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第6章

第42話 喪失と逃避

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 全くと言って良い程に反応が返ってこない。ジーナは吹っ切れたのか、所々にガタの来ている木の扉を再びノックした。それでも誰一人出迎えてこようとはせず、静寂な空気と虚しさだけが辺りを包む。もしかすれば引っ越してしまったのだろうかと、ジーナは初歩的な可能性を見落としている事に気づいた。”あいつ”にとって、この場所に居続ける理由は既に無くなっているはずなのだから尚更である。

 フィリップ達から情報を貰おうと仕方なく来た道を引き返していた時、曲がり角でジーナは誰かにぶつかった。自身は何ともなかったが、ぶつかった相手はよろめき、手に持っていた紙袋を落としてしまう。

「ごめんなさい…考え事してて」
「いえいえ、こちらこそ気が緩んでいたものでな…」

 袋の口からこぼれ出た荷物を二人でかき集めながら、互いに謝罪をした。だがジーナが最後の一つであろう缶詰を拾い上げて渡そうと相手の顔を見た瞬間、自身の心が締め付けられた様な気がした。

「…?」

 強張る彼女の顔を不思議そうに見る男性は間違いなく父、ネイサン・クリーガァその人であった。だが過去の面影はほとんどなく、やつれている上に毛並みも所々ボサボサになっている。服も清潔そうではあるが形が崩れており、新しい服を買うという事さえしていないことが分かった。辛うじて目や顔つきで判別したジーナは、頭の中が徐々に真っ白になっていくのを感じる。

「ごめん、ハイこれ」

 押し付けるように缶詰を渡してジーナは早歩きで立ち去ろうとする。ネイサンは、彼女とすれ違う瞬間、首にかけているペンダントを繋ぐチェーンが目に入った。その色や形は、どこかで見たような女性だというボンヤリとした推測を、やがて明瞭な確信へと変える。

「…ジーナなのか…?!」

 ネイサンは大声で呼んだが、ジーナは立ち止まることも無く歩いて行く。先程までの確信は消え、何かの間違いだったのだろうかとネイサンは落ち込みながら先程まで彼女が尋ねていた家へと戻り、中へと入って行った。その様子を、近くでたむろしていたみすぼらしい老人が何事かと眺めていた。



 ――――シモン達はウィリーから彼女の過去について聞かされていた。

「親子喧嘩 ?」
「ああ、昔の事だ。あいつの母親の名前はアメリア・クリーガァ…だいぶ上の階級の兵士だったんだが、戦争が終わってから事務職をしていたネイサンという男と結婚したんだ」

 ウィリーはグラスに飲み物を注ぎ、四人にそれを差し出しながら話し始めた。

「元気で威勢の良い人だった…じゃじゃ馬な娘と母親、それに振り回されながらも仲良く暮らしている父親ってのが、俺の目から見ても微笑ましかったよ。だがな、悲劇が起きた」

 ウィリーはそう言うと、自分用と思われるグラスに同じように飲み物を入れて一口飲んだ。

「アメリアのやつは、肺に病を抱えたんだ。バロックファンガスっていうのを聞いたことあるか ? 生物に寄生するキノコの一種なんだが、運悪くそいつに寄生された獣どもがこの町を襲ってな。逃げ遅れた子供を助けようとした時に、その胞子を吸ってしまったのが原因らしい。事例が少ないせいで、まだ有効的な治療法も無かったからな…医者も延命措置ぐらいしかやることが無いと言っていた。それ以降、アメリアは家であの子の面倒を見るようになってな…代わりに父親が働きに出かけるようになった。どうせ死ぬくらいなら、少しでも長い間一緒にいたかったんだろう。他者に感染する危険性が無かったのがせめてもの救いだった」

 飲み終わったグラスを洗い、ウィリーは話を一度区切った。シモン達が空になったグラスを弄っていると、フィリップがピッチャーで注いでくれた。ウィリーは物思いに何かを考える素振りを見せながら、再び話を再開する。

「病気の事は全然話していなかったらしくてな…ジーナのやつは、会うたびに母さんが一緒にいてくれるから楽しいって話をしてきてたよ。勉強だけじゃなくて喧嘩の仕方なんかについても教えてたそうだ。でも、とうとう体にも限界が来てな…そのまま死んでしまった」
「なるほどな…だが、それがどうして親子喧嘩に繋がるんだ ?」
「その逃げ遅れた子供っていうのがな…何を隠そうジーナなんだ。彼女の死が原因で、ネイサンは酒に溺れるようになった。そして次第に、あの子に対して憎悪に近い感情を抱いた。『こいつがいなければアメリアが死ぬ事は無かったんじゃないか』ってな。だが、思春期に差し掛かった子供にそれを言ってしまったのが不味かった」



 ――――七年前のクリーガァ宅、ジーナは酒瓶が転がっているリビングの掃除をし終わると、ソファで項垂れている父親を呆れながら見ていた。

「父さん、いい加減起きて…」

 いくらそう言いながら体を揺らしても反応はなく、ネイサンは娘の手をどけながらテーブルに突っ伏していた。堪忍袋の緒が切れたらしく、ジーナは先ほどよりも強く体を掴んで無理やり顔を上げさせた。

「…何するんだよ」

 怠そうにしている顔がこちらを睨んだ。あの心優しく、少々臆病だった父の姿はどこにもない。

「もうやめよう ? 何年間もこんな生活ばっかり。こんな姿、母さんが見たら…」

 ネイサンにとって娘からの愚痴に付き合わされるのにはもう慣れていた。だけどこの喪失感から立ち直る事すら出来ない自分には、酒に逃げるしか道が無いのだとネイサンは心の中で言い訳をし続ける。いつもはそうやって相手にしなかったが、この日は違った。これまでのジーナは気を遣ってか、軽く諭すだけで終わった。無理に引き起こされ、あまつさえ故人を引き合いに出してくるとは思わなかった。

 ふと自分達の人生を変えるきっかけになったあの日の事を思い出した。道端で尻もちをついて泣きそうな目で怯える娘と、その先にいる獣たちを撲殺した妻の姿が目に飛び込んできたのを覚えている。その後、駆け付けた警官達によって獣がバロックファンガスに寄生されている個体であったことが発覚すると状況は一変した。妻は病院で検査を受け、胞子が肺にまで侵入していた事を告げられる。案の定、それが原因となってこの世を去ったのである。そもそもジーナが出かけていなければ獣に遭遇することも無かったのではないかと、次第にネイサンは考え始めた。

「…母さんが見たら、なんだ ?誰のせいで死んだと思ってる ?」
「え…」

 ネイサンは泥酔によって正常な判断が出来なくなっていた。人なら誰しもが持ち、察するであろう越えてはならない一線さえも、今の彼にはどうでも良くなっていた。

「元はといえばお前が外を出歩いていたせいだろ ! お前がさっさと戻ってきていれば母さんが出張る事も無かった !全てお前のせいだ !」

 一気に怒鳴って肩で息をしていると、ネイサンは自分を見るジーナの雰囲気が冷たく感じた。内側に潜む何かを押さえつけようとしているかのような表情と哀れみのこもった眼差しが自分に向けられていると分かった瞬間、不意に酔いで歪んでいた世界が元通りになっていく。後に残ったのは、自分が彼女に対して一番言ってはいけないであろう言葉を言ってしまったという後悔と、心臓を締め付けてくる様に纏わりつく罪悪感であった。

「ジーナ…違うんだ…今のは…」
「そっか」

 恐ろしく淡泊な返しがネイサンの耳に入った。ジーナは父に背を向けて、居間を出ていく。かなり強い力で部屋の扉を閉めたのか、一瞬家が揺れたのかとさえ思う程であった。それ以降は何の会話も無く終わったその日が、ネイサンとジーナにとって最後に会った日になってしまった。



 ――――全員が押し黙り、時計の針が刻む音とレコードから流れるジャズしか聞こえない程に静かな空気になっていた。

「それが事の顛末だ…この街を出る直前にジーナが、そしてその次の日にネイサンがうちに押しかけて打ち明けてくれた。治安も良くない上に、ノイル族のコミュニティも無いフォグレイズシティに行くなんて無茶だとは忠告したが…『忙しい場所なら色々と忘れられそうだから』って聞かなくてな」

 ウィリーは小休止を取りながら話を締めくくった。その直後にドアが勢いよく開き、落ち着かない様子のジーナが入って来る。

「…その様子じゃ何も話さなかったって所か」

 何も言わずに席に着いたジーナにウィリーが聞くと、彼女は黙って首を縦に振った。

「いつからあんな風に?」

 そう尋ねるジーナの声は震えていた。

「結構やつれてたろ。お前がいなくなってからずっとあんな感じだ。最初のうちは店に来て泣きながら酒を飲んでばかりでな。今は落ち着いて深酒はやめたみたいだが、やっぱりどこか上の空でな」

 他の者達と同じようにジーナに飲み物を渡しながらウィリーは言った。ジーナは黙って一気に飲み干してから、グラスを強めにテーブルへと叩き置く。喪失感を埋めるために酒に逃げた父と同じように、自分も過去に向き合えていない事をジーナは改めて痛感する。情報を手に入れるには家に戻るしか無いが、そのためには家を飛び出してしまった自分が家族に戻り、父親と和解をしなければ許されないような気がしていた。

「マスター…父さんとは、今も会ってるの ?」
「たまにだがな。どうした ?」
「父さんとちゃんと話がしたい…貸し切りって出来るかな」
「お前さえよければいつでも」

 覚悟を決めたジーナはそう聞くと、優し気な顔と声でウィリーが答えた。シモンも何も言わずに彼女と目を合わせて静かに頷き、他の者達も反対の声を上げることなくジーナに励ましの声をかけた。
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