願い!時を超えて

色部耀

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MVP

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 その翌日、バスケの県MVPが発表された。例年、県MVPは五人選ばれることになっている。ウチの学校である森北高校からはセンターの大木先輩と、フォワードの速川先輩が選ばれ、全校集会で表彰を受けた。残りの三人は他校の生徒だ。秘かにライバル視していた森三高校のガードである白石がMVPに選ばれた事に少なからず俺に悔しい想いを抱いた。
 あれから変わったことと言えば、そんな発表があったくらいで、いつも通りの日々だった。記憶違いの件も解決せず、ただ時間だけが過ぎた。幸いなことに、この一週間は新しく記憶違いが発生することもなかった。今日も部活に精を出す。いつも通りの日常だ。

「それにしても、MVPが発表されてから薫はやる気満々だな。部活が終わっても練習に付き合えなんて、今までは無かったじゃん。まあ俺自身も願ったり叶ったりだけどさ!」

 そう言って雄介は、俺の練習に付き合ってくれている。ちなみに、他の部員には内緒の練習だ。

「だって、悔しいだろ。同じ二年の白石がMVPなんて。まあ、向こうの方が得点率が高いから納得だけど。そう言う雄介は、悔しくないのか?」

 俺はレイアップを決めながら話した。

「俺の場合は同じポジションに速川先輩がいたし。尊敬してた先輩にMVPを取られても、何だか自分の中で納得できる。ま、これからライバルと言えそうな奴と言えば、森三高のポールくらいかな? でもあいつ程度なら俺の敵じゃねぇよ」

 ダブルクラッチ? 今何回空中で動いた? 雄介は俺から簡単にゴールを奪っていく。相変わらず、日本人の跳躍力じゃない。そう思いながらも、俺は自分のディフェンスの甘さを痛感する。

「確かに、雄介は速川先輩のせいでスタメンじゃなかっただけだしな。総合力ならスタメンだった俺より実力は上だって認めてるよ」

 俺は軽く雄介にパスを出す。それを受け取った雄介は、フリースローラインから片足で踏み切り跳躍すると、派手な音も立てずに綺麗なダンクを決めた。何かの冗談みたいだ。

「でもな、お前ほどのパス回しができる奴は今の高校バスケ界にはいないだろ。だから俺らのチームのスピードバスケは影でお前が支えてたんだ。速川先輩も俺もその点では日本一恵まれてるぜ」

 嬉しい事を言ってくれる。

「ただ、得点力は無いけどな」

「分かってるよ。決勝で負けた原因も、MVPを取れなかった原因もそれだからな。だからこそ、ワンオンワン。雄介に勝ち越せるまで毎日挑ませてもらうよ」

「はははっ! 良い度胸じゃん! 言っとくけど、ワンオンワンでは速川先輩以外に負けた事ないぞ。大木部長にだって勝ち越してんだ。もしかして引退まで付き合えって事か?」

 高慢な発言だ。そこまで言われると愉快でさえある。誰もが認める実力者。情熱的で世話焼き。本当にこいつが部長で正解だと思う。

「今年は優秀な一年が多いんだ。インハイ、連れてってやろうぜ!」

「うん。でもそれより、前言を撤回させるのが先だな! 引退までなんて付き合ってもらわなくても大丈夫!」

 ああ。次の日は絶対に筋肉痛で動けないな。俺達は夜遅くまでワンオンワンに明け暮れた。本当に翌日学校がなければ、夜が明けるまで、さらに日が暮れるまで続けていたい。そのくらい充実感があり、楽しかった。ふと携帯の時計を見ると、またしても夜九時をまわっていた。

「はははっ! バスケってこんなに楽しいもんだったんだな! 初心に帰った! 相手を抜くこと、ボールを奪うこと、ただそれだけを考える。最高だな!」

 今の俺と雄介は着替えを済ませてワイシャツ姿。そして、体育館脇の外廊下に大の字で寝そべって星を見ている。旬を終え静かに並んだソメイヨシノを横目にグラウンド側を見上げた。すると、そこには視界を遮るものなんて何一つ無く、澄んだ夜空が広がっている。その眺めは、まるで体の疲れを吸い取って癒してくれているかのようだった。実際は、全身が悲鳴をあげていて動きたくないだけだけど。
 それでも、そのまま夜風に打たれて眠ってしまいそうだ。

「ああ、毎日こうやってバスケができたら幸せだな。明日もこの時間までワンオンワンしよっか」

「わりぃ。毎日は無理だ。俺にも、ちょっと用事があるからな。毎日付き合うにしても、この時間までは流石にできねぇ」

 曲りなりにもこいつは生徒会副会長をしている。忙しいのだろう。まあ、生徒会に入った動機は不純だし、その中でも学業成績が最下層なのは間違いない。それでも立派にやっていけているのは、並々ならない行動力からなのだろう。不純な動機? 本人に聞いてみるか?

「最近、若菜さんも夜遅いみたいだし、そんなに大変なのか?」

「そうなんだよ。俺も若菜さんの為に必死で頑張ってるんだけどな……。どうも生徒会の域を越えてるっつうか……。俺も部活で鍛えてなかったら付いていけなかっただろうな」

 鍛えてないとできない仕事って何だ? だが、それよりも突っ込むべき点がある。

「生徒会のくせに、生徒の為じゃなくて若菜さんの為に頑張るんだな。副会長さんよ」

 そう。何を隠そう、こいつが好きな人と言うのは、若菜さんの事なのだ。だから、他の女子に想いを寄せられても律儀に断りを入れている。その結果、彼女イナイ歴=年齢なのだ。

「当たり前だろ! 俺は若菜さんに全てを捧げてんだ! だから、生徒会の仕事が入ったらワンオンワンは二の次!」

「さっきの意気込みはどこに捨てた!? 親友との約束はそんなに軽いものだったのか!」

「残念ながら重みが違うのだよ。愛の重みがな!」

「友は愛に勝てないのか……こうなったら勝てるまで挑むしかないか」

「はははっ! 良い度胸じゃん! 言っとくけど、若菜さんより勝ってるものはないぞ。大木部長にだって勝ち越してんだ。もしかして引退まで付き合えって事か?」

「ワンオンワンの話題を蒸し返すな!」

 でも、そういうノリ嫌いじゃない。

「そういうことで、俺は俺の願いのために動かさせてもらう」

「まあ、それは良いけどあんな遅くまで一体なにやってるんだ? お前達も一応高校生な訳だし」

 ひとまず、以前若菜さんが遅くに帰ってきたときから気になっていた事を聞いてみた。

「まだ内緒だ。薫にもいつか言うよ。ただ、今は言えねぇ。すまん」

 これは、かなりの厄介事の臭いがする。おそらく、教員の仕事とか色恋沙汰の話ではなく、もっと異様な感じだ。まあ、見ていて危なそうになったら首を突っ込ませてもらうか。
 なぜ俺がそこまで断定的に言えるかと言うと、今のこいつの顔は俺を巻き込まないようにしようとした時に作るそれだからだ。俺の記憶では今までそんな場面が一度だけある。忘れるはずがない。
 それ以上聞いたところで話してくれるとは思えないし、ここで夜風に当たって話していると気持ちよくなって寝てしまいそうだった。次の日も普通に学校がある事だし俺と雄介は帰宅する事にした。もう初夏とは言え、帰り道は少し肌寒く感じる。汗がシャツをうっすらと湿らせているせいなのだろうか。
 俺は足早に家路を急いだ。家に着く前。ふと宮内家に目をやる。電気は全て消えていた。皆寝てるな――。

「何だよ俺。まるでストーカーみたいじゃないか」

 そう呟いて自分の家に入ろうとしたその時、宮内家の二階の窓が開いた。そこから覗いた顔は笑顔で、楽しそうに手を振ってきた。

「やっほー! そこのストーカー! こんな時間まで部活!?」

 相変わらずの春菜だった。キャラの安定しない適当加減だ。

「ああそうだよ。てかストーカーじゃない! たまたまお前の部屋を見上げただけだ」

「やっぱり見てたんじゃない! あたしの生着替えはどうだった?」

「そんなとこ見てねぇよ! てか着替え中だったのかよ!」

 ちなみに春菜はパジャマ姿だった。ピンク色でダボダボな、見るからにパジャマだった。一番上のボタンが留まっていないあたりが、不覚にも色っぽい。本当に不覚だ。さらに、窓から半身を乗り出してるんだ。いけないいけない。

「残念だったわね。せっかくのチャンスだったのに」

「別に残念じゃねぇよ。お前の新たなウサギ好きを知れたしな。春菜、お前今いくちゅだ?」

 強がってはみたものの、実は少し残念だったりする。

「本当にいつも一言余計よ! これは玲菜がどうしても着て欲しいって言うから!」

「良い趣味だと思うぞ。ウサギちゃんパジャマ」

「うるさい! そんなこと言って、また生着替えをさせるつもりね! ほんと手の込んだ変態だわ。まあ、見せてあげてもいいんだけど……」

 語尾に行くにしたがって声が小さくなる辺りがドキッとさせられる。なんだ? 勘違いしてしまうじゃないか。

「せっかくの覗きをネタに、薫を脅してパシらせるチャンスだったのに」

「まったく! お前の残念な発想にはがっかりだよ。変な言い回ししやがって!」

「ざんねんでした」

 最後の残念は、お互いに同じ意味で捉えているだろう。呆れた俺はおやすみも言わずに家の玄関を開けた。

「次は頑張ってMVP取ってよね!」

 俺の後ろ姿に向かって春菜は叫んだのだろう。俺もそれに答えて後ろ手を振った。お互い、素直じゃないやり取りだな。
 でも、そういうノリ嫌いじゃない。

 翌朝だ。登校だ。
 いつものように慌てて着替えて寝癖を直すと、食パンをくわえて家を飛び出す。そんなベタな妄想をしながら、のんびりと朝の支度をしていた。ちなみに、朝はパン派である。トースターにそのまま食パンを突っ込み、サクッと焼き上がったら、食感を損なう前に素早くバターを塗って口に放り込む。口のなかには、バターの甘味。そしてサクッとした表面の食感の中には、フワフワなパン生地が詰まっている。口の中で咀嚼すればするほど、バターの甘味は消えてしまう。その代わりに現れるのはパンそのものの甘味。デンプンがアミラーゼによって加水分解され、単糖やオリゴ糖として口の中で自然の甘味料へと変わる。単なるグリコシド結合の切断という結果がこんなに不思議なものなのか。こうして、俺はアデノシン3リン酸を身体中に補給してから活動を始めるのだ。
 とまあ、くだらない事は忘れて玄関を出ると、学校へ向かう。それにしても、のんびりしすぎた。少し急がないと遅刻してしまいそうだ。すると、隣の宮内家から春菜が飛び出してきた。
 そして俺は、その姿に見とれてしまった。それは何故か。理想の姿だったのだ。その慌てて飛び出してきた様子が、俺が思い描くそれだったのだ。そう。奴は食パンをくわえて家を飛び出してきたのだ。しかも律儀にも、

「いっひぇひひゃふ」(いってきます)

 とまで言いやがった。流石の俺も、ちょっと引いた。退いた。曳いた。

「ちょっとあんた! どこまで引く気よ!」

 一歩二歩三歩と後ずさる俺を引き止めて、春菜は食パンを片手に憤慨した表情を浮かべていた。恥ずかしさを浮かべていたならば、多少は萌えたのだろう。まあ、そんなことを求めてないが……。

「一度はやってみたかった渾身のギャグなんだから突っ込んでよね! 誰かに目撃されるまで何回試みた事やら」

「何度もやってたのかよ! てか突っ込みづらい!」

 一瞬で食パンを口に押し込んで食べ終わった春菜は何事もなかったかのように学校へと走って行った。 何だか突っ込みが無視されて悔しかったから、追いかけて捕まえようとしたが追い付けなかった。奴は速すぎた。
 そういえば、今日は珍しく春菜は朝練をしなかったみたいだ。いつもなら、誰よりも早く学校に来て、テンションがおかしくなるほど朝練をするはず。そして、当たり前のようにホームルームをサボるのだ。まあ、テンションがおかしいのはいつもの事だが……。
 こうして普通の生徒のように朝から教室に春菜が座っていると、逆に違和感に感じるほどだ。

「どうしたんだ薫? 朝っぱらから幼馴染みとジョギングか? 羨ましいねー。どこかのラブコメみたいな展開じゃないか」

「違う! あいつの態度に腹が立って追いかけたんだけど、追い付けなかったんだよ」

 雄介は肩で息をする俺を笑いながら見て言った。本当に、こいつはどうしていつも俺に対して春菜フラグを立てようとするんだ。春菜なんてそんなことお構いなしに、俺より早く学校に着いたことを周りの女の子に自慢してやがるし。奴も奴で、わざわざ俺に聞こえるほど大声ではしゃがなくてもいいだろうに。明らかに嫌がらせだ。

「おいおい、だらしないな。そんなんじゃ砂浜で、捕まえてごら~んって言われても捕まえてイチャつくこともできないぞ」

「大丈夫。そんな展開にはならないから。それにしても、あいつのあの態度……。ひどくね? 周りの人間みんなには謙虚なくせして、俺には対抗心剥き出しでよ。本当に何なんだよ」

「所謂、ツンデレって奴だな。王道じゃないか。いやー、薫は本当に幸福者だなー」

 ほら、そんなこと言ってるから来たじゃないか。恐怖の大王様がさ。本当に、俺に嫌なことを言う前って良い顔してるよな。

「なんだよ春菜。俺に何か用?」

 俺は素っ気ない言葉を発して、春菜と逆方向の窓に顔を向けた。俺を侮辱しようとやってくる女の顔を見る勇気は無い。俺はチキンだからな。鶏だからな。コケコッコー。

「これからあたしと一緒に毎朝走る? そしたら、少しは体力つくんじゃない? でも、勘違いしないで。べ、別にあんたの為とかじゃないんだからね!」

 隣で雄介は小さく、きました王道ツンデレ! とか言ってたが、こいつは後でお仕置きだ。ひとまず、少しだけ萌えたのは認めよう。ああ、振り向くくらいしてやるよ。俺って優しい。

「あたしがそんなこと言ったらどうする? 最近人気のツンデレって、いまいち良さが分からないのよね。どうかしら、あたしの迫真の演技?」

 今度は隣から、なんて邪道! って残念そうな声が聞こえてきた。ざまーみろ。お仕置きは免除にならないけどな。

「ああ、本当に真に迫る感じだったぞ。で、何がしたいんだ? ツンデレの練習か?」

「まさか! ツンデレなんて練習するまでもないわ。あたしは、県MVP様に走り勝ってテンションが上がっちゃっただけよ! ノリでヘッドスピンとかできちゃうくらい」

「そんなことしたら、またパンツがオープン戦を始めちゃうけどいいのか?」

「今度はどこの骨を壊して欲しい? あたしの前世って破骨細胞だったの」

「お前はなんて邪道な脅しを使うんだ! てか、前世が破骨細胞って何だよ! コア過ぎて怖すぎるよ」

「冗談に決まってるじゃない。あたしの前世は、トゲトゲかしら。で、薫の前世はトゲナシトゲトゲよ」

 ちなみに、トゲトゲもトゲナシトゲトゲも実在する昆虫だ。ついでに言うと、トゲアリトゲナシトゲトゲもいる。マジで、その道の人達しか知らないような変な知識である。とりあえず、春菜は自分より俺を低能に仕立てあげたいらしい。

「それにしても県MVPなんて嫌味、どこで覚えたんだか。俺だって、新人戦でMVP取るために必死で練習してるんだからよ。少しは気を使ってくれても良いんだぞ」

「さすが! MVPを取った男は研鑽を怠ったりしないのね。珍しく感心させられたわ」

「は? 何言ってるんだ? MVPを取れなかったから頑張ってんじゃん」

 なんだか、春菜の頭の上にハテナが大量に浮かんでいる。本当に、今日のこいつは絶好調だな。演技力に磨きがかかってやがる。

「あんたこそ何言ってんの? この前表彰されたばっかりじゃん? あたしの横に並んで賞状もらってたじゃない」

 そこで、タイミングよくチャイムが鳴り、春菜は自分の席へと帰っていった。いや、タイミング悪くなのか。俺の隣の席に座っている雄介は、心配そうな顔で俺を見ていた。考えていることは……。なんとなく予想がつく。

「お前、大丈夫か? 前も変なこと言ってなかったか? よくわかんねーけど、心配だわ。次の休み時間にちょっと話せ」

 まさか……。いや、まさかな。流石にそんなはずはない。有り得ない。
 俺は目を瞑って一週間前の表彰式の日を思い出す。記憶を再生する。焦りからか、今までとは違って早送りされているような感覚……いや、現実での時間がゆっくり流れているような……そう、走馬燈を見ている時と言ったらいいか。出席番号順に並び壇上を見上げる俺の目には笑顔で俺に手を振る春菜。その手を押さえる陸上部の先輩。その先輩と反対側には大木先輩と速川先輩が並ぶ。
 体育館の蒸し暑さも選手を讃える拍手もあの時のまま蘇る。腹の底に響くようなブラスバンドの演奏だって目と耳と肌が覚えている。全ての感覚が記憶にある。再生できる。間違いない。
 それなのに、また……また記憶が違うって言うのか?
 走馬燈のような早送り――心臓は嘘みたいに早鐘を打つ。記憶を急いで詳細に思い出そうとした事の代償なのか、現実での感覚が麻痺したかのように希薄になっていく。目の前も歪んでいく――色が消える――地面が斜めになっていく――。

 気が付くとそこはベッドの中だった。いつの間にか眠っていてみたいだ。しかし、だからと言って夢落ちと言うわけでは無さそうだ。周りを見れば、明らかに保健室のそれであり、ベッドの横には雄介が座っていた。教室で倒れた俺を雄介が運んで来てくれたってところだろうか。時計を見ると九時半。ちょうど一時間目が終わった時間……。

「俺は、教室で倒れたのか?」

「お、目覚ましたか。そうだよ。突然倒れたから俺が運んで来てやったんだよ」

「雄介……もしかしてお前一時間目は出ずに、ずっとここにいた訳じゃないよな?」

 わざとそう聞いてみた。しかし、授業が終わって一分以内に隣の校舎から駆けつける事が出来ない限り、今の時間にここにいる事は出来ない。つまり、一時間目を欠席したのだろうと。

「ああ、サボる口実にはちょうど良かったからな。一時間目は俺の嫌いな歴史の授業だ」

 まあ、こいつならそう言うと思っていた。そういう奴なんだ。

「ありがとな」

 そうやって、人に気を使う奴なんだ。心配してくれたのだろう。倒れる直前に俺の体を支えてくれた事は、雄介に悪いが覚えている。地面が傾いて行く感覚を持っていて時に雄介が俺の前に手を差し伸べてくれていた映像が記憶に残っている。
 記憶力には自信がある。……はずだった。

「なんで、授業サボったことに感謝されなきゃいけねぇんだよ。それより薫。何があったんだ? 今度はどうした?」

 何があったんだ? どうした?
 倒れたこと、記憶がおかしいこと。それらをいっぺんに聞くことができる最善の質問なのだろう。それ故に、答えづらかった。

「いや、何でもない。ちょっと疲れて貧血を起こしただけみたい」

 結局俺は誤魔化す事にした。もし俺の予想が正しければ今回はヤバ過ぎる。すれ違う出来事の、質も量もとんでもないことになる。そんな気がした。今後は周りに話を合わせて、変に思われないように気をつけよう。俺はそこまで決意を固めようとしていた。順応が早いように思えるかな? ……違う。
 怖かっただけなんだ。人の目が。いや、自分自身が……。

「俺は、お前の言うことを全面的に信用する。お前の言葉を真実だって受け入れる。何があったんだ? いや、俺達の記憶と何が違う?」

 俺達……。俺が圧倒的少数派と言うことが確定しているかの様な物言い。でも逆にありがたい。それでも俺の為に、俺を信じると言ってくれている。答えるしかないか、質問に。応えるしかないか、その気持ちに。
 俺は固めかけた決意を放棄し、重い口を開く。

「一週間だ」

「ん?」

「一週間前からの出来事を雄介が覚えている限り教えてくれ。それを聞いてから、俺の記憶を話す」

 おそらくMVPになったことで俺の行動に変化が現れるのはその頃。この一週間が最も重要だろう。以前の雨とは訳が違う。その後、付随するものもあるだろう。雄介は思い起こすかのように顎に手を当て、話し始めた。

「一週間前って言えば、そうだな。MVPが発表された日か? その日は、校長室に引退した先輩も含めたバスケ部員が集まって誰がMVPに選ばれたかが発表された。俺達は、二位だったから一人か二人選ばれるだろうって事で期待して行った訳だ」

 ひとまず、二位だったって事実は変わらなかったようだ。もし優勝していたら、先輩達は引退してないだろうしな。

「そこで名前を呼ばれたのは、速川先輩。まぁ当然だよな。そしてもう一人は、薫。お前だったんだ」

 それは予想通りの展開だった。でも、俺の記憶には全く無い。

「それに関しては予想通りだよ。その後に俺はどんな行動をとったのかとか、周りはどういう反応を示していたのか。それについて、詳しく教えて欲しい」

「詳しくったって……。あんまり普段と変わんないぞ? あーっと、そういやMVP取った記念で今週末の土曜日に遊園地に行く約束になったな。メンバーは、俺と薫と春菜と若菜さんだ」

 また出たな。俺の知らない情報が。しかも、ちょっとしたイベント。

「他は……。本当にいつも通りで平凡だったぞ。別に、チヤホヤされたり、誰かにコクられたりなんてエピソードも無かった」

 まあ、そんなエピソードがあったのに記憶無かったら後悔するよ。

「でだ。薫が覚えてる内容はどんな感じなんだ? MVPは取ってないみたいな話だったけど」

 話を聞く限り、MVPを取った事が起因しているみたいだ。その事で、この一週間がどこまで変わるのか。できるだけ正確に把握しておきたい。その為には、事細かに状況を説明する必要があると思う。雄介には悪いけど、どうでも良い話までしてしまうかもしれない。

「まず違うことは、ウチの学校でMVPを取ったのは、速川先輩と大木部長だった事。ついでに言うなら、森三高の土屋部長と白石。それと、林工業の沖野さんがMVPだ」

 俺の話を聞いた雄介は、目を丸くしている。

「確かに林工業の沖野さんは凄かった。でも、暴力沙汰がバレて問題になってたぜ。ニュースになったのは先週の金曜日だけど。それに、森三高は白石じゃなくて、沖野さんと同じフォワードの池田さんだったぞ。もう一人は南高の高須賀だ」

 白石がMVPじゃないだと? そうなると、協会の人数合わせで俺に決まったとしか思えない。各校二人までって、暗黙のルールが噂になっているしな。

「それと、雄介の話には出てこなかったけど、俺は毎日居残り練習をしてたはずだ」

「いや、俺の記憶にはないな」

 やっぱり……。MVPを取れなかった悔しさをバネにしていたしな。

「でも、実際に雄介にバレたのは一昨日。それと昨日は、二人してぶっ倒れるほどワンオンワンを夜中までやってて。そこで俺が勝てるまで毎日付き合うって約束もした」

 雄介は、そんなはずはないと頭を振っている。

「お前、今日は筋肉痛か?」

 あっ……。その台詞で気付かされた。何で今まで気にならなかったんだよ! 痛みも何もなく朝っぱらから走ってたじゃねぇか。自分の体は、自分が一番よく分かってる。昨日のあれは、一晩で回復する代物じゃない。あんなに全力で走れるなんて有り得ない……。そうか……。そういうことか。

「やっぱりおかしいのは俺の頭か……。ははっ」

 もう笑うしかなかった。結論は、出てしまったみたいだ。掠れた笑いを浮かべる横で、雄介は俯いて黙っていた。信用するなんて言ったのに、俺の嘘を発覚させて、自覚させてしまったんだ。俺にかける言葉が見つからないのだろう。

「ごめんな雄介。毎日ワンオンワンに付き合って貰う約束は、俺の勘違いだったみたいだ」

 相変わらず、雄介は口を開かない。

「ごめんな。ただでさえ若菜さんと厄介事を抱えてるって言うのに、俺までイカれて。もう、気を使ってくれなくていいよ。ありがとな」

 俺は挫けてしまって、今にも泣き出しそうだった。自分の信じていたものが、完全に崩れて居場所を失ったかの様だった。何も信じることが出来なくなった。

「おい薫、なんで俺が厄介事に巻き込まれてるって知ってんだ?」

 明らかに雄介の表情は固まっていた。例えるなら、死んだはずのライバルが土壇場で助けに来てくれた時の主人公のような顔だ。疑問は浮かぶが、頭は回転しない。脳内のギアが噛み合わず、負荷のかかったシャフトから軋む音が聞こえてくる。そのような感じだ。もちろん、俺だって焼き付いたエンジンが突然ガス欠でエンストを起こしたような状態だった為、対処の仕様がない。
 お互いが、文章にならない言葉を落とす。ポツリポツリと。雄介は少し落ち着くと、疑問を解決すべく言葉を紡いだ。

「俺は、一度だって学校の奴には話してない……。それに……目撃されるはずだって……無い」

「いや、確かに昨日。体育館の渡り廊下で聞いた。今は言えないけど、いつかちゃんと話すって」

「いやいや。そんな人目につく可能性がある所で言うはずがない。確かに、いつかは薫にも話そうとは思ってた。でも、いつ人が通るか分からない渡り廊下なんて……。有り得ない」

「人目を気にしてたんなら、大丈夫だったろ……? あんな夜中に俺達以外が学校に残ってるはずなんか無いし」

「夜中だって?」

 夜中と聞いた雄介は、明らかに怪訝な顔をする。何も言わなくても、有り得ないっていう言葉が伝わってくるようだ。

「てっきり俺は昼間に話したのかと勘違いしてた。ちなみにそれは何時ごろだ?」

 俺は自信を無くしていた記憶を探る。しかし、探るまでもなくすぐにその光景が目に浮かぶ。星空を見ながら、携帯電話確めたその時の時間……。

九時五分――

「有り得ない!!」

 雄介は、それを聞くと顔色を変えて、勢いよく椅子から立ち上がった。

「おい! どうしたんだよ」

 驚いた俺は、すぐにそう聞いたが、雄介は続けるよう言った。

「昨日、若菜さんと待ち合わせをした時間が九時だ。九時五分は……。初めて若菜さんが待ち合わせに遅刻して現れた時間だ」

 それはなんとも、印象的なエピソードだった。若菜さんと言えば、完璧を人の形にしたような存在だ。遅刻どころか、五分前行動を厳守している。全員五分前に集合と言われれば、そのさらに五分前に集合するくらいに。今は、雄介の方も記憶を否定されているような気分なのかも知れない。
 お互いがお互いを信頼しているから故に、どういう状態なのかが理解できない。話せば話すほど論理的に矛盾が発生する。いや、論理的にではなく、事実的な矛盾だ。まるで二人が違う過去を歩んできて、今たまたま出会ったかのような……。
 そのくらいのすれ違い。

「俺は雄介と学校で別れて、まっすぐ家に帰ったし。それに、帰った時間なら春菜も知ってるはずだ。たまたま部屋から顔を出した春菜と話をしたからな」

「春菜は俺と同じ記憶を持ってる。だからそれも怪しいんじゃないか?」

 そう言われてみれば当たり前だ。俺も混乱してるみたいだ。俺がMVPでもなく、居残りもしていないなら、春菜とも会うはずがない。

「とりあえず、春菜にも話を聞いてみたい。教室に戻ろう」

 そう俺は言う。しかし、その瞬間に保健室の扉が開いた。

「話は聞かせてもらったわ!」

 そこには春菜が立っていたのだ。

「お前。いつの間にいたんだ?」

「サボる口実にはちょうど良かったからな。のところからよ」

 つまり最初からいたんですね。超テンプレート。てか、春菜は一分以内に隣の校舎から駆けつける事が出来る人間だったんですね。

「結論から言うわ。昨日の夜、私は誰とも会ってないわ。薫と一緒に帰った後、家からは一歩も出てないし、部屋のカーテンすら開けてないわ」

 春菜は、頑なに家から姿を現していない事をアピールした。こいつにもそれ相応の理由があったのだろう。だが、そこにデリカシーも無く踏み込むのが雄介だ。

「絶対に家を出ない理由が何かあったみたいな言い方だけど……。念のために教えてくれ」

「嫌よ!」

 ……即答だった。

「だけどよ、できれば「だから、嫌って言ってるじゃない。うら若き乙女のプライベートに首を突っ込まないで! だからあんたはお姉ちゃんに「関係無いだろ」

 お互いがお互いに食い気味に喋る。まるで感情をぶつけ合うみたいに。しかして春菜は、とっても嬉しそうな顔で雄介を見ている。春菜が俺以外を苛めるなんて珍しい。まあ、雄介は若菜さんの事があるから、たまに弄りたくなるのだろう。

「まあまあ、雄介もその辺にしとけって。春菜は怒ると怖いから」

「そこは大丈夫! あたし、薫以外には怒らないから」

 ビシッと親指を立ててヒーロースマイルをした春菜は、さらっと聞きたくないことを言いった。

「ところで、薫は昨日の夜あたしに会ったって言ってたわよね? 何かあたしに変わった所は無かった?」

 真っ直ぐに俺を見る春菜は、今にも襲いかかって来そうなオーラを出していた。もちろん、獣的な意味でだ。何か変わったこと……? 毎回ハチャメチャなノリだから、言ってしまえばいつも変わってるんだが……。

「そういえば別れ際に、MVP取って! ってエールをくれたな」

「確かにあたしらしくないわね。他には?」

 俺に声援を贈ることは自分らしくないと自覚しているらしい。流石すばらしい自己分析。

「むしろ、春菜らしいことならあったぞ」

「何かしら?」

「ピンク色のウサ! んぐぅ!!」

 思いっきり口を塞がれました。そう。その柔らかな唇で。ごめんなさい嘘です。ベッドが砕けるんじゃないかってくらいの掌底で枕に叩き付けられました。

「おい大丈夫か?」

 雄介……。本気で心配してくれるお前は本当に良いやつだ。俺はどうにか春菜を振り払って起き上がった。まだ春菜は殺気立っている。喧嘩中の猫みたいだ。毛が逆立って、今にもフシャーって言い出しそうだ。

「それ以上話したら、怒るわよ。フシャー!!」

 あっ。本当に言ってくれた。でも、あれが家から出たくなかった理由だとは。てか、記憶が違っててもあのパジャマは着てたんだな。

「玲菜に着させられたんだろ? 仕方ないって」

 あっ! 猫が飛び掛かってきた。

「そ・う・よ! だから黙ろうか?」

 黙るからさ……。笑顔で胸ぐらを掴むのはやめようよ。ね?

「今の話を聞く限り、薫は知るはずの無い出来事について何故か知ってる。それは確実だ」

 横で雄介が冷静に分析を始めた。それによって、春菜も手を離して雄介の方を見た。雄介が似合わない事をしているが、襟元が絞まってきてそろそろ酸素が欲しかった俺にとってはありがたかった。

「信じてくれるのはありがたいんだけど、俺がどこかで情報だけ仕入れたのかもしれないだろ? 嘘を言ってる可能性だって」

 残念ながら、雄介が俺の事を信じてくれたからと言って、俺自身が自分の事を信じられる訳ではない。どのみち気持ち悪いのだ。情報としては正しい物であったとしても、事実が変わるわけではない。実際は雄介と話してもいなければ、春菜と会ってもいないのだから。

「薫が嘘をつくはずがない。まあ、どうでもいい嘘はつくけどな」

「そうね。それにあたしの情報なんて、手に入れる機会なんて無かったはずでしょう?」

 雄介の優しさと、春菜の推理には多少なりと納得せざるを得なかった。いや、納得という言葉は違う。安堵や、落ち着きといったものだろう。それでも、矛盾が解決するというわけにはいかない。誤魔化したに過ぎないのだ。しかし、そこで雄介が口を開いた。その言葉は突拍子もなく、更に現実から遠ざかる話だった。

「並行世界って聞いたことあるか? ここからは俺の推測なんだけど」

 俺と春菜は一瞬顔を見合わせて黙る。並行世界……。異なった時空間で同じような世界がいくつも存在するという理論。パラレルワールドの事だ。それを聞いた瞬間に、俺も春菜もピンと来たように雄介を見た。雄介はゆっくり頷き、話を続ける。

「つまりだ。薫は俺達が今いる世界とは違う並行世界から、無意識に飛んできた。そう考えられないか?」

 非現実的だが、矛盾は解決する気はする。むしろ、それを信じたい衝動に駆られた。ただ、圧倒的な非現実。それこそ有り得ないと思うし、残念ながら、俺はそんなファンタジーな世界に生きているわけではない。

「筋肉痛だって無くなってるんだぞ? 飛んできたって言うなら、筋肉痛もあるんじゃないのか?」

「だから、意識とか記憶だけが並行世界から飛んできたんじゃないかって俺は思ってる」

「じゃあ、何か? 俺はMVPにならなかった世界から意識だけこの世界にやって来たって事か?」

 そう考え出すと、それ少しずつ真実味が増してきた。そんな気がする。確かにそれだ! そう思える説得力が、そこにはあった。しかし、納得しかけていた俺とは違い、春菜は少し訝しげな顔をしていた。

「その理論だと、あんたは偽薫ね。あたしが知ってる薫じゃ無いってことかしら」

「そういうことになるのか? いや! 一週間分の記憶が違うだけだぞ?」

「でも、それまでの薫も違う世界のあたし達と接していたわけよね? 違う世界にいて、違う生活をしてきた薫は、この世界のあたし達にとっては偽物じゃないのかしら?」

 そう言われると、そう思えてきた。今の俺は、春菜達が知っている俺ではないのかもしれない。……俺って、何て優柔不断なんだ。人の言葉に簡単に流されて。もしそれが真実でも、事実は何も変わらないんだ。俺は皆が持っていない記憶を持っていて、皆は俺が持っていない記憶を持ってる。
 俺一人だけ違う。それは変えられない真実なんだ。
 俺は明らかに落ち込んだ表情をしていたのだろう。雄介は、またしても心配したように俺を見ていた。

「突然なんだけど……」

 春菜は言った。

「薫のとはちょっと違うんだけど、あたしにも変なことが起きてるのよね」

 いきなりのカミングアウトだった。一体何を言い出すのかと思い、俺と雄介は耳を傾けた。

「あたし、最近変な夢を見るのよ。何て言うか、すっごくリアルで目が覚めてからも全く忘れることもないの」

 そこまで聞いただけなら、何てことの無い夢見のいい奴だ。しかし、そこから疑問は加速する。

「その夢なんだけど……。何て言うか、あたしは未来にいるのよね」

 とっても普通な夢のお話でした。さっきの話が話だった為に、こういう普通な話が来ると落ち着くな。しかし、何故か俺は春菜に殴られた。腹の辺りをこう、ドスッと。

「痛ぇーな! 何するんだよ!」

「なんとなく、下らない話を聞かされてる人間の顔をしてたから腹がたったの」

 正解! でも、そんなこと言えません。

「……続きをどうぞ」

「ありがとう。それでその夢が、薫の事を見ながら何かしら考えを巡らせる……。そんな内容なの」

「なるほど。未来の春菜は俺のファンになるんですね。まさかの告白に俺、興奮が押さえられないよ」

 スネ! 分厚い本でスネを叩かないで! てか、何でそんな凶器持ってんの!!

「ふざけたこと言ってると、話止めるわよ!?」

「いや、どっちでもいいよ」

「そう。じゃあ話続けるわね」

「どっちなんだよ!」

 俺のツッコミは全力で無視する方向のようだ。

「それで、一週間くらい前に見た夢の話なんだけど。未来のあたしはこのゴミ屑と話をしてるの。その内容が、MVPを取れなくて毎日あたしと体力作りの為にジョギングをしたって話」

「おいおい。何で春菜の夢の中では薫がMVPを取ってない事になってるんだ?」

 雄介は不思議そうに口を挟む。俺も同じ気持ちだ。確かに、さっきまで春菜も雄介と同じ記憶を持っているという話をしたばかりじゃないか。でも、それより先にゴミ屑ってところを気にしようよ。

「それはそうなんだけど、その夢には続きがあるの……。夢でその会話をした後に、あたしは強く願ったの。そして、それを願った瞬間に目が覚めたわ」

 何を願ったんだ? そう聞いて欲しそうな間を開けている。何となく悔しいが、空気を読んで聞いてみた。

「一体何を願ったんだ?」

 春菜は暫く口ごもる。その時、保険室内ははまるで動画を停止させたかのようにピンと固まる。それからタイミングを見計らい俺を見て口を開く。しかも、叫ぶような口調で。

「薫があの時にMVPを取っておけば良かったのに!!」
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