22の愉快なリーディング

園村マリノ

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吊るされた男

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 世間からの期待に応え続ける事にすっかり疲れ切っていた私は、一人きりになるためにちょっとした山に登った。

 初心者向けの短いハイキングコースを進んでいたはずなのに、気が付くと私は道に迷ってしまっていた。おまけに携帯電話は圏外だ。
「参ったな……」
 下手に動かない方がいいのかもしれない。しかしこの場にじっとしていても、誰も通らないかもしれない。

 ふと、視界の端に妙なものを捉え、私はそちらに振り向いた。
「な……な……っ!?」
 それは、太い木の枝に右足首を縛られ、逆さ吊りになった男性だった。
 大変だ! 私は慌てて男性に走り寄った。
「大丈夫ですか!?」
 私が声を掛けると、男性の目がゆっくり開かれた。
「今助けます!」私は男性の右足首に手を伸ばした。
「あ、そのままにしておいて。好きでやってる事だから」
 男性ののんびりとした口調に、私は面食らった。
「……どうしてこんな事を?」いつからやっているのか、頭に血は上らないのか、などと聞きたい事はいくつかあったが、とりあえず私はそれだけ尋ねた。
「うん? まあね、その……ちょっと人生に行き詰まっちゃってさ。何をやっても上手くいかない、楽しめない。苦痛に感じる事が多くなって、すっかり何もかもが嫌になっちゃって。
 ある日この山に登ったら、道に迷って、今のおれと同じように逆さ吊りになっているおっさんに出会った。その時に勧められたんだ。こうする事で、今まで見えなかったものが見えてくるようになったり、悩みの解決の糸口が掴めるようになるかもしれないよって」

 何と答えたらいいのかわからず固まる私を見て、男性は苦笑した。
「まあ、普通は引くよな。おれだって最初はそうだった。でもね、そのおっさんと色々語り合っているうちに、何だか興味が湧いてきて。最終的にはおっさんと代わるようにしてこうなったんだ。あれから何年経ったかなあ」
「何年だって!?」
「ああ。一年や二年じゃ足らないねえ」
 流石に信じられなかった。じゃあその間、食事や排泄はどうしていたんだ。天候だって変わるだろう。……いや、それ以前の問題だ。
「おれにはね、ガキの頃から、ある分野において突出した才能があった。チヤホヤされ、挫折知らずで、自分でも天才だと思っていたよ。
 ところが、年齢が上がるにつれ、徐々に伸び悩んできた。ライバルたちに越されるようになった。それでもおれは、君はこんなものじゃないと言う周囲の期待に応えるため、必死になって続けたんだ。本当はもうとっくに気付いていたんだけどね、自分の限界に。
 そうこうしているうちに、それ以外の事も上手くいかなくなって、日常生活にも支障をきたすようになった。それでも周囲はおれを解放してはくれなかった。おれは逃げ出したくて、一人きりになりたくて、そうしてここまで来たってわけさ──そう、君と同じようにね」
 男性はそう語ると、私をじっと見据え、それからニヤリと笑った。

 私は、回れ右して一目散に逃げ出した。それまで迷っていたはずなのに、どういうわけかあっさりと元のハイキングコースに戻れたが、そんな事はどうでも良かった。とにかく早く家に帰り、あの逆さ吊りの男性の事を忘れてしまいたかったのだ。


 あの日以来、私はまともじゃなくなってしまったようだ。
 鏡に映る自分の姿が逆さになる時がある。
 家具を全てひっくり返したくなる時がある。
 一日ずっと逆立ちしていたくなる時がある。

 身近な人々は、日に日に元気を失くしてゆく私を心配し、少し休むべきではないかと提言してくれた。私はその言葉に甘え、長期休業と一人旅を宣言すると、皆の元を去った。

 そうしてわたしが向かったのは、あの山だ。

 初心者向けの短いハイキングコースを進むうちに、いつの間にやら道に迷っており、そうこうしているうちにほら、あの男性を見付けた。

 逆さ吊りの男性はゆっくりと目を開き、私と目が合うと、唇を三日月のようにして笑ってみせた。

 多分、私の顔にも似たような表情が浮かんでいただろう。

 


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