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1巻
1-3
帰り支度を整えたわたしは、チーフに促されるまま、彼の車に乗った。
男の人に車で送ってもらうなんて、滅多にない。それも助手席……たまにコータや男友達の車に乗せてもらうことはあるけれど、その時はいつも後部座席だ。
「この道、右でいいのか? それなら意外とうちと近いな」
「そう、ですか」
わたしは助手席で小さくなっていた。チーフの車は排気量の大きな三ナンバー。座席も革張りでグレードの高い内装だった。チラチラと運転席を盗み見るけれど、なんか横顔格好よすぎじゃないですか? 助手席ってやっぱり彼女が座る場所で、そこにこんなゴツいのが乗っているだなんて……思わず気後れしていた。
今までそんな目で見たことなかったけれど、仕事中とは違い少しリラックスした感じで運転するチーフは妙な色気があった。ハンドルを持つきれいな指先にまで、ドキリとする。
「すまないが、少し話がある……おまえの家の近くに、車を停めておく場所はあるか?」
アパートの近くまで来ていきなりそう言われ、来客用の駐車スペースに案内したけど、車の中で話すのかな? なんだろう、ちょっと緊張する……
「ここで話すのもなんだから、部屋に上がらせてもらいたい。無理ならどこかお茶でも飲めるところを探すが、おまえも今日は早めに食事したほうがいいだろう? だが、ダイエット中は外食をあまりしたくないだろうと思ってな」
「それはそうですけど……」
だけどいきなりわたしの部屋に? いまだに誰も男の人を入れたことがないのに。って、いくらなんでもチーフを疑うのは失礼だよね。厳しいけど差別もセクハラ発言もしない、信頼できる上司だ。それにモテるって聞いているから女性なんて選び放題だろう。部屋に上げたところで、チーフがわたしを襲うとかあり得ない。わたしなんかにその気になる男の人なんて、この世にはいないのだから。
わたしはそう思い直し、チーフを自分の部屋に入れることにした。
車を降りて、わたしの部屋まで並んで歩く。それだけなのにやたらと緊張していた。
「あの……よかったら、チーフも一緒に夕飯をいかがですか? 簡単なものですが作ります」
今日は夜、イッコとあずまやに行く約束をしてるけど、まだ時間も早いから軽めに食べるぐらいならいいよね。作りおきの野菜スープがあるし、ご飯も冷凍してるのを温めればすぐに用意できる。ダイエットをはじめてから結構料理をしているので材料にも困らない。今朝は朝食もお弁当も作らずに出勤したので、材料は余っているぐらいだ。
「いいのか? だが、料理なんて無理しないでいいぞ」
「いえ、もう大丈夫です。送っていただいたので余計な体力を消耗せずに済みました」
この調子だとご飯の用意ぐらいは頑張れそうだ。
「それじゃ食事をして、その後ゆっくり話をしよう」
ダイエットをはじめてから、部屋は比較的片付いている。身も心も部屋も、きちんとしたほうがいいと思ったし、寝る前のエクササイズのためにスペースを空けている。ワンルームだから、ベッドまで丸見えでちょっと落ち着かないけど……
「えっと、ど、どうぞ」
少々戸惑いながらも、チーフには部屋の真ん中に置いたローテーブルの横、ベッドと反対側に置いたクッションの席を勧めた。すると、チーフは躊躇することなくそこに腰を下ろす。やっぱり、女性の部屋に入り慣れてるのかな?
「安心しなさい。なにもしやしない。俺はおまえの上司だ。それに、今はアレの最中だろう? そんな時に無理矢理やる趣味はないし、そう不自由もしてないから」
やっぱりビクビクしてるのが態度に出ていたらしく、気を遣わせてしまった。
「いえ、あの……じゃあご飯を作ってきますので、しばらくお待ち下さい」
そうだよね……女性に不自由なんてしてないよね。もしチーフが、なんて考えてた自分が恥ずかしい。こんなにモテる人が、わたしなんかにその気になるはずがない。
それにもし今、急にそんな展開になったとしても、いろいろな意味で人前で脱げるような身体じゃない。下世話な話になるけど、今まで男の人とどうのこうのって考えたことがなかったから、むだ毛だって処理してないし下着だって特別なものじゃない。しかも少し痩せて身体に合わなくなってきてたから、明日イッコと一緒に買いに行こうと思っていたところだった。
「ご馳走さま。思ったよりちゃんと料理してるみたいだな、よかった……」
手早く準備してふたりで食事を済ませた。男の人には少な目かもしれないけど、同じ量でいいと言われたのでそのとおりにした。
「どうだと思われてたんですか?」
「いや、君がボクサー顔負けの減量をやってたら止めようと思っていたんだ。どうやら違ったみたいだが」
食事もいつもの夕飯より少しだけメニューを増やしていた。野菜スープにトマトピューレを入れてミネストローネ風に。和風だし巻きをオムレツ風にして、ちりめんじゃこと大根おろしを添えた。後はキャベツをさっと湯通ししたサラダ。メインは豚肉の塩麹漬けを軽く炒めて、冷凍ほうれん草のソテーを付け合わせにした。
「頑張っているのはわかるが、無理するな。女の子は少しくらいふっくらしているほうがいいだろ」
「なっ……」
その言葉にカチンときた。──嘘ばっかり! ふっくらとおでぶは違うでしょ?
わからないんだ、チーフにはわたしの気持ちなんて! 世間からおでぶってだけで拒否されて、女扱いもされなくて、心をズタボロにするような言葉を平気で投げつけてくる。それでこっちが開き直ると、『女捨ててるよね』って。『皿まで食いそう』『服が悲鳴上げてるよ』とか言われるし。なにひとつ、いいことなんてありゃしない。
「そんなの建て前ですよね? そう言ってる人に限って彼女は細身の人が多いんですよね。自分の意思でダイエットしてるんですから、頑張ったって構わないでしょ? わたしの自由だと思います」
「そんなつもりで言ったんじゃない」
「いいんです、もうそんな気を遣っていただかなくても。だけど男の人ってやっぱり見かけで選ぶじゃないですか。いくらおしゃれしても、仕事頑張っても、わたしなんかいつも恋愛対象外ですから! そりゃ、わたしみたいなのじゃその気にもなれないだろうけど……でも、わたしだって一度ぐらい普通の女の子として扱われたいんです! おでぶなことが犯罪で、人間じゃないみたいに言ってくる人もいるから……悔しくて。それに、少しぐらい体重が落ちたと言っても、まだおでぶなんですよ? 標準サイズの服も入らないし、スタイルだって全然です。だからもっと痩せたくって、わたし……」
「千夜子くん、まさか……今まで男性と付き合ったことがないのか?」
「なくて悪かったですね! 生まれてこのかた、彼氏なんてもの、できたことありませんよ! チーフはモテるだろうから、わたしのこんな気持ちわかんないでしょうけど」
ええ、そのとおりですよ! なくて悪いですか? 相手が上司ということも忘れ、わたしの怒りのボルテージは上がっていった。
「そんなことない、わかるよ」
「嘘言わないでください! チーフにわかるはずないじゃないですか!」
仕事ができて、厳しいけど人格者で、スタイルも顔もいい。モテるって話は色々と聞いてるんだから!
「嘘じゃない。俺も……昔は太ってたんだ」
なに? えっと、空耳かしら? チーフが太ってたって……?
「……え?」
思わずチーフに向かって顔を突き出し、見つめてしまった。すると彼は、口元に手を当てて目線を外してる……うわぁ、もしかしてチーフ照れてるの? 耳まで真っ赤だよ。
「その……俺は昔、小児喘息でな、母親に過保護に育てられたんだ。薬の副作用と運動不足、過食と偏食と甘やかしで、でっぷりと浮腫んだ子供だったんだ」
「嘘、ですよね?」
だって今のチーフは、筋肉質で男も惚れるほどの美丈夫で……本城さんと二人並ぶ姿はボーイズラブの世界のようだと、腐女子で有名な総務の香川さんがうっとりと語ったほど。そのチーフが昔は肥満児だったというの?
「本当だ。喘息だったから、あまり激しい運動ができなくてな。動かずに食べてばかりいたら、ぶくぶく太ってしまったんだ。小学校に入る前に喘息の治療も兼ねて水泳をはじめてからは、症状は治まってきたんだが、肥満児のままで……中学に入った頃から、これじゃいけないと両親を説得して食事を変えたんだ。いとこがダイエットにやたら詳しかったので、献立や運動方法も指導してもらってな。体重が落ちると体力もついてきて、運動や筋トレをしっかりするようになった。高校に入った頃からかなり泳ぎ込んで……身体も徐々に引き締まってきて、高校、大学時代はプールに青春を捧げてたな」
そうやって鍛えたから筋肉質になったというの? わたしの筋肉は今じゃ見る影もないけど。
「痩せたいというおまえの気持ちもよくわかるが、体重でなく脂肪を落とさないとダメだろう?」
もちろん、それもわかっている。でも運動したくてもなかなか身体が動かないし、時間も暇も気力もない……
ああ、ダメだ……言い訳してるうちはダメなんだ。ちゃんとやらなきゃって思うけど、できなくて焦る。それでつい食事を減らすことで結果を得ようとして失敗してきたんだ。
けれど、まさかチーフが肥満児だったなんて、誰も知らないよね? もしかしてわたしにだけ教えてくれたんだろうか? でもそれって……
「自分が昔太ってたから、わたしに同情してそんなこと言うんですか?」
「同情じゃない。ただ、俺も辛さを知っている。太っているのと痩せているのとじゃ態度の違う人間が多いのはたしかだ。俺だって十分、経験してきたよ。太ってる頃は見向きもしなかった女子が、痩せたら途端にキャーキャー言って告白してきたり……呆れるよ」
そ、それは自慢ですか? わたしの場合、痩せてもそんな奇跡起こりそうにないんですけど。
「けど皆、昔俺が太っていたことを知ると、微妙な反応をするんだ」
「微妙?」
「ああ、もしかしたら、また太るんじゃないかって疑われる」
ああ、なんかわかる気がする。たとえ痩せても、太っていた過去は消せないのだ。
「でも、わたしはダイエットに成功して、今も体型を維持されてるチーフはすごいと思いますけど?」
「ああ、おまえはな。元々、人を見かけで判断したりしないからな」
それは……確かに。人にはいろいろ事情があるものだ。
「俺はな、本当のおまえを好きになってくれる人を見つけて欲しいんだ。おまえは、俺が離婚した理由を知らないだろう?」
「あ……はい」
わたしが今の職場に配属された頃、チーフはすでに離婚していた。
「誰にも言ってないし……表向きは『性格の不一致』ってことにしている、実は違う。本当は元妻が『あなたの子供を産むのは厭だ』と言ったからなんだ」
「え? どうして……」
「子供の頃太ってたことを、俺は黙っていた。だが結婚式の二次会で俺の幼馴染がバラしたんだ。その後、俺の実家で幼い頃の写真を見て……それ以来、肥満遺伝子を受け継ぐ子供なんて産みたくないって言い出したんだよ」
「そんな……」
「元妻は、ミスなんとかに選ばれるほどの美人でな。上司に薦められるまま見合いして結婚した。恋愛結婚ではないが、愛情ある家庭を築けると信じていたよ。だが、向こうは遺伝子まで完璧じゃないとダメだったらしい。結局、俺のほうもそんな妻を抱けなくなって……性格じゃなくて『性の不一致』だったんだ。結婚してから離婚までの半年間、夫婦関係ゼロのまま別れたよ」
「酷い……チーフは、結婚した時にはもう太ってなかったんですよね? 過去のことなんてどうしようもないのに。それに、チーフがこの先太るかどうかも、子供が肥満になるかどうかも、すでに決まっているわけじゃないのに」
「妻はそう思わなかったらしい」
「痩せることで周囲の態度が変わって、嫌な思いをする可能性があるのはわかりました。それでも……今は無理してでも痩せたいんです。だってチーフは痩せて結婚できたんですよね。今も彼女がいたりするんですよね? 最初の結婚はそういう結果になったかもしれないけれど、まだ希望はあります! でもわたしは……今の体型のままだと皆に結婚どころか付き合う気もおきないって思われてるんですから」
「そんなこと言う奴は放っておけ。ダイエットは体調を崩してまでやることじゃないぞ」
「……心配、してくださるんですか?」
「ああ、可愛い部下だからな。おまえはよく仕事をやっているよ。他の班の分までフォローしてくれて、うちの部全体をまとめる俺も助かっている。ありがとう、感謝してるんだ。……最近、二班の奴らがおまえのことを悪く言ってるのにも気が付いてた。だが別のチーフがいる手前、二班のことに迂闊に口出しするわけにはいかなかった。すぐに止められなくて、すまない。この間、おまえが泣いた時も……」
え? わたし、いつ泣いた? チーフの前でなんて泣いたことないのに。
「一度、泣き腫らした目で戻ってきたことがあっただろう?」
やっぱり気が付いてたんだ。チーフってすごく人のこと見てくれてるんだ。
「おまえは本城が……好きなんだろ」
ど、どうしてそのことを知ってるの? 隠してたのに……そんなにわかりやすかった? わたし
「それなら協力してやろうか? あいつは体型云々で人を差別するような奴じゃない。ただ、まあ……自分から動くやつでもないから。おまえが自分に自信を持って声をかけられるようになれば、きっとうまくいくはずだ」
「そ、そんなの無理です!」
うまくって、付き合うってこと? それはもう、ありえないって思ってるから! だってダイエットしたところで可愛くなるとは限らない。そりゃあ、痩せれば少しは自信がついて、食事の誘いぐらいは受けられるだろうって……でも、ただそれだけで。
「おまえはさ、今まで体型を気にして、誘われても下ばかり向いてただろ? 少し痩せたんなら、自信を持って顔を上げていればいいんだ」
「自信なんて、欠片もないですよ。わたしなんか、少々肉が落ちたところでちっとも変わらないんですから……」
「そうかな? 例えばその胸。ブラウスのボタンを外してる隙間から見える白い肌に、欲情していた男性社員がいたかもしれない」
「え? ま、さか……」
そういえば応接室で気が付いた時、ブラウスのボタンはかなり下まで外されてたし、ベストも着ていなかった。倒れた時、苦しくないように胸元を開けられたのかな? あの後、慌てていたから『あれ?』って思ったけれどそのまま着替えてしまった。
胸はおでぶの割には小さいけど、谷間ができるぐらいのボリュームはある。というか、脇の肉とかを寄せ上げて、胸ってことにしている。
「少なくとも俺には、その胸は魅力的に見えるぞ? それにふっくらした腰のラインも、柔らかそうでいいなって思う」
「な、チーフ! それって……」
「セクハラか? おまえがあんまり自信がないって言うから、男が考えてることを教えてやったまでだ。しっかり俺をその気にさせるぐらい魅力あるぞ。おまえのカラダは、抱き上げた時も背負った時もなかなか素敵な感触だったからな」
「ひぇっ!!」
昼間に倒れた時、運んでくれたのはチーフだったの!? しかも、ひとりで運んだの? サ、サイアク……
「なあ、千夜子」
「は、はい?」
急に名前を呼び捨てですか!
「そんなに自信がないのなら、俺が自信をつけさせてやろうか? 自信がついたら本城と食事に行くなり告白するなりすればいい。それまでは……俺がおまえに男の欲情を教えてやるよ」
「そ、そんな……」
「例えば」
チーフはいきなり立ち上がり、テーブルを挟んだ向かいの席に座っているわたしの隣に座り込んだ。チーフのコロンの香りを強く感じる。今まで感じたことのない圧迫感をすぐ側で感じていた。体温だって……わたしに比べたらすごく高くて熱い。これが……男の人なの?
「男は魅力的な女がいれば、いつだって触れたいと思ってるんだ」
「あっ……」
腰を抱かれただけなのに……なんだかえっちな声が出そうになった。もっとも今までそんなことされたことないから、驚いて変な声が出ただけかもしれないけど。
チーフの手は、わたしの腰のラインを往復して脇腹を撫で上げてくる。その場所をすごく意識するからか、なんだかそこの脂肪燃焼度が上がった気がした。
「チ、チーフ、これって……」
「きれいに痩せさせてやるよ、俺が……運動と、おまえが自分を女であると意識することによってな」
「そ、そんなこと……チーフになにか得でもあるんですか?」
「役得かな? おまえが俺の申し出を受ければ、こうしてセクハラまがいの接触をしても訴えられないだろ? ――というのは冗談で、おまえが頑張ってるのを見ていたら、応援したくなったんだ」
「で、でも……」
「大丈夫だ、最後まで手を出したりしないよ。おまえがきちんと痩せて、彼氏ができるまで……いや、裸になって男を誘う自信がつくぐらいまで付き合ってやるよ」
な、なんて申し出なの! 痩せて彼氏ができるまでって……裸になって? それって彼氏とえっちできるようになるまでってこと? 確かに、今の自分にはそんな自信はないし、たとえダイエットに成功しても、彼氏を作るなんて到底無理だと思う。
「どうする? 千夜子」
耳元で囁くその低い声に、首筋から背中までがゾクリと震える。この人の声って反則すぎる。
どうしよう……わたしはこれを受けてもいいの? ていうか、今の体勢……は、鼻血出そう!
わたしは一気にのぼせて、ふたたびその場でぶっ倒れてしまった。
これはきっと、夢なんだ……チーフがこんなこと言い出すなんて。
「おい、大丈夫か?」
「……チーフ、あれ?」
目の前にチーフのどアップ。まだ夢の中?
「あれ、じゃないだろ! いきなり白目剥いたら驚くだろうが」
「って、ああっ! す、すみません!!」
いつの間にかチーフに抱きとめられていたらしく、大急ぎでその腕の中から這い出た。
「おい、いきなり動いて平気なのか?」
「だ、大丈夫です」
わたしは急いで正座して、平静を装った。
すごかった……チーフの身体。硬いっていうか逞しいっていうか、重いわたしの身体を余裕で支えていた。会社で倒れた時もチーフが医務室まで運んでくれたらしいけど、あれほど筋肉があるなら大丈夫そうだ。うーん、覚えてないのがちょっと悔しいような気もする。覚えてたら、それはそれで恥ずかしいんだけど。健康自慢なわたしが一日に二回も倒れるなんて。今までそんな経験はまったくなかったのに……ああ、よっぽど身体が弱っていたんだね。これは反省だ。
「千夜子?」
「は、はいっ!」
わたしの名前を呼ぶチーフの声が、少し甘いような気がして思わず身構えてしまった。さっきの話はきっと、冗談だよね? それなのに、勘違いしてしまいそうになる。もしかして、わたしを女の子扱いしてくれてるのかなって……
「おまえは……本当に慣れてないんだな」
「えっ?」
「自信云々の前に、男にもう少し慣れたほうがいいな。いざ男と付き合うとしても、あまり緊張しすぎてると引かれるぞ?」
「そ、そんな……」
確かに今も緊張してるけど……今まで彼氏ができなかったのって、それも一因だろうか?
「それと、もっと体力をつけないといけないな」
「あ、はい……」
倒れて仕事に支障をきたすのはまずいものね。早くイッコにきちんとしたダイエット方法を習わなきゃ……って、ああっ! イッコをコータの店で待たせっぱなしだった! 今、何時なの?
「おまえ、俺と一緒にトレーニングしてみるか? そうすれば少しは男にも慣れるだろう。それに俺も、おまえが無茶しないかどうか見張れるしな」
「えっ? 一緒に……トレーニング、ですか?」
トレーニングって、走ったりダンベル持ち上げたり? それをチーフと? まさか……さっき言ってたこと、やっぱり本気なの?
「仕事のペースはほぼ同じだから、時間も合わせやすいだろう。俺は今でも朝走ったり週末にジムに行ったりしているんだが、付き合わないか?」
一瞬、付き合わないかっていう言葉が違う意味に聞こえてしまった。今日はいろいろありすぎて、脳が麻痺しかけているみたい。そんなはずないのに……
チーフはわたしに同情しているだけなんだ。この歳になって一度も彼氏ができたことがなく、男に慣れない上におでぶで無茶なダイエットをするわたしのことを心配して……でも、これ以上甘えられないよ。今まで自分でトレーニングをやっていたのなら、人と合わせるなんてすごく面倒なはずだ。それも体力が落ちまくってるわたしとじゃペース配分も違うはずだし。
「いえ、これ以上チーフにご面倒かけられません。なんとか自分で……」
「それでまた倒れるのか? おまえに休まれるほうがよっぽど迷惑だがな。だったら一緒にやるほうが安心できる」
わたしが休んだら……未処理の書類が溜まって現場の皆が困る。その長たるチーフがおそらく一番……大変だ。
「これからは迷惑をかけないようにちゃんと気を付けます! 運動も自分でやりますし、倒れたりしないよう、食事も気を付けますから……」
「本当に大丈夫なのか? せっかくおまえがやる気を出してるのだから、俺はおまえを助けてやりたいと思ったんだ。仕事の時も、いつもおまえはひとりでなんとかしようとするが、少しは甘えろ」
甘えろって言われても……本当にいいんだろうか? わたしにとってチーフは頼りになる上司だけど、今まで仕事以外ではまったく付き合いもなにもなかったのに。申し訳ないよ……
「とにかく、運動やトレーニングはきちんと管理してやったほうがいい。自分でできないならジムに通ったほうが確実だ。徐々に筋肉をつけながら脂肪の燃焼度を上げていくとダイエットも楽になるぞ? 筋肉をつけてないと戻りやすいから、一時的に痩せてもあっという間に無駄になる」
「でも……」
「おまえにやる気があるなら、俺も本気で手伝いたいと思っている。関わるからには、妥協も体調を崩すのも許さない。さあ、どうする?」
うう、なんでそんなに強引なの? そりゃ痩せたいよ、素敵な彼氏を……とまではいかなくても……本城さんからの食事の誘いに、断らずに乗ってみたい。
今日、午前中に本城さんに言ってもらえたんだ。『細井さん、痩せた? 無理しないようにね』って。ちゃんと気が付いてくれてて、それが嬉しくて余計頑張っちゃったんだ。
もし、ダイエットできて告白もできるなら……頑張りたい!
この際、チーフの同情でもなんでもいい! コーチがついて今以上の成果がでるのなら……
「本当に……いいんですか?」
「ああ」
「あの、わたし死に物狂いで頑張りますから! チーフ、よろしくお願いします!」
思わず床に手をついて頭を下げた。
「おいおい、死なれちゃ困るが……その意気だ」
笑いながらわたしの腕をとって、身体を起こさせる。チーフが声を上げて笑うなんて、珍しい。いつもは難しい顔をしていることが多いのに。
「それじゃさっそく、明日の二時に迎えにこよう。早めに食事を済ませて運動のできる格好で待っているように」
「えっ? あ、明日ですか?」
いきなり? さすが、段取り上手なチーフだ。
「ジムの見学に連れて行ってやる。俺が通っているところは、設備もいいしリーズナブルだぞ」
いやいや、チーフとわたしでは金銭感覚が違うと思う。できれば、あまりお金をかけたくないところだ。だけどチーフに教えてもらうとすれば、やっぱり水泳だよね? でもチーフの前で水着姿晒すなんて、無理! 絶対無理!
「い、いいです。あの、場所を教えてもらったらわたし、自分で行きます。体験コースとかあるでしょうから」
「さっき死に物狂いで頑張ると言わなかったか?」
「ううっ、それは……」
「今日はもう休め。二度も倒れてるんだから、また明日な」
チーフは優しく笑うと、わたしの頭をポンと叩いて帰っていった。
4 ダイエットの極意
「ごめんイッコ! だいぶ待ったでしょ?」
チーフには休めと言われたけど、イッコと約束していたのでコータの店に急いだ。かなり遅くなったけど、イッコはひとりカウンター席に座り待ってくれていた。コータは他のお客さんの相手で忙しそうにしているのが見える。
「仕事、そんなに忙しかったの?」
「えっと実は、今日会社で倒れちゃって……」
「もう、なにやってんのよ! チャーコ」
今日のことを報告したら、やっぱり怒られた。
「だからあれほど無理しちゃダメって言ったでしょ!」
「ご、ごめん……いきなり五キロも減ったから嬉しくてさ。決算期で忙しかったのもあるんだけど、結構無理してるとこにアレがきちゃって……あんまり食べてなかったら貧血起こしたみたい」
男の人に車で送ってもらうなんて、滅多にない。それも助手席……たまにコータや男友達の車に乗せてもらうことはあるけれど、その時はいつも後部座席だ。
「この道、右でいいのか? それなら意外とうちと近いな」
「そう、ですか」
わたしは助手席で小さくなっていた。チーフの車は排気量の大きな三ナンバー。座席も革張りでグレードの高い内装だった。チラチラと運転席を盗み見るけれど、なんか横顔格好よすぎじゃないですか? 助手席ってやっぱり彼女が座る場所で、そこにこんなゴツいのが乗っているだなんて……思わず気後れしていた。
今までそんな目で見たことなかったけれど、仕事中とは違い少しリラックスした感じで運転するチーフは妙な色気があった。ハンドルを持つきれいな指先にまで、ドキリとする。
「すまないが、少し話がある……おまえの家の近くに、車を停めておく場所はあるか?」
アパートの近くまで来ていきなりそう言われ、来客用の駐車スペースに案内したけど、車の中で話すのかな? なんだろう、ちょっと緊張する……
「ここで話すのもなんだから、部屋に上がらせてもらいたい。無理ならどこかお茶でも飲めるところを探すが、おまえも今日は早めに食事したほうがいいだろう? だが、ダイエット中は外食をあまりしたくないだろうと思ってな」
「それはそうですけど……」
だけどいきなりわたしの部屋に? いまだに誰も男の人を入れたことがないのに。って、いくらなんでもチーフを疑うのは失礼だよね。厳しいけど差別もセクハラ発言もしない、信頼できる上司だ。それにモテるって聞いているから女性なんて選び放題だろう。部屋に上げたところで、チーフがわたしを襲うとかあり得ない。わたしなんかにその気になる男の人なんて、この世にはいないのだから。
わたしはそう思い直し、チーフを自分の部屋に入れることにした。
車を降りて、わたしの部屋まで並んで歩く。それだけなのにやたらと緊張していた。
「あの……よかったら、チーフも一緒に夕飯をいかがですか? 簡単なものですが作ります」
今日は夜、イッコとあずまやに行く約束をしてるけど、まだ時間も早いから軽めに食べるぐらいならいいよね。作りおきの野菜スープがあるし、ご飯も冷凍してるのを温めればすぐに用意できる。ダイエットをはじめてから結構料理をしているので材料にも困らない。今朝は朝食もお弁当も作らずに出勤したので、材料は余っているぐらいだ。
「いいのか? だが、料理なんて無理しないでいいぞ」
「いえ、もう大丈夫です。送っていただいたので余計な体力を消耗せずに済みました」
この調子だとご飯の用意ぐらいは頑張れそうだ。
「それじゃ食事をして、その後ゆっくり話をしよう」
ダイエットをはじめてから、部屋は比較的片付いている。身も心も部屋も、きちんとしたほうがいいと思ったし、寝る前のエクササイズのためにスペースを空けている。ワンルームだから、ベッドまで丸見えでちょっと落ち着かないけど……
「えっと、ど、どうぞ」
少々戸惑いながらも、チーフには部屋の真ん中に置いたローテーブルの横、ベッドと反対側に置いたクッションの席を勧めた。すると、チーフは躊躇することなくそこに腰を下ろす。やっぱり、女性の部屋に入り慣れてるのかな?
「安心しなさい。なにもしやしない。俺はおまえの上司だ。それに、今はアレの最中だろう? そんな時に無理矢理やる趣味はないし、そう不自由もしてないから」
やっぱりビクビクしてるのが態度に出ていたらしく、気を遣わせてしまった。
「いえ、あの……じゃあご飯を作ってきますので、しばらくお待ち下さい」
そうだよね……女性に不自由なんてしてないよね。もしチーフが、なんて考えてた自分が恥ずかしい。こんなにモテる人が、わたしなんかにその気になるはずがない。
それにもし今、急にそんな展開になったとしても、いろいろな意味で人前で脱げるような身体じゃない。下世話な話になるけど、今まで男の人とどうのこうのって考えたことがなかったから、むだ毛だって処理してないし下着だって特別なものじゃない。しかも少し痩せて身体に合わなくなってきてたから、明日イッコと一緒に買いに行こうと思っていたところだった。
「ご馳走さま。思ったよりちゃんと料理してるみたいだな、よかった……」
手早く準備してふたりで食事を済ませた。男の人には少な目かもしれないけど、同じ量でいいと言われたのでそのとおりにした。
「どうだと思われてたんですか?」
「いや、君がボクサー顔負けの減量をやってたら止めようと思っていたんだ。どうやら違ったみたいだが」
食事もいつもの夕飯より少しだけメニューを増やしていた。野菜スープにトマトピューレを入れてミネストローネ風に。和風だし巻きをオムレツ風にして、ちりめんじゃこと大根おろしを添えた。後はキャベツをさっと湯通ししたサラダ。メインは豚肉の塩麹漬けを軽く炒めて、冷凍ほうれん草のソテーを付け合わせにした。
「頑張っているのはわかるが、無理するな。女の子は少しくらいふっくらしているほうがいいだろ」
「なっ……」
その言葉にカチンときた。──嘘ばっかり! ふっくらとおでぶは違うでしょ?
わからないんだ、チーフにはわたしの気持ちなんて! 世間からおでぶってだけで拒否されて、女扱いもされなくて、心をズタボロにするような言葉を平気で投げつけてくる。それでこっちが開き直ると、『女捨ててるよね』って。『皿まで食いそう』『服が悲鳴上げてるよ』とか言われるし。なにひとつ、いいことなんてありゃしない。
「そんなの建て前ですよね? そう言ってる人に限って彼女は細身の人が多いんですよね。自分の意思でダイエットしてるんですから、頑張ったって構わないでしょ? わたしの自由だと思います」
「そんなつもりで言ったんじゃない」
「いいんです、もうそんな気を遣っていただかなくても。だけど男の人ってやっぱり見かけで選ぶじゃないですか。いくらおしゃれしても、仕事頑張っても、わたしなんかいつも恋愛対象外ですから! そりゃ、わたしみたいなのじゃその気にもなれないだろうけど……でも、わたしだって一度ぐらい普通の女の子として扱われたいんです! おでぶなことが犯罪で、人間じゃないみたいに言ってくる人もいるから……悔しくて。それに、少しぐらい体重が落ちたと言っても、まだおでぶなんですよ? 標準サイズの服も入らないし、スタイルだって全然です。だからもっと痩せたくって、わたし……」
「千夜子くん、まさか……今まで男性と付き合ったことがないのか?」
「なくて悪かったですね! 生まれてこのかた、彼氏なんてもの、できたことありませんよ! チーフはモテるだろうから、わたしのこんな気持ちわかんないでしょうけど」
ええ、そのとおりですよ! なくて悪いですか? 相手が上司ということも忘れ、わたしの怒りのボルテージは上がっていった。
「そんなことない、わかるよ」
「嘘言わないでください! チーフにわかるはずないじゃないですか!」
仕事ができて、厳しいけど人格者で、スタイルも顔もいい。モテるって話は色々と聞いてるんだから!
「嘘じゃない。俺も……昔は太ってたんだ」
なに? えっと、空耳かしら? チーフが太ってたって……?
「……え?」
思わずチーフに向かって顔を突き出し、見つめてしまった。すると彼は、口元に手を当てて目線を外してる……うわぁ、もしかしてチーフ照れてるの? 耳まで真っ赤だよ。
「その……俺は昔、小児喘息でな、母親に過保護に育てられたんだ。薬の副作用と運動不足、過食と偏食と甘やかしで、でっぷりと浮腫んだ子供だったんだ」
「嘘、ですよね?」
だって今のチーフは、筋肉質で男も惚れるほどの美丈夫で……本城さんと二人並ぶ姿はボーイズラブの世界のようだと、腐女子で有名な総務の香川さんがうっとりと語ったほど。そのチーフが昔は肥満児だったというの?
「本当だ。喘息だったから、あまり激しい運動ができなくてな。動かずに食べてばかりいたら、ぶくぶく太ってしまったんだ。小学校に入る前に喘息の治療も兼ねて水泳をはじめてからは、症状は治まってきたんだが、肥満児のままで……中学に入った頃から、これじゃいけないと両親を説得して食事を変えたんだ。いとこがダイエットにやたら詳しかったので、献立や運動方法も指導してもらってな。体重が落ちると体力もついてきて、運動や筋トレをしっかりするようになった。高校に入った頃からかなり泳ぎ込んで……身体も徐々に引き締まってきて、高校、大学時代はプールに青春を捧げてたな」
そうやって鍛えたから筋肉質になったというの? わたしの筋肉は今じゃ見る影もないけど。
「痩せたいというおまえの気持ちもよくわかるが、体重でなく脂肪を落とさないとダメだろう?」
もちろん、それもわかっている。でも運動したくてもなかなか身体が動かないし、時間も暇も気力もない……
ああ、ダメだ……言い訳してるうちはダメなんだ。ちゃんとやらなきゃって思うけど、できなくて焦る。それでつい食事を減らすことで結果を得ようとして失敗してきたんだ。
けれど、まさかチーフが肥満児だったなんて、誰も知らないよね? もしかしてわたしにだけ教えてくれたんだろうか? でもそれって……
「自分が昔太ってたから、わたしに同情してそんなこと言うんですか?」
「同情じゃない。ただ、俺も辛さを知っている。太っているのと痩せているのとじゃ態度の違う人間が多いのはたしかだ。俺だって十分、経験してきたよ。太ってる頃は見向きもしなかった女子が、痩せたら途端にキャーキャー言って告白してきたり……呆れるよ」
そ、それは自慢ですか? わたしの場合、痩せてもそんな奇跡起こりそうにないんですけど。
「けど皆、昔俺が太っていたことを知ると、微妙な反応をするんだ」
「微妙?」
「ああ、もしかしたら、また太るんじゃないかって疑われる」
ああ、なんかわかる気がする。たとえ痩せても、太っていた過去は消せないのだ。
「でも、わたしはダイエットに成功して、今も体型を維持されてるチーフはすごいと思いますけど?」
「ああ、おまえはな。元々、人を見かけで判断したりしないからな」
それは……確かに。人にはいろいろ事情があるものだ。
「俺はな、本当のおまえを好きになってくれる人を見つけて欲しいんだ。おまえは、俺が離婚した理由を知らないだろう?」
「あ……はい」
わたしが今の職場に配属された頃、チーフはすでに離婚していた。
「誰にも言ってないし……表向きは『性格の不一致』ってことにしている、実は違う。本当は元妻が『あなたの子供を産むのは厭だ』と言ったからなんだ」
「え? どうして……」
「子供の頃太ってたことを、俺は黙っていた。だが結婚式の二次会で俺の幼馴染がバラしたんだ。その後、俺の実家で幼い頃の写真を見て……それ以来、肥満遺伝子を受け継ぐ子供なんて産みたくないって言い出したんだよ」
「そんな……」
「元妻は、ミスなんとかに選ばれるほどの美人でな。上司に薦められるまま見合いして結婚した。恋愛結婚ではないが、愛情ある家庭を築けると信じていたよ。だが、向こうは遺伝子まで完璧じゃないとダメだったらしい。結局、俺のほうもそんな妻を抱けなくなって……性格じゃなくて『性の不一致』だったんだ。結婚してから離婚までの半年間、夫婦関係ゼロのまま別れたよ」
「酷い……チーフは、結婚した時にはもう太ってなかったんですよね? 過去のことなんてどうしようもないのに。それに、チーフがこの先太るかどうかも、子供が肥満になるかどうかも、すでに決まっているわけじゃないのに」
「妻はそう思わなかったらしい」
「痩せることで周囲の態度が変わって、嫌な思いをする可能性があるのはわかりました。それでも……今は無理してでも痩せたいんです。だってチーフは痩せて結婚できたんですよね。今も彼女がいたりするんですよね? 最初の結婚はそういう結果になったかもしれないけれど、まだ希望はあります! でもわたしは……今の体型のままだと皆に結婚どころか付き合う気もおきないって思われてるんですから」
「そんなこと言う奴は放っておけ。ダイエットは体調を崩してまでやることじゃないぞ」
「……心配、してくださるんですか?」
「ああ、可愛い部下だからな。おまえはよく仕事をやっているよ。他の班の分までフォローしてくれて、うちの部全体をまとめる俺も助かっている。ありがとう、感謝してるんだ。……最近、二班の奴らがおまえのことを悪く言ってるのにも気が付いてた。だが別のチーフがいる手前、二班のことに迂闊に口出しするわけにはいかなかった。すぐに止められなくて、すまない。この間、おまえが泣いた時も……」
え? わたし、いつ泣いた? チーフの前でなんて泣いたことないのに。
「一度、泣き腫らした目で戻ってきたことがあっただろう?」
やっぱり気が付いてたんだ。チーフってすごく人のこと見てくれてるんだ。
「おまえは本城が……好きなんだろ」
ど、どうしてそのことを知ってるの? 隠してたのに……そんなにわかりやすかった? わたし
「それなら協力してやろうか? あいつは体型云々で人を差別するような奴じゃない。ただ、まあ……自分から動くやつでもないから。おまえが自分に自信を持って声をかけられるようになれば、きっとうまくいくはずだ」
「そ、そんなの無理です!」
うまくって、付き合うってこと? それはもう、ありえないって思ってるから! だってダイエットしたところで可愛くなるとは限らない。そりゃあ、痩せれば少しは自信がついて、食事の誘いぐらいは受けられるだろうって……でも、ただそれだけで。
「おまえはさ、今まで体型を気にして、誘われても下ばかり向いてただろ? 少し痩せたんなら、自信を持って顔を上げていればいいんだ」
「自信なんて、欠片もないですよ。わたしなんか、少々肉が落ちたところでちっとも変わらないんですから……」
「そうかな? 例えばその胸。ブラウスのボタンを外してる隙間から見える白い肌に、欲情していた男性社員がいたかもしれない」
「え? ま、さか……」
そういえば応接室で気が付いた時、ブラウスのボタンはかなり下まで外されてたし、ベストも着ていなかった。倒れた時、苦しくないように胸元を開けられたのかな? あの後、慌てていたから『あれ?』って思ったけれどそのまま着替えてしまった。
胸はおでぶの割には小さいけど、谷間ができるぐらいのボリュームはある。というか、脇の肉とかを寄せ上げて、胸ってことにしている。
「少なくとも俺には、その胸は魅力的に見えるぞ? それにふっくらした腰のラインも、柔らかそうでいいなって思う」
「な、チーフ! それって……」
「セクハラか? おまえがあんまり自信がないって言うから、男が考えてることを教えてやったまでだ。しっかり俺をその気にさせるぐらい魅力あるぞ。おまえのカラダは、抱き上げた時も背負った時もなかなか素敵な感触だったからな」
「ひぇっ!!」
昼間に倒れた時、運んでくれたのはチーフだったの!? しかも、ひとりで運んだの? サ、サイアク……
「なあ、千夜子」
「は、はい?」
急に名前を呼び捨てですか!
「そんなに自信がないのなら、俺が自信をつけさせてやろうか? 自信がついたら本城と食事に行くなり告白するなりすればいい。それまでは……俺がおまえに男の欲情を教えてやるよ」
「そ、そんな……」
「例えば」
チーフはいきなり立ち上がり、テーブルを挟んだ向かいの席に座っているわたしの隣に座り込んだ。チーフのコロンの香りを強く感じる。今まで感じたことのない圧迫感をすぐ側で感じていた。体温だって……わたしに比べたらすごく高くて熱い。これが……男の人なの?
「男は魅力的な女がいれば、いつだって触れたいと思ってるんだ」
「あっ……」
腰を抱かれただけなのに……なんだかえっちな声が出そうになった。もっとも今までそんなことされたことないから、驚いて変な声が出ただけかもしれないけど。
チーフの手は、わたしの腰のラインを往復して脇腹を撫で上げてくる。その場所をすごく意識するからか、なんだかそこの脂肪燃焼度が上がった気がした。
「チ、チーフ、これって……」
「きれいに痩せさせてやるよ、俺が……運動と、おまえが自分を女であると意識することによってな」
「そ、そんなこと……チーフになにか得でもあるんですか?」
「役得かな? おまえが俺の申し出を受ければ、こうしてセクハラまがいの接触をしても訴えられないだろ? ――というのは冗談で、おまえが頑張ってるのを見ていたら、応援したくなったんだ」
「で、でも……」
「大丈夫だ、最後まで手を出したりしないよ。おまえがきちんと痩せて、彼氏ができるまで……いや、裸になって男を誘う自信がつくぐらいまで付き合ってやるよ」
な、なんて申し出なの! 痩せて彼氏ができるまでって……裸になって? それって彼氏とえっちできるようになるまでってこと? 確かに、今の自分にはそんな自信はないし、たとえダイエットに成功しても、彼氏を作るなんて到底無理だと思う。
「どうする? 千夜子」
耳元で囁くその低い声に、首筋から背中までがゾクリと震える。この人の声って反則すぎる。
どうしよう……わたしはこれを受けてもいいの? ていうか、今の体勢……は、鼻血出そう!
わたしは一気にのぼせて、ふたたびその場でぶっ倒れてしまった。
これはきっと、夢なんだ……チーフがこんなこと言い出すなんて。
「おい、大丈夫か?」
「……チーフ、あれ?」
目の前にチーフのどアップ。まだ夢の中?
「あれ、じゃないだろ! いきなり白目剥いたら驚くだろうが」
「って、ああっ! す、すみません!!」
いつの間にかチーフに抱きとめられていたらしく、大急ぎでその腕の中から這い出た。
「おい、いきなり動いて平気なのか?」
「だ、大丈夫です」
わたしは急いで正座して、平静を装った。
すごかった……チーフの身体。硬いっていうか逞しいっていうか、重いわたしの身体を余裕で支えていた。会社で倒れた時もチーフが医務室まで運んでくれたらしいけど、あれほど筋肉があるなら大丈夫そうだ。うーん、覚えてないのがちょっと悔しいような気もする。覚えてたら、それはそれで恥ずかしいんだけど。健康自慢なわたしが一日に二回も倒れるなんて。今までそんな経験はまったくなかったのに……ああ、よっぽど身体が弱っていたんだね。これは反省だ。
「千夜子?」
「は、はいっ!」
わたしの名前を呼ぶチーフの声が、少し甘いような気がして思わず身構えてしまった。さっきの話はきっと、冗談だよね? それなのに、勘違いしてしまいそうになる。もしかして、わたしを女の子扱いしてくれてるのかなって……
「おまえは……本当に慣れてないんだな」
「えっ?」
「自信云々の前に、男にもう少し慣れたほうがいいな。いざ男と付き合うとしても、あまり緊張しすぎてると引かれるぞ?」
「そ、そんな……」
確かに今も緊張してるけど……今まで彼氏ができなかったのって、それも一因だろうか?
「それと、もっと体力をつけないといけないな」
「あ、はい……」
倒れて仕事に支障をきたすのはまずいものね。早くイッコにきちんとしたダイエット方法を習わなきゃ……って、ああっ! イッコをコータの店で待たせっぱなしだった! 今、何時なの?
「おまえ、俺と一緒にトレーニングしてみるか? そうすれば少しは男にも慣れるだろう。それに俺も、おまえが無茶しないかどうか見張れるしな」
「えっ? 一緒に……トレーニング、ですか?」
トレーニングって、走ったりダンベル持ち上げたり? それをチーフと? まさか……さっき言ってたこと、やっぱり本気なの?
「仕事のペースはほぼ同じだから、時間も合わせやすいだろう。俺は今でも朝走ったり週末にジムに行ったりしているんだが、付き合わないか?」
一瞬、付き合わないかっていう言葉が違う意味に聞こえてしまった。今日はいろいろありすぎて、脳が麻痺しかけているみたい。そんなはずないのに……
チーフはわたしに同情しているだけなんだ。この歳になって一度も彼氏ができたことがなく、男に慣れない上におでぶで無茶なダイエットをするわたしのことを心配して……でも、これ以上甘えられないよ。今まで自分でトレーニングをやっていたのなら、人と合わせるなんてすごく面倒なはずだ。それも体力が落ちまくってるわたしとじゃペース配分も違うはずだし。
「いえ、これ以上チーフにご面倒かけられません。なんとか自分で……」
「それでまた倒れるのか? おまえに休まれるほうがよっぽど迷惑だがな。だったら一緒にやるほうが安心できる」
わたしが休んだら……未処理の書類が溜まって現場の皆が困る。その長たるチーフがおそらく一番……大変だ。
「これからは迷惑をかけないようにちゃんと気を付けます! 運動も自分でやりますし、倒れたりしないよう、食事も気を付けますから……」
「本当に大丈夫なのか? せっかくおまえがやる気を出してるのだから、俺はおまえを助けてやりたいと思ったんだ。仕事の時も、いつもおまえはひとりでなんとかしようとするが、少しは甘えろ」
甘えろって言われても……本当にいいんだろうか? わたしにとってチーフは頼りになる上司だけど、今まで仕事以外ではまったく付き合いもなにもなかったのに。申し訳ないよ……
「とにかく、運動やトレーニングはきちんと管理してやったほうがいい。自分でできないならジムに通ったほうが確実だ。徐々に筋肉をつけながら脂肪の燃焼度を上げていくとダイエットも楽になるぞ? 筋肉をつけてないと戻りやすいから、一時的に痩せてもあっという間に無駄になる」
「でも……」
「おまえにやる気があるなら、俺も本気で手伝いたいと思っている。関わるからには、妥協も体調を崩すのも許さない。さあ、どうする?」
うう、なんでそんなに強引なの? そりゃ痩せたいよ、素敵な彼氏を……とまではいかなくても……本城さんからの食事の誘いに、断らずに乗ってみたい。
今日、午前中に本城さんに言ってもらえたんだ。『細井さん、痩せた? 無理しないようにね』って。ちゃんと気が付いてくれてて、それが嬉しくて余計頑張っちゃったんだ。
もし、ダイエットできて告白もできるなら……頑張りたい!
この際、チーフの同情でもなんでもいい! コーチがついて今以上の成果がでるのなら……
「本当に……いいんですか?」
「ああ」
「あの、わたし死に物狂いで頑張りますから! チーフ、よろしくお願いします!」
思わず床に手をついて頭を下げた。
「おいおい、死なれちゃ困るが……その意気だ」
笑いながらわたしの腕をとって、身体を起こさせる。チーフが声を上げて笑うなんて、珍しい。いつもは難しい顔をしていることが多いのに。
「それじゃさっそく、明日の二時に迎えにこよう。早めに食事を済ませて運動のできる格好で待っているように」
「えっ? あ、明日ですか?」
いきなり? さすが、段取り上手なチーフだ。
「ジムの見学に連れて行ってやる。俺が通っているところは、設備もいいしリーズナブルだぞ」
いやいや、チーフとわたしでは金銭感覚が違うと思う。できれば、あまりお金をかけたくないところだ。だけどチーフに教えてもらうとすれば、やっぱり水泳だよね? でもチーフの前で水着姿晒すなんて、無理! 絶対無理!
「い、いいです。あの、場所を教えてもらったらわたし、自分で行きます。体験コースとかあるでしょうから」
「さっき死に物狂いで頑張ると言わなかったか?」
「ううっ、それは……」
「今日はもう休め。二度も倒れてるんだから、また明日な」
チーフは優しく笑うと、わたしの頭をポンと叩いて帰っていった。
4 ダイエットの極意
「ごめんイッコ! だいぶ待ったでしょ?」
チーフには休めと言われたけど、イッコと約束していたのでコータの店に急いだ。かなり遅くなったけど、イッコはひとりカウンター席に座り待ってくれていた。コータは他のお客さんの相手で忙しそうにしているのが見える。
「仕事、そんなに忙しかったの?」
「えっと実は、今日会社で倒れちゃって……」
「もう、なにやってんのよ! チャーコ」
今日のことを報告したら、やっぱり怒られた。
「だからあれほど無理しちゃダメって言ったでしょ!」
「ご、ごめん……いきなり五キロも減ったから嬉しくてさ。決算期で忙しかったのもあるんだけど、結構無理してるとこにアレがきちゃって……あんまり食べてなかったら貧血起こしたみたい」
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