聖女の婚約破棄

かほ

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 アールに出会った日のことは、正直よく覚えていない。

 唯一覚えているのは土砂降りの雨が私の下ろしたての靴を濡らしたことと、差し伸べた私の手に向けられた少年の昏い瞳に抱いたーー恐怖。

 私よりいくつか年上に見える少年の瞳は野犬のように鋭く、今に私に食いつかんとするような敵意がありありと感じ取れた。

 逡巡したのは一瞬。

 恐怖を抑えつけ、私は慣れた微笑みを顔に貼り付けて、彼に優しい救いの言葉をかけたはずだ。

「親はどうしたの?」
「こんなところにいたら風邪をひいてしまうわ」
「可哀想に。私の屋敷にいらっしゃい」

 きっと内容はこんなところ。

 人に優しくするのは慣れていたし、実際それが私自身の責務だと思っていた。

 それに、この道端に落ちていた孤児を助ければきっとお父様が褒めてくださる。

 そんな下心もあったはずだ。

 私は傘を少年に差し替えながら、彼が私の手を握るのを根気強く待った。

 それから暫くの間少年は動かず、しかし最終的にはその瞳の鋭さを微塵も緩めぬまま、私の手を取ったのだった。




「その時の姫さんの顔ときたら、傑作だったぜ。今でも夢に見るくらいだ」

「なんの話?」

「俺の手が泥やら砂利やらで汚れてたからだろうけど、手を握ったらすっごい嫌そうな顔してたぞ」

「…そうだったかしら?」


 初めて出会ったときのことを、いつだかアールと話したことがある。

 言われて見れば確かに。

 あの日は雨が降っていたし、アールの姿は襤褸切れ同然に汚れていた。

 手を握って不快な気分にはなったかもしれないと思う。

 けれどそれはあくまで私の事情で、好きでぼろぼろになってあんな場所で倒れていたアールに向けていい態度ではなかっただろう。

 それは私の未熟さで、アールにそう思われていた以上謝罪をしなければならない。


「でも、まあ当たり前のことだよな」

「えっ?」


 謝ろうと開いた口が、間抜けな声を漏らした。

「だってあんた、泥遊びもしたことない箱入りのお姫様だもんな。正直あのときは聖女の皮を被った、とんだ女狐だと思ったけど。あんな綺麗な格好してたあんたが、あんな汚れた手を握って不快な気分にならないはずがなかったんだ」

 それは私には理解が出来ない言葉の連続だった。

「そんなこと、ないわ。酷い態度をとった私がいけなかったのよ。傷つけてごめんなさい」

 理解出来ないから、私はアールの言葉を否定してした。

 服が汚れるなんて、泥に触れたことがないからなんて、そんなことが人に酷い態度をとっていい免罪符になんてならない。

「傷ついてなんていないから、謝らなくていい。それに内心はどうあれ、姫さんはあのとき確かに俺の手を握ってくれたんだし…な?」


 そう言って、アールは私に笑いかけた。

 いつものからかうような笑みではなくどこか優しい、いや、優しすぎる笑み。

 それに気がついたとき、かっと全身が沸騰するような感覚だった。

 羞恥心にも似た怒りが駆け巡り、しかし行場のないその感情はすぐ勢いを失って、ただ私の身体を戦慄かせるに留めた。




 そうだ。このときからだった。

 アールがあの目をするようになったのは。

 私を憐れむかのごとく優しい眼差し。

 理由はうまく説明できなかったけれど、それは私にとって、何よりも耐え難い屈辱になった。
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