迷宮事件奇譚

もんしろ蝶子

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第四話『少年と曖昧な犬』

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 ある日、伊織がいつものように迷宮事件奇譚の事務所で書類仕事をしていた時の事である。

「編集長、何だか雲行きが怪しくなってきましたよ」

 さっきまでは雲一つない青空だったというのに、一体どこから湧いてきたのか、突然辺りが薄暗くなってきた。伊織の言葉に町田は空を見上げて困ったように頭をかく。

「本当だ。困ったな、こりゃ結構降りそうだな。傘なんて持ってきてないぞ」
「僕もです。妹達に頼んで傘二本持ってきてもらいましょうか?」
「いや、いいよ。帰れないほどの雨が降ったらここに泊る。双子ちゃんが昨日、作り置きのパスタ置いてってくれてるし」

 そう言って嬉しそうに笑う町田に頷きながら、伊織も双子に連絡するのは止めておいた。わざわざ傘だけを届けに来て欲しいだなんて頼もうものなら、後々何を言われるか分からない。特に楓に。

 そしてその数時間後、やはり雨は降った。おまけに雷を伴ったかなり激しい雨だった。傘をさすどころか、あちこちでさした傘が裏返っているのを見た伊織は、仕方なくずぶ濡れになって帰路についた。

 そんな事があって一週間ほど経った頃、迷宮事件奇譚に一通の手紙が届いた。

「編集長、依頼の手紙が来てましたよ」
「またか~。何か探偵事務所か何かと勘違いされてるんじゃないのか?」
「はは……まさか」

 あのバンシー事件がテレビやネットニュースで取り上げられた時、この雑誌の名前もチラリと出た。

 伊織はそのニュースは生憎見れなかったが、編集長曰く、迷宮事件奇譚という雑誌の記者がバンシーの声を頼りに事件を解決した。現代のゴーストハンターか⁉ などという見出しで取り上げられたそうで、それから直接会社に送りつけられてくる不可解な事件などが後を絶たないのだ。

「まぁ読んでからだな。それにしても今時手紙か。古風だな」
「ほんとですよね。大抵メールなんですけど……見ました? 昨日のメール件数、とうとう百を超えましたよ」

 うんざりしながら伊織が言うと、町田は笑ってどこか諦めたように言った。

「イギリスは不思議で満ちてるんだよ。で、手紙何だって?」
「あ、はい。今開けます」

 そう言ってペーパーナイフで手紙の封を切った伊織は、手紙を開いて口元を緩めた。

「編集長、どうやら依頼人は子供みたいですよ。可愛いなぁ。なになに……このあいだ、黒い犬を拾いました。体は真っ黒なのに、目だけ赤くて怖いのでお母さんが捨ててきなさいと言います。でも僕はどうしてもアンビギュアスを飼いたいです。記者さん、一度アンビギュアスに会いに来てください、ですって」
「可愛いな。でもそれはただ犬拾ったってだけの話だな」
「……ですね。で、捨てて来いって言われちゃったんですね……僕にも覚えがあるなぁ」
「俺にもある。猫だったけどな。まぁ大抵はそんな事言ってた母親が一番可愛がるんだ、どこの家も」
「うちもそうでした。僕ちょっと明後日の休みにこの子の家に行ってみます。記事には出来ないかもですが、何だか気になるので」
「そうか? お前も難儀な性格だな。まぁ最悪の場合新しい飼い主探してやるよ、俺も」
「はい!」

 何だかんだ言いつつ協力してくれる町田に感謝しながら、伊織は今日の業務に取り掛かった。伊織はこの時は単純に少年と母親の橋渡しが出来ればいいなと考えていたのだが、事態は思ったようにはいかなかった――。

 翌日、突然押しかける訳にもいかないので少年の家に電話をしてみたところ、てっきり怒られるかと思っていたら、少年の母親が迷宮事件奇譚の名前を聞くなりすぐに承諾してくれた。

 それどころか、そのアンビギュアスについて少し調べて欲しいとまで言い出したではないか。何だか母親の怯えたような声に伊織は明日行く事を伝えて電話を切った。

 そして翌日。伊織は子犬を見たい! と騒いだ妹達を連れて少年の家に向かった。

 少年の家は都心から離れた場所にあった。

 どんどん田舎になっていく景色を三人で見ていると、次の停留所に一人の男の子が何かを抱いて立っているのが見える。

「お兄ちゃん、あの子」
「うん、手紙くれた子だと思う。二人とも、降りる準備して」

 そう言って伊織は荷物をまとめだすと、双子たちもソワソワした様子で座席から腰を浮かせた。

 やがてバスが停まったかと思うと、双子は伊織を押しのけて我先にとバスを降りて行ってしまう。そんな様子を気の良さそうなバスの運転手が笑いながら見ている。

「ありがとうございました」

 そう伝えてバスを降りると、そこには既に黒い子犬を抱っこしてはしゃぐ妹達の姿。

「はじめまして。君が手紙をくれた子かな?」
「うん。ジョージだよ。この子がアンビギュアス。長いからアビーって呼んでる」
「僕は伊織。今日はよろしくね。ところで、アンビギュアスって変わった名前つけたね。何か意味があるの?」

 伊織が引っかかった理由はそこだった。普通、犬の名前に曖昧などという意味合いの名前をつけるだろうか? アビーというのが名前だと言われた方がまだしっくりくる。

 すると、ジョージはアビーの頭を撫でながら何とも言えない顔をして頷く。
「真っ暗になるとね、消えるんだ。だからアンビギュアスなんだよ」
「……へぇ、そうなんだ!」

 何を言ってるのかよく分からないが、相手は子供である。きっと子供特有の妄想か何かだろうと思った伊織は慌てて笑顔を浮かべたが、ジョージはそんな伊織を睨んできた。

「イオリ、嘘だと思ってるでしょ!」
「あ、いや! 嘘だとは思ってないよ。ただ、消える犬は見た事がないから想像が出来なかったんだ、ごめん」

 子供はやはりよく見ている。どんなに取り繕っても、簡単に大人の嘘など見破ってしまう。それが子供である。

 双子にもよく嘘を見破られて臍を曲げられた事を思い出した伊織は、素直にジョージに謝った。そんな伊織を見てジョージはようやく納得したように頷いて話し出す。

「僕もアビーが来るまでは消える犬なんて見た事無かったよ。でもアビーは本当に消えるんだ! ね? アビー」
「アン!」

 まるでジョージの言葉を理解しているかのようにアビーは尻尾を振って子犬特有の甲高い声で鳴いた。

「とりあえず、お母さん待たせちゃってるかもね。家に案内してくれる? お土産渡したいんだ」
「お土産?」
「そう。お菓子だよ。一応、犬も食べられるっていうお菓子も買ってきたんだけど、アビー食べる?」

 伊織がアビーの頭を撫でながら言うと、アビーは嬉しそうに尻尾を振って舌を出す。それを見てジョージも嬉しそうに笑った。

「食べるって! イオリ、ありがとう!」
「どういたしまして」
「出た、お兄ちゃんのお菓子で懐柔作戦!」
「楓ちゃん、それは作戦じゃなくて割と普通だよ」

 コソコソと話す双子を連れてジョージの後についていくと、大きな三差路に差し掛かった。そしてその三差路の正面に一軒の家が立っている。

 何だか変な所に建っているなぁと思いつつ辺りを見ると、その三差路に沿ってズラリと家が建っているので、こういう造りなのだろう。

 そして正にその三差路の正面の家がジョージの家だった。

「ママー! イオリが来たよ!」

 ジョージの声を聞いて、家の奥からまだ若い女の人が慌てた様子で姿を現した。その顔は切羽詰まってるようにも見えて伊織はゴクリと息を飲む。

「ようこそいらっしゃいました! お茶の準備は出来てるので、中に入ってください!」

 まるで外を伺う様な母親の姿に伊織達は急いで家の中に入り、リビングに足を踏み入れた。すると何故か不自然に家具が両端に分けられていて、伊織も双子も思わず首を傾げてしまう。

「ここね、妖精の通り道なんだよ!」
「ジョージ! 止めなさい」
「でもイオリは妖精の雑誌社でお仕事してるんでしょ? バンシー村の事件だってイオリの名前出てたもん!」
「それはそうかもしれないけど……すみません、この子、どうやらあの村の事件を見て勝手にあなたに手紙を出したみたいで……」

 そう言って母親が困ったような顔をして頭を下げるので、伊織はすぐにそれを止めた。

「いえ! 何かこの部屋見て分かりました。多分、超常現象的な何かが起こってる……んですよね?」
「……はい。とても信じられないと思うのですが、時々夜中になると何かを壊すような音と歩く音が聞こえるんです。でも、リビングに行くと誰もいない……だから妖精の通り道だってこの子が言い出して……」
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