鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十九日

懐古

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境内の裏手は一帯が山あいになっていて、石畳の舗装もやや荒い、砂利と雑草混じりの地面を踏みながら、僕たちは手を繋いでゆっくりと進んでいく。境内の奥へと入っていくうちに、枝葉はいよいよ盛んに生い茂って、あの青々とした色の隙間から、炎陽の白い眩しさが木漏れ日のように淡く揺らめいていた。

足元に散らばる石も、変に欠けたものや流水に撫でられて丸くなったもの──それらがいよいよ近付いていた小川のあたりから転がってきたのか、行く手を邪魔するばかりになってきた。耳を澄ませてみると、枝葉の擦れる木々の騒めきとは別に、そよぐように柔らかな、心地よい流水の音色も聞こえてくる。


「……なんか音がしてるね。水の音?」
「うん、そろそろ見えてきたよ。足元は気を付けてね。石とかいっぱい転がってるから」
「分かった。ゆっくり歩いてくねっ」


炎天下のはずなのに、肌に触れる空気はやけに湿っぽかった。この辺りは水辺になっているし、あまつさえ耳に涼やかな流水の音色も、木々の騒めきも、それに一層の拍車をかけているのだろう。夏のようで、夏ではないようで、けれど確かに、これは夏の一頁だ。


「わっ」


足元に冷ややかな感触を感じて、僕は思わずそれを引っ込める。言うまでもなく、水だ。どうやら川辺に足を突っ込んでしまったらしい。裸足だからそこまで気にはならないけれど、もし靴下でも履いていたら最悪だった。


「あはは……、ごめん。足がいきなり水の中に入ったから、びっくりしちゃって……」
「もー、びっくりしたのは私の方だよっ」
「ごめんって……。気付かなかったからさ」


それほど声を上げない僕が声を上げたものだから、あやめは何のことか分からずに困惑していたらしい。それが握っている手の感触からも直に感じられた。少し不満げな彼女の顔が面白くて、僕は思わず吹き出してしまう。「なに」とぶっきらぼうに呟くその態度がどこか可愛らしいから、自然に口元が緩んだ。


「なんでもないよ。少し広い方に出ようか」


あやめの手を引いてゆっくり歩きながら、川辺に沿って開けた場所まで進んでいく。少し向こうは岩や石が幾つか転がっていて、その合間を縫うように水が流れていた。透き通るような空気の声に癒される。そんな浮ついた気分でいたら、すぐに目的地に辿り着いていた。辺りを見渡しながら、日記帳を開く。適当な地面に腰を下ろして、ペンを走らせた。


『青々とした、けれどやや赤みを帯びたような木々の葉が、この小川のあたりを彩っている。湿り気のためか腐りかけている枝が虚空に伸びていて、今にも落ちては流れそうだった。川辺には、腰を掛けられそうな岩が幾つか転がっている。その中にも特に苔むしたのは、何度も何度も水を被ったのだろう、他よりも丸くなって、座りやすそうだった。

白波を立てて、水が何処までも泳いでいく。跳ねたり、分かれたり、かと思えばまた一緒になって──ただ悠然と流れていくのが羨ましいような、それがまるで人間の生き方の一つであるような──澄み切った涼やかな匂いと音とに包まれながら、そんなことを思う。次第に炎陽がどこからか射してきて、水面を爛燦らんさんと照らしているのが眩しかった。』


紙をなぞっていくシャープペンの芯の音が、やけに小さく聞こえる。この情景に全て、掻き消されてしまいそうなほどだった。座っている地面が日差しに焼けて、みるように熱い。けれども、すぐそこを流れている爽涼そうりょうの気と綯い交ぜになって、少し中途半端な感じに思えてしまっているのが、心地悪かった。


「……昔、ここでよく遊んだよねぇ。暑い日は水遊びとかして、ちょっと涼んでたもん。はしゃぎすぎて転んじゃって、全身びしょ濡れになったこともあったけどね。でも暑いから、ほっとけば乾いちゃうんだよっ。怒られるの嫌だから、遠回りしてお家に帰ってさ」


いつかの夏を懐古するように、あやめは目を細める。彼女の話す思い出は、いくら聞いても底が尽きなかった。中には似たような話もあるけれど、実は少し違うまた別の話。それもだいたい季節は夏で、あやめがどれほど夏が好きなのか、夏休みを楽しんでいるのかは、話を聞いているだけでも伝わってきた。


「でも、ここはね、だいたい夏にしか来ないんだ。涼める秘密の場所って感じかな。秋になれば紅葉が綺麗だけど、それだけ。夏休みは彩織ちゃんと会えるし、小夜ちゃんたちとも一緒に遊ぶし、絶対に一回は来るけどね」


絶対に一回は──と言っても、ひと夏に一回どころじゃ済まなかった。僕は全部を把握しきれていないけれど、その夏も、あの夏も、その前もきっと、似たようなことをしながら、似たような思い出を積み重ねてきたのだろう。初めて出逢ったあの夏から、ずっと。


「今年の夏も、また来れたね」
「うんっ。彩織ちゃんと一緒だよ」


炎陽に降られながら、二人で顔を見合わせて笑う。それからの僕たちに殆ど会話は無かった。ただ茫然として目を瞑りながら、この夏に微睡まどろんでいる。暑くなったら足先を水に遊ばせて、時間が経つのも忘れたまま、ずっと涼んでいた。きっと昔も、そうだったのだろう。胸の奥に、懐かしい感じがしていた。





どれほど、あの川辺で惰性のままに過ごしていたかは分からない。けれど、僕にとっても彼女にとっても、夏休みの一ページを彩るには、ちょうど良かったと思っている。いつしか太陽も傾きがちになってきて、それなのに日差しは燦々と降ってくるのが鬱陶うっとおしかった。

境内を外周に沿って歩きながら、行きとは真逆の道を目指していく。きっと、村の裏手に出るような形になるだろう。まっすぐ彼女の家に戻っても構わなかったのだけれど、それが何だかつまらないように思えて──事実、今も手持ち無沙汰だから、どこか遠回りをしてでも、あやめと一緒にいる方が良かった。

境外を示す小さな鳥居が見える。いつしか石畳の向こうは見慣れたアスファルトになっていて、そこを踏んだかと思うと、頭上から刺すように眩しい陽光が煌めいてきた。夏の白さに眉をしかめながら、適当に辺りを見渡す。山あいだから高台になっているらしく、緩やかに下る坂道が曲線を描いて伸びていた。

落下防止か何かのガードレールが炎陽に的皪てきれきとして、焼けたように埃臭いアスファルトを二人きりで下っていく。そこを下りきると、右手一直線には田畑ばかりがあって、点々と民家が見えているきりだった。真正面に向き直ると、まだアスファルトは続いている。路傍の木々が涼しげに枝葉を靡かせていた。


「……あっ」


ふと視線の先に、懐かしい建物が見える。それはグラウンド越しの遠目にも分かる古びた木造建築で、この村に唯一ある学校だった。さして広くないグラウンドには、うっすらと芝が生えている。人気が無いのは、いまが夏休みだからだろう。その夏休みも、直に終わる。

白塗りの硝子戸が昇降口を彩っているけれど、その昇降口も都会の学校と比べれば狭すぎた。二階まである校舎は、建材が老朽化したためか全体的に色のむらが甚だしい。並ぶ窓硝子の向こうには、少ないけれど机や椅子が揃えてあって、どこか親近感を覚えた。


「学校だね」
「えっ、学校……?」
「うん」


そう、何がなしに呟く。校舎の奥には体育館らしき建物と併設するようにプールが設置されていて、ところどころ塗装が剥げているのとか、有刺鉄線の柵が錆びているのとかが、やけに現実的で風情を感じられた。鼻を突く塩素のような匂いが、他の何かと綯い交ぜになって、いっぺんに夏を連れてくる。夏の匂いは、考えてみれば一つきりではなかった。


「どうしようか。学校も寄ってみる?」


校門の前で立ち止まりながら、隣に並ぶあやめに問いかけた。ほんの一瞬間だけ彼女は小さく肩を跳ねさせると、やや取り繕うように、ぎこちなくはにかむ。その余韻が黒髪を伝って、更には夏風に吹かれて靡いていた。


「うーん、今日は……いいかな。なんか暑くなって疲れちゃったし、お家でゆっくりしてたい気分かも。なんか、ごめんね。えへへ……」
「……まぁ、そう言うなら。無理して外にいるのも毒だもんね。それなら、早めに戻ろう」


僕が素直にそう告げると、あやめも素直に頷いた。それ以上のことは追及しないで、二人はそのまま帰路に着く。──けれども何故だか、妙な違和感が胸臆きょうおくくすぶっていた。それが何なのかは、よく分からない。どうやら僕も、この暑熱に当てられてしまったようだった。昊天こうてんに立ち昇る入道雲を見ながら、そんなことを茫然と考えているきりだった──。
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