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3-2 楓

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 人の身体が、宙を舞った。
 自分も、体の重さを消すように、自ら跳ぶ事は出来る。まるでそんな風に跳躍する忍びの身体と同じように、ふわりと、宙に舞っている。
 しかし、自ら跳んだのではなく、木の棒に突き上げられたのだ。
 唖然としながらも、咄嗟にその宙に舞う勇人を自分の身体で受け止めようとし、しかし楓は思い留まった。
 音を立てて、勇人が地面へと落ちる。ごろごろ、と転がった。意外とそれなりに上手く、受け身を取っている。片手に持った棒も手放してはいない。
 真っ青な顔をすぐに上げると、顔色とは対照的に赤く血走った目で正面にいる師行の方を睨み、必死と言う様子で立ち上がって、棒を構え直す。立ち上がるのが遅れたり、棒を取り落したりしたら、ますます激しく打ち叩かれるのが身に染みているのだろう。荒っぽ過ぎる方法だが、それでも少なくとも勇人は打ち据えられる事には慣れ始めていた。そうすれば次は、戦う事にも馴れて来る。
 しかしそれはそれとして、一体どんな技を身に付ければ、大きな怪我をさせる事も無く木の棒で人を宙に舞わせられるのか、間近で見ていても楓にはまるで理解出来なかった。ただ力強く突き上げるだけでは、その衝撃で殺してしまうだろう。
 勇人は、師行に預けられ、鍛えられていた。
 勇人を師行の元で鍛えるよう小夜に提案したのは楓自身だったが、その自分も師行が自ら棒を取って勇人を一から鍛え始める事をするとは思っていなかった。師行の苛烈さは、人を人として鍛え直す事にもどこか向いているかも知れない、と何とはなしに思っただけの事だったのだ。
 もう十日ほども師行は厳しく勇人を鍛えている。それは楓の目から見ても厳しいと思えるほどの物なのだから、尋常な鍛え方では無かった。
 師行自身が時間を取れない時は、師行の旗本が交代で役目を受けて勇人の相手をしている。だから勇人自身は寝る時以外はほとんどの時間容赦なく打ち据えられていた。
 たったの十日で、目に見えるほどに勇人の頬はこけていた。
 しばらく一方的に打ち据えられた後、もう一度師行の棒で胸を突かれ、勇人は倒れ伏した。今度は、起き上がれない。
 水、と師行が短く命じる声に反応し、勇人の後ろでやはり青い顔をして控えていた五郎が桶を掴むと勇人に頭から水を掛ける。五郎はしばらくの間勇人が身を置いていた村の子どもで、勇人が村を出る時、村の長に乞われて勇人の従者としてついて来る事になった。
 勇人が目をさまし、暗い目で師行を睨む。こう言う目は悪くない、と楓は思った。斜めに構えていた物が剥ぎ取られ、打ち叩かれればその相手を憎む、と言う人間としての単純な感情が表に出ている。
 師行はそれを正面から睨み返した。ほんの少し睨み合い、勇人が目を逸らすと俯く。

「やめ」

 それだけ言うと師行は勇人に背を向けた。勇人は座り込んでいる。少し迷ったが楓は師行の方へと付いて行った。
 もう、日は沈みかけている。

「明日、勇人を行朝の元へ連れて行け。文は書く」

 師行は振り向き、唐突にそう言った。

「行朝さんの所へ?そりゃまた何で」

「まず壊せるだけ壊した。この先、人間として作り直すのは、あの腰抜けの方がいい」

「相変わらず人には良く分からない事を言うね、師行さんは」

「その良く分からない俺に勇人を預けるよう進言したのは貴様だろう」

「ごもっとも」

 師行は館の方へ歩き出している。楓もそれに並んで続いた。横を見ると上半身裸で棒を振るっている武士達が視界に入る。師行の旗本達だった。動きは、強い気に満ちている。正面からの戦いであれば、自分でも勝てない相手の方が多いだろう。
 自分に限らず女忍びの強さは小手先の技や身軽さや相手の虚を突く術に依存した物だった。正面から戦えば、やはり男女の腕力や体力、体格の差は如実に出る。
 楓が知る限り、忍びに限らず女の中で本当に強い、と言えるのはちあめだけだった。
 恐らくは自分より年下なのに、自分より胸は大きく、そのくせ自分より速く強いのだから、理不尽な物だ、と楓はちあめの戦いぶりを見るたびに思う。

「勇人さんは仕上がるのにどれぐらい掛かりそう?」

「五年」

 意外にも、はっきりとした答えが返ってきた。

「だいぶ気の長い話だねそりゃ」

 五年と言う数字も、楓には少し意外だった。自分が想像していたよりもずっと延びが早い、と横で見ていて思っていたのだ。

「途中で死ななければ、だが」

「そうさせないために次は行朝さんの所に送るんでしょ?」

「俺が壊し、行朝が作り直す。それを何度か繰り返せば、あの男は強くなる。だが俺が加減を間違えたり、勇人自身が耐えられなければ、やはり途中で死ぬな。死なせない、と言う事は出来ん」

 師行は饒舌だった。自分では話すのが嫌いだと思っているようだが、実際には良く語る相手とは良く語るのだ。楓がそうだし、伊達行朝もそうだ。しかしそれを指摘すれば、師行は機嫌を損ねるだろう。

「勇人さんの事、どう見てるの?」

「腑抜けだな」

「手厳しいねえ。何か、引っかかる所もあるんでしょ?」

「何故そう思う」

「そうでなかったら、どこの馬の骨かも分からない人間をわざわざ自分で鍛えたりしないでしょ、師行さん。それとも、私が言い出した事だから特別に手を掛けてくれた?」

「ぬかせ」

 愛想の欠片も無く師行は冷たく答えた。

「元々、多少の資質はあった。悲惨な経験をしてそれが歪んだ方向に酷く尖った。一度死んで生まれ直す所まで鍛え直せば、その尖った部分も生きる」

 勇人の来歴に関しては師行には特に何も話していなかった。興味を持たない、と思ったからだ。棒を持たせて勇人と向き合うだけで、師行はそれだけの物を勇人から感じ取ったのだろう。
 武人の鋭さ、と言う物は楓にも理解しがたい所がある。

「それでも仕上がるのに五年掛かるんだ。よっぽど歪んでるんだねえ」

「ああ」

 少しだけ間を置いて師行は答えた。

「ところで」

 間の置き方に微妙な師行の苛立ちを感じ、楓は話を変える事にした。こういう時は大抵、何か小さい所ですれ違っているのだ。自分でも、師行の言葉を読み違える事はある。

「師行さんが顕家様なら、この先の戦い、どう戦うの?」

「下らん質問だな」

「戦に関しては顕家様以上だって、顕家様が言ってたからさ。今のどう見てもしんどい情勢、師行さんにはどう見えてるのか、気になっちゃった」

「情勢が辛く見えるのは、陸奥守が戦以外の事を考えて戦をしているからだ。いいか。戦上手と言うのが戦に勝つ事だけならば、有利不利と言うのは実際の戦場以外にはない。勝てそうにない相手とは戦わず、避けて機を待てばいいだけだからな。だが政と言う物で測れば、そんな勝ちには、何の意味もない事の方が多い」

「まあ、言ってる事は分かるけど」

 師行にとっての戦は、どこまで規模が大きくなっても戦場で実際に戦う事の延長だと言う事だろう。
 数百の兵で小さな城を取り合う戦も、数十万の兵を動かして天下を平定する戦も、それが同じ純粋な戦である限り本質は何も変わらないと言う事だ。しかし顕家がやっているのは純粋な戦では無く、すでに政が絡む物になっている。

「戦に勝つ事だけが目的なら、西上など考えずにひたすら白河以北の土地を平定すればいい。後二年もあれば奥州から北条の残党も足利方もいなくなる。例えそこに奥州以外の天下を取った足利尊氏が攻めて来ようと、俺と陸奥守がいればいくらでも打ち払える。そうして勝ちを重ねて行けば、いずれ尊氏は首を取られるか、力を失う。陸奥守も、それぐらいの事は分かってるだろう。それでも、そう出来ない理由がある」

 師行にとっては自明であろう事を尋ねてしまったようだ、と楓は僅かに後悔しかけていたが、意外にも師行はそれ以上不機嫌になる事も無く、饒舌なままだった。この男が物事を説いて聞かせるように話すのは、自分が相手でも珍しい。

「その理由が政?」

「幕府のためにせよ朝廷のためにせよ、戦は政のためにする物だが、政は時に最初から間違った事を戦に求めてくる事がある。例えば戦で解決すべきでない問題を戦で解決しようとしたりだ。そんな時は大抵、どれほど戦場で勝とうと、戦況は良くはならんし、そもそも勝つ事自体が難しくなる」

「顕家様は最初から勝てない戦をやってる、って言うの?」

「理屈では勝てない戦だな。だが、戦は理屈だけでは決まらん。実際の戦では何が起きる事も有り得る。例えば一度の戦で尊氏が死ねば、ひとまずは勝てる。だから、下らん質問だと言った」

「私なんかは理屈で勝てそうにないんならさっさと諦めちゃえばいいのに、と思うのに。難儀な物だねえ、顕家様も師行さんも」

「何故俺も、だ」

「そこまで分かってて、付き合ってるから」

「陸奥守に付いた方が面白い戦が出来る。それだけだ」

 わすかに不機嫌そうに鼻を鳴らし、師行は答えた。
 戦の事しか考えていない男だ、と多くの人間が思っている。だが実際にはとても深い所で政と言う物に対して、一つの答えを出している。そしてその答えを貫くために、他には何も考えず顕家に従って戦う事を決めている。
 楓から見れば、損な生き方をしているようにしか見えなかった。武功を立て所領を増やし、武士として栄達しようと思えば、いくらでも出来るはずだ。
 それでも師行自身は、自分が何かを得損なっているとは微塵も考えてはいないだろう。

「今日の師行さんの晩御飯、私が作ってもいい?」

 ほとんど何も考えず、何故だか、楓はそう言っていた。師行が胡乱げな目を向けてくる。気恥ずかしくなり、楓は目を逸らした。

「好きにしろ」

 その言葉を最後にして師行は楓に背を向け、再び屋敷へと歩きだす。楓は慌ててそれを追った。
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