幸不幸の天秤

色部耀

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幸不幸の天秤

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「いやぁああっーー!!」


 披露宴会場を包む悲鳴、混乱、喧騒。つい数秒前までこの世の全ての幸せを手にしたかのような笑顔と純白のウェディングドレスで飾った新婦は、今や絶望を浮かべた真っ青な顔と真っ赤なドレスでゆっくりと崩れていた。とても……美しい。


「ああ君は今、なんて不幸なんだ。今までの幸福が丁度これで原点に回帰したのではないかというほどに不幸だ」


 産まれた時から裕福で、友人にも恵まれ容姿にも恵まれた君は不幸など知らずに育ってきたことだろう。参列者の顔を見れば分かる。恨み、妬み、嫉みにもさらされる必要のない人間関係。負の感情など見たことも聞いたことも無かったのだろう。幸せな人生だったのだろう。

 私はそんな君のことが好きだった。君の幸せな人生の物語を聞くのが楽しかった。そんな君のそばにいるだけで私も幸せだった。けど……気付いてしまったんだ。私が好きなのは君ではない。

 幸せな物語だったのだと。

 そして同時に知ってしまったんだ。

 不幸の物語もまた、例えようもない程に好きだったということを。

 ケーキナイフで喉元を一突き。ウェディングドレスの前半分を真っ赤に染め上げて壇上から倒れる彼女。もはや彼女自身に興味を失った私には名前すらも思い出せない。ただ、おめでたい席で紅白の衣装に身を包んだ彼女は素晴らしくこの場に適した姿なのだということは分かる。美しいと感じた気持ちも、もはや廃れてきた。やはり私が美しいと感じたものは不幸の瞬間。不幸の物語。

 幸福の物語も不幸の物語も紡いだ彼女は、私にとって最高に美しかった。しかし、もう彼女の物語は終わりを迎えたのだ。彼女にはもう未来も無ければ魅力もない。美しくない……。


「芽衣!」


 そう言って駆け寄って来たのは最も近くに座っていた大学の同級生。今しがた彼女を刺した私の近くだというのに何の警戒もなく崩れる彼女を抱きしめる。――危機感というものが無いのか。この女性もぬるい物語を紡いできたのだろう。面白くない。

 私はそこから歩いて式場を出る。不思議と追ってくるものはいなかった。想定していない出来事に対処もできない。人というものは案外もろいものなのだな。

 歩いて式場から出たとはいえ、返り血を浴びている。私は車で着替えて血を拭きとった。時間が経った血というのは生臭くて不快なものというのも初めて知ったな。

 そのまま車で近くの繁華街へ。裏路地だらけの繁華街。そこで私は車を捨てて日の当たらない街を歩く。生憎と言ったらいいか幸運にもと言ったらいいのか、車の中には七千万円の入ったジェラルミンケースが入れてある。これは、私が銀行というものを一切信用していない為に持ち歩いていた財産の一部だ。銀行は預金も出納も簡単に情報が流出し、何か問題が起これば容易く口座を凍結させられる。そんな何もメリットの無い機関だということを理解している。

 スーツ姿にジェラルミンケースを持った男が路地裏を歩いていれば、必然的に人など寄り付かない。まあ、馬鹿でもなければ……だが。


「なんだ小娘。私に何か言いたいことでもあるのか?」


 春先とは言えまだまだ肌寒い日の夜中。薄着では冷える路地裏。その少女は露出の多いワンピースドレス――とは言っても千円程度で買える代物を着ている。安物のスナックの裏でエアコンの室外機で暖をとる少女は目の前を通る私をじっと見つめていた。


「はぁ……」


 まるで私に聞かせるように大きな溜息を吐いた彼女の瞳は死者のように光が無い。艶のある髪も潤いのある肌も、ただ体を洗うことができていないだけだと分かりこの上なくみすぼらしい。年の頃は精々二十歳と言ったところか。

 その年で幸せになることを諦めた顔。その年で全ての不幸を経験してきたのだとでも言うような仕草。

 しかし私にはその姿が酷く美しいものに思えた。

 彼女に興味がある。彼女に近付きたい。彼女に触れたい。


「あんさ、おじさん。これから私に何するか分かってるんだけどさ。お金は置いてってよね。腹減ってんだよ」


「性欲が満たされると空腹がまぎれるって知ってるかい?」


「知らんけど。もう身体の感覚も麻痺してきてんの。良いからなんか金か食いもんくらいよこせよ。感じない女犯してもおっさんも楽しくないでしょ?」


 地べたに座ったまま顎だけで指示する少女。ああ……なんと美しいんだ。


「なんだよおっさん。これ」


 私は自然と彼女の前に行き、ジェラルミンケースを開けて見せていた。七千万の現金。そんなものを見ても彼女の表情は変わらなかった。


「くれるって言うの? でも受け取らないよ。こんなもん持ってたら私なんか半日もしない内に肉の塊にされる。私にとっちゃ紙切れ一枚ポケットの中にでも突っ込んどく方がよっぽど幸せなの。まあいいや、で、どこでやるの? ここか? ホテルでもあんの? あと、先に言っとくけど顔だけには傷残さないでよね。生活が懸かってる」


「これはただの原資だ。とりあえずお前を日本一幸せな女にしてやる」


「は? 頭わいてんの?」


 言葉だけの軽い抵抗をしながら彼女は私に手を引かれるまま、この町で最も高級なキャバクラへと連れて行った。


「いらっしゃいま……ってオーナー?」


「もうオーナーじゃない。それより頼みがある」


 出てきたのはこのキャバクラの現オーナー。私の後釜だ。


「もしかして、その女の子ですか? 最近じゃここらでちょっと有名だし売り出すのは難しいですよ?」


「キャバとしてじゃない」


「あーなるほど。AVかソープならいくらか売り飛ばせますよ」


「いや、違う。トップアイドルとしてだ」


「いや、え? いくらオーナーとは言えそれはちょっと……」


 渋る後輩の目の前にジェラルミンケースを叩きつける。


「ひとまず前金だ。つてならいくらでもあるだろ? 売りだせ」


「は、はぁ。やってみますよ。でも、こんなはした金だけじゃどうにもならないことくらい分かってますよね?」


「あとはこの女次第だ」


 べたついた長い髪をガシガシと撫でると不機嫌そうに俺の事を睨む。


「私はさっさとやって解放してくれた方が幸せなんだけど」


 文句を言う彼女は力なく奥へと引っ張って行かれた。

 これから警察の目を掻い潜りながら裏で糸を引いて彼女をリリース。金にも名誉にも権力にも男にも困らない。そんな女にしてやるよ……。

   ***

 それから二年後――。二十一歳になった彼女は瞬く間にシンデレラストーリーを駆け上がった。結果的にアイドルではなく女優として大成した彼女は国民的美少女、演技派女優として名を馳せた。体中に有った消えない傷のせいで肌を露出する仕事はできず、そのおかげで清純派女優とも言われていた。


「何しに来たの?」


 撮影所の裏手。室外機の風で暖を取る彼女は、相変わらずカメラがまわっていないところでは死んだ瞳をさらす。私はその目を見て、変わらぬ愛しさが心を支配する。


「今、幸せか?」


「幸せそうに見えるなら、幸せなんじゃないの?」


 その姿は欠片も幸せそうではなかった。


「目指すところでないならば、幸福事もまた不幸――か」


「金も男も権力も興味無いんだよ。もう――解放してくれよ」


 膝を抱えた彼女は衣装のドレスに顔を埋める。一着百万はくだらないワンピースドレスに顔を埋める。


「稼いだ金はどうしてるんだ?」


「全部捨ててる。封筒に入れて放り投げたり、募金箱に突っ込んだり」


「そうか」


「金持ってると怖いんだよ。いつ殺されるかって思って不安なんだよ」


「そうか」


 この子はもしかしたら、不幸でいることを望んでいるのかもしれない。不幸でいることで安心を得ているのかもしれない。

 普通なら、安定した職や収入。着る物や住む家なんかから安心を得るもの。しかし彼女は違う。そんなものは奪われる事への恐怖を助長する要素でしかなかった。


「もうこの仕事、辞めるか?」


 軽く言った私の言葉に、彼女は初めて目を輝かせた。


「うん!」


 私が差し伸べた手を力強く握る彼女。栄養失調気味のあの頃とは違う。


「それでも私は君の幸せを諦めてはいないんだ」


「ふーん。まあ、いいけど。じゃあ、お願い聞いてよ」


「なんなりと」


 それから彼女に言われたお願い。それにただただ私は従った。


「わー。いいなーこの部屋!」


 何もない部屋。座布団が二つとちゃぶ台が一つ。板間で風呂もなし、トイレは共用。家賃は一万五千円。


「こんなところで私と二人で生活がしたいなんて正気か?」


「うん! 気に入った!」


 初めて見る彼女の本当の笑顔。何故だろう。この子の顔はどんなものであっても美しい。飽きる事がない。


「一樹さん。今年二十七歳ですよね?」


「ああ、そうだが」


「もっと歳上に見える。初めて会った時なんか四十手前かと思ってた」


「そうか」


「年も近い事だし……。ねえ。結婚してくれない?」


「それで君が幸せになるというのなら」


 本当に軽い一言。不正に国籍も住民登録も作り直した私は、もう一度結婚という選択をすることとなった。何もない部屋、ただ生きているだけという生活。二人で家賃を含めて五万足らずの生活費で細々と生きる。それなのに彼女は毎日幸せそうに笑い、私の隣で安らかに眠る。

 私もそんな彼女の姿を見ているだけで、理由も分からず幸せだった。

 幸福な物語と不幸な物語――そのどちらも等しく愛する私の性癖に、彼女は正しくはまっていた。私の理想の額縁に、一分の隙間もない程はまっていた。

 何年経っただろうか――。二人で幸せと言える日々を送り続けてからどれだけの月日が流れただろうか――


「私、最近不安なの」


 彼女は布団の中で寂しげに呟く。初めて会った日を思い出すような曇った眼で……


「一樹さんがどこかへ行ってしまうことが不安で怖くて仕方ないの」


 以前言っていた言葉を思い出す。金を持っていると不安だから捨てている――


「なら昔稼いだ金のように、私のことも捨ててしまうか? それで不安はなくなるぞ?」


 彼女は首を横に何度も振って否定する。


「一樹さんは捨てない。ずっと一緒にいて」


 縋るような言葉に、絡みつくような仕草に、俺は安心感を覚えていた。――彼女の物語だけでなく、彼女自身のことを本当に好きになってしまったのかもしれない。


「それが君の幸せならば」


 おそらく失ってしまうという不安以上に、認めてくれる誰かがいる安心感や受け入れてくれる誰かがいる安堵感が上回っているのだろう。もしかしたら私も彼女に対して同じような感情を抱いているのかもしれない。

 社会の裏側で生きる自分。他人の幸せだけでなく、他人の不幸をも喜びに変えて自分の中に収めてしまう自分。人として間違ったと言われる道を歩き、人として崩壊してしまった性癖を持つ自分を真っ直ぐに見る存在。それが私に安心感を与えている事実は否定できないものなのかもしれない。

 インターホンの設置されていない部屋。ドンドンっと乱暴に玄関が叩かれる。


「こんにちわー。岸辺一樹さんいらっしゃいますかー?」


 妙にはきはきとした話し方。三人の足音、気配。ああそうか――。これでお終いか――。


「はーい」


 ゆっくりと玄関に向かった彼女は緩慢な動きで玄関を開ける。


「警視庁の者です。岸辺一樹さん、いらっしゃいますね? ご同行願います」


 押し入るように部屋まで入ってくる警察官たち。二年前の殺人事件。ようやく私の下まで辿り着いたか。


「抵抗などする気はないさ」


 手錠をかけられて警官に背中を押されて家を出る。


「一樹さん!」


 すがるように私の腕を掴む彼女。――演技以外で彼女の涙を見たのは初めてだった。


「やはり君は美しい」


「一樹さん……」


 私を見上げる彼女は力なく私の腕を放す。


「これで君は私を失うという不安からは解放されるわけだが、一つ安心してくれて良い」


 こくこくと頷く彼女。


「必ずまた君の下へ戻ってくる。待っていてくれるかな? 恵――」


「うん。待ってる。ずっと待ってる」


 幸も不幸も飲み干して、彼女の物語は時を経るごとに益々美しく輝いていく。私のことも彼女の美しさの中では一つの小さな要素でしかないのかもしれない。

 でも、だからこそ君の下へ戻ってくる。君のそばで君を見ていたい。


「愛してるよ」
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