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第一部
最悪の出会い 13
しおりを挟むそれからは、忙しい毎日の中で時間の合間をぬうように彼と会った。
授業とアルバイトの狭間の時間、アルバイトのない日、不思議なことに、彼はいつも私に合わせるように会う時間を作ってくれていた。それでいて、私の生活を崩すようなことは絶対にしない。授業もアルバイトも、時間になれば必ず私を解放した。
もしかしたら、その空いた時間で、私以外の女の人と会っているのかもしれない――。
そう思うと、嫌でも胸がきりきりと痛んだけれど、彼に何かを聞いたりはしなかった。そんなことをして、この時間を失ったりしたくない。
いつ『飽きた』と言われるかと不安が常に付き纏っていた。でも、何故か彼は私と会い続けてくれていた。
もう一つ、私にとって良かったことがある。それは、彼が、お金を持っているからと言って私に何かを施したりしなかったことだ。
もし、物やお金を恵んだりされたら――。
この気持ちさえ、間違ったものだと思わされたかもしれない。
ただ単に、彼にとってそんなことをしようという気にもならない女だったのかもしれないけれど、私は卑屈になったりいたたまれなくなったりせずに済んだ。
会えば会うほど、肌を重ねるほどに自分が自分でなくなっていく。想いばかりが積み重なって、深みに嵌って行く。会えない時間も一緒にいる時も、心は全部彼の元にあった。
時間に追われるように慌ただしく抱き合った後、いつも限られた時間の中で他愛もない話をした。少しずつ、彼が自分のことを話してくれるようになった。
榊という名字で、慶心大の四年生だということ。大学一年の私から見れば、彼は酷く大人に見えた。
この日も、無我夢中で抱き合ってから、残りの時間を惜しむように裸のまま毛布に二人でくるまっていた。
「ソウスケって、どういう字を書くんですか?」
すぐ隣に横たわる彼に、そう尋ねる。会えば会うほど、彼との距離が近付いているように思えてしまう。それに抗うように必死に自分にブレーキをかけた。
これ以上、この気持ちが大きくなったりしたら、私は一体どうなってしまうんだろう――。
これ以上深く入り込んでいくことを躊躇う。こうして抱き合って誰より一番近くにいる時でも、立ち入るようなことは何も聞かなかった。何も知らないでいたかった。
「『創る』という字に、普通の『介』だ。一番簡単な字の」
「創るっていう字が、なんだかカッコいいな」
この時だけでも、彼の一番近くにいられるのならそれでいい。
「おまえの、雪野って名前、『野』の字が名前に使うにしては珍しいな」
すぐ近くで聞く彼の低い声は、くすぐったくて、そしてとても心地いい。
「一見『雪野』って名字みたいですよね」
「でも、綺麗な名前だ」
がっしりとした腕に包まれながら、そんなことを言われたら、幸せな気持ちで一杯になってしまう。
「そうですか? そう言ってもらえると、ちょっと嬉しいです……」
私の鎖骨あたりで交差された彼の腕を、そっと掴んだ。今まで特になんの意識もなく使っていた名前が、特別なものに思えて来る。
「野に降る雪ってイメージなのかな……」
彼がひとり言のように呟いた。
「本当にそうなんですよ! 死んだ父が付けた名前なんです。私がうまれた日に雪が降っていたらしくて、父が病院に駆けつける途中で見た、足跡一つない原っぱ一面の雪の白さに感動したらしいんです」
昔、母からそう聞いた。それで『雪野』なんて、なんの捻りもないなと思っていたけれど、彼に綺麗だと言えば自分でもそう思えて来るなんて単純すぎる。
「おまえの父親、死んだのか……?」
「はい。私が六歳の時に」
そう答えた時、回されていた腕に心なしか力が込められた気がした。
「そうか……」
深く吐き出されたその短い言葉に、思わず彼の腕から顔を上げる。
「俺も。俺が六歳の時に、母親が死んだんだ」
彼の目が、ほんの一瞬、哀し気に揺れた。自分の家族の話をしてくれたのは、これが初めてのことだった。
「そうだったんですか……」
いつもは見せない弱さみたいなものを彼から引き出してしまったみたいで、何と声を掛けていいのか分からなくなる。
「……病弱だったけど、とにかく優しい人だったのを覚えてる」
思い出すように遠くを見つめている彼をじっと見た。
「目元が、なんとなく、おまえに似ていた気がする」
「ほんと、ですか?」
どこか遠くへと向けられていた視線を私に戻し、私の頬を撫でながら頷いた。私が彼のお母さんに似ているなんて、なんだか嬉しかった。
「おまえは……? 父親がいなくなって、これまで辛くなかったか?」
私に向けてくれる目が、あまりに優しくて、そしてどこか悲しみに満ちていて、はっとする。
「交通事故だったんです」
タクシードライバーだった父は、道路に突然飛び出して来た子どもを避けるためハンドルを切った。打ちどころが悪くて、即死だったと聞いている。
「あまりに突然のことで、その時の衝撃は今でも覚えています。でも、きっと母の方が辛かったと思うんです。一人で小さな私たちを育てなきゃって心細かったはず。それなのに、母はいつも明るく元気に頑張っていて。そんな母のおかげで、毎日の生活は大変だったけど、不幸ではなかったです」
彼が包み込むように見つめてくれるから、大きなてのひらでやさしく髪を撫でてくれるから。つい安心して胸の内を心のままに話してしまった。
「おまえは、母親に似たのかな。いつも、授業にバイトに頑張っている……」
思いもよらない彼の言葉に、驚かされる。
「い、いえ、全然……。本当はもっと母を助けなきゃいけないんですけど――」
「頑張ってるだろ? いつも必死にバイトして大学の勉強もして、おまえはおまえのままで十分だ。おまえは、俺とは違う。俺とは全然……」
そこまで言って彼は口を噤み、その代わりきつく私を抱きしめて来た。
何を思っているの――?
私を抱きしめる腕がどこか辛そうだったから、そう聞いてしまいたくなったけれどやめておいた。
「父親のいなくなった後のおまえが、辛いだけじゃなくてよかった……」
そんなこと言わないで。そんな風に、優しくしないで――。
もしかしたら、ほんのわずかでも愛されているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
くるりと身体を反転させて、彼の胸に顔を埋める。そんな私の背中に腕を回し、きつく抱き寄せてくれた。
私と同じように小さい時に母親を失って、きっと寂しい思いもしたんだろう。
でもきっと、寂しいだなんて間違っても表になんか出さない人――。
そんな気がしてならなかった。
「あなたの周りにはたくさんの人がいるけど、でも、私も、いますから……」
私が一番だなんて言わない。でも、私もいるんだって、思ってほしい。自分で言っておいて、すぐに弱気になってしまう。彼が黙ったままだから、少し図々しかっただろうかと後悔した。
「……そうだな」
ぎゅっと強く抱きしめられて、掠れてしまった声で「はい」と答えた。否定されなかったことが嬉しくて、それはまるで傍にいることを許されたみたいで。今度はその喜びで泣きたくなる。それを誤魔化すように、声を上げた。
「あのっ」
「ん? どうした?」
つい勢いで大きな声を上げてしまったから、彼が私の顔を覗き込んで来た。
そうまじまじと見られると言いづづらくなってしまう。本当にどうでもいいことで。でも、私にとっては切実な問題でもある。
「なんだ」
「えっと……」
実はずっと困っていた。彼のことを何と呼べばいいかと。こんな風になる前は、この人に抗いたくて心の中で『ソウスケ』なんて呼び捨てにしていたけれど、ほぼ毎日のように顔を合わせるようになった今、どうしたものかと思っていた。
「ひゃっ」
突然身体を持ち上げられて、ひょいっと彼の身体の上に載せられてしまった。
「こ、この体勢は、ちょ、ちょっと……!」
お互い何も着ていないのにこんな風に抱えられては、いろいろと意識してしまって会話どころじゃない。
「おまえがさっさと言わないからだ。何か、言いたいことでもあるのか?」
きりりとした顔で意地悪く笑っているのが恨めしい。私が困っているのを、きっと楽しんでる。
「ほら、言えよ」
彼と違って私にはまったく余裕がなくて。つい俯きがちになる顔に、彼の手が添えられて、そのまま彼の方を向けさせられた。もう片方の腕が私の腰を抱いている。逸らしたくても逸らせない顔の代わりに視線だけを違う方へと向けた。
でも、そんな私をもっと困らせるように、無理矢理に視線を合わせて来る。
「ほら、早く」
「な、名前……」
観念して彼を見る。
「名前?」
「はいっ。実は、何て呼べばいいかなって困っていて……」
「ああ、そんなことか。創介でいいよ」
頬に触れていた彼の手のひらがそのまま私の頭を撫でる。
「えっ? でも、呼び捨てになんかできません」
なんてことないという風に答えるから、私はすぐさま反論した。
「俺も雪野って呼んでいるんだ。お互い様だろ?」
「私は年下なので、そういうわけにもいきません」
「学校でも職場でもないんだぞ? 年とか関係あるのか?」
「あります。大ありです!」
間違っても”創介”なんて呼べない。絶対に無理だ。
私は大真面目にそう訴えた。
「じゃあ、おまえの好きなように呼べよ」
そんな私に呆れたように、彼が笑う。
「では……、そ、創介さん、にします」
名前をちゃんと呼ぶのは初めてで。声が小さくなってしまう。なんだか照れしまって、つい、彼の胸に顔を埋めた。
「顔、上げろ」
「は、はい……」
「……雪野」
さっきとは違う、どこか掠れた声で名前を呼ばれて、恐る恐る顔を上げた。鋭い視線とぶつかって、息を潜めれば、すぐに唇を奪われた。ほんの少し前まで、さんざん貪り合うように抱き合って何度も唇を重ねたのに、すぐにその熱に溶けだしてしまう。なまめかしく動く彼の舌が私のそれを絡めとり、それと同時に私の背中を強く抱く。息を吐く隙を与えてくれない。
「……んんっ」
「名前、呼んで」
苦しげに顔をしかめると、彼がほんの少し唇を離して囁く。激しいキスで荒くなった呼吸を整えようとしても、また深く重なって。
「呼んでくれ……」
キスの合間に零す彼の吐息のような声に、身体中に再び熱が灯る。
「創介、さ――」
その名前を呼ぼうとしたけれど、それさえも封じ込められた。激しく官能的な行為なのに、何故だか私は泣きたくなる。創介さんと出会って、一緒にいるようになって、私は涙もろくなった。
あなたの傍にいさせて。ただ、それだけでいいから――。
言葉に出来ない願いを胸の中で祈るように繰り返す。
こんな日々が、いつ突然終わるのか。その不安から逃れられなくても、この瞬間、こうして創介さんの傍にいる時だけは、確かに幸せを感じていた。
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