不幸を吸い、月桂樹の花は開く

なかの豹吏

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不幸を吸い、月桂樹の花は開く

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 高校を卒業して、私は介護学校に通っている。 ただ、今病院に居るのは研修ではなくただのお見舞い。 小学校から一緒だった井納忠人いのうただひと君の。

蓮宮はすみやさん、今日も来てくれたんだ」

「うん」

 病室のベッドで微笑む彼を見て、自分が少なからず必要とされている事に安堵し、喜びを感じる。 でもそれと同時に、小学校までは『ゆのちゃん』と呼んでもらえていたのに、という寂しさに苛まれる。

 ―――違う。

 本当は、『ゆの』と呼んでもらえる関係になれていない自分に、失望しているんだ。
 今日までずっと傍に居たのに、私と彼の距離は、寧ろ子供の頃より遠い、そう思えて下唇を噛む。

「今日はね、あまり頭痛がしないから、大分勉強出来たよ」

 入院で普段より少し長くなった前髪の奥、瞳は穏やかに私を見ている。 

「そう、良かった」

 彼の傍に行って椅子に座ると、膝に参考書があった。 それは、高校生の参考書。 大学生になったばかりの彼が、その参考書を学ぶのには理由がある。 




 ◆




 ―――二週間前。 ビルの三階、非常階段で休憩していた男性は、ガラス製の灰皿を手に持ち喫煙していたらしい。 
 そして、誤ってそれを落としてしまい、不運にも分厚くて重いガラスは彼の頭上へと落下した。 

 事故から二日後、私は彼と共通の友人から、彼と連絡が取れないと言われ電話を掛けてみた。 出たのは彼のお母さんで、その時事故の事を初めて知った。
 友人が電話を掛けても繋がらなかったのは、彼の母親が友人を知らなかったからだろう。 私は幼馴染なので、当然知られている。

 それと、彼から言われていたかららしい。 知らない人からの連絡には出ないでくれ、と。 
 じゃあ、どうして携帯電話を母親に預けているのか。 それは、きっと怖いからだと思う。 

 私は彼をよく知っている。 彼は私と同じで、とても怖がりだ。 特に、中学生までは……

 事故の事を知った翌日、私はお見舞いに行った。 そして、頭に包帯を巻き、ベッドから窓を眺める彼としたのだ。


 ――――高校からの記憶を無くした、中学校を卒業したばかりの彼と。


 私に気づくと、彼は弱々しく笑った。 
 少し話をして、その喋り方や受け答えから、私は確信した。 
 お母さんから聞いた通り、目の前の彼は高校生になっていない、入学前の井納君だ。

 私は彼に訊いた。

「これまでの事、知りたい?」

 彼は俯き、辛さと怯えを混ぜた表情で答えた。

「今は……かもしれないけど、知りたくない。 高校生にもなっていない僕だと、これまでを知っている人に応えられないから……」

 その答えを聞いて、症状を聞いた時過ぎった浅ましい、ペン先で出来たような小さな黒い染みが、

「そう、無理しなくていいよ」

 染み込み易い願望という生地に広がって、

「大丈夫、私はあの頃のまま……」


 ――――私を、呑み込んでいった。


「何も変わらないよ」


 冷たい水に飛び込む勇気の無かった臆病者は、隣のぬるま湯に飛び込んだ。 それがどんなに黒く、汚れていると解っていても。




 ◆




「勉強したいだろうけど、無理は駄目だよ? 頭痛が出たらすぐに止めないと」

「うん、分かってる」

 事故の後、後遺症で彼は今まで無かった酷い頭痛に苦しんでいた。

「明日の午後には退院でしょ、おばさんと一緒に迎えに来るね」

 私がこの病院に通う事もなくなる。 退院は喜ばしい事だけど、不謹慎にも心は不安に駆られてしまう。 
 高校を卒業してから、毎日見れた顔が見れなくなった。 またあの寂しさと喪失感がやってくるんじゃないかと。

 ふと見ると、そんな事を考えている私より、何故か彼の方が思い詰めた顔をしていた。

「蓮宮さん」

「……なに?」

 俯き、目を合わせずに私の名前を呼んだ彼は、その視線を更に下げる。

「退院しても、僕の傍に居て欲しい……」

 心臓が、ぎゅっと縮まった。
 そして大きく膨らんで、心音が速くなる。

 それを悟られたくなくて、動悸と呼吸を整えるのに必死で、返事を返したくても出来なかった。 無理にしたら、絶対に変な声が出ると思ったから。

 そうこうしている間が耐えられなかったのか、私の返事を待たずに彼は次の言葉を紡いだ。

「駄目なら、明日は来ないで。 それが返事でいいから……」

 怖がりな彼の精一杯が伝わってくる。 私は飛び跳ねそうな気持ちを抑えて、平静を装い立ち上がり、帰り支度を済ませてから言った。

「明日、迎えに来るね」

 返事をもらえないまま明日を待つなんて、夜を越えるなんてどんなに恐ろしいだろう。 彼にそんな事はさせたくない、私だって怖がりだから。


 病院からの帰り道、明日からの不安は吹き飛び、彼の退院が待ち遠しくなった。 こんな気持ちは本当に久しぶり、明日が待ち遠しいなんて。

 ずっと秘めていた想いは、仕舞い込んだまま悔いとして果てる筈だった。 縮まらない距離は、高校卒業と共に道さえ消え去った。

 そう思っていたのに……

 もうすぐ、『ゆの』と呼んでもらえるかもしれない。 
 彼の無くした記憶も、後遺症とも一緒に向き合っていく。 何があっても挫けない、傍に居られる、居て欲しいと言ってくれたんだから。

 想い合う二人になれたら、何を考えても前向きで、こんなにも強くなれるんだ。

 私は舞い上がっていた。 いくつも忘れた方がいい理由を自分に言い聞かせて、それでも消えてくれなかった想いが、こうして今叶うなんて。 これからは消そうとしないでいい、大事にしていいんだ、そう舞い上がって、

「――――」

「っ……」

 ―――前が、見えていなかった。

 もう、家に着いていたんだ。
 そして目の前には、私と彼の、共通の友人が立っていた。

 一瞬、息をするのも忘れていた私は、

「……久しぶり」

 そう言いながら、逃亡中の犯人が、ふと気づいたら目の前に警官が居たらこんな感じかな、なんて考えている。

 忘れていたんじゃない。
 今日だけは、忘れたかった。

 でも、いつかこうなると解っていたから、それが今日になっただけ。 もう、私は飛び込んだんだ。 黒く、汚れた水だと解っていて。

「――――――、――――」

 そうか、私のお母さんなら事情も知っているし、話すだろうな。

「――――」

 高校で知り合った、私と井納君の共通の友人。 でも、本当は少し違う。

「――――、教えてくれなかったの?」

 私にとっては親友で、彼にとっては……


 ――――恋人だから。


 私より綺麗で長い髪、私より大きな瞳。 相変わらず、自分と比べては劣等感を感じる。 特に、人柄には。

 彼女と出会ってから、その明るさに引っ張られて私と彼は少しずつ変わっていった。 他のクラスメイトとも打ち解けるようになったし、人間関係から逃げずに、前より強くなれたと思う。

 仲良くなる程に彼女の魅力に惹かれていく。 私には、あまりに彼女が眩しかった。 私がそうなんだから、男の子の彼にはもっと眩しく見えていたんだろう。

 勝ち目なんて無い。 だから私は、親友だからとか、私はこのままでいいとか、恋の舞台にも上がらずに、二人が恋人になった時の痛み止めを沢山探しただけ。

 卒業まで二人が付き合わなかったのは、きっと彼女の私への気遣い。 卒業後留学が決まっていたのも、寸前まで私には言わなかった。 もっと早く付き合いたかっただろう、私が居なければ、そう思わせないようにだと思う。

 明るくて、友達想いな優しい親友。

 そんな彼女を裏切って、彼の病状を聞いた日から今日まで、私は彼女からの連絡に応じていない。

 もうあの日、こうなると知っていて決めたんだから、泳ぎきれ。 汚い水を飲みながらでも、汚れながら進むしかない。 だって、

「高校からの記憶が無くて、彼に知りたいって訊いたら、知りたくないって」

 今日、ついさっき……

「どう、言えばいいかわからなくて……あなたを忘れていて、会いたくない、なんて……」


 ――――手に入ったから、欲しかったモノが。


「言えなかった」

 怖がりは、治ってない。

 手に入ってしまったら、今度は失うのが恐ろしくて仕方ない。 そう思う資格は無いけれど。

「ごめんなさい」

 この時の為に考え、用意した言葉を並べ、そして明日私は、――――恋人を迎えに行く。


 怖くて舞台に上がれなかった臆病者は、幕が下りた後、袖裏から恋人を掠め奪った。



 『忠人君』、記憶を失う前の君はもっと強くなっていてね、それから、『僕』なんて言ってなかったよ。 


 ――――彼女に、揶揄われるから。


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