2 / 74
リヒト
灰色熊の襲撃
しおりを挟む
あ、これ死んだな。
生まれて初めて、間違いなく死ぬ……ここで確実に人生が終わるだろうことを予感した。
ヒトは人生の終わる直前、走馬灯を視るというけど。
やたら時間が遅く流れているように感じるくらいで。
特に思い出すことは無かった。
わりと裕福な家に生まれたと思う。
この年になって就職もせず、大学院生としてのんきに植物採集なんかしていられるのも、親の稼ぎがあってこそだ。
末っ子で、特に何の期待もされずにぬくぬくと育ったというのもあるかもしれない。
そんなぬるま湯人生が。
今、終わろうとしているのだった。
†‡†‡†
目の前には、巨大な灰色熊。
ヒグマの亜種であり、グリズリーともいう。クマ科の中でも特に大型のクマである。
学名はUrsus arctos horribilis。ウルスはクマ。
ホーリビリスとはラテン語で恐ろしい、という意味だ。
確かに目の当たりにしたら恐怖せずにはいられない恐ろしさである。
今、まさに恐怖している。
体長4メートルはありそうな巨躯。
容易く肉を食い破るだろう尖った牙。ヒトの皮膚など軽く引き裂きそうな鋭い爪。
武器も携帯せず、こんな大きなクマを目の前にしては、もはや生きるのを諦めるしか残された術はないだろう。
いや、下手な武器だと仕留めきれず逆上させて更なる大惨事を招きかねない。手負いの獣は恐ろしいものだ。
何故、このような事態になったのかはわからない。
山を散策中、眩暈がして。
気が付いたら、すぐ目の前にいたのだ。
この、巨大な灰色熊が。
灰色熊は主に北アメリカに生息するクマなのに、どうしてこんな場所にいるのだろうか。
本州にいるのはツキノワグマくらいだろうに。
僕は確か、日本アルプスの植物を調査しに来ていたはずだが。
いつの間にか、アメリカにでもワープしたのか?
考えられる可能性としては、動物園や移動動物園から逃げ出したか、誰かが飼っていたのが逃げた、というほうが現実的だろう。
野生にしては、見た目が綺麗すぎるのだ。
手や口元は血でどす黒く汚れた様子が無く、毛並みは良さそうなので、ヒトに飼われていた可能性が高い。
しかし、育ててもらった馴れた飼育員すら、弾みで殺してしまうこともある危険な生物である。
向こうは軽くじゃれたつもりでも、ひと掻きで皮膚を引っ剥がされるくらいの力があるのだ。
ペットだとしても、少しも安心できない。
†‡†‡†
逃げようにも、さきほど驚いて転んで足をくじいてしまったし。
転んだ時に眼鏡を落とした。
裸眼では、ほとんど見えない。
そもそも、時速50キロ以上で走る上に、木登りも泳ぎも得意なクマから脆弱な人間が逃げられるわけがない。
ヒグマというのは特に獲物に対して執念深く、一度目をつけた獲物はどこまでも追いかけてくる。
荷物をあさっていた場合は、惜しくとも荷物を置いていかないと、取り返すまでいつまでもついてくる、という厄介な習性の生き物なのである。
一度、人間本体に目をつけられたらもう、詰みである。
殺るか殺られるかの二択しかない。
つまり。
どう考えても僕は、死ぬ。
今、ここで。
通りすがりに伝説のマタギでも現れない限り。
「っ、」
灰色熊の濡れた鼻先が、頬に触れた。
獲物の匂いを嗅いでいるのだ。さすがにこの距離だと、獣くさい……。
フンフンと、熱心に匂いをかいでいる。
大きな舌でべろり、と舐められて。その感触にぞわっとする。
肉食獣の舌がざらざらするのは、骨から肉をこそげ落とすためだ。
生きたままこそげ落とされてはたまらない。
どうせ食べるなら、ひと思いにやっちゃって欲しいが。
クマはよほどお腹が空いてない限り、獲物の息の根を止めたりせず、半殺しにして土に埋めて、非常食にする性質があるのだ。
腹が減っていても、味が落ちるのか知らないが。やはり獲物の息の根を止めたりせず、じわじわと足から食うという。
最初に急所を狙う犬やライオンがいっそ優しく感じるほどである。
熊害の話を見ると、内臓を食われながらいっそ殺して欲しいと願っている人の話もあり、とても恐ろしい。
失神しても、痛みで覚醒してしまうのだろうか。
しかし僕は小柄なほうだし、運が良ければひと噛みで死ねるかもしれない。
それか失血死で。
生殺しは御免だ。
やるならとっととしてくれ。
†‡†‡†
観念し、目を閉じて。
その時を待っていたが。
「C'est une erreur」
すぐ近くで、人の声がした。
今のは。
外国語……?
おそるおそる目を開けて、様子を窺えば。
僕にのしかかっていたはずの灰色熊は消えていて。
ヒゲで顔を覆われた見知らぬ大男が、クマの代わりに僕にのしかかっていたのだった。
「あ、あの……?」
あまりの恐ろしさに気絶とかしてる間に、この人が助けてくれたのだろうか。
と思ったが。
「い、痛、」
男は、何を考えたか、僕の首筋に噛み付いてきたのだ。
……あれ?
男の人に見えたのは幻覚で、本当は、クマに齧られているのだろうか?
どういった幻覚だ?
痛い。
物凄く痛い。尋常じゃなく痛い。
首だけじゃなく、頭がぐらぐらする。
まるで、大量の酒でも飲まされたような酩酊感。
こんなになるまで飲んだことなどないので、わからないが。
細胞が。
身体が、悲鳴を上げている。全身、ばらばらになったようだ。
いったい、何がどうして、こんなことになったんだ?
生まれて初めて、間違いなく死ぬ……ここで確実に人生が終わるだろうことを予感した。
ヒトは人生の終わる直前、走馬灯を視るというけど。
やたら時間が遅く流れているように感じるくらいで。
特に思い出すことは無かった。
わりと裕福な家に生まれたと思う。
この年になって就職もせず、大学院生としてのんきに植物採集なんかしていられるのも、親の稼ぎがあってこそだ。
末っ子で、特に何の期待もされずにぬくぬくと育ったというのもあるかもしれない。
そんなぬるま湯人生が。
今、終わろうとしているのだった。
†‡†‡†
目の前には、巨大な灰色熊。
ヒグマの亜種であり、グリズリーともいう。クマ科の中でも特に大型のクマである。
学名はUrsus arctos horribilis。ウルスはクマ。
ホーリビリスとはラテン語で恐ろしい、という意味だ。
確かに目の当たりにしたら恐怖せずにはいられない恐ろしさである。
今、まさに恐怖している。
体長4メートルはありそうな巨躯。
容易く肉を食い破るだろう尖った牙。ヒトの皮膚など軽く引き裂きそうな鋭い爪。
武器も携帯せず、こんな大きなクマを目の前にしては、もはや生きるのを諦めるしか残された術はないだろう。
いや、下手な武器だと仕留めきれず逆上させて更なる大惨事を招きかねない。手負いの獣は恐ろしいものだ。
何故、このような事態になったのかはわからない。
山を散策中、眩暈がして。
気が付いたら、すぐ目の前にいたのだ。
この、巨大な灰色熊が。
灰色熊は主に北アメリカに生息するクマなのに、どうしてこんな場所にいるのだろうか。
本州にいるのはツキノワグマくらいだろうに。
僕は確か、日本アルプスの植物を調査しに来ていたはずだが。
いつの間にか、アメリカにでもワープしたのか?
考えられる可能性としては、動物園や移動動物園から逃げ出したか、誰かが飼っていたのが逃げた、というほうが現実的だろう。
野生にしては、見た目が綺麗すぎるのだ。
手や口元は血でどす黒く汚れた様子が無く、毛並みは良さそうなので、ヒトに飼われていた可能性が高い。
しかし、育ててもらった馴れた飼育員すら、弾みで殺してしまうこともある危険な生物である。
向こうは軽くじゃれたつもりでも、ひと掻きで皮膚を引っ剥がされるくらいの力があるのだ。
ペットだとしても、少しも安心できない。
†‡†‡†
逃げようにも、さきほど驚いて転んで足をくじいてしまったし。
転んだ時に眼鏡を落とした。
裸眼では、ほとんど見えない。
そもそも、時速50キロ以上で走る上に、木登りも泳ぎも得意なクマから脆弱な人間が逃げられるわけがない。
ヒグマというのは特に獲物に対して執念深く、一度目をつけた獲物はどこまでも追いかけてくる。
荷物をあさっていた場合は、惜しくとも荷物を置いていかないと、取り返すまでいつまでもついてくる、という厄介な習性の生き物なのである。
一度、人間本体に目をつけられたらもう、詰みである。
殺るか殺られるかの二択しかない。
つまり。
どう考えても僕は、死ぬ。
今、ここで。
通りすがりに伝説のマタギでも現れない限り。
「っ、」
灰色熊の濡れた鼻先が、頬に触れた。
獲物の匂いを嗅いでいるのだ。さすがにこの距離だと、獣くさい……。
フンフンと、熱心に匂いをかいでいる。
大きな舌でべろり、と舐められて。その感触にぞわっとする。
肉食獣の舌がざらざらするのは、骨から肉をこそげ落とすためだ。
生きたままこそげ落とされてはたまらない。
どうせ食べるなら、ひと思いにやっちゃって欲しいが。
クマはよほどお腹が空いてない限り、獲物の息の根を止めたりせず、半殺しにして土に埋めて、非常食にする性質があるのだ。
腹が減っていても、味が落ちるのか知らないが。やはり獲物の息の根を止めたりせず、じわじわと足から食うという。
最初に急所を狙う犬やライオンがいっそ優しく感じるほどである。
熊害の話を見ると、内臓を食われながらいっそ殺して欲しいと願っている人の話もあり、とても恐ろしい。
失神しても、痛みで覚醒してしまうのだろうか。
しかし僕は小柄なほうだし、運が良ければひと噛みで死ねるかもしれない。
それか失血死で。
生殺しは御免だ。
やるならとっととしてくれ。
†‡†‡†
観念し、目を閉じて。
その時を待っていたが。
「C'est une erreur」
すぐ近くで、人の声がした。
今のは。
外国語……?
おそるおそる目を開けて、様子を窺えば。
僕にのしかかっていたはずの灰色熊は消えていて。
ヒゲで顔を覆われた見知らぬ大男が、クマの代わりに僕にのしかかっていたのだった。
「あ、あの……?」
あまりの恐ろしさに気絶とかしてる間に、この人が助けてくれたのだろうか。
と思ったが。
「い、痛、」
男は、何を考えたか、僕の首筋に噛み付いてきたのだ。
……あれ?
男の人に見えたのは幻覚で、本当は、クマに齧られているのだろうか?
どういった幻覚だ?
痛い。
物凄く痛い。尋常じゃなく痛い。
首だけじゃなく、頭がぐらぐらする。
まるで、大量の酒でも飲まされたような酩酊感。
こんなになるまで飲んだことなどないので、わからないが。
細胞が。
身体が、悲鳴を上げている。全身、ばらばらになったようだ。
いったい、何がどうして、こんなことになったんだ?
28
あなたにおすすめの小説
【本編完結】転生したら、チートな僕が世界の男たちに溺愛される件
表示されませんでした
BL
ごく普通のサラリーマンだった織田悠真は、不慮の事故で命を落とし、ファンタジー世界の男爵家の三男ユウマとして生まれ変わる。
病弱だった前世のユウマとは違い、転生した彼は「創造魔法」というチート能力を手にしていた。
この魔法は、ありとあらゆるものを生み出す究極の力。
しかし、その力を使うたび、ユウマの体からは、男たちを狂おしいほどに惹きつける特殊なフェロモンが放出されるようになる。
ユウマの前に現れるのは、冷酷な魔王、忠実な騎士団長、天才魔法使い、ミステリアスな獣人族の王子、そして実の兄と弟。
強大な力と魅惑のフェロモンに翻弄されるユウマは、彼らの熱い視線と独占欲に囲まれ、愛と欲望が渦巻くハーレムの中心に立つことになる。
これは、転生した少年が、最強のチート能力と最強の愛を手に入れるまでの物語。
甘く、激しく、そして少しだけ危険な、ユウマのハーレム生活が今、始まる――。
本編完結しました。
続いて閑話などを書いているので良かったら引き続きお読みください
竜の生贄になった僕だけど、甘やかされて幸せすぎっ!【完結】
ぬこまる
BL
竜の獣人はスパダリの超絶イケメン!主人公は女の子と間違うほどの美少年。この物語は勘違いから始まるBLです。2人の視点が交互に読めてハラハラドキドキ!面白いと思います。ぜひご覧くださいませ。感想お待ちしております。
邪神の嫁として勝手に異世界召喚されたけど、邪神がもろタイプだったので満更でもないです
我利我利亡者
BL
椎葉 譲(しいば ゆずる)は突然異世界に召喚された。折角就活頑張って内定もらえてこれからって時に、冗談じゃない! しかも、召喚理由は邪神とやらの神子……という名の嫁にする為だとか。こっちの世界の人間が皆嫌がるから、異世界から神子を召喚した? ふざけんな! そんなの俺も嫌だわ! 怒り狂って元の世界に戻すよう主張する譲だったが、騒ぎを聞き付けて現れた邪神を一目見て、おもわず大声で叫ぶ。「きゃわいい!」。なんと邪神は猫の獣人で、何を隠そう譲は重度のケモナーだった。邪神は周囲からあまりいい扱いを受けていないせいかすっかり性格が捻くれていたが、そんな事は一切気にせず熱烈にラブコールする譲。「大好き! 結婚しよ!」「早く元の世界に帰れ!」。今日もそんな遣り取りが繰り返される。果たして譲は、邪神とフォーリンラブできるのか!?
孤独な邪神でもある黒猫獣人×重度のケモナーでもあるおチャラけ根明
異世界で勇者をやったら執着系騎士に愛された
よしゆき
BL
平凡な高校生の受けが異世界の勇者に選ばれた。女神に美少年へと顔を変えられ勇者になった受けは、一緒に旅をする騎士に告白される。返事を先伸ばしにして受けは攻めの前から姿を消し、そのまま攻めの告白をうやむやにしようとする。
【完】心配性は異世界で番認定された狼獣人に甘やかされる
おはぎ
BL
起きるとそこは見覚えのない場所。死んだ瞬間を思い出して呆然としている優人に、騎士らしき人たちが声を掛けてくる。何で頭に獣耳…?とポカンとしていると、その中の狼獣人のカイラが何故か優しくて、ぴったり身体をくっつけてくる。何でそんなに気遣ってくれるの?と分からない優人は大きな身体に怯えながら何とかこの別世界で生きていこうとする話。
知らない世界に来てあれこれ考えては心配してしまう優人と、優人が可愛くて仕方ないカイラが溺愛しながら支えて甘やかしていきます。
オレの番になって──異世界に行って愛猫の番にされる話
まめ
BL
不慮の事故により、異世界に転移することになった神木周。
心残りは、唯一の家族だった愛猫・ネロのことだけだった。
──目覚めた草原で再会したのは、見覚えのある大きな黒い獣。ネロが追いかけてきてくれたのだ。
わからないことばかりの異世界だけど、ネロがいるからきっと大丈夫。
少しずつ心をほどき、神に招かれた世界で穏やかな毎日を楽しむ周たち。
しかし、そんな彼らに不穏な気配が忍び寄る――
一人と一匹がいちゃいちゃしながら紡ぐ、ほのぼの異世界BLファンタジー。
こんにちは異世界編 1-9 話
不穏の足音編 10-18話
首都編 19-28話
番──つがい編 29話以降
全32話
執着溺愛猫獣人×気弱男子
他サイトにも掲載しています。
うちの娼館に元貴族で記憶喪失な新人くんが入店したが懐くを通り越してきた
清田いい鳥
BL
『記憶喪失の元貴族を働かせてみないか』と出資者に持ちかけられたときは正直、面白いと思った。会って納得。上玉だ。高い階層から落ちてきた宝物。彼はきっと人気が出る。そう思って色々優しく教えていたのに、ちょっとべったりし過ぎじゃない? 保護者に甘える気持ちから逸脱してない? 僕は商品に手をつけられないから! 君、クビにするよ!!
どうにかして店主と肉体関係を持とうとする新人リカルドと、暴走する新人に翻弄される店主レオナールさんの中編です。途中からスパダリ化ってやつになります(多分意味は合ってる)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる