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第二章

告白、日常

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「マスター、起きてくださいっ」


 ──慣れない感触に違和感を覚えながら、僕は朝日に焼かれた目蓋を、そっと開ける。淡い白が瞳に射して、それがとても眩しかった。胸のあたりを揺さぶられたか……と思っているうちに、白波がひょっこりと僕の視界のなかに入ってきて、満面の笑みを浮かべる。どうやら僕は、彼女に起こされたらしい。……起こされた?


「おはようございます。いい天気ですよ」

「……おはよ」

「さっそく日課のお散歩に行きましょうっ!」


 ベッドを執拗に叩き続けながら、彼女は僕を起こそうと催促してくる。朝からハイテンションでうるさい。ここ数日間はおろか、この島に来てから、白波に起こしてもらったことなど一度もなかった。時刻を確認してみると、今はだいたい八時前後。彼女が起きてくるにも、少し早い時間かもしれない。珍しいこともあるものだ。


「ふぁ……今日は早いね。どうしたの」

「同棲する人間のカップルはこうするらしい、と」

「……いつも起きるの遅いのに、無理してまで?」

「マスターのためですっ」


 ドヤ顔でそう言い放ってから、彼女は思い出したかのように付け加える。咄嗟に人差し指を立てた。


「あの、愛、ってやつです! あいらぶゆー!」

「愛」


 酷い発音とイントネーションながら、手で形作ったハートマークは地味に上手い。やけに浮足立ってるなぁ……と思いながらも、寝起きの僕自身もまた、それを楽しんでいた。白波もきっと、自分と同じ心境なのだろう。


「……気軽に愛とかなんとか言うと、軽く見えるよ」

「えぇ……そうなんですか? これは軽率なことを──あれっ、マスターちょっと、どこ行くんですかぁ」

「朝ごはん食べるんだけど」

「あっ、じゃあ今日こそは私が腕によりを──」

「面倒になるからあと一時間くらい寝てて」

「えーっ、そんなぁ……!」





 朝食を済ませた僕と白波は、いつものように朝の散歩へと繰り出す。昨日も一昨日も、集中豪雨でまったく外に出られなかった。今やその面影は微塵もなくて、夏空は馬鹿みたいに澄んでいる。世界から、一切の不純物が消え失せたかのようだった。夏の群青、それが鮮やかに伸び伸びと、果ての見えない深淵まで続いていく。そこに浮かぶ千切れ雲も、朝日を映して淡く煌めいていた。


「マスター、おてて繋いでください」

「……ほら」

「はいっ! えへへ、今日も温かいですねぇ」


 たった数日、或いは忘れていた過去の十数年間を埋めるように、僕と彼女は手を繋ぐ。きっとこれが、この後の日々で、お互いにとって自然な動作になる──そのことを、微塵も疑わなかった。手を繋ぐくらい、どうということはない。そんな白波の手のひらは、今日も変わらず、人肌程度に温かかった。だいたいいつも、同じだ。


「あっ、いました!」


 役場と学校の見える緩やかなカーブを進みながら、白波は校門のあたりを指さして言う。そこには圭牙と凪が適当に暇をつぶしているらしく、座り込みながら話していた。駆け出す彼女に手を引かれながら、割って入る。


「圭牙、凪、おはようございますっ。ここ数日、すっごい雨でしたね……! 雷が怖かったです……」

「ん、おはよ。そんなこんなで久々に少年団の仕事を任されちゃってさぁ。ウチらだけ朝からパトロールや」

「パトロールって、何するの」

「パトロールはパトロールだ。田んぼを見に行くっつって溺れたジジババがいねぇかの確認だよ」

「せきにんじゅーだいですね……!」

「座ってるけどね」

「戦略的休憩ってやつや。合理的やろ?」

「戦略的って言うと、人間はみんな騙されますね……」


 白波の的確な指摘に、思わず凪が苦笑いする。それから僕を一瞥すると、何かに気付いたようにまた彼女の方を見た。一瞬なんのことかと思ったけれど、圭牙も同じように、僕と白波とを交互に見回している。


「……お前ら、いつから手ぇ繋ぐ仲になった?」

「数日前からです!」

「てことは……えっ、その……そういうこと、でいいん?」

「そういうことになったのは昨日です!」

「白波、言い方」


 屈託のない笑みを浮かべる意味深長な白波の言葉に、凪はなぜだか顔を赤くしてニヤけていた。それから僕の肩へ手を置くと、初日に会った時の彼女にやられたみたいに、一気に勢いをつけて詰め寄ってくる。


「夏月、アンタほんっとに……いくら人間に見向きもされないからってヒューマノイドとやることやるのはどうかと思うで……? 白波やで? 初恋の相手やろ? 業が深いとか思わんの? どこまで進んだかウチに聞かしっ!」

「ど、同意の上だから……。っていうか勘違いし──」

「同意があればええんか!? 許されりゃヒューマノイドでも手ぇ出すんか!? そんな羨ましいこと……!」

「待ってなんか違う、恋人として付き合ってるだけっ」

「だからほら突き合ってるんやん!」

「お付き合いしているマスターとなら、その……えっちなことも! やぶさかではありませんので!」

「朝からそんなこと叫ばないで! 白波は本当に黙ってて、頼むから……! 話がどんどんおかしくなる……!」


 凪の暴走がヤバい。白波は……うん、ギリギリ通常運転。というか、少し前にもこんなことあったよね……。





 朝から煩悩まみれの彼女をなだめてから、僕は改めて現状を報告する。なんとなく察してほしかった。


「……つまるところ、恋人同士になりました」

「なりましたっ!」


 腕に抱きつかれながら、改めて報告。本当にスキンシップが大胆になっているから、今までどれだけ自制していたんだ……と言いたくなるような話ではある。凪と圭牙はそんな僕たちを見ると、祝うでもなく何をするでもなく、ただ一つ、呆れたように溜息を吐いた。


「……甘ったるいんよな、絵面が」

「お前らもう別れろ。クソあちぃのに余計に暑くなる」 

「なんでですか! 意味が分からないですよっ!」


 依然として僕の腕に抱きつきながら、白波が抗議の声を上げた。いやでもまぁ、二人の言い分もわかる。


「だってそんなイチャイチャしてるの見せられて、ウチらがどういう気持ちになるか考えたことあるん……?」

「……僕はなんとなく分かるけど。でも今は白波につく」

「夏月、アンタ本当に生意気になったな……」

「暑いなら、また海にでも飛び込みに行きますか?」

「おう、行きてぇなら行くぞ。沈めてやる」

「沈められるのはそっちですー!」


 耳元でやかましい白波の声を聞きながら、燦々と降り注ぐ日射しに辟易する。しかしまぁ、これだとかなり暑い。すぐにでも涼をとりたいところなのだけれど──、


「二人とも、パトロールどうするの」

「行くが」

「じゃあ、私とマスターもお手伝いしますっ」

「別に手伝うことでもないんやけどなぁ」

「いえ、暇なので!」


 それに、と白波は続ける。


「──今日は何して遊びますかっ?」





「……僕と白波の馴れ初め?」


 パトロールが終わったあと、涼を求めて立ち寄った集会所の座敷で、僕はグラスに入った麦茶を飲みながら呟く。隣の座布団に座りながら手を繋ごうとしてくる白波を軽くあしらいつつ、対面にいる凪の顔を見た。


「君ってそういう話、好きだよね」

「なっ……別にウチの興味やないし! 世間一般的に訊いとくべき話やから質問しただけやもん……なぁ圭牙!?」

「夏月、こいつの頭のなかはエグいぞ」

「うん、だいたい知ってる」

「あああぁぁぁぁ……! 舐められとる……!!」


 いつも変わらない凪の態度に苦笑しながら、僕は白波の方に目を遣った。「馴れ初め、話していい?」と訊ねると、彼女は顔を明るくさせて、嬉しそうに頷く。「……無理。そんな昔のことなんて、覚えてないもんね」


「えーっ、なんてこと言うんですかマスター……! それは私だって覚えてませんけど! そこは嘘でも『覚えてる』って言うのが気の利く人間の男の人ですよっ」

「うわ、なんか絶妙に効いた……」

「えっ、あの……その……別に傷付けるとかそういう意図はなくてですねっ! ごめんなさいマスター、私が悪かったです! ごめんなさい! だからそんなに悲しそうな……」


 珍しく真剣な態度で謝りながら、白波は自然と僕の手を取って頭を下げてくる。彼女と凪はよく謝り合いっこしてるけど、僕が謝られることは減った気がする──あ、白波がミスをするようなことをさせてないからか。

 たまには白波のよく分からない食事を食べてみたいな……と思いつつ、さりげなく手を繋いだままでいる彼女を一瞥する。「じゃあ、この島に来た時の話、するね」


「あっ、そういえば、本土の方ってどうなっとるん?」

「それは俺も気になってた。連絡船で来たんだろ?」

「えっ? 私とマスターの馴れ初めは……?」

「ふふっ、ごめん、それは後で」

「えぇー……!?」


 ショックを受けたような彼女の手を握り返しながら、僕は小さく笑って、圭牙と凪に話し始める。少しだけ暑い手のひらの感触も、冷風が通れば涼しかった。


「僕の住んでるところは東京の区内で、元々はおじいちゃんたちが退職する前にいたところ。海岸沿いの建物はみんな水没してて、内地に近いところも、水害が来るたびに水面は上がってる。だから、ここ数日の雨で、また酷くなったんじゃないかな……。膝のあたりまで常に水が流れてる地域とかもあるし、塩害とかも凄いよ」


 海岸沿いは、軒並み水没した。建物はすべて海の底に沈んで、高層ビルの上階が頭を覗かせているだけ。道路を魚が泳いでいる。海藻が少しずつ生え始める。文明が自然に侵食されていく。それはどこか退廃的で、けれども──どこか、綺麗だった。不謹慎だけど、そう感じた。

 自動車や標識、歩道橋、連絡通路、それらは海水漬けのなかで、日に日に錆びていく。倒壊するビルもある。かつての大都市の面影が、そこに辛うじて残されている。今の本土は──海岸沿いという一部の地域に限るけれど──ある意味をして、ディストピアに近い。


「……学校とか、どうしてたん?」

「僕のところはまだ、そんなに大きな影響もないから、普通に行ってた。でもまぁ、時間の問題かな……」

「そんな状態で、ここまでどうやって来た。連絡船っつったって、向こうも沈みきってるはずだろ」

「それは、ここと一緒。ターミナルのあった場所に、簡単な桟橋を作って凌いでる。その他は沈んだよ」

「ちげぇよ、お前の住んでるところからターミナルまでどうやって行ったのかっていう話だ」

「あ、それはね、海上タクシーが出てる」


 「海上タクシー?」と白波が声を上げた。彼女は知らないのだろうか。まぁ、あまり耳にすることもないし。


「自動操縦で乗り合いの小型船が出てるんだよ。通信インフラはまだ生きてるから、手持ちの端末から呼べる」

「そんなのがあるんですね……大変そうです。それで、私とマスターの馴れ初め話はいつするんですか?」

「アンタ、口を開けばそればっかやな……」

「マスターのことめっちゃ大好きやねん! です!」
 

 そう言って、白波は僕の背中に抱きついてくる。柔らかな感触と首に回された腕の重みが、その密着感を更に増幅させていた。耳元で聞こえる彼女の笑い声に、僕はほんの一瞬だけ意識が飛びそうになる。なんとか耐えた。


「ちょっ、それウチの真似……! 真似された……!」

「ちょっと待って今のは可愛くて死ぬ……」

「……お前、鼻血出てんぞ。そんな昔の漫画みてぇな……」

「あーっ、マスターのえっち! なに考えてるんですか! 何か拭くものが──えっ、無い……! あれ……!?」

「夏月ぃ、アンタっ……! 白昼堂々と……!」

「うるさいうるさい、なんでもいいから静かにしてっ」


 ──今日は一日、ずっとこんな感じだった。
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