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第十章
3.結末
しおりを挟む烈牙を見つめる横顔は、とても穏やかだった。
克海は、月龍の激しい感情しか知らない。狂おしいほどの蓮への恋情、皆を騙していた蒼龍への怒り、自分を認めてくれない烈牙への焦燥感――
けれど、あんな顔もできるんだ。
人間らしい、優しい表情にどこか安堵する。
同時に悲しくもあった。人を想う気持ちは、尊いものだ。なのにその感情が強すぎたり、なにかを掛け違えたりすると、ああまで拗れてしまうものなのか。
未だ、自分では抱いたことのない感情を予想して、少し怖くなる。
そう、克海は月龍ではなかった。
遊園地で逃げていく胡桃を見たときの焦りは、非常に強かった。状況を見る限りではどう考えても自分が月龍で、別人格として彼が中に在るとしか思えない。
悠哉を訪ねてきて、胡桃と抱き合っているのを見たとき、邪魔をしてしまったかと気まずくなった。その直後意識を失い――気づいたら、半透明の月龍が目前にいた。
ホッとした。たとえ過去とはいえ、女性に暴力を振るったのが自分ではなくて。
そして、寂しかった。幼い頃から憧れてやまない悠哉と、何千年にも渡る絆があったと期待したから――烈牙と悠哉の関係を、羨ましく感じたことも、あったから。
「大丈夫か?」
ほんのりと苦い気分を誤魔化すために、烈牙へと声をかける。
穏やかな微笑みを残して消えた、月龍。彼がいた空間を見つめる表情が、あまりにも寂しげだった。
けれど、手のひらで乱暴に目元を拭ったあと、向けられた一瞥にはいたずらな色が浮いている。
「人の心配してる場合じゃねぇだろ。どうだ? 存在を否定してた『幽霊』ってヤツを目の当たりにした気分は。まだ疑ってかかるか?」
指摘されて、ハッと我に返る。
新学期が始まってすぐの頃、霊はおろか呪術や転生すら信じていなかった。なのにほんの二カ月足らずで、それらの現象をすんなりと受け入れてしまっている。
ばつの悪さに、少し頬を膨らませて見せた。
「信じるよ。さすがに自分の目で見ちゃったんだから」
ついでに取り憑かれるまでされちゃったんだから。続けると、くすくす笑われる。
「いやいや、立派な心構えだぜ? 合理主義者なんて、信念のためには自分の目すら疑いやがる。その点お前は、事実を事実と受け入れられる度量がある。それはお前の美徳だ」
あまりにも率直に褒められたものだから、一瞬意味を理解できなかった。
えっ、と戸惑いと共に見やると、烈牙もこちらを見ていた。
「――ホント、いいヤツだなお前」
寂しげに笑う顔が、なぜだかチクリと胸に痛い。
「さて、そろそろ帰るか」
「待ってくれ」
うーんと大きく背伸びした烈牙を制止したのは、悠哉だった。
「本当の、解決じゃない。月龍は、成仏したわけじゃないだろう?」
「だな。ただ、姿を消しただけだ」
けろりと言い放たれて、再度驚く。
二人が「またな」と言葉を交わしたあと、月龍は消えた。互いを見つめる瞳にははっきりと情が見えて、刻まれた笑みには満足が表れていた。
だからてっきり、再び輪廻の輪に戻ったと思っていたのだけれど。
「そうとわかっていて、行かせたのか」
「仕方ねぇだろ。ここにいるわけにゃいかねぇんだしよ」
さも当然といった台詞に、悠哉はハッと息を飲んだ。神妙な表情が、端正な顔を飾る。
「その件だが――」
「説明はナシだぜ」
何事か口にしかけた悠哉を、ぴしゃりと遮る。
「全部、わかっちまった。すげぇすっきりしたぜ」
文字通りさっぱりした顔の烈牙に、克海は首を傾げた。
「おれ、よくわかんないんだけど……」
「胡桃と同じ反応してんじゃねぇよ」
悠哉も烈牙も、すべてを了解した様子だけれど、途中意識を失っていたせいもあるのか単純に察しが悪いのか、今ひとつ事情が呑み込めない。
片眉を上げた呆れ顔に、確かに胡桃と同程度の理解力では困るなと失礼なことを考える。
「とにかく、説明なら悠哉にしてもらいな。胡桃にはおれから話しとくから」
今ここで一緒に話を聞くという選択肢はないのか。疑問に気づいたのか、烈牙が苦笑する。
「正直、術を使ったせいで体力の限界でな。さっさと帰って、こいつを休ませてやらねぇと」
トンと胸を指先で突く動作に、納得する。
不動明王の圧力を受けただけの克海でさえ、そこはかとなくだるかった。術を行使した胡桃の疲労度は、比ではないはずだ。
「だから、ね、悠哉さぁん」
急にくるっと身を翻すと、とんとんと軽快な足音で悠哉へと歩み寄る。
甘ったるい声は、胡桃本人でさえ出しそうにないものだった。
驚いて固まる悠哉の片手を両手で握り、右に左に大きく振る。
「今日、帰りは送って? 少しでも長く、一緒にいたいの」
女の子らしい仕草、というよりも大げさな態度は、むしろ不自然だった。中身が男だと知っているせいか、ニューハーフの人みたい、との感想を禁じ得ない。
ふざけているだけだとはわかる。わかるのだけれど。
「いや、気持ち悪いから」
期せずして、悠哉と克海の声が重なった。
「今回の件じゃ、二人に世話になっちまったな」
同行するつもりもなかったのに、「克海くんも一緒に来てぇ?」と胡桃の真似でねだる烈牙の気味悪さに負けて、助手席に座っていた。
烈牙は胡桃の自宅前で車から降り、全開にした運転席側の窓枠に、肘をついて身を乗り出している。男っぽく目を細め、悠哉の目前を横切る形で手が伸ばしてきた。
「え……っと、なに?」
「握手だよ、握手」
急になぜと思いつつ、促されるまま手を取る。握り返してきたのは、胡桃の、白魚のような細い指を裏切る力強さだった。
「次、悠哉な」
名残惜しそうに克海の手を離し、今度は悠哉へと手を差し伸べた。戸惑いを浮かべながらも応じかけた手を、しかし烈牙はするりとすり抜ける。
そして悠哉の左頬に手を当て、ぐいっと引き寄せるのと同時、彼の右頬に唇を押し当てた。
「――っ!」
悠哉も驚いただろうが、横で見ていた克海も当然、驚いた。やっぱり二人は両想いで、ここにいる自分は邪魔者だったんじゃと心配するも、よく考えると今は「烈牙」だ。
もっともこう感じられることが、胡桃に惚れたと思っていたのが、月龍の感情に引きずられていただけだと実感できて、安堵もする。
「お前には、これの方が礼になるだろ?」
パチンと片目を瞑る仕草が、胡桃の姿と相まって可愛らしく見えた。
「本当はこいつ本人にさせてやりたかったんだがな。今も中で、なにするのーって真っ赤になって騒いでるくらいだから無理だろうからな」
だからおれが代わりにな。
笑顔を残して、じゃあなと悠哉の頭を撫でるように叩く。
「――烈!」
呼び止める悠哉の声は、いつになく真剣なものだった。
「今回の結果を、おれは良かったと思っている。これでもう――遠慮せずに、すむ」
月龍と蓮が結ばれて、幸せになるのを見届けるのが蒼龍たる自分の義務だ。以前、悠哉はそう言っていた。
けれどその柵が解かれた今、確かにもう遠慮はいらない。
半身で振り返った烈牙が、おう、と肩を竦める。
「わかってるって。うまくやんな」
「じゃあ――またな、烈」
肩越しに軽く笑んで、烈牙は後ろ手に手を振った。
そう、胡桃はここにいる。悠哉もここにいる。その気になればまた、明日にでも会うことができる。
そのはずなのに、どこか不安げに烈牙の後姿を見送る悠哉の表情が、やけに印象的だった。
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