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五月の戸惑い編 プロローグ

山尻桃の苦悩。

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 月さえも眠りこけているような静けさの中、真っ暗な部屋に、乱れた呼吸音が響いていた。
 その呼吸は徐々に荒くなり、つぎの瞬間、音の主は目を覚ます。

 寝汗にまみれた顔は、どこかやつれて見えた。
 暗闇の中、呆然と一点を見つめている瞳からは、とめどなく涙があふれていた。

「‥‥‥また、あの夢だ‥‥‥しばらく大丈夫だったのに‥‥‥どうして?」

 三太たちのもう一人の幼なじみ、山尻桃やまじりももは、絶望したかのように、つぶやく。
 じつは、高校二年になってから、もう一ヶ月近く同じ夢にうなされていたのだ。

「‥‥‥孝ちゃん、ごめんね‥‥‥私のせいで‥‥‥」
 布団の中に潜り込み、嗚咽をかみ殺す。

 ゴールデンウィークも終わり、朝になれば登校が待っていた。

 しかしその朝は、永遠のように遠かった。
 強く目を閉じても、睡魔はもう来ない。
 あと何時間、孤独と後悔と、戦えばいいのだろう。

「‥‥‥ああ、もう‥‥‥いやだ‥‥‥」


 カーテン越しに夜明けを感じたのは、それから四時間後の事だった。





 いつもより早い朝の支度をすませると、桃はごく自然に玄関へ向かった。

 『いってきます』も、おかしいところはなかった。

 だがなぜか、飼い犬のあずきだけはその後を追い、慰めるように顔をなめてきた。

「‥‥‥だめだよ、あずき‥‥‥優しくされたら‥‥‥私‥‥‥」

 二人きりの玄関で、ぎゅっとあずきを抱きしめ、涙をこらえる。
 く~ん、と代わりに泣いてくれているようだった。



 家から最寄り駅までの道のりで、顔見知りに出会う。

「あれ、桃じゃん! 今日は早いんだね!」
「あ、みどりちゃん、おはよう。ちょっとクラスの用事があって、ね。みどりちゃんは、今日も朝練?」
「いや~、今日は朝練ないんだけど‥‥‥この子の案内があってさ」
「桃ちゃん、久しぶり」

 みどりの後ろから、うれしそうな笑顔が現れた。

「え? あ、あおいちゃん!? そ、それ、うちの制服‥‥‥」
「うん! やっとね、みんなと同じ学校に通えるよ!」

 中谷みどりの双子の妹あおいは、地域でも最高レベルの私立校に通っていた。
 坂崎高校とは比べ物にならないくらい、高い偏差値の高校だった。

「どうして‥‥‥もったいないんじゃ‥‥‥」
「うんまあ、わたしの本命は、坂崎高校だったしね」
「ま、あおいならどこで勉強したって、変わんないしね~」

 双子が、あはは、と笑った。

 二人ともすらりとしていて、若々しい美しさがあった。

 みどりは、そのショートヘアも相まって、活発で、清々しいイメージだ。

 片やあおいは、セミロングな髪とどこか落ち着いた雰囲気で、知的なイメージが滲み出ていた。

 とにかく、本人たちの知らないところで、かなりのファンを獲得しているのだ。

「あ、ということは‥‥‥」
 桃が、いたずらっぽく笑った。

 暗闇の中で見せていた表情が、嘘のようなかわいらしい微笑みだった。

「三ちゃん、喜ぶといいね」
「三太が? どうして?」
「桃ちゃん。お姉ちゃんも三太くんなみに鈍いんだから、察してあげて」
「‥‥‥あ」

 そして二人は、ふふふ、と、とても楽しそうに笑みを漏らした。

「もう、三太と一緒にしないでくれる?」
「うれしいくせに」
「あ、あおいっ!」
「な~に~、お姉ちゃん。この間の三太くんとのケンカの事、まだ許してないんだからね?」
「うっ、そ、それは謝ったじゃない」
「三太くんには?」
「だから、ちゃんと謝ったって‥‥‥って言うか、三太にだって悪いところはあったんだよ?」
「もう、スカートくらい、ぱっぱとめくらせてあげればいいのに」

「え? スカート‥‥‥めくり?」

 桃の表情が、瞬時にかげった。

「ば、ばか、あおい」
「ああ、も、桃ちゃんごめん‥‥‥わたしちょっと浮かれちゃって‥‥‥ホントごめん」
「う、うん、大丈夫だよ。気にしないで」

 無理に浮かべた笑顔が、痛々しかった。

「じゃ、じゃあ桃、あおいに学校の事、一緒に教えてあげようか」
「そ、そうね、桃ちゃん教えてくれる?」
「うん、いいよ」

 三人は、ぎこちなくも会話を弾ませ、駅への道を進むのであった。
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