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第四章
#4-1-3 危機と希望③
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二階は辺り一面、真っ白いタイル張りになっていた。一階のように部屋はなく、廊下は左右に分かれており、長く続いているようだった。
龍とアルバが右へ、那由多と緋雨が左へ進む事になり、龍たちをある程度見送ると那由多たちも歩き出した。
「廊下長過ぎ。明らかに間取りおかしいよね」那由多は少々ぶっきらぼうに言った。
「異界だぞ。何を今更」
「まあそうだけどさ」
「機嫌が悪そうだな。先程の事か。いや決してお前を心配しなかったわけではないぞ。ただ、眼鏡は近眼のお前にとって、ある意味では生命線だろう。壊れて使い物にならなくなったらどうする。ろくに見えない状態で敵に遭遇でもすれば──」
「違うよ、お腹空いたんだよ!」
直後、那由多の腹が盛大に鳴った。
「何だ……そんな事か」
「ああ、でも眼鏡の話は緋雨の言う通りだよ。やっぱりコンタクトレンズに変えようかな」
緋雨の歩みが止まった。
「……あれ、どうしたの緋──」
「ならぬ……ならぬぞ那由多! 早まるな! それだけはこの命に変えても阻止する!!」
「何で!?」
しばらく進むと、三〇帖程の開けた空間に辿り着いた。更にその先にも廊下が続いており、緋雨はとっとと進もうとしたが、那由多が引き止めた。
「見てこれ」那由多は隅の方に落ちていた物を屈んで拾い上げ、緋雨に見せた。
「絵画か」
A3サイズで薄型の木製の額縁に収められているのは、水彩で描かれた少年の肖像画だった。やや垂れ目で鼻は小さく、唇にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「何でこんな所に?」
那由多は少年の顔に見覚えがあるような──それも比較的最近だ──気がした。
「那由多、それを捨てろ」
「え?」
直後、緋雨は那由多の手から肖像画を叩き落とした。
「緋雨、どうし──」那由多の体に悪寒が走った。「こ、この感じって……」
「下がれ那由多」言いながら緋雨も数歩下がった。「武器を構えろ」
肖像画の少年の唇が裂けるように吊り上がった。緋雨には、それがあのピエロによく似ているのがわかった。
「緋雨……そいつ、ヤバイ奴だよね」那由多の声は僅かに震えていた。
少年の両目の辺りに黒いシミが発生し、あっという間に顔全体を塗り潰したかと思えば、次の瞬間には全長三〇センチ程のブヨブヨとした黒い塊が飛び出していた。黒い塊には手足もなければ顔のパーツもないが、那由多は鋭い視線を感じ、忍び笑いを耳にしたような気がした。しかし何よりも明確に感じ取れるのは、底知れぬ悪意だ。
那由多が緋雨の羽根を取り出すと、何をしなくとも鉄扇に変化した。
黒い塊は素早い動きで二人から離れると、縦に大きく伸びながら粘土のようにグニグニと変形し、やがて小柄な人間の姿となった。
「嘘吐き那由多」黒い人間には変形前と同じく顔のパーツはなかったが、本来ならば口があるはずの部分がモゴモゴと動いて甲高い声を発した。「幽霊なんていねーよ、嘘吐きめ」
那由多に嫌な記憶が蘇った。あれは小学校三年生の春か夏頃だった。初めて同じクラスになり、最初の席替えで隣になった事で親しくなった女子がいた。ある日その女子と色々な雑談をした際に、自分が〝見える〟人間であるとうっかり口を滑らせてしまった。〝見える〟事が普通ではなく、他者を怖がらせてしまったり、信用されにくいものだと既に理解していた那由多は、普段は口を固くしていたのだが、この時ばかりは迂闊だった。
那由多は絶対に誰にも言わないでほしいと頼み、相手は了承したのだが、不安は的中し、一週間かそこらでクラス中どころか隣のクラスにもしっかり伝わっており、一部から面と向かって悪口を言われたりからかわれるようになった。
「キモイんだよ、嘘吐き那由多!」
学校からの帰り道、隣のクラスの意地悪な三人組のリーダー格が那由多を後ろから突き飛ばし、残りの二人も囃し立てた。
「インチキ!」
「幽霊がいるなら証拠見せろよ証拠!」
周囲には同じ学校の児童が数名いたが、勿論誰も止めには入らなかった。
那由多はこの出来事を黙っていたが、数日後の昼休み中に担任に呼び出され職員室に行くと、担任だけでなく隣のクラスの担任と例の三人組が待っていた。どうやらあの日、通りすがりの大人に目撃されており、学校に匿名で連絡が入ったそうだった。
三人組は謝罪し、それ以降那由多がからかわれる事はなくなったが、中学校に上がるとこの時の話が広まり、いじめこそ起きなかったが一部からは陰口を叩かれる事も度々あった。そして後から知った話だが、中学校で話を広めたのも那由多との約束を破った女子で、更には話に尾ひれまで付けた上に自ら率先して笑い者にしていたそうだった。
「嘘吐き那由多。不思議ちゃんの構ってちゃん」黒い人間は那由多を嘲笑い続けた。
──忘れかけていたのに。
那由多の中にふつふつと怒りが湧いてきた。
──どうして思い出させるんだよ!
「那由多、どうした。しっかりしろ」
緋雨の声に振り向く。そこにいたのは、あの約束破りの女子だった。
「気安く呼ぶな」那由多は憎しみに顔を歪ませた。
「那由多?」
「うるさい卑怯者!」那由多は緋雨に飛び掛かって床に押し倒すと馬乗りになった。「約束なんて最初から守るつもりがなかったんだろ! お前のせいで俺がどれだけ嫌な思いをしたか!」
「那由多! 落ち着け、しっかりしろ!」
緋雨は抵抗したが、怒りもあってか首を締め上げようとする那由多の力は、思いの外強かった。
黒い人間は背後から那由多に近付くと、再び伸びながら変形し、三〇センチ弱程の黒蛇の姿になった。シューシューと音を立て、那由多の足首に絡まると太腿を這い上がってゆき、背中まで到達した。
──こいつ……那由多に憑くつもりか!
「那由多! おい那由多!」
「ねえ緋雨さん」黒蛇が、緋雨にとっては懐かしい、しかし思い出したくはなかった女性の声を発した。「教えて……私の何がいけなかったの……」
遠い過去に置いてきた苦々しい記憶が蘇り、濁流のように溢れ出して緋雨を呑み込もうとする。
「貴様……」
緋雨はそれらを全て押し返すと、那由多の肩越しに黒蛇を睨んだ。
「ふん、この程度で我をどうにか出来ると思ったら大間違いだ」
緋雨は自らの意志でカラスの姿に変化し、那由多をすり抜け倒れたその背に乗ると、鎌首をもたげた黒蛇と対峙した。
「ふん、それにしても不味そうだな」
黒蛇はカッと口を開き、憎々しい紅目の鳥を喰らわんと飛び掛かった。緋雨はヒラリとかわすと、神聖な魔力を込め、黒蛇を蹴り落とした。焼けるような熱さと痛みにのたうち回る黒蛇の頭部を、緋雨は更に何度も蹴り飛ばし、時には嘴で突っついた。
慌てた黒蛇は、またも姿を変えようとした。
「させるか」
緋雨は再び人間の姿に戻ると、変形中の黒い塊を草履で踏み潰した。グニャリとした感触と共にポキポキと何かが折れるような音がすると、黒い塊から徐々に力が抜けていった。更に力を加えると、黒い塊は黒板を引っ掻く音に似た悲鳴を上げ、緋雨が呪文を唱えると浄化の炎に包まれ消滅した。
「那由多」緋雨は落ちている鉄扇を拾うと、俯せに倒れている那由多を抱え起こし、頬を何度か軽く叩いた。「うむ……眼鏡は無事なようだな。頑丈だ。さぞかし優れた職人が……おい那由多、起きんか」
那由多の口が動く。緋雨は耳を近付けた。
「嘘じゃ……ないよ」その声はか細く、まるで年端もいかない子供のようだった。「ぼくは……嘘吐きじゃないよ」
「ああ、わかっている」緋雨は那由多が一度も耳にした事のないような優しい声色で囁いた。
那由多は小さく呻くとゆっくり目を開いた。
「やれやれ」
「……緋雨……」
「立てるか」
「うん……」那由多は緋雨と一瞬に立ち上がると、そのまま相棒をじっと見つめた。「緋雨、俺……今さっきまでの記憶が一部飛んでるんだけど、何かとんでもない事しでかさなかった?」
「ああ……何かぶつくさ言っていたな」
「ぶつくさ?」
「互いに打ち明けていない過去があるようだな」緋雨はフッと苦笑した。「近いうちに腹を割って話さないか」
「……そうだね」
「ほれ」緋雨は鉄扇を差し出した。「とりあえず今は、目の前のやらなきゃならん事に集中するんだ。行くぞ」
「うん」
二人は再び歩みを進めた。
龍とアルバが右へ、那由多と緋雨が左へ進む事になり、龍たちをある程度見送ると那由多たちも歩き出した。
「廊下長過ぎ。明らかに間取りおかしいよね」那由多は少々ぶっきらぼうに言った。
「異界だぞ。何を今更」
「まあそうだけどさ」
「機嫌が悪そうだな。先程の事か。いや決してお前を心配しなかったわけではないぞ。ただ、眼鏡は近眼のお前にとって、ある意味では生命線だろう。壊れて使い物にならなくなったらどうする。ろくに見えない状態で敵に遭遇でもすれば──」
「違うよ、お腹空いたんだよ!」
直後、那由多の腹が盛大に鳴った。
「何だ……そんな事か」
「ああ、でも眼鏡の話は緋雨の言う通りだよ。やっぱりコンタクトレンズに変えようかな」
緋雨の歩みが止まった。
「……あれ、どうしたの緋──」
「ならぬ……ならぬぞ那由多! 早まるな! それだけはこの命に変えても阻止する!!」
「何で!?」
しばらく進むと、三〇帖程の開けた空間に辿り着いた。更にその先にも廊下が続いており、緋雨はとっとと進もうとしたが、那由多が引き止めた。
「見てこれ」那由多は隅の方に落ちていた物を屈んで拾い上げ、緋雨に見せた。
「絵画か」
A3サイズで薄型の木製の額縁に収められているのは、水彩で描かれた少年の肖像画だった。やや垂れ目で鼻は小さく、唇にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「何でこんな所に?」
那由多は少年の顔に見覚えがあるような──それも比較的最近だ──気がした。
「那由多、それを捨てろ」
「え?」
直後、緋雨は那由多の手から肖像画を叩き落とした。
「緋雨、どうし──」那由多の体に悪寒が走った。「こ、この感じって……」
「下がれ那由多」言いながら緋雨も数歩下がった。「武器を構えろ」
肖像画の少年の唇が裂けるように吊り上がった。緋雨には、それがあのピエロによく似ているのがわかった。
「緋雨……そいつ、ヤバイ奴だよね」那由多の声は僅かに震えていた。
少年の両目の辺りに黒いシミが発生し、あっという間に顔全体を塗り潰したかと思えば、次の瞬間には全長三〇センチ程のブヨブヨとした黒い塊が飛び出していた。黒い塊には手足もなければ顔のパーツもないが、那由多は鋭い視線を感じ、忍び笑いを耳にしたような気がした。しかし何よりも明確に感じ取れるのは、底知れぬ悪意だ。
那由多が緋雨の羽根を取り出すと、何をしなくとも鉄扇に変化した。
黒い塊は素早い動きで二人から離れると、縦に大きく伸びながら粘土のようにグニグニと変形し、やがて小柄な人間の姿となった。
「嘘吐き那由多」黒い人間には変形前と同じく顔のパーツはなかったが、本来ならば口があるはずの部分がモゴモゴと動いて甲高い声を発した。「幽霊なんていねーよ、嘘吐きめ」
那由多に嫌な記憶が蘇った。あれは小学校三年生の春か夏頃だった。初めて同じクラスになり、最初の席替えで隣になった事で親しくなった女子がいた。ある日その女子と色々な雑談をした際に、自分が〝見える〟人間であるとうっかり口を滑らせてしまった。〝見える〟事が普通ではなく、他者を怖がらせてしまったり、信用されにくいものだと既に理解していた那由多は、普段は口を固くしていたのだが、この時ばかりは迂闊だった。
那由多は絶対に誰にも言わないでほしいと頼み、相手は了承したのだが、不安は的中し、一週間かそこらでクラス中どころか隣のクラスにもしっかり伝わっており、一部から面と向かって悪口を言われたりからかわれるようになった。
「キモイんだよ、嘘吐き那由多!」
学校からの帰り道、隣のクラスの意地悪な三人組のリーダー格が那由多を後ろから突き飛ばし、残りの二人も囃し立てた。
「インチキ!」
「幽霊がいるなら証拠見せろよ証拠!」
周囲には同じ学校の児童が数名いたが、勿論誰も止めには入らなかった。
那由多はこの出来事を黙っていたが、数日後の昼休み中に担任に呼び出され職員室に行くと、担任だけでなく隣のクラスの担任と例の三人組が待っていた。どうやらあの日、通りすがりの大人に目撃されており、学校に匿名で連絡が入ったそうだった。
三人組は謝罪し、それ以降那由多がからかわれる事はなくなったが、中学校に上がるとこの時の話が広まり、いじめこそ起きなかったが一部からは陰口を叩かれる事も度々あった。そして後から知った話だが、中学校で話を広めたのも那由多との約束を破った女子で、更には話に尾ひれまで付けた上に自ら率先して笑い者にしていたそうだった。
「嘘吐き那由多。不思議ちゃんの構ってちゃん」黒い人間は那由多を嘲笑い続けた。
──忘れかけていたのに。
那由多の中にふつふつと怒りが湧いてきた。
──どうして思い出させるんだよ!
「那由多、どうした。しっかりしろ」
緋雨の声に振り向く。そこにいたのは、あの約束破りの女子だった。
「気安く呼ぶな」那由多は憎しみに顔を歪ませた。
「那由多?」
「うるさい卑怯者!」那由多は緋雨に飛び掛かって床に押し倒すと馬乗りになった。「約束なんて最初から守るつもりがなかったんだろ! お前のせいで俺がどれだけ嫌な思いをしたか!」
「那由多! 落ち着け、しっかりしろ!」
緋雨は抵抗したが、怒りもあってか首を締め上げようとする那由多の力は、思いの外強かった。
黒い人間は背後から那由多に近付くと、再び伸びながら変形し、三〇センチ弱程の黒蛇の姿になった。シューシューと音を立て、那由多の足首に絡まると太腿を這い上がってゆき、背中まで到達した。
──こいつ……那由多に憑くつもりか!
「那由多! おい那由多!」
「ねえ緋雨さん」黒蛇が、緋雨にとっては懐かしい、しかし思い出したくはなかった女性の声を発した。「教えて……私の何がいけなかったの……」
遠い過去に置いてきた苦々しい記憶が蘇り、濁流のように溢れ出して緋雨を呑み込もうとする。
「貴様……」
緋雨はそれらを全て押し返すと、那由多の肩越しに黒蛇を睨んだ。
「ふん、この程度で我をどうにか出来ると思ったら大間違いだ」
緋雨は自らの意志でカラスの姿に変化し、那由多をすり抜け倒れたその背に乗ると、鎌首をもたげた黒蛇と対峙した。
「ふん、それにしても不味そうだな」
黒蛇はカッと口を開き、憎々しい紅目の鳥を喰らわんと飛び掛かった。緋雨はヒラリとかわすと、神聖な魔力を込め、黒蛇を蹴り落とした。焼けるような熱さと痛みにのたうち回る黒蛇の頭部を、緋雨は更に何度も蹴り飛ばし、時には嘴で突っついた。
慌てた黒蛇は、またも姿を変えようとした。
「させるか」
緋雨は再び人間の姿に戻ると、変形中の黒い塊を草履で踏み潰した。グニャリとした感触と共にポキポキと何かが折れるような音がすると、黒い塊から徐々に力が抜けていった。更に力を加えると、黒い塊は黒板を引っ掻く音に似た悲鳴を上げ、緋雨が呪文を唱えると浄化の炎に包まれ消滅した。
「那由多」緋雨は落ちている鉄扇を拾うと、俯せに倒れている那由多を抱え起こし、頬を何度か軽く叩いた。「うむ……眼鏡は無事なようだな。頑丈だ。さぞかし優れた職人が……おい那由多、起きんか」
那由多の口が動く。緋雨は耳を近付けた。
「嘘じゃ……ないよ」その声はか細く、まるで年端もいかない子供のようだった。「ぼくは……嘘吐きじゃないよ」
「ああ、わかっている」緋雨は那由多が一度も耳にした事のないような優しい声色で囁いた。
那由多は小さく呻くとゆっくり目を開いた。
「やれやれ」
「……緋雨……」
「立てるか」
「うん……」那由多は緋雨と一瞬に立ち上がると、そのまま相棒をじっと見つめた。「緋雨、俺……今さっきまでの記憶が一部飛んでるんだけど、何かとんでもない事しでかさなかった?」
「ああ……何かぶつくさ言っていたな」
「ぶつくさ?」
「互いに打ち明けていない過去があるようだな」緋雨はフッと苦笑した。「近いうちに腹を割って話さないか」
「……そうだね」
「ほれ」緋雨は鉄扇を差し出した。「とりあえず今は、目の前のやらなきゃならん事に集中するんだ。行くぞ」
「うん」
二人は再び歩みを進めた。
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