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真相
1.無垢なこども
しおりを挟むエアハルトが医者を馬に乗せて屋敷に到着する頃には馬もエアハルトも全身がずぶ濡れになり、エアハルトはこの嵐の中走ってくれた愛馬を労わった。
馬番によく世話をするように頼み、半ば気絶しかけていた中年の医者を叩き起こす。
本当ならば女か年老いた者にロゼを診てもらいたかったが、今は贅沢も言っていられない。
診療所で家族と寝ていたのに無理やり叩き起こされた医者は運がなかった。
相手は貴族であり、つい先日大々的な披露宴を挙げたミュラー家の御曹司だと知れば医者も拒否するわけにはいかない。
全て権力が悪いのだ。
全身ずぶ濡れで片手にボロボロになった中年の男を担ぐ屋敷の主人の帰還に使用人達は慌てた。
いつもならば執事長が率先して物事を進めるのだが、何故かその執事長の姿が見えない。
出迎えの使用人達に医者を渡し、服を替えさせた後、すぐにロゼの容態を診てもらうように命令する。
本来ならば執事長が命じるであろう内容だ。
訝しむエアハルトだが、さすがにこのまま濡れているわけにはいかず、面倒だがもう一度服を替えようとその場を移動する。
歩くたびに水たまりができ、周りの使用人達はすぐさまエアハルトのコートや上着を脱がして行った。
風呂に入るよう言われても、今のエアハルトは早くロゼのもとへ戻りたかったため、その言葉を無視する。
そんな彼のもとへ血相を変えて件の執事長が駆けて来た。
「旦那様っ 急いで、奥様、そして侍女達に事の次第を全てお話しください!」
いつも綺麗に撫でつけられた白髪交じりの髪を少し乱し、執事長は周りの者に聞こえないよう、立ち止まったエアハルトの耳元に囁きかける。
その焦燥交じりの必死な声と内容にエアハルトは何があったのかと短く聞き返した。
「……申し訳ございません。私どもが不注意でした。 ……あの小娘、ルナが奥様に語ったことなのですが」
「あれは全て虚言とすると言っただろう。今更ロゼを悪戯に不安にさせるつもりはない」
そうではないのだと。
そんな甘いことを言っている暇はないのだと、執事長は怒鳴りそうになる自身を抑える。
「……ゲーアハルト家の侍女達が、今回の騒動を、ルナが奥様に語った内容を知ってしまったのです」
「……何?」
エアハルトの眉間に特大の皺が寄った。
エアハルトは今回のことが公爵家に知られないように、ゲーアハルト家の者達をわざとロゼの側から離した。
彼女達が不審に思うことは想定できたし、最終的にロゼに話すのと同じ内容を彼女達に伝えるつもりだったのだ。
つまりはルナとはなんの疚しい関係もなく、ルナが言っていたことは全て虚言であると。
ある意味でその説明に間違いはない。
少なくともルナが語っという妊娠の件は無実であり、例えその後ルナと肉体的関係があったと知られてもそれはあくまで婚姻以前の関係であり、結婚後は一度もロゼ以外の女に触れなかったとエアハルトは神に誓える。
しかし、問題のルナが語った妊娠の話は曲解されてロゼに伝わり、ロゼはそのために今気絶しているのだ。
このことが公爵家に知られれば、すぐに離縁に持っていくことはないだろうが、実家に連れ戻すぐらいのことはするだろう。
おまけにロゼはまだルナの話しか聞いていない。
ゲーアハルト家の侍女達もそうだ。
彼らからすればエアハルトが自分の子を孕ませた女を屋敷に連れ込み、そして件の女にロゼは危害を加えられたということになる。
エアハルトも執事長もゲーアハルト家から来たロゼの侍女達が秘密裏に屋敷での生活を手紙に書いて公爵家に送っていることをは知っていた。
ミュラー家の弱味を握るわけでも貶めるわけでもなく、目的はあくまで溺愛する公爵令嬢のロゼの様子が知りたいからだとエアハルト達も分かっていたため、その行為を咎めることはなかったが。
この嵐の中では手紙を送ることはできない。
しかし、嵐の後、彼女達が語弊のある内容の手紙を公爵家に送れば事態はエアハルトが最も望まない展開になる。
エアハルトは瞬時にそのことを悟り、鋭い眼差しで執事長を睨んだ。
よく見れば、使用人や兵はいるが、屋敷の侍女達が一人もこの場にいない。
「侍女達は今どこだ」
「今、奥様が寝ている寝室の前で…… 揉めております」
「……揉めているだと?」
「はい。ミュラー家の侍女と、ゲーアハルト家の侍女が、です」
なんだその茶番は。
どちらが勝つかなど火を見るよりも明らかではないか。
エアハルトは服を替えないまま、ロゼのいる寝室、そして侍女達が揉めているというそこへ駆け出した。
彼が一番にそのとき案じたのは力加減を間違えたミュラー家の侍女にゲーアハルト家の侍女達がうっかり殺されないか、である。
自身の実家の侍女達が非常に狂暴だということを知っていたからだ。
もしも万が一怪我人が出たら、ロゼがどれだけ悲しむかとエアハルトは焦り、後ろから付き従う執事長を連れて慌てて寝室へ向かった。
頭の中でロゼに真実を話すべきだと睨んできた侍女長を思い出しながら。
*
「閣下の子ではない……」
ライナスはまるで世間話をするように話を続ける。
リリーと侍女長の反応など気にすることなく。
「そうっす。閣下は自分の子種がどれだけ価値があるのか分かっているっすからね。そう、簡単にそこら辺の雌の中に出したり、欲望に負けて中出しにするような方じゃないっす。馬鹿みたいに女に中に出してくれって懇願されても、閣下はそんなことを言うような女はすぐに切っちゃうすから」
ライナスがわざと下品な言い方をしていることはリリーも理解している。
だが、今はそのことに触れるつもりはない。
ライナスの証言を記録していた侍女長は顔全体に安堵を浮かべて、今にもハンカチを取り出して目頭を押さえそうな様子だ。
無理もない。
エアハルトが無暗に外で子をつくるはずがないと確信しているリリーも侍女長も、何か不可抗力があった場合や単純に避妊に失敗した場合などを予め想定していたのだ。
彼女達はミュラー家の将来、或いは主夫婦の未来を思い、ライナスがルナの発言全てを肯定する最悪の未来も想像していた。
そうなった際に、彼女達は自分達の手を汚すことも覚悟していたのだ。
まだ生まれてもいない、罪のない命を摘み取ることを。
「安心したっすか?」
「ああ。正直な…… だが、それならば小娘が妊娠したという発言自体が虚言なのか? 貴様は、閣下の子ではないとだけ言ったな。……他に何を知っている」
だが、まだ安心してはいけない。
ルナがエアハルトと情婦の契約をし、そして妊娠した。
誰もが父親はエアハルトだと思うはずだ。
ならば妊娠は嘘なのかとと思えば、ライナスの発言は少し意味深すぎる。
「ちゃんと説明するっすよ。ここで有耶無耶にしたら、結局疑われるのは閣下っすからね。別に閣下の名誉を穢したいんじゃない。俺は、ただ苦労も何もしたことがない、笑っているだけでこの世の幸せを全て手に入れている奥方様に…… ほんの少しの間、絶望させてやりたかっただけすから。まぁ、妊娠は想定外だったすけど。でも結婚早々、旦那の子供を孕んだっていう女が、しかも見るからに格下の女が出てきたら、絶望するじゃないすか? プライドも信頼もへし折られるじゃないすか? 女なら絶対。……あとは、楽しい新婚生活を滅茶苦茶にできたら万々歳っすよ」
「随分と捨て身な嫌がらせだな。閣下が今後お前を許すと思っているのか?」
「……覚悟の上っすよそんなこと。でも、俺ももう限界だったんすよ。いっそ、このまま地獄にでも落ちた方が楽なんす。……心底惚れているのに手に入らない。誰のものにもならなければ、俺だって我慢できた。でも、あの人は簡単に恋して、胸焼けするような新婚生活を送っている…… 限界だったんす。それなら、もう、俺が最後の悪足掻きで、閣下とその奥方様に消えない傷跡を残すぐらい、いいじゃないすか…… それで地獄に落ちても、後悔しないっす」
「……ゲスな考えだな」
吐き捨てるように蔑みの視線を向けるリリーなどライナスはまったく気にしなかった。
そんなのは彼が一番理解しているからだ。
「別に、理解してほしいとか共感してほしいとか、思ってないすよ。片思いの辛さや誰からも蔑まされる悪魔の欲望を持っちまった俺のことを。特にアンタは一生理解できないだろうし」
それは、どうだろうとリリーは考える。
リリーがもっともライナスを軽蔑するのは自分とはまったく違う思考を持ったことだ。
リリーとライナス。
一年も会わない間に二人は随分と変わってしまった。
「きっと、リリーには永遠に理解できないっす」
「ああ、そうだろうな」
昔からライナスは嫌いだった。
誰にも自分を理解することはできないと言うくせに、理解できないことを無意識に責め、理解してもらえる努力をしようとしない。
その捻じ曲がった根性がここまで腐っていたとは想定外だったが。
「くだらないお喋りはもう終わりだ。貴様の腐った口からこれ以上の無駄話を聞くつもりはない。さっさと話せ。小娘のことを、全て」
「……腹の子の父親が、閣下じゃないなら結局誰かって話っすよね」
「妊娠は本当だったのか」
「そうす。娼館の雇われ医師が診断したっす。妊娠期間とか、いつ頃出産になるかも、俺は詳しくは知らないすっけど。閣下もあの頃には手切れ金の用意して、ルナとほとんど会ってなかったすから。店の支配人から妊娠したと聞かされた閣下も驚いてたすよ? 支配人も最初は父親が閣下だと思ってたし、ルナもそうだと証言してたんすよ。……性質の悪いことに、ルナは本気で閣下の子だと思っていたっす」
それは、ライナスにとって最大の誤算だった。
ルナが契約期間中に妊娠するなど、完全な計算外の出来事であり、慌ててもう一度ルナの周囲を調査することになったのだ。
エアハルトが避妊に失敗する可能性は低く、当のルナも毎回避妊薬を貰っていた。
このままでは嫌がらせではなく、本気でエアハルトの立場を貶めることになる。
今は口の堅い娼館も、これを口実に何か要求してくることもありえなくはない。
ライナスはミュラー家の当主である将軍にも多大な恩を感じている。
これでミュラー家の跡継ぎ問題や醜聞に関わってしまったら、ライナスの命一つでは償い切れない。
だが、焦るライナスとは裏腹に、ルナの妊娠の謎はあっさり解けた。
エアハルトの子を妊娠したとはしゃぐルナは、ライナス達からの質問に不思議そうな顔で全て正直に答えた。
悪いことなど、何一つしていない無垢な子供の顔で。
「結局、女は怖いってことっすよ。それだけじゃなく、やることが狡猾で、生まれながら陰湿っす」
話をそう切り出すライナスを前にしてリリーは思わず毒づいた。
「貴様もだろう」
心底気持ち悪いとばかりにリリーはライナスを睨んだ。
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