リリカローズは王国の華

かがり 結羽

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18. レリッサと夢の終わり5

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 コツン、コツンと靴の底が石造りの廊下を打ち鳴らす音が遠くから聞こえる。
 何者かの来訪を伝えるその音を聞きながら、リオネルは書類の右端に名前をサインして、ペンを置いた。
 程なくして、見知った顔が扉のノック音ののちに顔を出した。

「閣下、今、少しよろしいですか」
「もちろん。私もちょうど貴方を呼ぼうと思っていたところだ」

 顔を出したのはラローザ将軍で、彼は腕にまた新しい仕事の山を抱えている。それを文机の横のサイドテーブルに置いて、将軍は胸元から手紙を一つ取り出した。

「娘からです。閣下にご連絡する術がないということで、私に託して参りました」
「ああ。すまない。エドは今、王都から少し出てるんだ」

 エドが王都を発ったのは夜会の次の日だ。

 いつもレリッサとのやり取りは、エドを介しての一方的なものだったから、連絡を取ることができなくて困ったのだろうな、とリオネルは手紙を開封しながら思った。
 案の定、手紙には、他に伝手がない故に父親に手紙を託す旨と、預かった上着のクリーニングが終わったので、できれば直接渡したいがいつ訪ねれば良いかという伺いの内容が、丁寧な文字で書き連ねてあった。

 リオネルは少し考え込んでから、手紙を読み終わるのを立ったまま待っている将軍を見上げた。

「将軍。明日、御宅に伺っても構わないだろうか」
「閣下が、ですか?」
「レリッサと話がしたい」

 そう言うと、将軍が目の端を僅かにぴくりと動かした。
 表情にあからさまに出さなかったのは、さすが歴戦の軍人だった。

「彼女に全部話そうと思う。…反対するかい?」

 リオネルの問いかけに、将軍が首を静かに降った。

「いえ」

 それから、その眩しいくらいに輝く深いエメラルドの瞳で、リオネルをまっすぐに見据えた。

「どうして止めることができるでしょうか。閣下のお心は閣下のもの。…この十九年、閣下にはもう十分に、私の野心に付き合っていただいた。閣下が、一分一秒が惜しいと、そう感じられた故の決断でありますれば、どうして私に、それは今ではないなどと、言う権利がございましょう」
「野心…ね」

 ふっと笑いがこみ上げる。

「貴方のそれを野心と言うのなら、私はそれほど優しい野心を知らないな」

 将軍は目を閉じるだけでリオネルに答えた。
 その胸中に何を思っているのかは、それだけでは察せられない。

「明日の昼過ぎにラローザ邸に赴く。レリッサにそう伝えてくれ」
「承知致しました」

 それから将軍はいくつか仕事上の確認をしてから、山のような書類と入れ替わりに、同じだけの量の書類を持って部屋を出て行った。

「十九年…か…」

 ぽつりと、呟いた言葉は。
 いつものあの煩い男がいないがために、他にすくい上げる者はなく。
 冷たい石の床に吸い込まれて消えて行った。


*********


 明日の昼過ぎに訪ねると、父がリオネルからの言伝を遣いに託してきたのは、陽も沈みかかった夕方のことだった。
 夕食を終えて、皿を洗おうとしていた料理長を捕まえて、何を出すかの相談をしたのは先ほどのこと。

「お嬢様の一番お気に入りのオレンジピールのマフィンにしましょう。あれならそんなに甘くない」
「お茶は、もちろんリリカローズの花弁を入れたお茶が良いですわ。外で飲まれるなら、少し蜂蜜を入れておきますわね」
「カトラリーはどうします? 銀製の、とっておきのにしましょうか。客人が来たときのために、毎日ダンが磨き上げている逸品が棚の奥にありますよ」
「良いわね。テーブルクロスは、お嬢様の瞳と同じ淡い紫に致しましょう」
「ああ、それなら、ナフキンはピンクが良い。テーブルの上が華やぐ」

 レリッサの客だと言うのに、料理長とマリアがすっかり盛り上がってしまって、ほとんど二人が決めてしまった。
 異存はなかったので任せたのだが、特別な客が来ると告げた時の、マリアと料理長の何かを含んだような笑みがなんとも居心地が悪かった。

「楽しみですわね」

 風呂上がり、鏡台の前でレリッサの濡れた髪をタオルで拭いながらマリアが言った。
 マリアともう一人の侍女の二人掛かりで、レリッサの髪を少しずつタオルで挟んで水分を拭き取っていく。
 粗方水分が取れたところで、マリアが香油の入った瓶を手に取った。

「明日は特別な日ですからね」

 そう言って、花の香りの香油を髪に刷り込んでいく。

「特別って…」
「あら、特別ですわ。お嬢様が、殿方をお招きになるのですから。明日は旦那様も早くお帰りになると伺っています」

 ああ、とレリッサは思う。
 マリアは勘違いをしている。

「マリア、明日リオン様がいらっしゃるのはそう言うことじゃないのよ?」
「あの上着をお返しになるだけ、ですわね? 何度も伺いましたわ」

 マリアは、部屋に備え付けのドレッサーの中にかけてあるリオネルの上着を、目線で示して、含み笑いをしながら言った。
 何度も言う羽目になったのは、こうした会話が夕方からずっと続いているためだ。

(本当に、そうじゃないのに…)

 もう言葉に出すのはやめて、レリッサは心の中だけで独りごちた。
 いっそ、そうだったらどんなにか良かっただろう。
 マリアが想像しているような、甘い理由だったなら…。

「終わりましたわ」
「ありがとう」
「それではお嬢様。我々は本日はもう下がらせていただきます」
「ええ。今日もお疲れ様。二人ともゆっくり休んでね」

 おやすみなさい、と挨拶をして、マリアは部屋の明かりを小さくしてから部屋を出て行った。

 ほわんと、部屋の中が、オレンジの温かな光で満ちる。あとは枕元のランプを消して眠るだけだったが、どうにもそのままベッドに潜り込む気持ちになれずに、レリッサは少し迷ってから立ち上がった。
 ドレッサーに近づく。精緻な彫刻の施されたドレッサーだ。レリッサが腕を広げれば端から端まで手が届く程度のサイズで、そんなに大きくはない。ここにはレリッサの普段着が仕舞われていて、夜会用のドレスや訪問着はまた別の部屋にある。

 観音開きの扉を開けば、片側には明日レリッサが着る予定の服が。そしてもう片側に、リオネルの正装用の軍服の上着がかけられていた。
 その上着にそっと触れる。手を滑らせれば、指先に、絹糸で丁寧に刺された刺繍の凹凸が感じられた。

 レリッサは、きゅっと唇を噛み締めて手を離した。これ以上触れていたら、また心の奥が刺激されて、弱い意思が首をもたげてしまいそうだった。

「あ…」

 ふと、左胸に飾られた紋章が目に入った。
 貴重なものなので、これだけはクリーニングに出さずに保管しておいたのを、マリアが元に戻しておいてくれたのだろう。

「これは…鹿…?」

 通常、軍の紋章は薔薇からなる。それが、これは雄鹿の正面の顔だった。将官は薔薇の咲き具合と散る花弁の数で官位が分かるようになっているが、リオネルの勲章からは特別官位を判別できるような様子はなかった。
 彼がどう言う立場にいるのか。気にならない訳はなかった。
 けれど今考えても仕方のないことだ。レリッサは勲章を一撫でしてから、ドレッサーの扉を閉じた。



 翌日は見計らったような晴天だった。
 外は外套がいる寒さだったが、それもテーブルの足元に暖房用の魔法器具を設置すれば凌げる。

 今日の接客は庭園の四阿だった。半円状の白い四阿は、兄弟姉妹きょうだいみんなの気に入りの場所でもあって、庭園の奥にあるだけに探そうと思って来なければ、基本的に人が来ない。この寒空の下では適さないかと思ったが、出来るだけ人の来ないところで話がしたいというレリッサの我儘を汲んで、マリアが完璧にセッティングしてくれていた。

「念のため、膝掛けもご用意しておきますわね。あ、それから厚手のストールもお召しください」
「マリア、椅子は対面の方が良いのだけれど…」

 設置されているのは四阿の形状に沿った横並びのベンチだった。人がゆうに四人は座れるだけの幅のあるものだったが、少し近すぎる。

「あら、庭園をご覧になりながらお話をするのには、対面よりもこちらの方が向いていますわ」
「そうだけど…」

 レリッサが抗議しかねている間に、侍女が一人屋敷の方から駆け寄ってきた。

「お嬢様、お客様がいらっしゃいましたよ」

 その後ろから、ダンに案内されてこちらへ向かってくるリオネルが見えた。

「リオン様、いらっしゃいませ。お迎えに出られず、申し訳ありません」
「いや、こちらこそ急にごめん」

 レリッサがリオネルを四阿のベンチに案内すると、すかさずマリアが温かいお茶を出してくれた。いつでも出せるように用意していたのだろう。
 テーブルの上には、料理長が用意してくれたマフィンと焼き菓子がいくつか並べられる。

「それではお嬢様。少し離れますので、何かご用がございましたらこちらを」

 マリアはエプロンから呼び鈴を取り出してテーブルの上に置くと、リオネルに向かって一礼して四阿を出て行った。
 おそらく、話し声の聞こえない、けれど呼び鈴の音なら聞こえるギリギリの場所で控えていてくれるのだろう。
 マリアの後ろ姿を見送って、リオネルがレリッサの方を見た。

「有能な侍女のようだね」
「ずっとついてくれている、とても頼りになる侍女なんです」

 レリッサはにこりと微笑んでから、テーブルの中央に置かれていた砂糖の壺を手前に引き寄せた。

「リオン様、お砂糖は? すでに少し蜂蜜が入っていますが…」
「ああ、じゃあいらないかな。今日はミルクも良いよ」

 レリッサは自分の分にだけ、砂糖とミルクを入れて一口飲んだ。
 レリッサの方は、猫舌のレリッサに合わせて、体温より少し高いくらいの温度だ。おそらく淹れ分けてくれたのだろう。

「美味しい。リリカローズの香りだ」
「はい。うちの領地の特産品なんです」

 それからまた、お茶を一口。

(どうしましょう…)

 どう話を切り出したものか。
 リオネルも何も言わない。

 レリッサはぐるぐると考えながら、とりあえずと横においておいたリオネルの上着を手に取った。

「あの…。これを」
「ああ。ありがとう」

 ワインの染み込んだリオネルの上着は、マダム・モリソンによれば上手くシミ抜きができたということだった。色が紺色なのも幸いしたのだろう。匂いも残っていなかった。
 リオネルは上着を受け取ると、それを脇に置いて、レリッサを見下ろした。

 話をするのを待たれている。そう感じて、レリッサはぎゅっと胸元で手を握りしめた。

「あ、あのっ」
「うん」

 言わなければ。

 そう思うのに。

(言ってしまったら、終わってしまう…)

 この心地よい時間も。
 リオネルの優しい眼差しも。
 きっともう、包み込むように抱きしめてくれることもない。
 ダンスだって、一緒に踊ることはなくなるだろう。

(言いたくない…)

 でも、言わなければならない。

 彼から想いを告げられていなければ、良い友人で終われた。けれどレリッサはすでに、彼から想いを告げられている。
 否か応か、返事はしなければならない。

「あのっ」

 言わなければ…!
 そう思ったのに。

「エド様は、どうされておいでですかっ?」

 口から出てきたのは、別の言葉だった。

 確かにエドのことは気になっていたが、今言うべきはそうではない。

「エド?」

 リオネルも少し面食らった顔をしている。

「は、はい。あの…夜会の翌日、いらっしゃるのではと思っていたのですけれども、いらっしゃらなかったので…。あ、でも、あの日は出かけていたので、エド様をお待たせすることにならなくて、かえって良かったのかもしれないのですが…」

 けれど口にしてしまった言葉はひっくり返せないと、レリッサは慌てて言葉を連ねた。
 夜会の翌日以降、エドが全く来ないので気になってはいた。
 おかげでリオネルに連絡を取ることができないので、困ったのも事実だった。

「エドなら少し用ができて、王都を出てるんだ」
「そうだったのですか…」

 リオネルは眉を少し下げた。

「エドがいないから連絡ができなくて困ったでしょ。ごめんね」
「あ、いえ…。むしろエド様には、いつもお手紙をお願いするばかりで申し訳ないくらいで…」

 言葉尻がすぼむように消えていく。

 そして、また沈黙。

(言わないと…)

 言わなければ。言わなければ。

 胸の前で手を握りしめる。
 ぎゅっと目を瞑って、えいっと口を開こうとした瞬間。

「ふっ」

 頭の上から、リオネルの微かな笑い声。
 目を開けば、リオネルがくつくつと笑いを堪えていた。

「あぁ、ごめん。あんまり可愛くて…」

 リオネルはそう言うと、握りしめたままのレリッサの手に手を添えて、優しく解いた。握りしめすぎて、手が痛いくらいだったのだと、解かれてようやく気づく。

「緊張すると、早口になって話すぎるのは君のくせ?」
「えっと…そうでしょうか…?」

 そういえば、そうかもしれないなと思う。

 リオネルは、レリッサの手を優しく撫ぜると、続いてその指先でレリッサの頰を撫でた。

「そう言うところも愛おしい」

 琥珀色の瞳が深く色づく。

 目が、離せなくなる。

「もう一度言う。君が好きだ」
「あ…」

 心の奥が震える。
 じわっと溢れ出た歓喜が、胸を熱くする。

 けれど、それを断ち切るように、レリッサは俯いて目を閉じた。

「申し訳…ありません」

 言えた。

 言えたのだ。

「それは、俺に爵位がないから?」

 彼の顔を見ることはできなかった。
 見たらきっと、またあの瞳に吸い込まれてしまうから。

 レリッサは、コクリと俯いたままうなずいた。

「はい。…以前、身分で判断はしないと。確かにそう申しましたのに。…申し訳ありません」

 思えば、あの時、あんなことを言わなければ良かったのだ。

『じゃあ、俺が君を好きになっても、君は困らないわけだ』

『ご…ご自由に…』

 彼が自分など好きになるはずがないと。からかわれているのだと、そう思ったから、レリッサはそんなことを言ったけれど。
 適当なことは言うべきではなかった。

 だから今、こんなにも胸の奥が刺されたように痛むのも、自業自得だ。

「レリッサ」

 優しく手が握られる。
 顔を上げてと、そう促されているのだと悟りながら、レリッサはどうしても顔があげられなかった。

「君にこんな顔をさせるくらいなら、最初から全て話しておけば良かった」

 頰が温かな手の平に包まれた。
 くいっと上を向かせられる。

 リオネルが、辛そうに顔を歪めていた。

「リオン様…?」
「言って、レリッサ。どうしてそんなに辛そうなのか。なんで、泣いているのか」

 包まれた手の親指の腹が、レリッサの目尻を拭う。

「言って。もし、俺が爵位を持っていたら…? そうしたら、君はなんて返してくれた?」

 もし、彼が爵位を持っていて。
 なんの障害もなかったなら。

(言ってはダメよ…)

 そんなのは、仮定の話で。
 現実はそうではないのだから。

「レリッサ」

 リオネルの視線が、乞うように細められる。

 望みの言葉があるのだと。

 その熱い瞳の光に、引き締めていた唇がゆるりと緩んだ。

「好き」

 一滴溢れてしまえば、ぽたぽたと雫がこぼれ落ちる。

「好きです。…とてもっ」

 唇が塞がれる。
 痺れるような甘さだった。

「リオ…さま…」

 いけないと頭の片側が叫び。
 もう少しこのままと、反対側が甘く囁く。

 彼の胸を押した手は柔く握り込まれて、また口付けられる。レリッサの抵抗などないに等しかった。

「だめ…」
「だめじゃない」

 ちゅっ、ちゅっとリオネルは、レリッサの目元や額にも口付けて。
 やがて熱いため息とともにレリッサを抱きしめた。

「だめじゃないんだ」

 そう言うと、リオネルはレリッサの耳元に囁いた。

「爵位は確かに賜ってない。だけど――」

 不意に、四阿の外がざわついた。
 マリアの「いけませんっ」という鋭い声が響く。

 リオネルがパッとレリッサを離した。

「レリッサ!」

 生垣の向こうから。
 レリッサの名を呼ぶ。
 その声は。

「お兄様?!」

 久しく顔を見ていない、兄パトリスのものだった。
 硬質な明るい茶の短髪に、エメラルドの瞳。父の若かりし頃を思わせるような姿だが、違うのはその鼻の上にかかる細いフレームの眼鏡。だがそれ以外は眉間に刻まれた皺までそっくりだった。
 パトリスはレリッサとリオネルの間に割って入ると、レリッサの肩をガシッと掴んで顔を覗き込んできた。

「レリッサ、リオンに何もされてない!?」
「何も…?」

 何も、は。

(キス…)

 顔が染まるのはどうやっても隠せない。
 レリッサの表情で何かを悟ったのか、パトリスは厳しい目つきで後ろを振り返った。

「リオン! 約束が違うじゃないですか!」
「早かったな、パトリス」
「早かったな、じゃありませんよ! 貴方、僕をできるだけ王都から離しておくために、わざとあんな無茶な命令したでしょう! 三十四領全て見て回ってこいだなんて!」
「で、回れたの?」
「回りましたよ! 回りましたとも! 覚悟してくださいよ。報告書は百ページ強でまとめてありますからね! 後ほどエドに渡しておきますので、そのおつもりで!」

 パトリスはレリッサを背中に庇うようにして、リオネルに向かって吠えている。
 レリッサは、こんな兄を見たことがなかった。少し神経質なきらいはあるが、優しい兄だ。

「あの、お兄様…」
「ああ、レリッサ」

 パトリスはレリッサの方に向き直ると、ぎゅうとレリッサを強く抱きしめた。

「僕が王都に帰ってくるのが遅れたばかりに…。ごめんよ、レリッサ」
「いえ、あの、お帰りなさいませ」
「そう言ってくれるのはレリッサだけだよ! さっきサマンサとライアンに会ったら、暑苦しいってハグを拒否されたばかりだ」
「そうですの…」

 しゃべるたび、ぎゅうぎゅうとレリッサを抱きしめるパトリスの腕が締まる。

「パトリス。そのままだとレリッサが折れるんじゃないかな」
「折れません!」

 リオネルの言葉に、パトリスはそう反論したものの、流石にきつく抱きしめすぎたと思ったのか、レリッサを腕から解放した。

「レリッサはもう屋敷に戻ってなさい」
「え、でも…」

 話は何も進んでいなかった。
 レリッサは、パトリスの肩越しにリオネルを見た。パトリスは頑なに、レリッサをリオネルに近づけないようにしている。
 リオネルは苦笑いで首を振った。

「こうなるとパトリスは頑固だから。日を改めるよ」
「改める日なんてありませんからね! 僕のこの瞳が輝くうちは、金輪際、レリッサには近づけさせません!」
「お兄様っ」

 レリッサはパトリスの服を引っ張って抗議する。
 パトリスはレリッサのその手を握りしめた。

「良いかい、レリッサ。お前の婚約のことはエメリアから聞いてる。正直八つ裂きにしてやりたいくらいだけど、とりあえず我慢はしよう。とりあえずね。だけど、他の男はともかく、リオンだけはだめだ。あ、シンプトン家のアイザック、あれもだめだな。それからスタングレー家の…」
「パトリス。脱線してるけど、良いのか?」
「おっと」

 パトリスがずり落ちた眼鏡をくいっと上げる。

「とにかく。リオンだけはだめ。絶対」
「お兄様」

 どうしてこんなに兄が頑なに言うのか。
 確かに前の婚約の時も、兄だけはずっと大反対だった。とにかく過保護なのだ。

「さぁ、ほら、屋敷に戻って。マリア、レリッサを部屋へ」

 呼ばれたマリアが、困ったように立ち尽くしている。
 ぐいぐいと背を押されて、レリッサは四阿を出ざるを得なくなって、仕方なくマリアの横に立った。
 確かにリオネルの言うとおり、こうなった兄は頑固だった。
 四阿を振り返ると、リオネルが苦笑いと共に手を振っていた。

 本当に今日はこれでおしまいなのだ。
 レリッサは名残惜しい気持ちでスカートをつまみ上げ、軽く礼をして、屋敷へと歩き出した。

「よろしいのですか、お嬢様」

 マリアが、後ろを振り返りながらレリッサに付き従う。
 レリッサは小さくうなずいた。
 どうしようもない。パトリスがいては話をできそうにないし、ああなったパトリスはテコでも動かずに、レリッサとリオネルを二人きりにはしてくれないだろう。

 屋敷へと続く小道へ入る。
 その瞬間、後ろで「あ、リオン!」と叫ぶ兄の声が聞こえた。

「レリッサ!」

 後ろを振り向くと、リオネルが駆け寄ってきて、レリッサの手をさっと握った。

「リオン様」
「忘れないで」

 レリッサの耳元に顔を落として囁く。

「さっき言ったこと。――だめじゃない」

 それは、この気持ちを持っていても良いということ。

「はい」

 微笑むと、リオネルは満足そうに笑って、さっとレリッサの額に口付けた。

「また手紙を書くよ」

 じゃあね、と手をあげて。
 リオネルが四阿の兄の方へと戻っていく。
 レリッサはその後ろ姿を見届けてから、今度こそ屋敷に向かって歩き出した。

 額を撫でるレリッサを、隣を歩くマリアが嬉しそうに見つめていた。


**********


「やってくれましたね」

 苦々しく呟いた親友の、それは何に対しての言葉なのか。
 リオネルは肩を竦めて、腕を組んで仁王立ちをするパトリスの横をすり抜けて、四阿の柵に腰掛けた。

「良いですか。今は、あの子の指の甘皮から髪の毛の一本、いえ、まつげの一本すら僕の物ですからね」
「…相変わらず、お前の溺愛ぶりは時々気持ち悪いな…」

 思わず本音が出る。
 こんなやりとりも、アザリア公国へ行って以降は交わしていなかったので、懐かしさを感じるほどだ。

 この親友にして、幼馴染と言える青年は、レリッサが生まれた頃から徐々に『妹命シスコン』の様相を見せ始め、下に弟妹きょうだいが増えるごとにそれは酷くなった。

「何のために、僕が貴方をレリッサに近づけないようにしていたと思うんです? こうならないようにするためですよ! それを、僕がちょっと王都を離れている隙に…!」

 パトリスがわなわなと手を震わせている。

「どうしてあと少しが待てないんです!? 僕だって、何もずっとだめだって言ってるわけじゃないんですよ! あと少し! あと少しじゃないですか!」
「俺は十分待ったよ」

 リオネルの言葉に、パトリスが口ごもった。

「お前が近づくなと言うから、彼女が熱でうなされていると聞かされて、心配でたまらない時だって、ただ一本の花をお前に託すだけだった。デビュタントだって、本当なら俺がエスコートしたかった。ずっと待ってた。時が来るのを」

 リオネルが初めてレリッサに出会ったのは、軍の廊下でのあの時ではない。
 ずっと知っていた。彼女のことを。幼い頃から。

 本当なら、彼女と共に時を歩みたかった。隣で、同じものを見ながら。

 けれどそれはのっぴきならない理由で、どうしても叶えられない願いだった。
 だから待っていた。時が経ち、隣に立つことができる日々が来ることを。

 けれど、待っているだけではダメなのだと、痛感したのはあの時だ。

「気づいたら彼女は別の男と婚約していた」
「それは…。父は、貴方の気持ちを知らなかったのです」
「知るはずない。分かってる。事実、それまでレリッサとは接点すらなかった」

 たった一目も、彼女の目に触れることは許されなかった。

 パトリスが悪いわけではない。わかっている。
 そうしなければいけなかったからだ。

 それでも恨み言を言う矛先は他になくて、リオネルは知らず知らずのうちにパトリスを睨みつけていた。

「同じてつはもう踏まない」
「リオン…」
「どっちも手に入れる。彼女も――その先の未来も」



 リオネルが、柵から腰を上げて、パトリスの横を通り過ぎていった。

「それでも!」

 パトリスは、聞こえていないかもしれないと思いながら声を上げる。

「それでも僕は! 反対です!」

 レリッサを大切に思うからこそ。
 絶対に譲れない、パトリスの思いだった。

『どっちも手に入れる。彼女も――その先の未来も』

 圧倒的な存在感。
 あの琥珀色の瞳に射抜かれれば、狼さえ逃げ出すだろう。
 なんと強欲で、傲慢で。それでいて人を惹きつけてやまないのか。

「だからこそ貴方は」

 パトリスは唇から音をこぼした。

 だからこそ貴方は、『王』にふさわしい――


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