人間の深淵

青空卵

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第1章

惰性とセックス

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 半年後に教採を控えた僕は正直このままではいけないという焦りを感じていた。もう三ヶ月近く、大学の読書サークルには顔を出せないでいる。
「あんた、最近どうなの?」
 母は電話越しに僕の現状を心配する。
「あぁ。今は毎日勉強ばっかりしてるよ。心配いらないから」
 マックのポテトの揚がったことを知らせる音が店内に響く。周囲には大学生と思われる数人のグループがいくつかあって、おしゃべりに夢中のようだ。だいたいああいう学生はみんな頭が悪い。心のうちで毒づく。それはただのコンプレックスで、僕が日常を思い通りに満足できていないことの八つ当たりにすぎない。僕は席を立った。集中が切れただけなのかもしれないが、こんなやつらがいると集中できない、という理由をでっちあげ、そのまま店を出た。
 店の外に出ると熱気が全身をつつんだ。アスファルトは昼間の太陽で熱々に熱されていた。道ゆく人らも、ほとんど見かけない。僕はその熱気から逃れるように、車に急いで乗り込んだ。結局いつもそうなのだ。なにかに言い訳をつけて、勉強から逃げている。
 三十分ほど車をむだに走らせる。図書館へ行こうか、それともそのままアパートに帰ってしまおうか迷っていたのだ。しかし迷った末に僕は家への道をたどった。勉強などできるはずもないとわかっていながら。
 部屋の鍵はかかっていなかった。できるだけ静かにドアを開け、玄関に彼女の靴が並んでいることを確認する。僕は諦めてリビングに続く短い廊下を足音を気にせずに進んだ。
「ただいま。ミユキきてたんだ」
 僕はソファーで寝転ぶ彼女に呟く。
「うん。こっち来て」
 いつもこのパターンだった。僕は彼女に言われるままに、ソファーで寝転ぶ彼女の前にたった。彼女は何も言わず、僕のジーンズに通されたベルトをはずし、柔らかく芋虫のような僕の汗まみれの陰茎を口に含んだ。卑猥な音はテレビの音にかき消された。彼女の目は一点に集められ、なにかを見ているようで何も見ていない。彼女は自分の行為そのものに成り果てているようだった。
「いくよ」
 僕の声に彼女がうなずく。彼女は口の中に出された僕の精子を飲み込み、初めのようにソファーに座った。
「今日暑いね。三十三度だって」
 彼女がテレビの上の方に出されたテロップを見てつぶやく。僕がベルトをしめなおしている時には、彼女はテレビを見ながら麦茶を飲んでいた。なんというか、こんなことをしていていいのか、と僕は自己嫌悪にとらわれた。ただの賢者モードなのかもしれない。ドロドロの快楽が僕の頭蓋骨を満たした瞬間に、僕は自分が教採を控えたニートであることを自覚した。もちろん、大学にはまだ通っているからニートではないのだが、それでも教採に落ちれば、ニートかフリーターになることは確実だったから、その未来を先取りしているような気になるのだ。
「ミユキ、こんな生活やめないか」
 たまらず言いかけた僕のその言葉は、僕の体内から発せられることなく飲み込まれた。テレビの音と、外から微かに聞こえる蝉の声に僕の気持ちはへし折られる。言わなければ、なにごともなく過ぎていく。変に諍いの原因を作る必要はない。日常を満たす音はそうやって僕をうまく言いくるめるのだ。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ。僕の中に滓のように残る言葉はそれだけだった。ミユキと出会った時にこんなことが予測できていれば、僕は付き合わなかったと言えるだろうか。それもまた自信がないのだから仕方ない。僕は安易に彼女の与える快楽にすがって生きていただろう。快楽さえあれば、人はどうにか生きていけるものなのだ。結局は、彼女をさけて通ることなど僕にはできないし、僕は彼女という選択をせざるを得なかった。
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