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「本当に全く気が付いてなかったんですね……」

 ショックを隠せない様子の正吾の姿に、どこか悲しむように理恵は僅かに目を細める。

「事件がなかった事になったら。あるいは罪が全部許されたとして対応が変わる場所なんて家以外にないでしょう? だって、そこ以外で事件後に大きく変わった場所なんてない筈ですし」

 それでも理恵は言葉を止める事はない。

 返事すら出来ずに固まっている正吾を確認しながら、それでも慰めの言葉も誤魔化しの言葉も一つも言わず話を続けていく。

「けど西山君。あなたは解っているんですか? もうあなたは、家を出たと言っても過言じゃない状態なんですよ?」

 何故なら、もう正吾が一人だという事を本人以上に理恵は知っていたからだ。

「生活費は学園からの補助金だけでやりくりしていて、仕送り一つもらってないのも知ってます。あんな本当に最低の生活費しかないのにやっていけるのは素直に感心します。大したものです」

 言葉以上に感心した様子で理恵は、うんうんと何度も頷く。

 その態度は正吾の事を褒めるというよりも、本当にただ感心しているだけのようだった。

「どうして知ってるんですか……」

 けれどそうして一人、どこか満足げに頷いている理恵の言葉に正吾は目に見えて動揺した。

 というのも正吾は、その辺の事情までは学校に伝えていなかったからだ。

「さすがに特に被害もなく厳重注意で済んだとはいえ、ボヤ紛いの事件起こしていれば保護者に連絡くらいしますよ。その時、あなたのお父さんと少しお話をしました」

 そう言って理恵は数秒、何かを思い出すように虚空を眺める。

「もうアレは家とは関係のない人間です。葬式とか法的に対処しないと問題ない事でもないなら、出来るだけ連絡してこないでもらえませんか?」

 そうして理恵の口から放たれたのは、あまりに保護者としてどうかと思われる言葉だった。

 けれど――

(ああ。そういう話し方だった気がするなあ……)

 当の本人である正吾の方は特に驚いた様子も見せず理恵の話の続きに耳を傾ける。

 あまりに酷い父親の言葉であったが、正吾からしてみれば予想の範疇でしかなかったからだ。

「第一声がこれでしたからね。後はもう『連絡を取ってないので解りません。知りません』の一点張り。それでも保護者責任の問題とか色々持ち出して、もう少しお話した結果。本当に何の連絡も援助もしてないという事までは聞けました」

「その……」

 父親の反応自体は正吾に取っては予想通りでしかないので特に確認したい事もない。

 それとは別に気になったのは補助金の事だった。

 親から何の援助も受けてないし、交流もない事も学校には伝えてなかった。

 それは特別伝えないといけない機会がなかったのもあるが、意図的に隠していた面もある。

(やっぱり補助金とかに関わるのかな……)

 保護者から捨てられているも同然の自分に学校が補助金を出すのか不安だったからだ。

 学校からの補助金が無くなれば正吾に行く場所などない。

 だから正吾は悪いと解っていても、事件そのものは都合上伝えていても、その後親とどうなっているのかは伝えてこなかったのだ。

「ああ、心配しないで大丈夫ですよ。先程も言いましたが、問題さえ起こさなくて点数さえ取っててくれれば細かい事情なんて学校としてはどうでもいいんです」

「それはよかった……」

「とりあえず話を戻してですね」

 心底ほっとした様子で息を吐く正吾に、気を緩めないでと言わんばかりに理恵は視線を向ける。

「そんな自分を捨てたも同然の家の為に価値を求めてどうするんですか? いえ、酷な事を言いますが、仮に何か価値があったとからって戻れると思っていますか? 家に戻りたいんですか?」

 正吾自身さえ知らない、けれど無意識ながら確かにあった家族への繋がりや憧れ。

 そこを的確に理恵は突いてくる。

 正吾を含め、事情を知る人間なら大体が無意識に気付きつつ、それでも無意識に目を背けている現実という名の事実を。

「今、西山君が一番気にしないといけないのは今後どうやって安定して生きていくかです。その事を考えるなら、少なくとも今の収入源であり、生活を支えていると言っていい学校からの補助金を確実に確保するのが一番手っ取り早いでしょう」

 身体に気を付けて安定して出席するのが一番いいでしょうね、と理恵は付け加える。

 何せ正吾は既に高校レベルの問題なら十分以上に成績を残せるだけの学力があるのだ。

 過剰に勉強して身体を壊すよりは、健康に気を遣った方が最終的な成績は余程よくなるだろう。

「あるいはバイトなどをして収入を増やす。いっそ寮とか住み込みで出来る就職先を探して見付かったら学校を辞めてしまうというのも一つの方法でしょうね」

 理恵は学校以外の可能性がある事も示唆する。

 正吾の今の立場を考えるなら、学校に拘る理由なんてないからだ。

「もうあなたは良くも悪くもほとんど自由です。そして自由とは好き勝手出来るという意味ではありません。色んな行動が出来る代わりに、その行動への責任が伴うという事なのです」

 理恵は言わなかったが何もしないという方法だってあった。

 仮に勉強もバイトもやらずに、ただ無為に時間を過ごすという道もある。

 それで行く場所が無くなろうが野垂れ死にしようが、それは正吾が悪いだけでしかないのだから。

「比較的碌でもない家庭環境ではあったと思いますが、それでも勉強だけしていれば衣食住が保証されていたのは、ある意味では楽で安心だったと言えるのかもしれません」

 そういう意味では正吾の家は碌でもない家ではあったが、それでも未成年が住む家としての機能だけはあったと言えるだろう。

 誰がやっていたかは置いとけば、炊事や洗濯等はしっかり行われていた。

 自分で金を稼がなくても死ぬ心配も、おそらくないと言っていい筈だ。

「ですがもう勉強だけしていれば何も考えなくてよかった状態には、どう頑張っても戻れないんです。ボヤの時とのお父さんの言葉を聞けば。いえ、聞く前から西山君なら知っていたでしょう?」

 何を知っているのか、と正吾は尋ね返せなかった。

 喉が奥の方から固まってしまったように声を出せなかったのだ。

「もうとっくの昔に、あなたは一人ぼっちなんですよ」

 そんな正吾の状態を知ってか知らずか。

 理恵は止まる事無く続きを口にする。

 正吾を含め、きっと事情を知る人間なら誰もが知っていた。

 それでも誰一人、一度も突き付けた事がなかった悲しい現実を。
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