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第三章

僕は、何も──

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「ほら、眠くても寝ないで。僕が暇するんだから」

「……やーです」

「生意気なことは言わないの」

「やー……痛い痛いっ、ほっぺた引っ張らないでください……!」

 僕の腕のなかで白波が身をよじる。少しだけ力が弱くなってきたかな、と思いつつ、昨日とは打って変わって真っ青な、いかにも夏らしい片夕暮の青天井を見上げた。開け放ったリビングの窓からは、いつものように潮風が入り込んでくる。それがやはり、心地よい。

「今日のマスター、ちょっと意地悪ですよ……。そんなに私を寝かせたくないんですか?」

「よく分かってるじゃん。だから寝ないでね」

「むー……」

 拗ねているのも可愛いね、とからかいながら、軽く頭を撫でてやる。いつもなら恥ずかしくてあまりしないことも、今日はヤケクソでやってみることにした。彼女が手持ち無沙汰のためにスリープへと移行してしまうなら、それを最初から止めればいい、というわけで。

「そんなことされたら余計に眠くなっちゃいますよ~?」

「おっと……それはダメ」

「えー、いいじゃないですかぁ」

 能天気に笑う白波を見ながら、ごめんね、と、心のなかで呟く。本当だったら寝かせてあげたいところなのに、それがあまりにも生活に弊害を引き起こしそうだから、なんとか食い止めるしかないのだ。彼女と一緒に過ごす時間にしか、価値はない。彼女を置き去りにしてしまったら、この夏休みはいったい、どこに意味があるのだろうと、ふと思った。

「ふぁ……あふ」

 欠伸に任せて、白波はそのまま目蓋を閉じる。それを僕が無理やり開かせる。……そんな押し問答とイタチごっこに身を費やしながらも、それはそれで充実している気がした。二人ではしゃぐように笑いながら、他愛のないことを言い合ってみる。それがすごく、楽しい。

「ところで、今日のお夕食、なんですか?」

「冷蔵庫にあるもの」

「あるものって?」 

「……さぁ。見れば分かるか」

「見てきますっ」

 ──と立ち上がった彼女の足元が、一瞬だけふらつく。テーブルの角につまずいて、よろめく。背筋に悪寒が走るのと同時に、その華奢な手首を掴んだ。力任せに抱き留める。

「びっくりした……。大丈夫?」

「……あ。えっと、そのぉ──、……はい」

 取り繕うような笑みが、間近に見えた。視線も混乱気味に右往左往している。

「……ごめんなさい、ちょっと、ボーッとしちゃったかも、です」

 潮風に掻き消えてしまいそうな声。それがどこか辛そうに聞こえて──いや、どう見ても辛そうだから、それが分かりすぎるほどに分かってしまっているから、胸が痛んだ。

そんな彼女に、僕は何もできやしない。だからせめて、その罪悪感を覆い隠すように、白波の手を固く握りながら、一歩、また一歩、ゆっくりと歩く。明らかに、調子がおかしい。足取りはおぼつかないし、さっきのリアクションも、朦朧としているようだった。

 冷蔵庫の前に立つ。彼女はわくわくしたような面持ちで頷くと、僕を見て、取っ手に手をかける。それから勢いよく開け──ようとして、案の定、自分にぶつけていた。これはいつものこと。……とはいえ、今の様子を見ていると、まさか、と邪推してしまう。

「うーん……何があるんでしょう」

 ぶつけたところを撫でながら、ケロっとした様子で呟く。そこそこ強くぶつけた割には、痛くなさそうだ。意識が鈍感なら、感覚も鈍感になり始めているのだろうか……? それを敢えて隠している、というのも、彼女の性格として考えられないわけではないけれど……。

今日の様子を見る限り、スリープを無理やり抑えると、どうやら機能の諸々に支障をきたすらしい。……とはいえ、考えてみれば自然なことだ。人間にしろヒューマノイドにしろ、睡眠は本能的なもの。それを恣意的に妨げれば、悪影響を及ぼすのは間違いない。特に寿命の近い白波の場合は、それが強く出てしまっているのだろう。それはそれで危険だ。

「メニューは僕が考えとくから。……眠いなら、寝ててもいいよ」

「えへ、いいんですかぁ? ようやく許されました……!」

 眠そうな笑顔が、ちょっとした救いだった。
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