くゆる煙のその先に

山橋雪

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 それからも彼とはよく会った。
 この喫煙所で。特に談笑するでもない。
 ただただ暗がりに二人、蛍火二つ灯らせて、白い毒煙をふかすだけ。
 出会った頃から同じ、傍から見れば他人の佇まいのまま。

 ただ変わったことはある。私の心持ちだ。
 妙な焦りとか、憂鬱さはもう無かった。
 静かにふたりで煙草を吸う時間に心地よさすら覚えていた。
 
 彼はどんな気持ちなんだろう。
 いつもふと思うがいつも尋ねられない。
 聞こう聞こうと思っているうちに、彼は喫煙を終え颯爽と喫煙所を出ていく。いつも通り私に手を振ってから。あの綺麗な笑顔とともに。 
 笑顔が見えているなら、嫌な時間ではなかったのだろうと推測はするけれど…………。わからない。
 ここ最近はずっとそんな疑問を持ちながら煙草を消していた。


 *


 夏。
 彼と喫煙所で会わなくなった。
 理由は何となくわかっている。それは前期が終わるから。
 彼とここで会うのは専らあの退屈な講義の前後であった。出席だけで単位の取れるあの講義には試験がなく、前期の講義が終わり期末試験日程に入った今は彼と会うタイミングを逃してしまっているというわけだ。

 先程受けた科目の試験の手応えを感じながら、いつもの喫煙所に入った。煙草を口に咥え、左手を煙草の先端にかざし、右手のライターで火をつける。白い煙が広がった。

 期末試験が終わればそのまま夏休みに入る。そうすればいよいよもって彼と出会う機会はなくなってしまうだろう。部活もサークルも入っていない私は大学に出る機会がないから。
 彼はどうだろう。そういえば彼は部活とかサークルには入っているのだろうか。

 彼とはよく会うがほとんど会話しない。そのため彼がどこの科の所属で普段どんなことをしているか未だに全く知らない。

 いくら部活に所属していたとしても流石に毎日は大学には来まい……というか、そもそも、もし地元が遠かったらいっそ帰省してしまうのではないだろうか。………彼はどこの出身なんだろう。言葉のイントネーションには方言のようなものは感じられなかった。しかしこの現代においてはテレビ等のメディアからいくらでも標準語は聞こえてくるし、私と同年代の人間で方言しか話せない、話さないという人というのは中々珍しいだろう。とするとやはり彼が地方出身であるかどうかも判断がつかないことになる。

 私は彼のことを何も知らない。
 そして彼もまた私のことを何も知らないだろう。
 毎週のようにここで出会い、煙草をふかし同じ時を過ごしてはいる。ここだけ聞くとそこそこに親密なように聞こえなくもないが、その会合に会話はなく、お互いの私的な領域への立ち入りはまるで無く、ただ近くで突っ立っているだけの関係に見えなくもない。だけど他人というわけでもなく、お互いがお互いを知人として認識し――彼に至っては私を煙草友達と称しているくらいだ――そして毎度お互いにアイコンタクトくらいはする。

 改めて、不思議な距離感だと思う。
 いくら交友関係の狭い私でもこの関係性が一般的ではないとはわかる。
 …………"煙草"友達だからか? この妙な枕詞が取れればこの関係性が変わるのか? いや逆か? この関係性が変わればそれが取れるのか? いや、取ってどうするんだ? 果たして私はそれを取りたいのか?
 わからない。
 だけど、彼とここで一緒に煙草を吸えないのは何だか少し味気ない。


 *


 あれから一週間が過ぎた。
 長かった試験期間もようやく終わる。
 徹夜を続けて疲労の蓄積した脳でぼーっとしながら、いつもの喫煙所で煙草をふかしている。
 試験の手応えは……いや、考えまい。いまは長く続いた苦しい日々の終わりを噛み締めよう。
 試験期間が終わると思うと、やけに煙草が美味しく感じる。
 ぼーっと吸っているうちに火種はフィルターのところにまで迫っていた。指に熱を感じてようやく気付いた。

 もう終わるのか。やけに早く感じたな。もう一本吸うか。急ぐ用事も無いし。

 そう、急いで帰って仮眠して夕方くらいに起きて試験勉強を開始して、というような毎日はもう終わったのだ。ゆっくりとした時間を楽しもうではないか。

 それまで吸っていた煙草を一度左手に持ち、右手で煙草をもう一本取り出して口に咥える。それまで吸っていた煙草の火を新しい煙草の先端に押し付けて、新しい煙草の方にも火をつけた。
 その後、それまで吸っていた方の煙草は灰皿にこすりつけるようにして火を消した。

 
 夏。
 雲ひとつない青空。太陽の日差しが痛いほどに刺さる晴れの日。
 湿度はこれまでの数日と比べて幾分低いが、それでもじっとりとした暑さを覚えた。
 そのような夏の日でもこの喫煙所はいつも暗く、ひんやりとした空気で淀んでいる。
 その中に一つだけ光る蛍火は、夏の陽気とは無縁のこの喫煙所を甚く気に入っているように見えた。


 終ぞこの試験期間中は彼と出会さなかった。
 この一週間、毎日大学に来ていて、毎日この喫煙所に立ち寄っていた。試験の前と後に必ず立ち寄っていた。それでも彼とは出会さなかった。
 一度くらい彼と会えるだろうという期待を全く持っていなかったとは言い難い。…………いや、会えるかなくらいの気持ちは抱いていた。
 そして、一度も出会えなかった。出会えないまま試験期間は終わり、夏休みに入ろうとしている。

 今日を逃せば暫く会えないのかな。夏休み明けまで。
 いや、この一週間でさえ会えなかったのだ。あの講義が終わってしまったいま、彼と私とが出会うタイミングはもうないということだ。となれば、彼とはもう二度と会えないのではないのだろうか。あれほど退屈に思えていた講義によって彼と私が繋ぎ止められていたとは思わなんだ。

 彼と会えないことがどうしてこれほど……こう…………残念に感じてしまうのだろう。

 煙草友達と言ってくれたから?
 綺麗な顔と言ってくれたから?
 可愛いと言ってくれたから?

 わからない。どれも悪くない言葉だけど、言葉自体はそれほど特別なものじゃない。けど彼から言われたときはとても嬉しかった。
 だからなのか? また嬉しい言葉を言われたいから?
 いや、そうではない。言葉を交わさない日だってたしかに心地よさを覚えた。言葉だけが欲しいのではない。
 ならなんだ? なにを、なにが、私を……
 
 いや、はっきり言おう、認めてしまおう。
 
 私は彼に執着してしまっている。
 理由は全くわからない。言語化できない。けれども、そう言ってしまって良いほどに、彼と会えない喫煙所は寂しい。彼と吸えない煙草はどこか物足りない。

 こんなことならもっと会話しておけば良かった。
 もっと彼のことを知っておけば良かった。
 喫煙所だけでの関係だと思っていたし、それ以上になるとも思っていなかった。
 けれど、一緒に時間を過ごすうちにそれは変わってしまった。
 彼と過ごす時間はとても居心地が良かった。心地よかった。会話の無い無言の空間で心がこれほどまでに落ち着くなんて思いもしなかった。
 普通の人ではあり得ない。どのような人間同士であっても、相性とか、ある程度親密な仲を築いてからでなければその境地には至れないと思う。それでも、私との間でそれを自然となし得てしまったのが彼。

 そんな彼と会えなくなるのは…………惜しい。
 ああ、その時間の心地よさに甘えて彼との関係を深めなかったツケがいま回ってきているのか。そのツケが二度と会えないという罰ならば些か高すぎるツケではなかろうか。人付き合いの苦手な私がやっと見つけたような人なのに。失敗の代償が重すぎるだろう。


 ああ、二本目の煙草の火もそろそろ消える。

 大学内に留まって彼と出会すまで粘ろうか。
 駄目だ、そんなことしても彼とはもう出会えない気がする。
これまで何度もチャンスはあったのに、甘えてきてしまった私に、最後の望みなど残されているはずもない。
 それに、徹夜続きのこの身体で何時間も大学内を歩き回ったら相当体力を消耗するだろう。そんな状態で…………そんな酷い顔で彼と会いたくない。


 手に持つ煙草から煙が消えた。
 これを灰皿に入れたら終わり。彼とは会えない。

 ああ、終わってしまった。

 終わりを認めたくない気持ちを宥め、深呼吸。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。

 さよなら。

 心のなかで呟いて、灰皿にそれを落とした。

「…………帰ろう」
 誰に言うでもなくひとり呟いた声は喫煙所に木霊する。
 誰の返答もなかった。

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