白い彼女は夜目が利く

とらお。

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月夜鴉の怪

008

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 完治!
 ……とまではいかないが肩の傷に関しては後は塞がるのを待つだけらしく、入院してから数週間後、無事に退院の指示が出た。
 相変わらず痛み止めは手放せないし右肩は持ち上げられないけど、ひとまずは元の生活に戻ってこられたことに安堵しつつ昨日から登校を再開したところだ。
 とはいえ完治するまでは激しい運動が禁止されているので、クラスメイトたちが体育の授業に打ち込んでいると思われる今、俺は一人、教室でぼーっとしている。

「あー、暇」

 誰もいない教室は妙に異質で、肩の傷がずきずきと痛んだ。
 痛み止めを飲もうか迷ったがやめておく。
 このくらいならまだ耐えられる程度だ。
 病院からもらった痛み止め、めちゃくちゃ効くんだけどめちゃくちゃ眠くなるんだよな。
 ただでさえ暫く学校来れてなかったせいで授業に遅れてるんだし、これ以上成績が下がりそうな行いは避けたいところだ。
 この時間で勉強しようかとも思ったけど……なんかやる気でないしやめた。

「ふぁーあ……寝よ」

 居眠りでもしようかと深く息を吐きながら机に突っ伏したところで、教室のドアが開く音がする。
 教員が入ってきたかと一瞬焦って身体を起こしたが、そこにいたのは暁しづくだった。
 驚いている俺を特に気にすることなく彼女はつかつかと教室に入ってきて自分の席に座り、本を読み始める。
 ……えと、これどういう状況?
 話しかけたいけど、近付くなって言われたばっかりだしなあ。
 無視でもされたら今度こそ心折れる気がする。
 でも、やっぱ気になるし。

「あ、あの……暁さん……」

 恐る恐る声をかける。
 すると彼女は読んでいた本から顔を上げて、こちらをちらりと見た。

「なに?」

 良かった、返事してくれた……。

「えと、体育は?」
「足首捻ったの」
「そ、そうなんだ」

 会話、終了。
 再び本に目線を落としてしまった彼女となんとか会話のラリーを続けられないかとあたふたしていると、真っ青に腫れている彼女の足首に目が留まった。
 大きな湿布が貼られている患部はあまりにも痛々しい。

「うわぁ、痛そ……」

 背筋がひやっとして思わずそう零すと彼女は急に本を机において立ち上がり、つかつかと俺の目の前まで歩いてきた。
 足首を捻挫しているとは思えないしっかりとした足取りだ。
 実は見た目ほどそんなに痛くない、とか?
 いや、あんだけ真っ青になってるんだから痛いはずだ、うん。

「痛そうに見える?」

 両手を机に叩きつけて俺の顔を覗き込んだ彼女はぐいと首をひねる。
 痛そうに見える? って、なんだそれ。
 ……いや、待てよ。
 そういえばあの夜……。

"私は身体が弱かったから、怪異と身体の取り合いになった末に、混ざってしまった。痛覚もそのとき失った"

 彼女がそう言っていたことを思い出す。

「暁さん……えと、君は、痛覚がないんだっけ……? 確か、怪異と身体を取り合う過程で失った、とか」

 そう尋ねると彼女は無表情のままこくりと頷いた。
 確かに痛みを感じていないのならあれだけきびきびと歩いていたことに納得できる。

「そう。怪異との争いは、とっても痛かったの。死んでしまいたいって思うくらいに。だから私の身体は、自分を守るために自ら痛覚を手放した」
「痛みを感じないって、つまり危機管理能力が動作してないってことだよな? 危なくないのか……?」

 たしか痛みを感じないっていう疾患が難病があったような。
 そういう人は怪我や火傷などに気付くことが出来なくてとても危険だと聞いたことがある。

「皮肉なことに、私の危機察知能力は梟が担ってるの。もともと梟は臆病で繊細な生き物だから」
「そ、っか……」

 俺がそれ以上何も言えずにいると彼女は少しだけ笑って……俺の手を握った。
 ……………………え、"手を握った"?!
 待って待って、え、なに?!
 なにこの状況?!
 ああああ柔らかい!
 すべすべ!
 指細い!
 握ったら折れそう!
 突然のスキンシップに驚きのたうち回りそうになっていると、彼女は感触を確かめるようにして俺の手の甲に指先を滑らせる。

「感触はあるのに痛みだけがわからないって不思議な感覚。神経が違うからって言われたらそれまでなんだけど、なんだか、しっくり来ない感じがする」

 彼女はそのまま、空いていた片方の手を俺の左胸の辺りにぎゅうと押し付けた。

「こうして触っていると、あなたの体温も……心音も、全部伝わってくるのに」

 いやあの、多分すごい真剣にお話してくれてるんだけど、俺今それどころじゃないです。
 天元突破しそうです。

「……神崎くん」
「はぇっ?! な、なん……ですか……」

 急に名前を呼ばれたことと声がひっくり返ったのが恥ずかしくてちょっと声が小さくなる。

「私は……半分怪異で出来てる、謂わば化け物のような存在。このまま手を握り潰されるかもしれない、とか思わなかった?」
「え。俺、握り潰されるの?」

 それは遠慮したいけど。
 ……あ、待って!
 もしかして今の暁さんなりのジョークだった?!
 だとしたらすっげぇつまんない返ししちゃった!
 と、一人で後悔していたら、彼女が小さく吹き出す。

「……っ、ふ、ふふ……しないよ。しないけど、神埼くん、無警戒すぎ」

 彼女の自然な笑顔を見るのは初めてで、心臓が止まってしまうかと思った。
 危うく止まりかけた。
 だけど、彼女の言葉がいやに引っかかる。

「ねえ、暁さん。君は人間でありたいと言う割に、自分を化け物扱いしている節があるよな」
「……それは」

 彼女がふいと視線を逸らした。
 離れようとする彼女の手を握り返して、逃げられないよう、少しだけ引く。

「君の自己評価を変えろとは言わないよ。でも……前も言ったけど、俺にとって君は普通の可愛い女の子だ。そう思ってる人間がここにいるってこと、忘れないでいてほしい」

 そう言うと彼女はぱちくりと瞬きをした後、可笑しそうに笑った。

「変な人だね、神埼くんって」
「そ、そう……?」
「変だよ。私の羽を見る前ならともかく、見てからもそんなこと言うなんて」

 彼女が時折自分を化け物扱いするのはきっと、自信が持てないからだ。
 そもそも自分を人間だと思っている人の口から"人間でありたい"なんて言葉が出てくることはないだろうし。
 俺一人の言葉がどれだけ彼女の助けに成れるかわからないけど……でも、少しでも彼女が自信を持つきっかけになれるなら、俺は何度でも彼女に同じことを告げるだろう。

「ありがと、神埼くん」

 彼女がそう言った瞬間、少し遠くでざわめきが聞こえる。
 と同時に教室に設置されているスピーカーからじりじりと音が聞こえ次いで鐘の音が教室中に響いた。
 何も言わず、するりと指先から抜けていった彼女の体温が名残惜しい。
 何事もなかったかのように席に座って文庫本を手に取る彼女にちょっとだけ寂しさを感じた。
 俺はまだ心臓がはち切れそうなくらい脈打っているのに。
 …………あ。
 色々話せたのに連絡先とか聞くの忘れた。
 今のめっちゃいいタイミングだったのに。
 クラスメイトたちが戻ってきてざわめきを取り戻した教室の中で一人、俺はがっくしと肩を落とすのだった。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 それからというもの、暁さんは毎朝、俺に挨拶をしてくれるようになった。
 軽い雑談くらいならできるようになったし、最初の頃の距離感から考えると大きな一歩だ。
 俺的にはそう、人類が初めて月に到着したぐらいの。
 二人きりの空間で手を握られたことを思い出しては顔がにやける。
 気持ち悪い?
 うるせー、わかってんだよそんなこと。

「ほーのーかーきゅんッ!」
「おごッファ?!」

 上機嫌で階段を登っていた俺は背後からの衝撃で海老反り状態になった。
 ぐきぃ、と腰から嫌な音がする。
 痛みのあまりへなへなとしゃがみ込んだ俺はそのまま足を滑らせ、階段を四段ほど転がり落ちて踊り場に這いつくばった。
 一方、俺に突然奇襲をかけてきた縁はぱちくりと瞬きをしている。

「今ピタゴラスイッチみたいだったよ」
「……死ぬかと思ったんだけど。えらい凶悪なスイッチだなオイ」
「ごめんごめん。まさか階段転げ落ちていくとは思わなくてさ。仄、運動神経悪くなった?」
「こちとら暫く運動禁止されてんだよ。そりゃ筋力も落ちてるに決まってんだろ」

 毎日部活で走り込みやら筋トレやらやっているやつと比べんでくれ。
 しかし自分より三十センチも小さな女の子に突撃されて腰をやった挙げ句階段から落ちるのは流石にダサすぎる。
 運動解禁されたら筋トレしよう……。

「で、仄きゅん、なんかすごいご機嫌みたいだけど、何かいいことあったの?」
「あー……まあ、うん。そんなとこ」
「え? なになに? 宝くじでも当たった? 十億?」
「俺への期待値大きすぎるよ」

 ほい、と差し出された縁の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
 相変わらず小さい、子供のような手。
 昔は縁の方が手も背も大きかったんだけれど。

「じゃあなに? 四つ葉のクローバー見つけたとか?」
「急にかわいいな。そういうんじゃなくて」
「? なに、ニヤニヤして。気持ち悪いなあ」

 酷い言い草だ。
 しかし俺も自分自身をちょっと気持ち悪いとは思う。
 想い人となんてことなく挨拶と雑談ができるようになっただけでこんなに浮足立ってしまうとは。

「わかった! 転校生ちゃんのことでしょ」

 彼女の言葉に身体が強ばる。
 うむ、我ながら引くほどわかりやすいな。

「図星だなぁ~? ま、仄のことだから、ちょっと話せたとかその程度でしょ?」
「なっ、お前それ、いくらなんでも俺のことを馬鹿にしすぎだろ!」
「え……まさかもっと進展したの?」
「ふふん。そうだ。何を隠そう、毎朝挨拶してくれるようになった! そんで雑談もできる間柄になった!」

 そう自慢気に言うと縁は少しぽかんとした後、大きく溜息を零した。

「そんなこったろうと思った」

 握ったままだった俺の手を離した彼女は、その手を少しの間だけ空中に漂わせて、やがてゆっくりと制服のポケットに突っ込む。
 そして困ったように笑ったと思ったら階段を駆け上がり、踊り場に残されたままの俺に手招きをした。

「さて、そろそろ教室戻らないと。授業始まっちゃうよー」

 先を行く彼女の表情が少し安心したように見えたのは、きっと気の所為だ。
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