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FILE5『ベートーヴェン・アレルギー』
3・霧島 サクヤ
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良く晴れた秋晴れの空が遠くまで広がっている。白い大きな雲が穏やかにふわふわとただ広い空間を規則正しく漂う。
そこに一筋の飛行機雲が切り裂くように青を分断していた。長く伸びた飛行機雲は、まるで天の川に切り裂かれた織姫と彦星を象徴しているようだった。思わず結城の顔が思い浮かんだが、彼女は未だぼくに会ってくれなかった。
秋晴れにとても映えたブルーを基調にした大きな花束を肩に抱え、ぼくはこの発表会のため少し早めに買った卒業式用のスーツを着て会場に向かった。
待ち合わせ場所に立っていると、少し経ってロングスカートを履いた仙石が現れた。彼女はぼくを見ると目を見張った。ぼくも彼女のスカート姿は初めて見たので、思わず声を上げる。
「へえ、仙石は背が高くてスラリとしてるから、ロングスカート似合うな」
「あ、ありがとう。君は、花束にスーツが絵になるな」
褒められ慣れてないのか、居心地が悪そうにお礼を言われた。
「司、後遺症もなく無事で良かったな」
「ああ。指も怪我してなかったし、本当に良かった。君は怪我は大丈夫かい? 耳の怪我は治ったかい?」
「ああ、完治はまだだけど、全然大丈夫」
「そうか、良かった」
あの後一日入院した司だったが、次の日退院出来て無事ピアノの発表会に出られることになった。
その前日にあった運動会は、司は見学していた。殴られたお腹がまだ青あざになっており、激しい運動は控えるよう医者に言われたためだ。
ぼくは体育は得意な方なので、リレーの選手でアンカーになり、バトンを渡されたとき最下位だったが、最終的に二位まで順位を上げた。
優勝できなかったことが悔しかったが、個人リレーでは佐久間と一緒に走り、一位だったのでぼくは正直それで溜飲を下げた。
コンサートホールは自由席ということだったので、真ん中あたりに陣取ることにした。
ぼくは慣れない場所でそわそわしてしまったが、毎年司の発表会に来ているらしい仙石は落ち着いたもので、堂々と前方舞台にあるグランドピアノを見つめていた。
発表会が始まり、初めは年齢層が低く、簡単な曲の子から始まった。だんだん難しい曲を弾く人が弾くらしい。
司は後ろから三番目だった。
プログラムを見ると、司より後ろ二人は高校生で、司の前には中学生もいたので、かなりの実力だということが推測された。
次は司の番だ。司が壇上に出てきた際、特に緊張は感じられなかった。
黒いスーツを着て、髪の毛を整髪料で整えていた。いつもの穏やかな表情は余裕の表情とぼくには見受けられ、ゆっくりとピアノに向かう足取りは落ち着いていて、年齢よりも年上に見えた。
司は少し前、霧島 サクヤの演奏を聞いたと言っていた。
そのときのどこかカルチャーショックを受けたかのような司の様子が引っかかっていた。というよりかなり驚いた。
サクヤくんはぼくの四つ上の高校二年生で、引っ越し前に近所に住んでいた人だ。
良く話していたので知っているが、ノリの良いヘラヘラしたお兄さんくらいの感覚でいた。
ピアノをやることは知っていたけれど、まさか引っ越し先の友達にまで影響を与えるようなピアノの名手だとは思ってもみなかった。
どこかふらふらと風来坊のように歩くようなお兄さんで、道端に咲く花を楽しそうに眺め『今日は良い日だなあ、風が南から吹いてるよ』と軽やかに笑うような、風の又三郎のような、掴みのどころのない人だった。
聖アランフェス学園の高等部に通っていることは近所で噂になっていた。
そこは有名な指揮者や音楽家を多数輩出している名門の音楽学校だったからだ。
ただ、その軽い振る舞いからそこまで音楽の腕は大したことない、親の金で入らせてもらったのだろうと陰口を叩くご近所さんもいた。
それは、学校にあまり行っておらず、午前中からフラフラと制服で遊び歩き、女の子と遊んでいたりする光景が目撃されることも起因していたと思う。
近所の噂好きのおばさまたちの声が大きくなっていたとき、見かねたぼくが学校に行かなくて良いの、と夏祭り浴衣姿の彼に聞いたことがあるのだが、そのときは困ったように笑いながら『実はスランプなんだよねー。たくみも食べるかい? 買ってあげようか』とたこ焼きのソースを口元にべったりと付けながらぼくを見ていたのを思い出す。
そんなサクヤくんを神格化している様子の司を見て、ぼくは未だに信じられない気持ちでいた。
サクヤくんだって悩みの一つや二つあるんだから、司がサクヤくんの演奏を聴いたくらいで思い悩むことなんかないのに、と思ってしまう。
ぼくとしては「あの」サクヤくんが司から一目置かれるような演奏をしていたということの方が驚きである。
ピアノの実力は知らないし、スランプだって普通にあるし、ソースを口にべったり付けていても全然気にしないで街中を歩くし、全然頼りないお兄さんなのに。
例えサクヤくんがどれだけすごい演奏をしたとしても、それを司が真似することもないし、羨望や劣情を抱くこと自体がおかしいことで、だって音楽は人間が作り出す魂の芸術なのだから、色々な弾き方や解釈でその人の纏う空気を気に入ってファンになるんだと思う。
ぼくはどれだけ超絶技巧を弾ける自動演奏ピアノより、司の気持ちのこもった演奏に感動する自信がある。司が練習を重ねて辿り着いた境地に、魂を揺さぶられる人だって絶対にいると思う。
と、客観的に言えるのだが、当の本人はきっとそれどころではないのだろう。司はサクヤくんの演奏に取り込まれなければ良いけれど。
司が気にしているようだったから口には出さなかったけれど、サクヤくんはその辺にいる高校生男子で、ちょっとふわふわした心を持った悩める普通の……いや、ちょっとお金持ちの人間だ。司が気にして萎縮してしまうような人じゃない。
3.続く
そこに一筋の飛行機雲が切り裂くように青を分断していた。長く伸びた飛行機雲は、まるで天の川に切り裂かれた織姫と彦星を象徴しているようだった。思わず結城の顔が思い浮かんだが、彼女は未だぼくに会ってくれなかった。
秋晴れにとても映えたブルーを基調にした大きな花束を肩に抱え、ぼくはこの発表会のため少し早めに買った卒業式用のスーツを着て会場に向かった。
待ち合わせ場所に立っていると、少し経ってロングスカートを履いた仙石が現れた。彼女はぼくを見ると目を見張った。ぼくも彼女のスカート姿は初めて見たので、思わず声を上げる。
「へえ、仙石は背が高くてスラリとしてるから、ロングスカート似合うな」
「あ、ありがとう。君は、花束にスーツが絵になるな」
褒められ慣れてないのか、居心地が悪そうにお礼を言われた。
「司、後遺症もなく無事で良かったな」
「ああ。指も怪我してなかったし、本当に良かった。君は怪我は大丈夫かい? 耳の怪我は治ったかい?」
「ああ、完治はまだだけど、全然大丈夫」
「そうか、良かった」
あの後一日入院した司だったが、次の日退院出来て無事ピアノの発表会に出られることになった。
その前日にあった運動会は、司は見学していた。殴られたお腹がまだ青あざになっており、激しい運動は控えるよう医者に言われたためだ。
ぼくは体育は得意な方なので、リレーの選手でアンカーになり、バトンを渡されたとき最下位だったが、最終的に二位まで順位を上げた。
優勝できなかったことが悔しかったが、個人リレーでは佐久間と一緒に走り、一位だったのでぼくは正直それで溜飲を下げた。
コンサートホールは自由席ということだったので、真ん中あたりに陣取ることにした。
ぼくは慣れない場所でそわそわしてしまったが、毎年司の発表会に来ているらしい仙石は落ち着いたもので、堂々と前方舞台にあるグランドピアノを見つめていた。
発表会が始まり、初めは年齢層が低く、簡単な曲の子から始まった。だんだん難しい曲を弾く人が弾くらしい。
司は後ろから三番目だった。
プログラムを見ると、司より後ろ二人は高校生で、司の前には中学生もいたので、かなりの実力だということが推測された。
次は司の番だ。司が壇上に出てきた際、特に緊張は感じられなかった。
黒いスーツを着て、髪の毛を整髪料で整えていた。いつもの穏やかな表情は余裕の表情とぼくには見受けられ、ゆっくりとピアノに向かう足取りは落ち着いていて、年齢よりも年上に見えた。
司は少し前、霧島 サクヤの演奏を聞いたと言っていた。
そのときのどこかカルチャーショックを受けたかのような司の様子が引っかかっていた。というよりかなり驚いた。
サクヤくんはぼくの四つ上の高校二年生で、引っ越し前に近所に住んでいた人だ。
良く話していたので知っているが、ノリの良いヘラヘラしたお兄さんくらいの感覚でいた。
ピアノをやることは知っていたけれど、まさか引っ越し先の友達にまで影響を与えるようなピアノの名手だとは思ってもみなかった。
どこかふらふらと風来坊のように歩くようなお兄さんで、道端に咲く花を楽しそうに眺め『今日は良い日だなあ、風が南から吹いてるよ』と軽やかに笑うような、風の又三郎のような、掴みのどころのない人だった。
聖アランフェス学園の高等部に通っていることは近所で噂になっていた。
そこは有名な指揮者や音楽家を多数輩出している名門の音楽学校だったからだ。
ただ、その軽い振る舞いからそこまで音楽の腕は大したことない、親の金で入らせてもらったのだろうと陰口を叩くご近所さんもいた。
それは、学校にあまり行っておらず、午前中からフラフラと制服で遊び歩き、女の子と遊んでいたりする光景が目撃されることも起因していたと思う。
近所の噂好きのおばさまたちの声が大きくなっていたとき、見かねたぼくが学校に行かなくて良いの、と夏祭り浴衣姿の彼に聞いたことがあるのだが、そのときは困ったように笑いながら『実はスランプなんだよねー。たくみも食べるかい? 買ってあげようか』とたこ焼きのソースを口元にべったりと付けながらぼくを見ていたのを思い出す。
そんなサクヤくんを神格化している様子の司を見て、ぼくは未だに信じられない気持ちでいた。
サクヤくんだって悩みの一つや二つあるんだから、司がサクヤくんの演奏を聴いたくらいで思い悩むことなんかないのに、と思ってしまう。
ぼくとしては「あの」サクヤくんが司から一目置かれるような演奏をしていたということの方が驚きである。
ピアノの実力は知らないし、スランプだって普通にあるし、ソースを口にべったり付けていても全然気にしないで街中を歩くし、全然頼りないお兄さんなのに。
例えサクヤくんがどれだけすごい演奏をしたとしても、それを司が真似することもないし、羨望や劣情を抱くこと自体がおかしいことで、だって音楽は人間が作り出す魂の芸術なのだから、色々な弾き方や解釈でその人の纏う空気を気に入ってファンになるんだと思う。
ぼくはどれだけ超絶技巧を弾ける自動演奏ピアノより、司の気持ちのこもった演奏に感動する自信がある。司が練習を重ねて辿り着いた境地に、魂を揺さぶられる人だって絶対にいると思う。
と、客観的に言えるのだが、当の本人はきっとそれどころではないのだろう。司はサクヤくんの演奏に取り込まれなければ良いけれど。
司が気にしているようだったから口には出さなかったけれど、サクヤくんはその辺にいる高校生男子で、ちょっとふわふわした心を持った悩める普通の……いや、ちょっとお金持ちの人間だ。司が気にして萎縮してしまうような人じゃない。
3.続く
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