ウィーンのスターリン

守 秀斗

文字の大きさ
上 下
1 / 1

ウィーンのスターリン

しおりを挟む
 一九一三年三月。
 ヨシフは、自分の書き上げた論文を見直していた。

 題名は「マルクス主義と民族問題」。
 ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党が分裂した際の左派組織)がロシア帝国内の少数民族にいかに対処すべきかという「民族問題」についての論文だ。

『我々プロレタリアは国家はもとより民族の垣根も越えて、社会主義のために団結しなければならない』

 筆名はヨシフ・スターリンとした。
 スターリンとは『鋼鉄の人』という意味である。
 
 帝政ロシア国内で革命活動を行っていたヨシフ・ジュガシヴィリは、何度となく逮捕されては逃亡を繰り返していた。しかし、一九一二年に逮捕され、流刑地のヴォログダ州ソリヴィチェゴドスク村に住んでいたが、その時、ボリシェヴィキ中央委員に選出された。

 一月に帝政ロシア政府のスパイであるロマン・マリノフスキーの密告で大勢のボリシェヴィキの幹部が逮捕されたため、繰り上げで幹部に昇進したのである。その後、ヨシフは流刑地から逃亡した後、レーニンから招待され、オーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフを訪問した。レーニンの亡命先である。

 そこで、ヨシフはレーニンから、メンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党が分裂した際の右派組織)に対する宥和的態度を批判され、あっさりとメンシェヴィキとの宥和に反対するレーニンの立場に同調した。

 その後、ヨシフは、レーニンと親交が深かったが、現在はメンシェヴィキであるレフ・トロツキーに会うためウィーンに移動した。レーニンとしては、トロツキーと再び協力関係を結びたかったからだ。しかし、以前、ヨシフと会ったことのあるトロツキーはますます傲慢になり嫌な奴になっていた。

 そこで、ヨシフはシェーンブルン宮殿の近くのトロヤノフスキーというロシア人の家に同居させてもらった。トロヤノフスキーはメンシェヴィキの中央委員で理論誌の編集委員をつとめていた。メンシェヴィキではあったが、裕福であったので自宅にヨシフを受け入れ、ドイツ語がわからないヨシフのために資料の翻訳までしてくれた。

 そこで、ヨシフはボリシェヴィキがロシア帝国内の少数民族にいかに対処すべきかという「民族問題」についての研究を進め、約三か月かけて、論文を作成した。

 ロシアは多民族国家だ。
 もし革命が成功した後、我々ボリシェヴィキが政権を奪取した後、民族問題が真っ先に直面する課題となるだろう。ロシアにとって非常に経済的に重要なウクライナと北カフカース一帯では民族主義が活発化している。

 民族自決によってこれらの地域が分離独立すれば、たとえ革命が成功したとしてもその後の国家運営が困難となるのは必然だ。特にウクライナと北カフカースの穀倉地帯が無ければ、ロシア人が明日食べるパンにも影響するだろう。

 よって、『民族主義』などというものは叩き潰さなくてはいけない。
 ヨシフはこの結論にレーニンも満足するだろうと思った。

 しかし、正直、疲れた。
 まともに論文なんぞを書いたのは初めてだ。

 ちょっと、気晴らしがしたくなった。

 ヨシフは、まだ冬で寒い中、ウィーン市内の散策に出かけた。

 昼。
 さすがはオーストリア=ハンガリー帝国の首都なので、観光客も多い。
 
 ヨシフは壮麗なシェーンブルン宮殿などを見学しながら、ぶらぶらと散歩していると、ウィーン国立歌劇場の近くまでやってきた。

 すると、キャンバスにその劇場を描いている青年がいた。
 そっと、後ろからその絵を見てみる。
 もうすぐ完成しそうだ。

 しかし、ヨシフは芸術にはあまり興味がない。
 その青年の絵も、写実的で、素人のヨシフからすると単純に上手いなと思ったが、芸術的に評価できるかどうかはさっぱりわからなかった。

 そして、その青年の脇には、スタンドが置いてあり、何枚か絵葉書が置いてある。
 この青年が描いたものだろうか。

 せっかく、ウィーンに来たことだし、それにその青年の服装はボロボロで、顔色も悪い。お金に困っているような感じがした。おそらく、この絵葉書を売って生計でも立てているのだろう。

 この青年も絵葉書を書いて、生活をしているなら労働者だろう。
 労働者の天国を建設する夢を抱いているヨシフは、この青年を少し応援したくなった。

 ドイツ語が喋れないヨシフは身振り手振りで、その青年から絵葉書を一枚買った。
 ごく普通の風景画だ。

 いずれは、このような貧しい生活をしている人などいない世界を作るぞと考えながらヨシフはトロヤノフスキー家への帰途に着いた。

……………………………………………………

 暗くなってきたので、ウィーン国立歌劇場を描いていた青年は道具の片づけを始めた。
 すると、不意に一人の男が近づいてきた。

「珍しく絵葉書が売れたようだなあ。誰だよ、買ったのは、こんな平凡な絵葉書」
「ああ、小柄な外国人が買っていったよ」

 この青年には友人はいない。
 この男も単なる知り合いだ。

「しかし、君がもし偉大な芸術家になったら、その絵葉書もかなり価値が出るんだろうな」
「そう願いたいもんだけどな」

「ちょっと、夕食でもレストランに食べにいかないか、アドルフ」
「いや、悪いけど、お腹はすいていない」

 貧しいので、食費も節約しなくてはいけないのが現状だ。
 しかし、その青年、アドルフ・ヒトラーは思った。

 いつかは、誰も知らぬものがいない世界的な有名人になってやると。
  
〔END〕
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...