夢の渚

高松忠史

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23 暁の南十字星

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穏やかなさざ波が砂浜によせていた…
やわらかな陽の光に反射してキラキラと海は光り輝いていた。
真冬とは思えないほどポカポカして気持ちの良い昼下がりの海岸だった。

柔らかい灰色の砂に足を取られながらよちよちとおぼつかない足取りで砂浜を一歳六ヶ月の目元が母親に似た可愛らしい女の子が歩いている。
女の子の先には母親が優しく微笑みながら手を叩いて女の子を呼び寄せていた。

「パパ~」

女の子は手を叩く母親を視界に入れながら母親の隣でしゃがみながら手を広げる父親を呼んだ。

どこまでも碧い太平洋の海は優しく三人の家族を見守るように雄大な景色を広げていた…

母親が女の子の名前を呼んだ。

「愛ー こっちよ~」

愛はにこにこ笑顔を振りまきながら砂浜を歩いた。

母親の絵美も久しぶりの家族水入らずの時間に笑顔が絶えなかった。
絵美は隣の諒太に向かって最高の笑顔で応えた。
諒太にとっても普段仕事で忙しく、なかなか家族と時間を取ることが出来なかったが、久しぶりの家族団欒の時間で正月休みを利用して訪れた近所の石巻の海岸だった。
若い夫婦にとって日々成長する娘を見ることが何よりの幸せであった。
正月を迎えた東北石巻も例年になく暖かく、太平洋を仰ぐ海岸も柔らかい陽が燦々と降り注ぎ休日を過ごすのには最適な一日であった。

二ヶ月後にこの地に起こることなど誰一人予想もしていない平和で穏やかな一日だった。

そう…諒太にとって人生で一番幸福な時間…


ここは皆が天国と呼ぶところなのか…?

それならそれでいい…
俺はこの時間を離したくはない。
俺にとってこの幸福なときは天国をこえているんだから…
もし…命があるとしてもこれから人生何十年あるかわからないが、それと引き換えても俺はここに居たい…
二度とやってこないだろうこの幸せを俺は手放したくはない…

今持っているもの全て要らない…
何も欲しくもない…
この一瞬がもう一度手に入るのなら俺は悪魔とだって契約してもいい…

愛と絵美が波打ち際で戯れる笑顔を見ながら諒太は幸せを噛み締めていた。



諒太さん…

諒太さん!…

諒太さん‼︎…


諒太を呼ぶ声が聞こえる…


うるさいな…

誰だ? 邪魔をするのは?



諒太はうっすらと瞼を開けた。

天井が見える…
どこかで見たことがある…
どこだったか?

諒太はボーとしながら思い出していた。

たしか…
美波間島にある俺の家の…?

美波間って?  …何だ?

なんで俺はそんなところにいる?
どうして石巻にいない…
諒太の頭の中は混乱していた。

その時、諒太の視界の中に一人の女性の顔が入ってきた。

絵美か?

心配そうに諒太を見つめるその瞳には涙が浮かんでいた。

「チーリン…?」

一瞬で諒太の記憶が一つに繋がった。

「諒太さん…」
小さなかすれる声で一言絞り出すとチーリンは顔を伏せた。

布団に寝かされている諒太は周りを見渡した。足元には千鶴とその横には瞳が座っている。

「皆んな…」

「諒太さん! 気がついたのね?」
千鶴と瞳は抱き合って喜んだ。

「俺は…?」

「あれかから三日経つのよ…」
千鶴は感謝の表情を浮かべた。

「三日?…」

諒太にはついさっきのような気もするし、ずっと前のような気もする。 
諒太は布団から体を起こそうとしたが力が入らない。

「まだ起きちゃダメ!
紀藤先生からも体力が回復するまでは安静にしてなきゃダメって言われているのよ」
瞳が叱るように諒太に言った。

「紀藤先生が来たの?」

「ええ、諒太さん三日三晩意識が戻らなかったから覚えてないでしょうけど、あの翌日紀藤先生フェリーに乗って直ぐ駆け付けてくれて諒太さんに点滴していってくれたの…
長い時間海水に浸かっていたことと体に強い波を受け続けて急激な体力の消耗による血圧の低下がみられたらしいんだけど、生命に別状はないってことで一晩治療して帰られたの。それからはチーリンさんが献身的にあなたの看護をしてくれたのよ」
千鶴は涙ぐんだ。

「唯が助かったのは諒太さんとチーリンさんのおかげよ…」
千鶴は二人に頭を下げた。

チーリンは疲れで充血した赤い眼をして首を横に振った。

「そうだったの…
でも…残念だ…」

諒太はため息混じりに無念そうに言った。

「残念…? 
残念って何が残念なの?」
瞳が怪訝そうに尋ねた。

「俺は唯とチーリンが助かってさえくれればそれで良かった…
俺のことなどどうでも…

むしろ絵美と愛が待つ世界に俺は行きたかった…
あの幸せだったころに帰れたなら…」


 
「どうして…?」

「どうしてそんなこと言うの?」

チーリンが下を向きながら小さな声で呟いた。



「どうしてそんなこと言うのよ‼︎」

チーリンは突然寝ている諒太の胸に突っ伏して号泣し始めた。

「私…」

「私…本当に諒太さんが死んじゃうかと思ったんだよ⁈」

「なのに…
なのに…何でそんなこと…」

震える声でチーリンは顔を上げた…
チーリンの瞳からは大粒の涙が溢れ落ちていた。



「チーリン…」

諒太はチーリンを見つめた…


その光景を唇を噛み締めて瞳は見ていた。

そして瞳は悟った…

哀しい顔をして瞳は下を向いた。
それに気がついた千鶴が瞳の肩を抱いてその場を静かに離れた。

諒太は自分の胸で泣くチーリンの手に自らの手を重ねた。


諒太が眠っていたこの三日の間、入れ替わり立ち替わり島民が諒太の見舞いに訪れていた。
チーリンはその一人一人丁寧に応待し、限られた者しか安静中の諒太の部屋へ通さなかった。
漁から帰ってきた竜男をはじめとする漁師たちも諒太の見舞いに訪れていた。
家の中には見舞いに訪れた島民が置いていった野菜や果物、子供達が描いた諒太への励ましの絵などが所狭しと並んでいた。

諒太が目を覚ました後、チーリンは身を粉にして諒太のために栄養のある食事を作ったり身の回りの世話をした。
その甲斐もあって3日もすると諒太の体力はみるみる回復していった。

夜も更けたころ二人は久しぶりに並んで縁側に座って居間から漏れる灯に映し出された庭を眺めていた。
二人の間には氷の入った麦茶がグラスに入って置かれている。
外は夕方のスコールで庭の木々の葉を雨粒が濡らしていた。
まだ近くで雷鳴も聞こえる。

諒太は正面を向いたままチーリンに話しかけた。

「君は強いな…」

「え…?」

「並みの女性ならあの状況で何時間も唯を抱き抱えてはいられなかっただろう…」

「だって私…女優ですから…」

「どういうことだい?」
諒太は意味が解らず尋ねた。

「ほとんどの人はモデルや女優ってただカメラの前でポーズや演技するだけだって思っているでしょ?
…でも皆んな裏ではカメラの前に立つまでに血のにじむような努力をしているのよ…
私も体型を維持するためと役を作るために一日何時間も体を鍛えたり、食事制限をしたり人には見えないところで結構頑張っていたわ。
人に見られることが仕事だから…
だからこう見えても人並み以上に体力はあると自負しているつもり…」

「なるほど…
プロ意識が強いんだな…」
諒太は納得した。

「それにしてもよく頑張ったな…
俺一人じゃ到底 唯を助けることは出来なかったよ…」

チーリンは首を横に振った。

「君はそんなに努力してなった女優の仕事に未練はないのかい?」

「正直わからないの…
これからどうすべきか…」
チーリンは俯いた。

「諒太さんは私が台湾に戻ったほうがいいと思っているの?」

「あ…いや…それは…」
諒太は動揺した。

「ハッキリ言って」
チーリンは諒太の横顔をじっと見つめた。

「お、俺は、君にずっとこの島にいて欲しいと思っている…」
諒太の言葉を遮るように同時に大きな雷鳴が響き渡った。

「今なんて言ったの諒太さん?
聞こえなかった」

「いや…その…この間は変なこと言ってゴメン…」
諒太は照れくさそうに顔を赤くしながら言葉を濁した。

「えっ…?」

「俺はどうなってもいいって…」


「諒太さん…あなたのことを必要としている人がたくさんいるのよ…」

「うん…」
諒太は恥ずかしくなって俯いた。

(私もその一人なのよ…)
チーリンは目を伏せた。

二人の前で雨の雫を避けるように大きな葉の下に隠れて白い蝶が羽を休めていた。
雷は遠くに去りつつあった。


そしてその翌日、チーリンが怖れていたことがついに起こった…

チーリンは少なくなった日用品を買うため国吉商店へ一人で買い物に出かけた。
しかしこの日の行動が取り返しのつかない事態を招いてしまった。
偶然にも台湾から来てきた観光客にチーリンは写真を盗撮されてしまったのだ。この写真を撮影した若い台湾人カップルは単なる好奇心で与那国島から美波間島に渡って来たのだった。午前に着いて島を散策してから午後の便でまた与那国島に戻るつもりでたまたまここに立ち寄っただけなのだが、まさかこんな小さな島にあの 蔡 志玲(サイチーリン) がいるはずはないと目撃しても最初は信じなかった。
カップルは隠れて写真を撮りながらチーリンの後をつけた。
チーリンは買い物のビニール袋を持って一軒の古い沖縄建築の民家に入っていった。

「絶対違うよ。きっと似た人だって」

「でもすごい似ていたじゃない?」

「まあ、あんな美人そうはいないけどさぁ…パリやニューヨークじゃなくてここ日本の孤島だよ。いま、蔡志玲は次回作に向けて休養中だってきいたよ。こんなへんぴな場所に居るわけないよ~」

「意外と灯台下暗しってこともあるかもしれないよ?あえてひと気のないところで休養しているのかもしれないし」

半信半疑であったが二人は早速SNSに アップした。

『蔡 志玲 に激似の女性 日本の離れ小島で発見?』

この投稿はチーリンの後ろ姿の写真入りで掲載された。人気女優のチーリンのSNSのフォロワー数は軽く50万人をくだらない。ネット上でもその影響力は大変なものであり、その写真は日々ファンの間で急速に拡散していった。

…まだそんな事は美波間島の島民は誰一人知る由もなかった。



翌日の日曜日チーリンは瞳に話があると海に誘われた。
諒太は体力が回復しすでに畑に出ていた。

「どうしたの?瞳さん話って?」

「ごめんね…チーリンさん急に呼び出したりして…」

二人は土手に並んで座って海を眺めた。

「諒太さんもう外に出ても大丈夫なの?」

「うん…止めたんだけど芋畑の雑草を抜くんだって言って私の言うこときかなくて…」

「芋畑か…諒太さんらしいね」
瞳はくすっと笑った。

つられてチーリンも笑った。

「私…ずっと前にチーリンさんに言ったこと謝りたくて…」
瞳は真剣な表情に戻って言った。

「謝るって何を?」
チーリンは微笑みながら首を傾げた。

「もし美波間島に残るつもりがないのなら諒太さんに深入りしないでって言ったでしょ…
それと…この島にいて自分の役目はあるのかとか酷いことを…」

「そのこと…」
チーリンは海に視線を移した。

「私…わかったの…
あなたが決して諒太さんに対して軽い気持ちじゃないってことが…
軽い気持ちじゃあんなに献身的になれるはずないもの…

そしてこの間のあなたの涙を見て
私…悟った…
チーリンさんは諒太さんのことが好きなんだって…」

チーリンは俯いたまま沈黙を答えとした。

「あなたも気づいていたと思うけど私…諒太さんのこと好きだった…
だからあなたに嫉妬した…」

チーリンは言葉を言いかけたが瞳に制された。

「最後まで聞いてチーリンさん…
私にはあなたの代わりは出来ないと思ったの…

チーリンさん…あなただから諒太さんは…」

瞳はチーリンの目を真剣に見つめた。

「諒太さんは…飾らないあなただから心を許したんだと思う…
チーリンさん…私、諒太さんのこときっぱり諦めます…
だって諒太さんを暗闇から陽の当たる場所に導いてあげることができるのはチーリンさん…あなたしかいないから…
そしてそれはあなた自身が幸せに近づくということなのよ…」
瞳はチーリンの目を見つめ微笑みながら頷いた。

「瞳さん…」
チーリンもゆっくり頷いた。

潮風が優しく二人の頰を撫でていった…



                             ー台北ー

このところ台湾の週刊誌、マスコミ、芸能界では 蔡 志玲の話題でもちきりだった。
以前のチーリンの恋人ジュリーチェンが新しい彼女と手を繋いで歩いているところを週刊誌にすっぱ抜かれたことで、ジュリーとチーリンが破局したことが周知の事実としてわかってしまい、ちょうどチーリンが長期休養の時期と重なっていたということもありチーリンは傷心のあまり仕事が出来なくなったのではないかと憶測が飛んだ。
そこへ持ってきてSNS上で旅行者が撮影した美波間島でのチーリンと思われる一枚の写真が更に話を大きくした。
ファンの間では写真は本当にチーリンなのか?何故そんな場所にチーリンがいるのか?と芸能事務所に問い合わせが殺到した。

チーリンの事務所の社長室ではチーリンの女マネージャー張花妹に社長の叱責がとんでいた。
徐 前社長が解任追放され、新たに送り込まれた 陳 新社長は本社の方針通りワンマンなやり方で所属する俳優やタレントを物としか思わない徹底した合理主義者で社内から嫌われる存在であった。

「張さん、一体どうなっているんだ?
一月以上もチーリンの行方がわからないばかりか今回の一般旅行者の写真の一件といい…
君はチーリンのマネージャーとしてちゃんと職務を果たしているのか!」
陳はデスクを叩いた。

「すみません…」
張花妹は頭を下げるしかなかった。

「これ以上チーリンのイメージに傷がついたらどう責任をとるつもりなんだ!  え‼︎
マスコミが嗅ぎつける前に君がチーリンをここへ連れてきたまえ!」

こうしてソースが一般人のSNSという不確実なものであったが、真意を確かめるべくマネージャーの張花妹は直線距離で台湾から僅か120キロしか離れていない小島なのに那覇経由で飛行機と船を乗り継いで半日かけてどうにか美波間島に上陸した。

(本当にこんな何にもない島にチーリンはいるのかしら?)
美波間島のフェリー波止場に立った花妹は周りを見渡しながら思った。
花妹はSNSに掲載されていた沖縄の古民家を探すべく島を歩き始めた。
土地勘もなく闇雲に歩き回ること数時間、しかしどこも似たような家ばかりでどこにチーリンがいるのか全くわからなかった。
仕方なく途中 道路端の石に座って途方に暮れていると親切な島民が声をかけてきた。

「こんな所でどうしました?」
声をかけてきたのはサトウキビ畑の真栄田 正一の妻のつねだった。

花妹は片言の日本語でサイチーリンを探していると答えた。

「ああ…チーリンさんなら真田さんの家にいますよ」

「え!本当ですか?」

まさかチーリンが本当にいる?
半信半疑でこの島にきたもののチーリンはもっと大都市にいるものばかりと思っていたのでこんな離島にいるなどとても信じられなかった。
それに真田って人は誰なの?
花妹の疑問は募った。

花妹はつねから真田の家までの道順を教えてもらいまた歩き出した。
しばらく歩くと海の匂いがしてきた。太陽の陽射しは暑かったが、風が心地よく吹き続け台北より涼しく感じた。
つねに教えられた家のオレンジ色の屋根にはシーサーが乗っている。
高い石造りの塀に遮られ中の様子ははっきりわからなかったが、平屋のその建物はひどく年季が入っているようだった。

多分ここよね…
表札も呼び出しチャイムも無かった。敷地の塀から少し入ったところにある玄関は扉が開けっ放しであった。
花妹は意を決して玄関に入った。

「ごめんください…」

返事はなかった。

「ごめんくださーい!」
花妹は大きな声で再び声をかけた。

「はい…」

玄関先に出てきたのはチーリン本人だった。

「花妹!」
「チーリン!」

二人は突然のことにびっくりしてお互い固まった。

「花妹、どうしてここが…?」

「チーリンあなたこそどうしてこんな所にいるの⁈」

「私を連れ戻しにきたの?花妹…」

「そうよチーリン帰りましょう…」

「会社の命令で来たんでしょ?」

「そうだけど皆んな心配しているのよチーリン…」

チーリンは黙り込んだ。

「どうしたんだ?」
諒太がちょうど畑から帰ってきた。

花妹は驚いた。
家の佇まいからこの家の家主はもっと高齢の人だと勝手に思っていたのだが、日に焼け背の高いガッチリした精悍な顔をした若い男が声をかけてきたので花妹は面食らった。

(もしかしてこの人が真田って人?)

諒太は土で汚れた白いTシャツに麦わら帽子を被り肩には鍬を背負っていた。

「諒太さん…」
チーリンは沈んだ顔をして下を向いた。

諒太は花妹とチーリンの顔を交互に見渡した。

花妹は慌てて口を開いた。
「私、チーリンのマネージャーをしております 
張 花妹 と申します」
鞄から名刺を取り出し諒太に差し出した。

「真田です…」
諒太は帽子をとり挨拶を返した。

「諒太さん…花妹は私を連れ戻しにきたの…」



「こんな所ではなんなのでどうぞ中へ…」
諒太は花妹を家の中へいざなった。

「諒太さん!…」
チーリンは不満げの表情を浮かべた。

「台湾から遠い道のりをわざわざ来てくれたんだ。礼を欠いてはいけないよ、チーリン」

諒太は茶の間に花妹を案内し、冷たい麦茶を振る舞った。
何か二人の間にピリピリした空気があるのを諒太は感じとった。
花妹はいきなり本題に入ろうと話しだした。

「ちょっと待ってください、俺には正直 芸能界のことなんてさっぱり解らない。張さん、今日はもう帰りのフェリーには間に合いません。時間はたっぷりあるんだし、お互い久しぶりに会ったんだから焦らずにゆっくり話してみたらどうです?
今夜はここに泊まっていけばいいですよ」
諒太は柔和な表情を浮かべた。

「そ、そうね…
ありがとうございます…」
花妹の表情が変わった。
諒太の一言で緊張した空気が柔らかい空気に一変した。

「ありがとう…諒太さん…」
チーリンの顔にも優しさが戻った。

「じゃあ俺は芋でも蒸してくるよ」
諒太はそう言い残しその場を立った。

「ねぇ、チーリン、あの真田さんって誰なの?」
花妹は興味津々に尋ねた。
まるで昔の二人の関係に一瞬で戻ったような花妹のくだけた口調だった。

「いろいろな意味で私の恩人よ…」
ちゃぶ台に頬杖をつき奥の台所で芋を蒸す諒太の背中を見ながら目を細めチーリンは微笑んだ。

「まさか…チーリンあの人のこと?」
花妹はチーリンに女の表情を見て悟った。

チーリンは諒太の背中を眺めたまま何も答えなかった。
その後二人は雑談を交わしていると諒太が皿に山盛りのサツマイモを持って戻ってきた。

「この黄金芋っていう品種、諒太さんが何年もかけてこの島に合うように改良したものなのよ。
花妹、食べたら驚くわよ」

「チーリン、そんなにハードルを上げないでくれよ…
まあ大したものではないけど、どうぞ食べてみてください」

「では頂きます…」
花妹は熱々のサツマイモにかじりついた。

「何…これ? すごい甘い!
私こんな芋生まれて初めて食べたわ…」
花妹は感動した。

「チーリン、明日晴れたら張さんに島を案内してあげたら?」

「え…?  うん…わかった…」

(何故私を連れ戻しにきたのにそんなに優しくするの…)
チーリンは諒太の真意がわからなかった。

花妹はよほど黄金芋が気に入ったのか2本目にかじりついていた。

チーリンは夕食を作るために台所へ立った。

「え?  あのチーリンが料理を⁈」
花妹はびっくりしてチーリンの背中を見つめた。

「今じゃ上手いものですよ…
最初のころはひどかったけど…」
諒太は懐かしそうな目をして答えた。

「俺が今こうして元気に立っていられるのも彼女のおかげなんです」

花妹は二人の言葉と表情に余人が立ち入れない深い信頼関係があることを感じた。

「張さん…俺も何故チーリンが台湾を離れたか聞いてます。
俺が何かを言える立場じゃないけど、どうかチーリンの想いもしっかり汲んであげてくれませんか?
チーリンが納得したうえで帰りたいというなら俺は何も言いません。
ただ…会社の一部品として生き続けなきゃいけないなんてあんまりです。人にはもっと幸せを追い求める権利があると思うんです。
今夜じっくりチーリンと腹を割って話してみてください、お願いします…」
諒太は花妹に頭を下げた。

花妹は真田がチーリンを台湾に連れ帰らないでほしいと懇願するものばかりと思っていた。
しかし真田はチーリンのことだけを考えていた。
花妹は諒太の姿勢に誠実な人柄を感じた。

暫くしてチーリンが出来上がった料理を運んできた。
庭で採れたゴーヤと見舞いに頂いた野菜と牛肉を使ったチャンプルーと鯵のカルパッチョがちゃぶ台の上に並んだ。

「これ…チーリンが…」
チーリンが料理を作れない事を知っている花妹だけに驚きを隠せなかった。
 
「花妹食べてみて」
チーリンはにっこり笑った。

「美味しい!  凄いねチーリン
いつの間にこんなに料理上手くなったの⁈」
料理の美味しさだけではなく、チーリンが活き活きと楽しそうに料理を作っていたことが長年マネージャーとしてまた姉のようにチーリンを側で見続けてきた花妹だけにチーリンの違う一面を目の当たりにして衝撃を受けた。

(チーリン…あなた変わったわね…)
嬉しそうに夕食を食べるチーリンの顔を見て花妹は思った。

夕食の後、諒太は布団をひと組チーリンの使っている部屋へ運び込んだ。元々花妹とチーリンは年の離れた姉妹のように仲が良かった。
それが事務所が買収されたのち会社の方針変更の影響で二人の関係に微妙なズレが出ただけのことであり、決してお互いを嫌っているわけではなかった。今夜二人は久しぶりに枕を並べて話し合う機会をもったことになる。

花妹は現在台湾でチーリンが置かれている現状を説明した。
また、チーリンの気持ちはわかるがマネージャーとして社命を果たさなければならないことも話した。
それを踏まえたうえでやはりチーリンにはすぐに台湾に帰ってもらいたいと頼んだ。

チーリンもこの一月余りの出来事を隠すことなく正直に話した。
特にこの美波間島に来てからの心境の変化について花妹にはわかってほしかった。

しかし、花妹にはなぜ地位や名誉、経済力のあるチーリンがわざわざこんな何もない小さな孤島にこだわるのかが理解出来なかった。
その夜、チーリンの首は縦に振られることはなく話は平行線を辿った。

翌日チーリンは諒太に言われた通り花妹を外に連れ出した。
雲一つない快晴であった。
チーリンは崖の上から海が良く見える展望台へ向かった。

「おや、チーリンさんこんにちはー」
お年寄りのおばあさんが気さくに挨拶をしてきた。
花妹はチーリンをよく知る知り合いなんだろうと思った。
しかしそうではなかった。

「今日はいい天気だね~
チーリンさんお散歩かい?」
また年配のおじいさんが声をかけてきた。

道で出会う人、出会う人 皆チーリンにニコニコ優しい笑顔で挨拶をしてくる。
チーリンもそれに応えるように満面の笑みで挨拶を返した。

チーリンは島民との間で絆とも言うべき信頼関係を構築しているのを花妹は感じ取った。
島民は皆優しく親切でチーリンをねぎらってくれている。
また、歩く途中で見かけたサトウキビ畑で働く者、野菜を作る者、果物を作る者、家で作業をする者、見たところ裕福な人など誰もいなかったが、どの人も生き生きと仕事に取り組んでいた。

台北の街のような雑多なところはまるでなく、この島は時間がゆっくりと流れているような感覚に花妹はおちいった。
そして島の美しい景色はいつしか忘れてしまった心の原風景を思い起こさせた。

海が良く見える展望台からは陽の光がエメラルドグリーンの海面に反射してキラキラと輝いていた。
突き出した崖下の先にはこぢんまりとした灯台が白いペンキを反射して綺麗に見える。

チーリンは海の先を見ながら言った。

「私はまだ見たことないけど、条件が良ければ年に何回かはここから台湾の陸地が見えるそうよ…」


(この島はそんなに近くにあるのね…)
今は見ることが出来ない近くて遠い台湾の方向を花妹は黙って見つめた。
海からの潮風が気持ち良かった。

(私…チーリンの気持ちも考えずに仕事を上から言われるがまま入れていたのかもしれない…
そうよね…真田さんの言う通り人は機械の部品やロボットなんかじゃない…
チーリンはこの島で人間らしく生きるということはどういうことなのか知ったのね…
私がマネージャーとしてしなくてはいけないことは言われるがまま仕事をブッキングすることじゃなくチーリンを守ることなのかもしれない…)
花妹は海の彼方を見つめ続けるチーリンの横顔を見ながら思った。

夕方過ぎ竜男がやって来た。
竜男は一度諒太が意識が戻らず眠り続けているころ尋ねてきていた。
妹の瞳から諒太が復調したと聞き、再びの遠洋漁から帰ってその足でやってきたのだった。
諒太に娘の唯を助けてもらったことの礼を伝えたくていてもたってもいられない日々を送っていたのだ。

「諒太ぁ! 諒太ぁ!」
玄関で竜男は大きな声をあげた。

「あ、竜男さん」
チーリンが玄関先に出てきた。

「諒太が元気になったって聞いてこれ!」
竜男は大きな鯛を発泡スチロールの箱から覗かせた。
店で買えば何千円もしそうな立派な鯛であった。

「諒太さんまだ帰ってないんだけど、そのうち帰ると思うから良ければ中で待ってて」

「ああ、今日こそはこの間の礼をしたいからな…
そうさせてもらうよ」
竜男は勝手知ったる諒太の家を上がると花妹がいる茶の間に入った。

「こちらは?」
竜男はチーリンに尋ねた。

「私のマネージャーの張 花妹よ。
こちらは諒太さんのお友達の宮城竜男さん」

竜男と花妹はお互い挨拶を交わした。

「マネージャーって芸能事務所の?」
動揺したように竜男はチーリンに聞いた。

「うん…」

「まさかチーリンさん台湾に戻ったりしないよね⁈」

「私はそのつもりはないんだけど…
花妹が私を連れ戻しに来たのは確か…」

「ちょっ…ちょっと待ってくれ、
張さん、本当にチーリンさんを連れて帰るつもりなのかい⁈」

「ええ…私はそのつもりで社命を受けてここに来ました…」

「頼む!いまチーリンさんに帰られたらまた諒太はカラになっちまう…
頼むからそれだけは止めてくれ!
この通りだ…」
いきなり竜男は花妹の前で頭を畳に擦り付けて土下座した。

「ちょっと、どうしたの竜男さん!」
チーリンは驚いた。
花妹も竜男の行動にびっくりしている。

「そんなことしちゃだめ、頭を上げて竜男さん」
チーリンは必死に土下座する竜男を起こそうとした。

「宮城さん…どうしてそんなことするんです?」
花妹は何故竜男がチーリンが帰らないよう懇願するのか理由がわからなかった。

「俺にとって…あいつは大切な友なんだ…
またあいつの悲しむ顔を俺は見たくないんだよ…
だから頼む」

友達のためにここまでする竜男の姿に花妹は胸が熱くなった。

チーリンは花妹に諒太がなぜ美波間島にきたのか今まで歩んで来た半生を語った。

花妹はすべてわかった。
チーリンがこの島にこだわる理由が…  
この島の何人も受け入れて包み込んでくれる美しい自然とそこに住む人の優しさと人と人の強い絆、そして真田 諒太という周りの人を惹きつける人徳と朴訥だが誠実な人柄。
花妹が見知っているチーリンが今まで付き合ってきたルックスと表面のみの優しさの中身の薄い男とは全く異なるタイプ…
それが真田 諒太という男性…

チーリン…
生まれて初めて自分の居場所に辿り着いたんだね…
花妹は心の中で姉が妹を想うような気持ちで目を潤ませた。

「わかりました…
私はチーリンの気持ちを尊重します」
花妹はまだ畳にうずくまる竜男の手を取った。

「花妹…  」
チーリンは涙を浮かべ花妹を見つめた。

ゴトッと庭から音がした。
そしていま帰ってきた諒太が庭から顔を出した。

「おう、竜男来ていたのか? 」

「諒太ぁ!」
竜男は裸足のまま庭に飛び出し諒太に抱きついた。

「おい何だ⁇
男が気持ち悪いな…」
諒太は驚きを隠せなかった。

「ありがとう諒太…
唯のこと本当にありがとう…」
竜男は諒太に頭を下げた。

チーリンと花妹は男同士の友情を眩しそうに見つめていた。































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