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3章 同性愛と崩壊する心

9 不思議な感覚

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 気が付くと不思議な事に私は洗い場に立っていました。

 廊下で気を失った筈なのに、洗い場の桶を目の前にして、誰かに支えられる訳でもなく、自分の足だけで、しっかりとその場に自立しています。

 その時点でもう理解不能なのですが、それよりも何よりもなぜ私の隣にマイヤーさんが立っていて、桶の中にお湯を溜めているのでしょうか?

 この状況はいったい……。

 隣に立っているマイヤーさんは何も喋らずに、ただかまどの上に乗せられた鍋から上り立つ湯気をぼんやりと眺めながらお湯が沸くのをジッと待っているようで、その表情も別段変わった様子がある訳でもなく、いたって普通のいつものマイヤーさんです。

 今のこの状況と、マイヤーさんの様子を鑑みるにやはりどこか私自身の認識が間違っているように感じてしまいます。

 そうーーーー私は気を失った訳ではなく、ただ単に数分の、あるいは数秒間の記憶を失ってしまったような感覚なんです。

 私が覚えていないだけで、いつの間にかどこからか現れたマイヤーさんと自分の意思で会話をして、しっかりと自分の足でこの洗い場まで歩いて来て今に至る。

 今までに経験のない不思議な事ですがそうとしか考えられません。恐怖心が最高潮まで高まった結果、意識が飛んだというか、記憶が飛んだというか。私じゃない私が代わりに行動してくれた、みたいな。

 それはそれで怖いですけどね。

 けど、そういう事なら何事も無かったように平静を装ってこの場を切り抜けないといけませんね。

 ここまでのストーリーを考えると恐怖の絶頂にあったあの時に、マイヤーさんと出くわしてお洗濯を手伝って貰うようお願いをしたようですね。では……。

「あ……ありがとうございます、マイヤーさん」

「んっ、お嬢様、お戻りですか」

 と、マイヤーさんは私の発言に対し予想だにしない発言をしたのでした。

 お戻りですか、とは?

「えっ? 何ですか? お戻り?」

「あぁ、表現が良くなかったですかね。では、そうですね……目が覚めましたか?」

「目が覚め……?」

 どういう事なのでしょう? 戻ってきたとか、目が覚めたとか、私はどこかにいって眠っていたのでしょうか? マイヤーさんのおっしゃっている事が全く理解できずに戸惑います。

 そんな私をよそにマイヤーさんはその場で難しい顔をしながらややうつむいています。何かを考えているのでしょうか?

 火にかけられた鍋からは先程よりも多くの湯気が立ち上っていて、もうじき鍋のお湯が沸騰する事を伝えているようです。

 しばらくの沈黙の後、マイヤーさんは重々しく口を開きました。

「……そうですね。別に隠し立てする事でもないですし、いつかはお話しなければいけなかった事。今がそのいいタイミングなのかもしれません」

「…………?」

「さて、どこから話したものでしょう……」

 言って、マイヤーさんは私の方へと向き直り私の目を真っ直ぐに見つめてそして、ゆっくりと語り始めました。

「そうですね、やはり……奥様。ローレライお嬢様のお母様、ルクス様がお亡くなりになられた際の話からでしょうかーーーー」





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