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11 残されたもの
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事件からしばらく経った頃。
片桐は数少ない友人らに連れ出され、とある保護猫譲渡会を訪れていた。清潔感のある白い壁の中にケージに入った猫たちの柔らかな鳴き声と、里子探しにした人々の喜色に満ちた声が乱反射している。公共施設を借り受け、地元の非営利団体が開催したものだ。
あれ以来、片桐は授業を休みがちになり、外出も殆どしなくなってしまっていた。
もはや単位をいくつ落としたかも分からないが、幸い同じ猫好きで繋がっていた学友たちが片桐の惨状を知り、半ば強引にここまで連れてきたのである。大学近くで起きた痛ましい事件の顛末は、当然彼らの耳にも届いていた。
「いい猫会えるかなぁ。黒っぽければ何だっていいんだけど」
「色がどうした。俺は猫さえ見られれば、細かいことなんか気にしない」
「いちいち張り合ってくんなよ」
勝手にやいやい盛り上がっている、友人たちの声が何処か遠くに聞こえる。彼らの気遣いは有難いことだが、片桐には余り意味を成さなそうであった。
保護猫譲渡の条件は、団体にもよるが概ね厳しいという。片桐のような一人暮らしの学生、それも親族と折り合い悪く、経済的にもさして豊かと言えないような人物では、どんな希望を出したところで九分九厘断られるのが目に見えていた。
何より、片桐にしてみれば猫なら何でもいいという訳には今更いかない。自分にとって一番大切なあの猫は、サヤはもう二度と戻ってくることはないのだから……。
「みい」
片桐の耳に突如として、弱々しくもハッキリとした小さな鳴き声が届いた。
ハッとなって、声のした方向を見る。規則正しく並べられたケージの遥か彼方、広い場内の一番奥のところに、一匹の子猫が入れられているのを見つけた。なぜそんな離れた距離からの声を聞き取れたかは、分からない。
分からないが、確かにその子が呼んでいるように思えたのだ。
「おい片桐!?」
「あの、場内で走るのは……」
今の片桐にはいかなる制止も効果がなかった。
目的のケージの前で立ち止まり、殆ど齧り付くようにして中を覗く。
まだ生まれてきてから間も無く見える、白トラ模様をした一匹の子猫がつぶらな瞳を片桐に向けてきていた。ケージの淵に覚束ない足取りで近寄ってきて、片桐のことを真っ直ぐに見つめてくる。その瞳に、顔立ちに、片桐は非常によく覚えがあった。
「……目が、瞳が、宝石みたいなブルーの色だ」
「子猫のうちはみんなそうですよ」
会場スタッフのひとりである女性が、片桐の友人らと一緒に後からやって来て冷静な口調で言った。あんまり興奮した様子を見せたので、警戒を与えたのだろうか。
「みい、みい」
「あれ……珍しい。基本は人見知りする子なのに」
「抱いてみてもいいですか」
努めて平静を装い、スタッフにそう願い出る。
相手は少しの間逡巡していた様子だったが、子猫自身に怯えが全くないことから、一先ずは安全と判断したのだろう。ケージから出された子猫が、そっと片桐の腕に移される。
殆ど手のひらに収まってしまうような、とても小さな猫だった。片桐はまるで壊れ物を扱うかのように、その子を抱擁する。すると子猫の方からも、何もかも安心しきった様子で片桐に積極的に擦り寄ってくるのだった。
嗚呼、思った通りだ。片桐の中で愛おしさが益々膨れ上がる。
尤も一連の光景を見て、スタッフの女性などはしきりに不思議がっていた。
「そこの大学の、すぐ近くで見つかった子なんですよ」
女性スタッフは歯の奥に何かが挟まったようなものの言い方をした。
「状況から見て野良の生んだ子だと思うんですけど……いくら探しても母猫が見つからなくて結局、この子だけが保護されて」
「その場所って、例の事件があった公園の中じゃないんですか」
「えっ」
おそらく図星だったのだろう。女性スタッフの顔色が明らかに変わった。それには構わず、片桐は甘えてくる子猫を抱きかかえたまま、顔も上げずに言った。
「引き取るには、どうしたらいいですか」
「……言っておきますけど、条件かなり厳しいですよ。まだ子猫ですから、普通以上にケアの必要性ありますし、それに」
「構いません」
スタッフの話を遮るように片桐は言った。相手の口調から、今度こそ警戒の色が隠されなくなったのが分かった。狙いは見えている。あれやこれやと言いがかりをつけ、自分に渡さないつもりなのだ。そうはいくものか。片桐の決心は固かった。
「必要な条件あれば一つ残らず言って下さい。働いたっていいし、学校辞めたっていい。一人暮らしがダメだっていうなら、実家に帰ってそこで暮らしたっていいんだ」
「あの、少し落ち着いて」
「条件を早く言って下さいよっ!」
不意打ちの大声が響き渡り、会場内がしいんと静まり返った。多くの猫たちが片桐を激しく威嚇し、友人たちは呆然となり硬直、女性スタッフなどは完璧に怯えきっていた。
「みい、みい」
「ああ、大声出してごめんね……大丈夫だよ……今にきっと、一緒に暮らせるからね……」
「お前どうしたんだ」
文字通りの猫なで声で子猫をあやす片桐を見て、さしもの友人たちも戦慄を覚えたようだ。もはや殆ど腰が引けてしまっている。
「いくらその猫が気に入ったからって」
「気に入るとか気に入らないとか……そういう問題じゃない」
片桐はもう一度、心の底から慈しむような、忘れ形見を見るような目つきをして、己の腕に抱かれる小さな猫を見下ろした。救済を得た男は、今度こそ静かに微笑む。
「これは、僕の子だ」
(おわり)
片桐は数少ない友人らに連れ出され、とある保護猫譲渡会を訪れていた。清潔感のある白い壁の中にケージに入った猫たちの柔らかな鳴き声と、里子探しにした人々の喜色に満ちた声が乱反射している。公共施設を借り受け、地元の非営利団体が開催したものだ。
あれ以来、片桐は授業を休みがちになり、外出も殆どしなくなってしまっていた。
もはや単位をいくつ落としたかも分からないが、幸い同じ猫好きで繋がっていた学友たちが片桐の惨状を知り、半ば強引にここまで連れてきたのである。大学近くで起きた痛ましい事件の顛末は、当然彼らの耳にも届いていた。
「いい猫会えるかなぁ。黒っぽければ何だっていいんだけど」
「色がどうした。俺は猫さえ見られれば、細かいことなんか気にしない」
「いちいち張り合ってくんなよ」
勝手にやいやい盛り上がっている、友人たちの声が何処か遠くに聞こえる。彼らの気遣いは有難いことだが、片桐には余り意味を成さなそうであった。
保護猫譲渡の条件は、団体にもよるが概ね厳しいという。片桐のような一人暮らしの学生、それも親族と折り合い悪く、経済的にもさして豊かと言えないような人物では、どんな希望を出したところで九分九厘断られるのが目に見えていた。
何より、片桐にしてみれば猫なら何でもいいという訳には今更いかない。自分にとって一番大切なあの猫は、サヤはもう二度と戻ってくることはないのだから……。
「みい」
片桐の耳に突如として、弱々しくもハッキリとした小さな鳴き声が届いた。
ハッとなって、声のした方向を見る。規則正しく並べられたケージの遥か彼方、広い場内の一番奥のところに、一匹の子猫が入れられているのを見つけた。なぜそんな離れた距離からの声を聞き取れたかは、分からない。
分からないが、確かにその子が呼んでいるように思えたのだ。
「おい片桐!?」
「あの、場内で走るのは……」
今の片桐にはいかなる制止も効果がなかった。
目的のケージの前で立ち止まり、殆ど齧り付くようにして中を覗く。
まだ生まれてきてから間も無く見える、白トラ模様をした一匹の子猫がつぶらな瞳を片桐に向けてきていた。ケージの淵に覚束ない足取りで近寄ってきて、片桐のことを真っ直ぐに見つめてくる。その瞳に、顔立ちに、片桐は非常によく覚えがあった。
「……目が、瞳が、宝石みたいなブルーの色だ」
「子猫のうちはみんなそうですよ」
会場スタッフのひとりである女性が、片桐の友人らと一緒に後からやって来て冷静な口調で言った。あんまり興奮した様子を見せたので、警戒を与えたのだろうか。
「みい、みい」
「あれ……珍しい。基本は人見知りする子なのに」
「抱いてみてもいいですか」
努めて平静を装い、スタッフにそう願い出る。
相手は少しの間逡巡していた様子だったが、子猫自身に怯えが全くないことから、一先ずは安全と判断したのだろう。ケージから出された子猫が、そっと片桐の腕に移される。
殆ど手のひらに収まってしまうような、とても小さな猫だった。片桐はまるで壊れ物を扱うかのように、その子を抱擁する。すると子猫の方からも、何もかも安心しきった様子で片桐に積極的に擦り寄ってくるのだった。
嗚呼、思った通りだ。片桐の中で愛おしさが益々膨れ上がる。
尤も一連の光景を見て、スタッフの女性などはしきりに不思議がっていた。
「そこの大学の、すぐ近くで見つかった子なんですよ」
女性スタッフは歯の奥に何かが挟まったようなものの言い方をした。
「状況から見て野良の生んだ子だと思うんですけど……いくら探しても母猫が見つからなくて結局、この子だけが保護されて」
「その場所って、例の事件があった公園の中じゃないんですか」
「えっ」
おそらく図星だったのだろう。女性スタッフの顔色が明らかに変わった。それには構わず、片桐は甘えてくる子猫を抱きかかえたまま、顔も上げずに言った。
「引き取るには、どうしたらいいですか」
「……言っておきますけど、条件かなり厳しいですよ。まだ子猫ですから、普通以上にケアの必要性ありますし、それに」
「構いません」
スタッフの話を遮るように片桐は言った。相手の口調から、今度こそ警戒の色が隠されなくなったのが分かった。狙いは見えている。あれやこれやと言いがかりをつけ、自分に渡さないつもりなのだ。そうはいくものか。片桐の決心は固かった。
「必要な条件あれば一つ残らず言って下さい。働いたっていいし、学校辞めたっていい。一人暮らしがダメだっていうなら、実家に帰ってそこで暮らしたっていいんだ」
「あの、少し落ち着いて」
「条件を早く言って下さいよっ!」
不意打ちの大声が響き渡り、会場内がしいんと静まり返った。多くの猫たちが片桐を激しく威嚇し、友人たちは呆然となり硬直、女性スタッフなどは完璧に怯えきっていた。
「みい、みい」
「ああ、大声出してごめんね……大丈夫だよ……今にきっと、一緒に暮らせるからね……」
「お前どうしたんだ」
文字通りの猫なで声で子猫をあやす片桐を見て、さしもの友人たちも戦慄を覚えたようだ。もはや殆ど腰が引けてしまっている。
「いくらその猫が気に入ったからって」
「気に入るとか気に入らないとか……そういう問題じゃない」
片桐はもう一度、心の底から慈しむような、忘れ形見を見るような目つきをして、己の腕に抱かれる小さな猫を見下ろした。救済を得た男は、今度こそ静かに微笑む。
「これは、僕の子だ」
(おわり)
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