歩道橋銀河通信

早乙女純章

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          ◇

「……なので下校の際はなるべく独りでは帰らないように。それから、もし不審者を目撃した時は、必ず近くの大人の人に相談すること。いいわね」
「へーい、分かってまーすよ、先生」
「もう何度も聞いてまーす」
 クラスメイトが軽いノリで返事をしている。
「そうね。はい、では、先生からは以上よ」
 ポンと出席簿で教壇を軽く叩く。
 窓の外をずっと眺めていると、帰りのホームルームの締めの話が終わったようだ。
 うちのクラスの担任は英語の先生だ。若い先生で、美人とか囁かれているけど、ぼくは英語が大の苦手で、毎回赤点ぎりぎりの点数を取ってしまう。受験を控えたこの年の担任が英語の先生というのは、ぼくをすごく複雑な気持ちにさせて、これもまた小さな泡となって、心の中をざわざわと漂う。
 ちなみに、好きなのは国語と古文だ。勉強しなくても、なんとなく理解できる。
「起立、気をつけぇー、礼っ!」
 学級委員長の号令がかかって、帰りのホームルームが終わった。
 解放感に包まれてどっと湧いた教室。
「あの事件ってさ、まだ解決してないんだな」
「うん。もう二週間近く経つのにね」
「誘拐だよ、間違いなく誘拐」
「なあ、不審人物って、やっぱあいつなんじゃないの。歩道橋のさ」
「だよね。それしか考えられないよね。なのに何で警察は捕まえないんだろ」
 掃除をするため机と椅子を教室後方に移動させながら、クラスメイトたちが二週間前に起きた転校生失踪事件について話している。
 掃除当番でないぼくは二年間使い続けてくたびれたショルダーバッグを肩に担ぐと、解放感で賑わう教室から出た。
 部活には所属していない。一年生の時は必ずどこかの部活に入らなければならなかったので、卓球部に所属していたけれど、名前だけが名簿一覧に記載された幽霊部員だった。
 まっすぐ下駄箱まで足を運び、スニーカーに履き替える。
 スニーカーの爪先をとんとん叩いて外に出る。
 豊かな緑の匂いを乗せた四月後半のやさしい風がぼくの頬を撫でてくれる。
 外の心地よい空気を感じられたのはいいけれど、周りに目を移せば下校する他の生徒は連れと、おしゃべりしたり、笑ったり、ふざけあったりしている。
 独りで帰宅する生徒をこの学校では滅多に見かけることなんてできない。独りで歩いているのはぼくとこの学校で放し飼いにされてるニワトリくらいなものだ。
 きゅうくつな教室から抜け出したのに、解放感をまったく得られなかった。いつ何時でも学校という濁った液体にぎゅうぎゅうと圧迫されているような感じがした。
『七海ってなんで学校来てるんだろうな』
 いつかクラスメイトが、ぼくにわざと聞こえるように言った陰口を思い出す。
『あいつ、いてもいなくても同じじゃん。いたっていねえような奴なんだから』
 つかめないぼくの泡が、このまま割れてしまえばいいのに、と思った。心という容器が割れてしまえば、水が外に流れていって、泡が立つこともなくなって、心は永遠に静かになって、すごく楽になるのかもしれない。学校なんていう濁った水もぼくに触れることは叶わないんだ。
 でも、恐くてできなかった。一度心が割れてしまえば、もう二度と元の自分には戻せない気がした。
 猫背になって、うつむきながらプールを取り囲む金網の前を通り過ぎた。
「失踪事件か」
 ホームルームで先生が連日に渡って注意を促してきているのは、隣のクラスに来るはずだった転校生の女の子が行方不明になったというからだ。
 なんでも新学年になる直前に静岡の浜松市から引っ越してきたばかりの子だそうだ。
 すでに捜索願が出されてから二週間経っているというけれど、身代金などの要求もないため、捜査は難航しているらしい。誘拐されてからどこかに監禁されているのではないのかとか、遠くに連れていかれて最悪すでに殺されているのではないか、とかも囁かれ始めている。
 転校生だけど、まだ学校には一度も登校していなかったそうだから、校内で顔を知っている人も誰一人いない。だからみんな好き勝手なことを言える。『幻の転校生』とか、『帰っていった転校生』とか、ふざけて呼ぶこともある。
 クラスの違う見ず知らずの転校生でも、真相はどうなのか、少し気になる。
 サスペンスドラマで見たシーンが蘇る。縄か何かで腕や足なんかを縛られて、口にもガムテープとか貼られて、体の自由がきかなくなる上に、殺されるかもしれない、という恐怖からいつ何時とも離れられないんだ。凶器で脅されるのってすごく恐いと思う。
 一方で不謹慎だとは思うけれど、ぼくも行方不明になれたらなりたい、と思ってしまう。
 心という容器が割れずとも、ぼくという泡が行方不明になってしまえば、ぼくのサイダーで満たされた心はきっとぼくというもの、自分が誰であるかを忘れられるのだと思う。
 ぼくがぼくを消すことができるんだ。
 うらやましいという思いの泡がこの瞬間に生まれ出て、シュワッと弾ける。
 二、三歩足を進めただけであっさりと現実逃避の考えは消えてしまった。
 うらやましいと思ったって、ぼくが消えてしまうわけじゃないんだから。どこに行ったってぼくの心はぼくの中にあり続けるんだ。
 やれやれ、と小さく首を振る。
 憂うつな気分に支配されたまま、ゆるやかな勾配を降りて、校門から出た。
 猫背のままずっと新緑の並木道を歩いていて、いつも渡る歩道橋を視野にとらえた。
 国道が交差する十字路には、×の字の形をした歩道橋が架かっている。国道は車の往来がすごい。駅に向かう中央交通バスも走っている。
 通学時に歩道橋の階段を毎回毎回昇らなければいけないのはうんざりするけれど、ぼくの場合、この歩道橋を渡らなけれ家に帰れないんだから、まあ仕方ない。

 歩道橋には今日もあの人が立っていた。

 中央付近にホームレスの男の人が独りでずっと立っている。

 一日中立っているのかは知らないけど、とにかく毎日、街の様子とか車の流れをぼうっと眺めて長時間いるって話だ。
 この人が、転校生の女の子をさらった犯人なんじゃないかって噂されてる。もしくは金銭目当てで事件に加担したんじゃないか、とか。
 ホームレスにしてはあまり不潔な感じはない。髪はぼさぼさだけど長く伸びてはいないし、ひげも伸びていない。着替えをちゃんと持っているらしく、別の服を着ている時もある。通り過ぎる時も悪臭はしない。それにホームレスにしてはまだ若くって、二十代半ばくらいから三十代前半くらいだ。
 ここから十五分くらい歩いた場所にある新名川の河川敷で野宿しているっていうのは聞いたことあるけど、確かに、ホームレスにしては謎が多そうな雰囲気だ。ホームレスはお金がないっていうイメージがあるけど、貧乏そうなふうにも全然見えない。

 歩道橋を利用する人は多いけれど、みんな素知らぬ顔をして通り過ぎていく。すっかりいるのが当たり前になってしまって、迷惑そうな素振りをする人もほとんど見かけなくなった。
 このご時勢、ホームレスというものが珍しくなくなったこともあるんだと思う。いちいちホームレス一人なんかを気にしていられるか、みたいに。何だかそこに人間という生き物の冷たさ、世の中の淋しさみたいなものを感じてしまう。
 と思いつつも、ぼくだって、いつも関係ないみたいな顔をして通り過ぎてしまうんだけれど。
 後ろを通り過ぎる時、いつもなんとなく胸がぴりりと痛くなる。
 本当は関係なくなんてないんだ。ぼくだってこの人とほとんど変わらない。帰る場所があるとはいっても、なんだかないような存在だ。
 ホームレスの男の人は欄干に肘をついて、ビルが立ち並んでいる駅の方を見たり、車の流れを眺めたりしていて、今にも飛び降りそうな哀愁を横顔から漂わせている。
 その横顔を見る度に、危なっかしさが胸の中で沸くのだけれど、次の日もまた次の日も同じようにしているので、死ぬつもりはないのかも、と勝手にぼくは自分を安心させている。
 でも、いつまでもこの状態が続くはずがない。苦しさだけを抱えて生きてなんていけないはずだもの。この人がいつ何か思いきった行動に出るのか知れない。
 そう思っているのはぼくだけじゃないんだと思う。だから、この人が転校生失踪事件に関与しているのではないかみたいな噂が出てきてしまうんだろう。
 何とかしたいとは思うものの、結局、素知らぬ顔をして通り過ぎてしまう。
 ひ弱で自分のことさえどうにもできないぼくなんかが話し掛けたところで、何かできるわけじゃないんだ。
 逃げるような思いで階段を下りた。
「…………」
 後ろ髪引かれる思いで振り返ってみた。
 もしこのまま割れてしまう思いばかり抱えて生きていたら、自分もいつかああなってしまうのではないか。見ていると、そんな焦りに似た気持ちの泡がざわざわと浮かんでくる。
 今はまだいい。親がいるし、学生だし、受かるかどうかは分からないけど高校受験も問題なくできそうだ。金銭面で心配するようなこともまだない。
 ただ、先のことなんて分からない。世間は常に冷たいものだし。
 自分とあのホームレスの人とを照らし合わせて、必ず訪れるであろう将来のことを考えると、やはり他人事とは思えなくなる。心の中の泡が一斉にポコポコ暴れ出して痛いくらいだ。
 道を真っ直ぐ歩けば家に帰れるのだが、少し道をそれて、百円自動販売機で百三十円のペットボトル三ツ矢サイダーを買った。
 塞ぐ気持ちをリフレッシュさせたかった。誰も待っていない家に帰るのも実を言うと億劫だった。
 人の中にいるのが極端に嫌いなくせに、独りでいることにどうしようもない寂しさを覚えてしまう。
 住宅街から少し離れて雑木林の中に足を踏み入れる。失踪事件が近くで起きているというのに学校の帰りに一人でこんなところで道草食って、なんて馬鹿なと思われるかもしれない。
 でも、ぼくのお気に入りの、秘密の場所なんだ。
 しばらく歩いていくと、木々が開かれて、高さ三メートル程度の小さな鳥居が建てられている空き地に辿り着いた。
 公園というわけではない。真紅の鳥居は建てられているけれど、神社とか祠は見当たらない。そういう跡地なのかもしれない。
 跡地であっても、色褪せることのない真紅の鳥居だけ立っているというのは、誰からも忘れ去られた哀愁感よりも、厳かな空気をより濃密なものにしてくれていた。
 目に見えないことによって、はるかに人知を超えた森厳なる神域に今ぼくは立っているんだと錯覚させられる。
 その上、ここの風は格別ゆったりと緩やかでやさしい。目を閉じれば、音が奏でる無数の泡が、ゆったり漂っている光景が見えてくるようだった。
 鳥居に向かって丁寧に一礼してから、椅子の代わりにちょうどいい岩の上に腰掛けて、サイダーのキャップを開けた。
 狭い容器の中にぎゅうぎゅうに閉じ込められていた空気が勢いよくポンと外に飛び出して、外界の初めて出会う空気と溶け合う。
 この音もサイダーを飲む際の楽しみの一つだった。ぼくの体にたまっている重苦しい空気もほんのわずかだけど外に出ていったように思えるんだから。
 一口飲むと、ぼくの心が少し満たされ、癒される瞬間だった。
 ぼくの秘密の力といい、この体の中は血液ではなくサイダーで満たされているのかもしれない、と本気で思ってしまう。
 二口目を飲み終わった時、草むらが急に騒がしくなった。
「……ん?」
 サイダーを飲む手を止めて、音のした方に目を見張った。
「何か……いる?」
 野良猫かな、と一瞬思ったけれど、草の揺れる具合からなんとなく違うなと分かった。何か普段は街中で見かけることのない生き物がそこにいる。そんな気がした。
 何かびっくりするようなことが起こる前触れのように、心の中で小さな泡がシュワシュワと騒ぎ出す。
 そして、出てきたものがぼくの予想をはるかに超えたとんでもないもので、ぼくは飛び上がらんばかりに驚いたのだった。
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