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疑惑
3.福音
しおりを挟むどうしてここにいるのだろう。
ロゼと、その周りを囲む侍女達の息を呑む音が激しい雨粒に掻き消された。
侍女長は鋭い視線を向ける。
だが、当の目の前の少女はひたすらロゼを見つめていて幸運なことに気づいていない。
「は、はじめまして…… ルナと、もうしま、す」
知っていると答えそうになるのをロゼは必死に耐えた。
何故ここにいるのかは知らないが、ぶかぶかの借り物のシャツを着たその少女は間違いなくこの屋敷で今一番注目されている少女、ルナである。
ちょうど、本館の続き廊下を渡っているところだった。
警備する者も置かれていない場所で、ここだけ少し寒い。
見るとふるふるとルナの身体は震え、顔も少し青白い。
ロゼを待ち伏せていたのか。
いつから。
手を出しそうになる少し頼もしすぎる侍女達を制して、ロゼはなんでもないようにいつも社交界で見せるような笑みを浮かべる。
「……はじめまして。私はロゼ。この屋敷の主、エアハルト・ミュラーの妻よ」
「……っ!」
別にわざと妻だと強調したわけではない。
貴族の妻の名乗りとしてはごく一般的である。
なのに、どうしてルナは自分を睨むのだろうか。
ライナスと同じ、お前を認めないと無言で責めてくる。
(皆、もうちょっと隠せないのかしら)
何故、ロゼの周りの者達はこんなに自分に素直なのだろうか。
なんだが自分が間違っているような錯覚すら覚える。
「どうしてここにいるの?」
「わ、私は、ライナスに…… ここで、少し隠れて、待ってれば、あ、あなたに会えるって、聞いたから」
やはりあの男か。
事前に客室に訪問することは使用人が通告するため、ある程度ロゼ達が何時にここを通るか推測できる。
どう考えても確信犯であり、なんの意図があるのか読めない分不気味だ。
まだ薬の効果が残っているのなら今すぐ尋問してやりたいぐらいである。
「ここで、ずっと待ってたの?」
「そ、そうよ…… 抜け出すのに、少し時間がかかったけど…… ライナスが教えて、くれた、とおりに…… 歩いて来たの」
それを聞いて納得したのは様子を伺っている侍女達だ。
この屋敷が建築されたときに何度か副官のライナスはエアハルトと一緒に足を運んでいる。
それこそ設計図も見たことがあるのかもしれない。
あとはどこに警備の者を置くのかぐらい簡単に予測できる。
ルナがいるはずの部屋はゲーアハルト家の侍女達の部屋だ。
軍人として鍛えられたミュラー家の者とは違い、彼女達が鼠のように隠れてこそこそと部屋を抜け出すルナに気づかなかったのも無理はない。
「……寒かったでしょう。そこまで私に会いたかったのは、何故かしら?」
「……あっあんたにっ………… あなたに、言っとかないと、いけない、と思った、からよ」
貴族として様々な礼儀作法を習ったロゼはルナの話言葉に違和感を覚えた。
どうも不自然なのだ。
ときどき、つっかえながらもルナの口調はなかなかに丁寧である。
たまに出る粗野な口調が素なのかもしれないが、誰かに言葉遣いを習ったような形跡があるのだ。
一体なんの目的でルナにそんなことをするのだろう。
きっとそれは善意なんかではないとロゼの勘が告げていた。
真意はまだ分からないが。
「私に、何を?」
「し、知りたいんでしょうっ わ、私と…… 旦那様の、関係」
ルナの震えがとまった。
今までの怯えたような姿勢は全て嘘だったのではないかと思うほど、あからさまにルナは笑った。
全体的に小柄で、ロゼと同い年とは思えないほど痩せ細った少女だ。
大きなシャツから伸びる白い脚や、大きく肌蹴て露出した鎖骨。
怯えているように見えた黒い瞳には、暗い炎を宿していた。
ロゼと同じ、珍しい黒髪と黒い瞳を持つルナは頬を薔薇色に染めて、それが世界の真理とばかりにはっきり断言した。
「私はねぇ…… 旦那様の、エアハルト様の、じょうふ、よ」
情婦。
そう、確かにルナは言った。
今までロゼを目の前にしてこれほどまでに自信満々に己の存在を誇示した者はいない。
何故なら、皆がロゼのあまりの美しさに見惚れ、その身分の高さ、天才的なまでの社交性の前にひれ伏していたのだから。
「ふふふ…… あ、あなたみたいな、お嬢様? には、もしかしたら、分からない? 情婦の意味」
「……いえ、分かるわ」
「ほんとうに? わた、しと旦那さまが、あ、愛し合ってるって、ことだよ!」
ぞわっとするような寒気がそのときロゼを襲った。
どんどん声を大きくするルナの声は続き廊下に響き、嫌でもロゼの耳に直撃する。
落ち着かないといけない。
いや、ロゼは落ち着いている。
周りにいる侍女達を制するだけの理性はあるのだから。
「……それは、本当のことかしら?」
そう、聞き返すのは当たり前だと思う。
だが疑われたルナはその言葉に一気に爆発した。
我慢に我慢を重ねた圧倒的な熱量を吐き出すように。
目の前の美しいドレスを着て、美しい顔で、何人もの大人に守られたロゼに向かって吠えた。
「あ、あんた知らないんだっ! あたしのこと。ライナスが言ってた通りだ、平和ボケして、なんの苦労もなく、贅沢ばっかしてるだけのお嬢様! あたしらみたいな奴を虫けらとしか思ってない、傲慢な女っ 顔だけがよくて、馬鹿みたいに男を誑しこんでいるって」
殺気出つ周りの侍女達を抑えるのがどんどん難しくなる。
彼女達が元軍人だったからこそロゼの命令をなんとかここまで意志の力で守れているのだろう。
これがゲーアハルト家の侍女だったら渾身の力でロゼを守ろうとしてルナに飛びつくことだろう。
ロゼに劣らぬ細腕じゃ、逆に返り討ちに合うかもしれないのに。
そんな、場違いなことを考えてしまい、思わずロゼの頬が緩む。
ルナが吠えれば吠えるほど、笑えて来る。
だが、決してこれはロゼに心の余裕があるからではない。
もしもここでルナと二人だけで対峙してたらと思うと恐ろしい。
「何笑ってんの!? あたしの言ってること、まだわかんないわけ?」
ルナはどうしてこんなに堂々としていられるのだろうか。
守られているはずのロゼですら戸惑うほど侍女達が彼女を睨んでいるというのに。
それに、いくら人気のない場所でも、これだけ騒げばいずれ警備の者が駆けつけてくる。
そのときにきっとエアハルトも騒動に気づく。
エアハルトがこのことを知ったらどうするのだろうか。
そう考えた途端、ロゼは漸く全身の血の気がひくのを感じた。
そんなロゼの怯えた様子を感じたのか、ルナはますます笑みを深くする。
その笑みはどこか毒々しく、ロゼは直感的にルナがもう女であることを悟った。
初めて見た濡れたような姿のときは今すぐにでも消えてしまいそうな儚い印象すらあったのに。
それこそ今は隠れている月と同じような。
「あんたと違って、あたしは一年以上前から、旦那様に可愛がられてた。名前をもらって、家をもらって、食べ物や見たことがない服やドレス! 宝石だって何個ももらった! ふふふっ あたしのためにね、字の書き方や貴族のマナーも、教えてくれたんだから!」
「……いい加減なことを言うなっ!」
とうとう耐えきれなかった侍女の一人が叫ぶ。
それに怯えるどころか、ルナの顔にはうっとりとした笑みがはりついていた。
まるで優越感に浸るような笑みだ。
「嘘なわけないさっ あとで旦那様に直接聞いてみなよ。ふふふ…… あんた達、知らないだろう。あたしがどんだけ旦那様に優しく、抱かれたか……」
「黙れ! それ以上、エアハルト様の名誉を傷つけるならば、今すぐ私がお前を殺してやるっ」
別の侍女がまた声をあげた。
もう、彼女達を抑えるのはロゼの手では難しいかもしれない。
ここはもう混乱の渦に包まれていた。
なのに渦中にいるはずのロゼの心はどんどん凪いでいく。
ずきずきとナイフでやわらかいところを傷つけられながらも、感情が沈んでいくのが分かる。
ルナの口がべらべらと動くのを黙って見ていた。
「今でもあたしは覚えてるよ。こんな、嵐の夜、真夜中に旦那様が家に来たんだ。あたしは旦那様にもらった真っ白い綺麗な薄い衣を着てた。旦那様はいい匂いのする油を使って、あたしの全身にそれを塗った。冷たい唇でキスされて、胸も吸われて、あそこも舌で弄られて何回もイかされた…… 泣いたり嫌がったりすると、旦那様は怒らないで頭を撫でてくれた。痛いって言うと何度でもキスしてくれた。旦那様のね、すっごく大きなのがあたしの中に入ったとき、旦那様はとっても、とーても喜んでたんだから!」
ルナの目には狂気が宿っていた。
頬を染め、潤んだ目で虚空を見つめる姿の先にいるのはエアハルトだろうか。
興奮で震える手で、ルナは記憶を辿るように自分の股を触っていた。
侍女達の目にも得体の知れない者を見るような、もはや恐怖に近い感情が宿っていた。
これは一体なんだ?
そんな視線にまったく頓着せずにルナは更に続ける。
彼女の荒い息遣いは妙に艶めかしく、より一層生々しかった。
「はぁはぁ…… それからさ、何回も何回も。夜も昼間も、時間があると旦那様はあたしのとこに来た。いっつも色んなものくれた。お金と食い物は絶対に持ってきた。……ねぇ、なんでいつも食い物持ってくると思う? 毎日美味いもん食ってるあんたには想像できないだろう?」
ルナは悪意と愉悦に満ちた目でロゼを見つめる。
ロゼには自分が今どこに立っているのか分からなかった。
今、どんな顔をしているのかも。
ただ、ルナはどうやらロゼの顔に満足したらしい。
「もっと、肉をつけろだって。なんで?って聞くとさ、抱き心地が悪いからって!もう、あたしは怒ったよ、でりかしーがないって! でも、そのあともいっぱいセックスしてもらっちゃった。腰がガクガクってなるぐらい。旦那様はねちっこくて、とにかく前戯が長くてさ。いっつもあたしが気持ちよくなるように、ちょっとでも痛くないように、長い時間かけてあそこをどろどろにしてくれんの。もう、それだけで何回もイっちゃうぐらい気持ちいい」
「…………」
ルナの言っていることはただの妄想ではないのだろうかとロゼは一瞬思った。
ロゼもエアハルトに何回も抱かれた。
だが毎回エアハルトはロゼが嫌がっても、痛がっても途中でやめてくれない。
いつも性急に押し倒して、すぐに中に入れようとする。
そんなロゼの戸惑いを、何故だろう、ルナは知っているような気がした。
「あんたさぁ、あたしみたいに旦那様にあそこがどろどろになるまで舐められたことある? 一時間以上かけて、あそこを弄られたことある? 痛かったらすぐにやめてくれた? 大事に抱かれたこと、ないんでしょう?」
「……貴方に、答える必要があって?」
駄目だとロゼは思った。
なんてつまらない返しだろう。
これでは認めているようではないか。
「はははっ ないんだー やっぱり! ねぇ! お嬢様、奥様! いーいことー、教えてあげよっか?」
なんだろう。
まさかこれ以上に、聞きたくないようなことをルナは隠し持っているのだろうか。
言いたくて言いたくて仕方がない。
飢えたハイエナのような顔をしている。
きっとルナが欲しいのはロゼの絶望の顔だろう。
……侍女達はもうそこで我慢せずにルナを張り倒せばよかったとのちに後悔することになる。
ルナの歌うように悪意を紡ぐ口をおもっいきり塞げばよかった。
二度とうるさく吠えないように舌を引き抜き、歯も全てへし折るぐらいの罰を与えればよかったと、彼女達は一生後悔することになる。
タイミングよく、悲劇の舞台を演出するように雷が光り、廊下を照らした。
両手を広げて満面の笑みを浮かべるルナをまるで舞台女優のように照らす悪意に満ちたスポットライト。
そのときのルナの笑みは本当に幸せそうで、愛を信じて疑わない純粋無垢な乙女そのものだった。
ルナの台詞を祝福するように雷が鳴った。
まさに勝利のファンファーレである。
「あたしねっ 妊娠したの! エアハルト様の赤ちゃんをっ!」
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