に孵ったんだ。ほら、これ」
クゥは洗面器の中で水をちゃぷちゃぷ跳ねさせていた。
ベッキーは思わず息を飲んだ。
「きれい……」
小さな指先が水に触れると、クゥはくるくると泳ぎ、くちばしのような口を鳴らした。
「……クゥ」
「いま、鳴いたよね!? “クゥ”って!」
「うん、昨日もそう鳴いたから……そのまま名前にしようと思ってた」
「決まりだね、クゥ!」
* * *
それからの日々は、まるで宝箱の中に閉じ込められた季節のようだった。
朝はベッキーがうちに寄って、クゥに“おはよう”を言う。
登校前にクゥの水を替えて、餌代わりの魚肉ソーセージを半分こ。
放課後は交代でクゥの世話当番。時にはおばさんにばれそうになって、慌ててベッドの下に隠したこともあった。
「もう……クゥ、洗面器から飛び出すんだけど!」
「それ、喜んでるんだよ!」
「じゃあ、その水、もうお風呂にしたら?」
そう言いながらベッキーは、洗面器を両手で持ち上げて、ちゃぷちゃぷと揺らす。
クゥは波に乗るように嬉しそうに跳ねた。
「……もしかしてさ、クゥって、海の生き物なのかな」
チャーリのそのひと言に、ふたりは顔を見合わせた。
けれど、不安はなかった。ただただ、今の時間が、毎日が、愛おしくてたまらなかった。
* * *
ベッキーはクゥを世話するとき、時々“お母さんごっこ”みたいな口ぶりになる。
「ちゃんとごはん食べたの? だめでしょ~残しちゃ~」
「それ、誰の真似?」
「ママだよ。クゥがうちの弟だったら、こうなるって想像したら、なんか笑えてきた」
ベッキーのそういうところが、チャーリは好きだった。
――でも、ふたりはまだ知らない。
この秘密の宝箱に、ほんの少しずつ“終わりの気配”が忍び寄っていることを。
【第3章 別れの海】
クゥは、すくすくと育った。
朝には洗面器が狭すぎて跳ね回り、夜にはチャーリのベッド下から溢れそうなほど、体が伸びていた。
「クゥ、もう魚肉ソーセージじゃ足りないよ……」
最近は食べたがらず、代わりにチャーリが釣ってきた小魚を丸飲みするようになった。
「お風呂場も、……泳ぎにくそうだね」
ベッキーが小声で呟いた。
ある夜、ふたりは決心した。
──クゥを、海に連れていこう。
* * *
夜中の漁師街は、ひっそりとしていた。
月明かりを頼りに、浜辺へ向かうふたり。クゥは毛布にくるまれ、チャーリの胸の中に静かに抱かれていた。
「……喜んでるのかな」
「ううん、たぶん……わかってるんだよ。やっと、広い場所に行けるって」
浜辺に着くと、クゥは静かに身体を伸ばし、ヒレを月光にかざした。
「すごい……」
ベッキーが息をのむ。
クゥの体は、いつの間にか半透明に近い青に変わり、背びれが波を受けるようにゆっくり揺れていた。
チャーリはゆっくりと砂の上に膝をつき、毛布をほどいた。
「行こう、クゥ」
クゥは、彼の手からするりと抜け、波打ち際へと進む。
その瞬間だった──
「誰かいるぞ!」
背後から、怒声が響いた。
チャーリとベッキーが振り返ると、懐中電灯の光がいくつも揺れていた。
「……街の消防団!?」「やばっ!」
実はその数日前──
深夜の川辺で巨大な“青い魚影”を見たという噂が広まり、それがついに市長の耳にまで届いていた。
「子どもが怪しい生き物を育ててる」「村の安全が脅かされてるかもしれない」
噂は尾ひれをつけて膨らみ、消防団、町内会、さらには市長の命令で捜索隊が組まれていたのだった。
「逃げよう!」
チャーリがベッキーの手を引く。
浜辺の隅に走り込んだそのとき──
ザパァンッ!
月光を切り裂いて、クゥが大きく跳ねた。
捜索隊の誰もが動きを止めそれを見つめた。
海面に浮かび上がった青い影。
それはまるで、夜空の星が海に落ちたように美しかった。
クゥは一度、振り返る。
チャーリとベッキーに向かって、静かに──
「……クゥ」
ふたりは息を呑み、涙をこらえた。
「ありがとう、クゥ……!」
その声に応えるように、クゥは波を蹴り、大きく旋回したあと──
やがて、深い夜の海へと消えていった。
しばらくして、町の人々は“幻だったのかもしれない”と口を閉ざすようになった。
だけど、チャーリとベッキーは──知っていた。
あれは幻なんかじゃない。
あの夜、たしかに竜が、海へ帰ったのだと。
【第4章 しるしの再来】
潮風が、夏の終わりを告げていた。
定年を迎えた主人公は、再び、あの浜辺へと足を運んだ。
記憶の中にだけ残っていたはずの場所。けれど、足元の砂の感触も、波音も、かつてと同じだった。
「……変わってないな」
そう呟いた声は、風にさらわれて消えた。
少し歩くと、薄い霧が海岸を包み始めた。
波の音は遠のき、世界がゆっくりと沈黙に包まれていくような感覚。
視界の端で、何かがきらめいた。
ふらっと、足を滑らせる──
「うわっ──」
乾いた砂の斜面が崩れ、主人公はバランスを崩して倒れそうになった。
とっさに岩に手をついたが、胸の奥に微かな恐怖がよぎる。
──そのときだった。
「……クゥ」
遠く、どこからか聞こえた声。
まるで、水の奥底から湧き上がるような──懐かしい音。
はっとして顔を上げる。
霧の向こう、水面に、淡い青い光が揺れていた。
まるで、海そのものが呼吸しているかのように。
目を凝らすと、微かに見えた。
それは、あの頃と同じ──青い背びれ、滑らかな光沢、そして、あの優しい眼差し。
「……クゥ……なのか?」
主人公が呟いた瞬間、霧が風に吹かれて動いた。
海が一瞬だけ、鏡のように静まり返る。
その刹那──青い影が、こちらに向かって、ひとまわり、弧を描いた。
まるで、“もう一度、忘れないで”と伝えるように。
主人公は、胸の奥でなにかがほどけるのを感じた。
だが、次の瞬間、霧が再び濃くなり、影はその中へと溶けていった。
……波音だけが、残された。
* * *
しばらく、主人公は砂の上に座り込んだまま、何も言わずに空を見上げていた。
「……幻、なのかもな」
けれど、左手のひらが濡れていた。
見れば、小さな青い鱗のようなものが、そっと貼りついていた。
風が吹く。
潮の香りとともに、どこかで──微かに、また声が聞こえた。
「……クゥ」
記憶でも、幻でもいい。
あの“しるし”が、たしかに今、ここに再び現れたことだけは、何よりも確かな現実だった。
【第5章 クゥの鳴き声】
気がつくと、彼は岩陰に身を横たえていた。
潮の音がすぐそばで揺れている。
左手に冷たい感触──掌を見つめると、そこには小さな青い鱗が、ひとつだけ貼りついていた。
それは、何かの証のように微かに光っていた。
「……ありがとう」
胸の奥から、自然にその言葉がこぼれた。
何に対してか、誰に対してか、明確にはわからない。
でも、それは確かに、自分のすべてを包むような感情だった。
波の音の中に、かすかに──あの声が混じる。
「……クゥ」
彼は目を閉じる。
遠い夏の日々、洗面器の中でクルクル泳いだ命、
夜の海に溶けていった光、
ベッキーの笑い声、追いかける足音、こっそり分け合ったチューイングガムの味──
すべてが、今も胸の中に生きていた。
──人は、別れの中でしか得られない宝物がある。
静かに目を開くと、朝の光が砂浜を照らし始めていた。
海は、すべてを知っていたかのように、穏やかだった。
波間のどこかで、もう一度だけ、青い光が瞬いた気がした。
【エピローグ(今)】──君へ
再び、本を手に取る。
この物語は、あの頃の“君”に向けた贈り物。
それは、図書室のあの文庫の背表紙と、君の名前が書かれた図書カードから始まった。
もし、君がこのページをめくりながら、
ふと「どこかで読んだことがある」と感じたなら──それは偶然じゃない。
ページの角、三角に折られた跡。
誰かがそっと指を置いた“しるし”。
それは、君だけが気づくために、残されたものかもしれない。
* * *
あの日の夏、
僕たちは同じ物語の風景を見ていた。
でも、それを言葉にできず、胸にしまい込んだまま、大人になった。
いまなら言える。
君が先に借りたあの本を、僕が読んだこと──それが、僕の世界をどれだけ変えたか。
そして、君がいたから、僕は物語を書けた。
To the girl who once borrowed the book before me.
ありがとう。
君の“しるし”があったから、僕は今でも、物語を旅している。
定年の翌日は、静かな日曜日だった。
いつものように目を覚まし、コーヒーを淹れ、顔を洗う。ただ、それだけで十分に「昨日と違う今日」を感じ取れた。スーツの代わりに軽いシャツを羽織り、駅までの道を歩く。ほんの3分。会社員時代は毎日のように通った、この道。
でも、今日の電車は──通勤ではない。
目指すは、潮騒の町。
西戸崎行きの電車に乗り換え、車窓に流れる緑と青を眺めているうちに、どこか遠くへ旅に出るような心地になる。
海浜公園駅で下車した。だが、目的はリゾートではない。
人の少ない通りを選び、潮の香りをたどるように歩く。ひっそりと並ぶ古びた店、色褪せたアーケードの看板。
──その中に、ふと目についた。
《古本 風ノ杜書房》
漁師街には似つかわしくない木製のガラス戸。
戸を開けると、潮の香りに混ざって、紙とインクの懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
店内は、思ったよりも狭く、書棚が3列──それぞれが縦に2つずつ並び、まるで迷路のような通路をつくっていた。
背の低い棚には、児童書が多く並び、カラフルな背表紙が目を引く。
僕は、自然とその一角へ引き寄せられた。
中学生の頃──図書室で何度も読んだ、あの文庫シリーズ。
表紙絵は色褪せ、ページの角は擦れている。でも、なぜだろう。ひとつひとつに見覚えがある気がした。
記憶の引き出しを、ゆっくり開けるように、棚を順に見ていく。
──最下段に、それはあった。
薄い水色の背表紙。
少し日焼けしたページ。角が丸く削れている。
あの頃の僕の、指の感触まで甦ってくる。
手に取り、表紙を開く。
──誰かが借りたページの端が、三角に折れていた。
僕は、そっとその角を撫でた。
ゆっくりと、折れを戻す。
「君が、触れた場所かもしれない」
思わず、そんなふうに思った。
君が当時好んだ“あの世界”に、自分も忍び込むようにして。
60歳になった今も、あの“しるし”は、確かにここに残っていた。
僕はそっと本を閉じ、胸に抱えた。
この物語は、君に贈る物語だ。
【第1章 卵を見つけた日】
放課後のチャーリは、いつもと違って足早だった。ベッキーの「また明日ね!」の声も聞こえないふりをして、防波堤の向こうへと駆けていく。
潮の香りが濃くなる。
誰も来ない入り江の奥、小さな洞窟──そこが、チャーリの誰にも教えていない秘密基地だった。
その日は潮が大きく引いていて、いつもより深く洞窟の中へと進むことができた。
ぬれた岩肌を手で探りながら奥へ──
そのとき、仄暗い空間の中に、何かがぼんやり光っていた。
チャーリは息をのんだ。
大人の頭ほどの大きさの、青白く光る卵。
表面はガラスのように滑らかで、雫のような光沢があった。手を当てると、ほんのりと温かい。
「……なんだろ、これ」
不思議と怖くなかった。むしろ、大切なもののような気がして、チャーリはバスタオルでそれを包み、そっと抱えて洞窟を出た。
それが、すべての始まりだった。
* * *
その日から、チャーリは毎日、放課後になると家に直帰した。
もちろん、ベッキーは見逃さない。
「ちょっと、最近のチャーリおかしくない?」
教室の前で腕を組み、じっと睨む。
「え? な、なんでさ」
チャーリは目を逸らしながら鞄を閉じる。
「毎日まっすぐ帰ってるし、なんかコソコソしてるし。おばさん、病気なの?」
「そ、そんなことないよ! 元気だし!」
「じゃあ何?」
「……いや、ホントに何でもないってば!」
ベッキーは一歩詰め寄る。
チャーリは観念した。幼なじみの追及には、かなわない。
「わかった。見せるから、うち来てよ」
* * *
「おばさーん、お邪魔しまーす!」
ベッキーはずかずかと家に上がりこみ、いつものように勝手知ったる様子でチャーリの部屋へ向かう。
「で? 何があるのよ?」
チャーリのベッドに座り、わくわく顔で待ち構える。
「ベッキー、ちょっとどいてよ」
「えー、なんで?」
「……そこ、開けたいんだ」
渋々どいたベッキーをよそに、チャーリはベッドの下から木箱を引き出した。箱の中から、そっとタオルをめくる。
「なにこれ……卵?」
「……拾ったんだ。海の洞窟で」
「ひとりで行ったの? 危ないじゃん!」
「大丈夫だったよ。でも、これ──なんだろうなって思って……」
ベッキーは、信じられないというような顔で卵を覗き込む。
青白く光るその殻は、まるで生きているかのように微かに脈打っていた。
「触っていい?」
「うん……温かいよ」
ベッキーはそっと手のひらを添える。
「……ほんとだ。これ、生きてるんだね」
その瞬間、ふたりの間に、言葉にならない“秘密の感情”が芽生えた。
「これ、どうするの?」
「育てる。僕たちで」
ベッキーは少し目を見開いたあと、にっこり笑ってうなずいた。
「じゃあ、私も手伝う!」
その日から、チャーリとベッキーの部屋には、新しい命の気配が宿ることになる。
【第2章 誕生!楽しい日々】
あれから五日が経った夜だった。
チャーリの部屋の空気が、ほんの少しだけ違っていた。
灯りを落とし、寝床に入ったあとも、彼は木箱にそっと手を伸ばす。
青白く光る卵の殻は、毎日わずかに色を変え、まるでゆっくりと息をしているようだった。
そのとき──
「……クゥ」
小さく、濡れたような声が聞こえた。
チャーリは驚いて跳ね起き、木箱を覗き込む。
卵の表面に、細いヒビが走っていた。
パキッ、という音とともに、殻がゆっくりと開いていく。
中から現れたのは、濡れた青い体の、小さな生き物だった。
魚のような鱗、竜のような角、宝石のように光る瞳。
その姿は、どの図鑑にも載っていない“何か”だった。
チャーリはそっと両手で抱き上げた。
「……君、生まれたんだね」
* * *
翌朝。ベッキーはチャーリの部屋に飛び込むなり、叫んだ。
「チャーリ! 産まれたってホント!?」
「うん……夜に孵ったんだ。ほら、これ」
クゥは洗面器の中で水をちゃぷちゃぷ跳ねさせていた。
ベッキーは思わず息を飲んだ。
「きれい……」
小さな指先が水に触れると、クゥはくるくると泳ぎ、くちばしのような口を鳴らした。
「……クゥ」
「いま、鳴いたよね!? “クゥ”って!」
「うん、昨日もそう鳴いたから……そのまま名前にしようと思ってた」
「決まりだね、クゥ!」
* * *
それからの日々は、まるで宝箱の中に閉じ込められた季節のようだった。
朝はベッキーがうちに寄って、クゥに“おはよう”を言う。
登校前にクゥの水を替えて、餌代わりの魚肉ソーセージを半分こ。
放課後は交代でクゥの世話当番。時にはおばさんにばれそうになって、慌ててベッドの下に隠したこともあった。
「もう……クゥ、洗面器から飛び出すんだけど!」
「それ、喜んでるんだよ!」
「じゃあ、その水、もうお風呂にしたら?」
そう言いながらベッキーは、洗面器を両手で持ち上げて、ちゃぷちゃぷと揺らす。
クゥは波に乗るように嬉しそうに跳ねた。
「……もしかしてさ、クゥって、海の生き物なのかな」
チャーリのそのひと言に、ふたりは顔を見合わせた。
けれど、不安はなかった。ただただ、今の時間が、毎日が、愛おしくてたまらなかった。
* * *
ベッキーはクゥを世話するとき、時々“お母さんごっこ”みたいな口ぶりになる。
「ちゃんとごはん食べたの? だめでしょ~残しちゃ~」
「それ、誰の真似?」
「ママだよ。クゥがうちの弟だったら、こうなるって想像したら、なんか笑えてきた」
ベッキーのそういうところが、チャーリは好きだった。
――でも、ふたりはまだ知らない。
この秘密の宝箱に、ほんの少しずつ“終わりの気配”が忍び寄っていることを。
【第3章 別れの海】
クゥは、すくすくと育った。
朝には洗面器が狭すぎて跳ね回り、夜にはチャーリのベッド下から溢れそうなほど、体が伸びていた。
「クゥ、もう魚肉ソーセージじゃ足りないよ……」
最近は食べたがらず、代わりにチャーリが釣ってきた小魚を丸飲みするようになった。
「お風呂場も、……泳ぎにくそうだね」
ベッキーが小声で呟いた。
ある夜、ふたりは決心した。
──クゥを、海に連れていこう。
* * *
夜中の漁師街は、ひっそりとしていた。
月明かりを頼りに、浜辺へ向かうふたり。クゥは毛布にくるまれ、チャーリの胸の中に静かに抱かれていた。
「……喜んでるのかな」
「ううん、たぶん……わかってるんだよ。やっと、広い場所に行けるって」
浜辺に着くと、クゥは静かに身体を伸ばし、ヒレを月光にかざした。
「すごい……」
ベッキーが息をのむ。
クゥの体は、いつの間にか半透明に近い青に変わり、背びれが波を受けるようにゆっくり揺れていた。
チャーリはゆっくりと砂の上に膝をつき、毛布をほどいた。
「行こう、クゥ」
クゥは、彼の手からするりと抜け、波打ち際へと進む。
その瞬間だった──
「誰かいるぞ!」
背後から、怒声が響いた。
チャーリとベッキーが振り返ると、懐中電灯の光がいくつも揺れていた。
「……街の消防団!?」「やばっ!」
実はその数日前──
深夜の川辺で巨大な“青い魚影”を見たという噂が広まり、それがついに市長の耳にまで届いていた。
「子どもが怪しい生き物を育ててる」「村の安全が脅かされてるかもしれない」
噂は尾ひれをつけて膨らみ、消防団、町内会、さらには市長の命令で捜索隊が組まれていたのだった。
「逃げよう!」
チャーリがベッキーの手を引く。
浜辺の隅に走り込んだそのとき──
ザパァンッ!
月光を切り裂いて、クゥが大きく跳ねた。
捜索隊の誰もが動きを止めそれを見つめた。
海面に浮かび上がった青い影。
それはまるで、夜空の星が海に落ちたように美しかった。
クゥは一度、振り返る。
チャーリとベッキーに向かって、静かに──
「……クゥ」
ふたりは息を呑み、涙をこらえた。
「ありがとう、クゥ……!」
その声に応えるように、クゥは波を蹴り、大きく旋回したあと──
やがて、深い夜の海へと消えていった。
しばらくして、町の人々は“幻だったのかもしれない”と口を閉ざすようになった。
だけど、チャーリとベッキーは──知っていた。
あれは幻なんかじゃない。
あの夜、たしかに竜が、海へ帰ったのだと。
【第4章 しるしの再来】
潮風が、夏の終わりを告げていた。
定年を迎えた主人公は、再び、あの浜辺へと足を運んだ。
記憶の中にだけ残っていたはずの場所。けれど、足元の砂の感触も、波音も、かつてと同じだった。
「……変わってないな」
そう呟いた声は、風にさらわれて消えた。
少し歩くと、薄い霧が海岸を包み始めた。
波の音は遠のき、世界がゆっくりと沈黙に包まれていくような感覚。
視界の端で、何かがきらめいた。
ふらっと、足を滑らせる──
「うわっ──」
乾いた砂の斜面が崩れ、主人公はバランスを崩して倒れそうになった。
とっさに岩に手をついたが、胸の奥に微かな恐怖がよぎる。
──そのときだった。
「……クゥ」
遠く、どこからか聞こえた声。
まるで、水の奥底から湧き上がるような──懐かしい音。
はっとして顔を上げる。
霧の向こう、水面に、淡い青い光が揺れていた。
まるで、海そのものが呼吸しているかのように。
目を凝らすと、微かに見えた。
それは、あの頃と同じ──青い背びれ、滑らかな光沢、そして、あの優しい眼差し。
「……クゥ……なのか?」
主人公が呟いた瞬間、霧が風に吹かれて動いた。
海が一瞬だけ、鏡のように静まり返る。
その刹那──青い影が、こちらに向かって、ひとまわり、弧を描いた。
まるで、“もう一度、忘れないで”と伝えるように。
主人公は、胸の奥でなにかがほどけるのを感じた。
だが、次の瞬間、霧が再び濃くなり、影はその中へと溶けていった。
……波音だけが、残された。
* * *
しばらく、主人公は砂の上に座り込んだまま、何も言わずに空を見上げていた。
「……幻、なのかもな」
けれど、左手のひらが濡れていた。
見れば、小さな青い鱗のようなものが、そっと貼りついていた。
風が吹く。
潮の香りとともに、どこかで──微かに、また声が聞こえた。
「……クゥ」
記憶でも、幻でもいい。
あの“しるし”が、たしかに今、ここに再び現れたことだけは、何よりも確かな現実だった。
【第5章 クゥの鳴き声】
気がつくと、彼は岩陰に身を横たえていた。
潮の音がすぐそばで揺れている。
左手に冷たい感触──掌を見つめると、そこには小さな青い鱗が、ひとつだけ貼りついていた。
それは、何かの証のように微かに光っていた。
「……ありがとう」
胸の奥から、自然にその言葉がこぼれた。
何に対してか、誰に対してか、明確にはわからない。
でも、それは確かに、自分のすべてを包むような感情だった。
波の音の中に、かすかに──あの声が混じる。
「……クゥ」
彼は目を閉じる。
遠い夏の日々、洗面器の中でクルクル泳いだ命、
夜の海に溶けていった光、
ベッキーの笑い声、追いかける足音、こっそり分け合ったチューイングガムの味──
すべてが、今も胸の中に生きていた。
──人は、別れの中でしか得られない宝物がある。
静かに目を開くと、朝の光が砂浜を照らし始めていた。
海は、すべてを知っていたかのように、穏やかだった。
波間のどこかで、もう一度だけ、青い光が瞬いた気がした。
【エピローグ(今)】──君へ
再び、本を手に取る。
この物語は、あの頃の“君”に向けた贈り物。
それは、図書室のあの文庫の背表紙と、君の名前が書かれた図書カードから始まった。
もし、君がこのページをめくりながら、
ふと「どこかで読んだことがある」と感じたなら──それは偶然じゃない。
ページの角、三角に折られた跡。
誰かがそっと指を置いた“しるし”。
それは、君だけが気づくために、残されたものかもしれない。
* * *
あの日の夏、
僕たちは同じ物語の風景を見ていた。
でも、それを言葉にできず、胸にしまい込んだまま、大人になった。
いまなら言える。
君が先に借りたあの本を、僕が読んだこと──それが、僕の世界をどれだけ変えたか。
そして、君がいたから、僕は物語を書けた。
To the girl who once borrowed the book before me.
ありがとう。
君の“しるし”があったから、僕は今でも、物語を旅している。
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