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第一部 街亭の戦い
4話 行軍長史 枯れた数字に兵士との約束を込め 老臣の汗は兵士に糧をもたらす
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【生命線】
「虎を兎狩りに使うわけにはいかぬ。魏延将軍は、我が軍の『牙』そのもの。貴殿には、捨て石などではなく、その爪と牙で敵の肉を抉(えぐ)り取る、最高の狩り場を用意しています」
丞相の一言で、軍議の熱気は一段落した。
華々しい作戦の立案が終わり、場の空気は弛緩し始めている。多くの将にとって、ここからは退屈な「事務の時間」だからだ。
私は、行軍長史として一歩前に出た。
手には、この数ヶ月、不眠不休で練り上げた兵站計画の巻物がある。その重みは、そのまま兵士十万の命の重みであった。
「これより、漢中から岐山、天水へ至る千里の行軍における、補給計画をご説明いたします」
私は淡々と語り始めた。
私の口から出るのは、「奇策」や「急襲」といった勇ましい言葉ではない。
「一兵あたりの消費麦量」「桟道の通過可能重量」「方寸(木箱)の換装時間」「矢玉の補充間隔」「木牛流馬の修理部材の配置」……。
ただひたすらに、乾燥した数字の羅列である。
「天水城陥落までの最大日数は……」「天水城での想定される鹵獲物資の量は……」
そして「兵士達、皆私物の輸送には木箱「方寸」を使っていただく事を統一させていただきます」
案の定、若手の将校や、功名心に逸る者たちの目には、退屈と困惑の色が浮かんだ。
彼らにとって、兵糧は「あって当たり前」のものであり、その輸送の苦労など想像の及ばぬ裏方の雑務に過ぎないのだ。あくびを噛み殺す者さえいる。
だが、私は言葉を止めなかった。この事務の一つ一つが、彼らの命そのものだからだ。
ふと上座を見上げると、丞相・諸葛亮は目を閉じ、羽扇を胸元で止めていた。
眠っているのではない。その表情は、まるで心地よい音楽に耳を傾けるかのように穏やかで、私の読み上げる数字の一つ一つを、脳内で完璧な兵站線として再構築しているのがわかった。
彼だけは知っているのだ。この計画に込められた「法」の緻密さと、「規格」の統一が、蜀軍十万の血肉となることを。彼の無言の肯定が、私の背中を温かく支えていた。
「天水陥落後、隴西、武威、各方面への補給部隊の数は……また、各地から鹵獲する物資の最大量は……各地からは最大量を超えて奪ってはなりません。占領した民もまた、我が蜀漢の民となる事を、各々努々忘れぬよう」
説明を終え、私が一礼して下がろうとした時だ。
【信頼と約束】
「向朗長史」
声を上げたのは、魏延であった。
彼は退屈するどころか、身を乗り出して私を見据えていた。
「その、『木牛流馬』と『方寸』だが……確かに価値がある方策だ。あの秦嶺越えの行軍は、飛躍的に楽になるだろう。……だがな」
魏延は太い眉をひそめ、戦場に生きる者特有の問いを投げかけた。
「どうやって兵にそれを知らしめる? 兵とは単純な生き物よ。己が武功を挙げるべく、人より目立つよう旗指物で飾り、喊声(かんせい)を上げ、首を取ったことを誇らしげに騒ぐ。その熱気こそが、恐怖を打ち消し、軍を前に進める力となるのだ」
ひとえに戦場での士気を上げる。それは数字では測れない「熱」の問題だ。
無個性な木箱を背負い、無言で歩く軍隊に、果たしてその熱が宿るのか。魏延はそれを危惧しているのだ。
私は、歴戦の猛将の瞳を真っ直ぐに見返した。
「ええ、魏延将軍。その通りです」
私は深く頷いた。
「泥にまみれ、兵と共に汚れた肉をかじる。得た大将首を自慢し、肩を抱き合い、酒を食らう。……それが明日を生きるための糧です。長年の後方担当と言えど、私は誰よりも長く、戦場の空気を吸ってきました」
私は一度言葉を切り、明日、南鄭の演習場にて披露する予定の光景――整然たる「茶色の龍」がうねる様を、脳裏にはっきりと描いた。
「魏延殿。その懸念につきましては、明日、全軍の伍長、小隊長を集めて行う大演習にて、回答をお示しできるでしょう。私が考案した輸送法が、いかなるものか。ぜひ諸将もその目で確かめていただきたい」
私は居並ぶ将軍たちを見渡し、自信を込めて告げた。
「この度の秦嶺越えの行軍には、その『熱』は不要です。いや、邪魔になります。万全の態勢にて、誰一人病にもならず、誰一人脱落せず、気力を絶やさずに一カ月進まなければ、戦いすら始まらないのです」
私は魏延に向かって、諭すように続けた。
「この方寸の理は、熱を殺すためのものではありません。熱を『温存』するためのものです。……ひと月後、戦場に立ったその瞬間に、皆々将の方々、兵士一人一人が蓄えた熱を爆ぜさせる。そのために考案した輸送法なのです」
魏延は目を丸くし、やがてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
髭を撫でるその仕草には、納得と敬意の色が見えた。
「ふん……。なるほどな。明日の演習、見せてもらおうではないか。向朗長史の仕事が、石垣のように堅いだけではないところを」
その言葉は粗野だが、最前線で命を張る者だけが知る、兵站への最大限の賛辞であった。
続いて、趙雲将軍も静かに頷いた。
「左様。千里の行軍、飢えこそが最大の敵。向朗長史のこの緻密な計画があればこそ、我らは背後を顧みず、前の敵のみを見据えることができます。……かたじけない」
老将の重みある労いの言葉に、退屈そうにしていた若手たちも居住まいを正した。
私は深く頭を下げ、自身の席へと戻った。
その足取りは、来るべき激務への覚悟と共に、確かな誇りで満ちていた。
席に着き、再び広げられた地図を見つめながら、私は胸の内で独りごちた。
(……そうだ。これで良い)
私の仕事には、馬謖のような華やかさはない。魏延のような武勇もない。歴史書には、私のような老吏が計画した木箱の数など一行も記されないだろう。
だが、私は知っている。
英雄たちが剣を振るえるのは、私が彼らの腹を満たすからだ。
天才たちが策を弄せるのは、私が彼らの足元を固めるからだ。
この数字の羅列は、ただの計算ではない。
故郷を離れ、険しい桟道を越え、死地へと向かう名もなき兵士たちへの、私からの「約束」なのだ。
「お前たちを飢えさせない」「決して見捨てない」という、無言の誓いなのだ。「兵站」とは流れる温かい血液だ。血が通わねば、いかなる巨人も動くことはできない。
(幼常よ、お前は天を翔ける才を誇るがいい。文長は、地を揺るがす武を誇るがいい)
私は、静かに筆を置く。
(私は、泥にまみれ、汗にまみれ、この蜀漢という巨人の、最も重く、最も苦しい足取りを支え続けよう。それが、私なりの「情」の示し方なのだから)
【小さな承認】
疲労に満ちた体は、魏延や趙雲からの労いの言葉でいくらか軽くなったものの、脳裏では未だ、補給計画の数字が渦巻いていた。私は、丞相の天秤の上で、この計画がどの程度の重みを持ったのか、最後の裁定を待っていた。
軍議が解散し、諸将の列を静かに通り過ぎ、丞相・諸葛亮の上座の脇を通り過ぎた、その刹那であった。
目を閉じていた諸葛亮は、微かにその瞼を開けた。その動作は、周囲の誰にも気づかれないほど、静かであった。
我が友は、私の顔をまっすぐに見据えた。
その瞳には、長大な計画を無事に完遂したことへの、感情を排した承認が宿っていた。そして、一言だけ、静かな、しかし確かな響きをもって、私に告げた。
「……よい」
「良い」――そのたった二文字の言葉は、私の数ヶ月にわたる不眠不休の努力への、この上ない報酬であった。
彼は再び静かに目を閉じた。私の心の中の、あらゆる不安や焦燥が、その言葉一つによって洗い流されるのを感じた。
この冷徹な天才は、私の血と汗の結晶を認めたのだ。
私は心の中で深く頷き、自席を離れた。その小さな承認こそが、私がこの過酷な北伐に、規律という確かな「法」の土台と、糧という「情」で支え続けるための、最後の楔(くさび)となった。
地図上の補給線が、私には兵士たちの命の輝きそのものに見えた。
私は、誰にも気づかれぬよう、小さく、しかし力強く頷いたのだった。
----------
万夫不当の武もなく、神算鬼謀の智もない、ただの『人』
ただ実直に石を積みつづける好々爺。そんな主人公像の向朗でございます。
三国志に、向朗に、興味が湧いた方、ブックマーク・コメントなどしていただけるととても励みになります。
「虎を兎狩りに使うわけにはいかぬ。魏延将軍は、我が軍の『牙』そのもの。貴殿には、捨て石などではなく、その爪と牙で敵の肉を抉(えぐ)り取る、最高の狩り場を用意しています」
丞相の一言で、軍議の熱気は一段落した。
華々しい作戦の立案が終わり、場の空気は弛緩し始めている。多くの将にとって、ここからは退屈な「事務の時間」だからだ。
私は、行軍長史として一歩前に出た。
手には、この数ヶ月、不眠不休で練り上げた兵站計画の巻物がある。その重みは、そのまま兵士十万の命の重みであった。
「これより、漢中から岐山、天水へ至る千里の行軍における、補給計画をご説明いたします」
私は淡々と語り始めた。
私の口から出るのは、「奇策」や「急襲」といった勇ましい言葉ではない。
「一兵あたりの消費麦量」「桟道の通過可能重量」「方寸(木箱)の換装時間」「矢玉の補充間隔」「木牛流馬の修理部材の配置」……。
ただひたすらに、乾燥した数字の羅列である。
「天水城陥落までの最大日数は……」「天水城での想定される鹵獲物資の量は……」
そして「兵士達、皆私物の輸送には木箱「方寸」を使っていただく事を統一させていただきます」
案の定、若手の将校や、功名心に逸る者たちの目には、退屈と困惑の色が浮かんだ。
彼らにとって、兵糧は「あって当たり前」のものであり、その輸送の苦労など想像の及ばぬ裏方の雑務に過ぎないのだ。あくびを噛み殺す者さえいる。
だが、私は言葉を止めなかった。この事務の一つ一つが、彼らの命そのものだからだ。
ふと上座を見上げると、丞相・諸葛亮は目を閉じ、羽扇を胸元で止めていた。
眠っているのではない。その表情は、まるで心地よい音楽に耳を傾けるかのように穏やかで、私の読み上げる数字の一つ一つを、脳内で完璧な兵站線として再構築しているのがわかった。
彼だけは知っているのだ。この計画に込められた「法」の緻密さと、「規格」の統一が、蜀軍十万の血肉となることを。彼の無言の肯定が、私の背中を温かく支えていた。
「天水陥落後、隴西、武威、各方面への補給部隊の数は……また、各地から鹵獲する物資の最大量は……各地からは最大量を超えて奪ってはなりません。占領した民もまた、我が蜀漢の民となる事を、各々努々忘れぬよう」
説明を終え、私が一礼して下がろうとした時だ。
【信頼と約束】
「向朗長史」
声を上げたのは、魏延であった。
彼は退屈するどころか、身を乗り出して私を見据えていた。
「その、『木牛流馬』と『方寸』だが……確かに価値がある方策だ。あの秦嶺越えの行軍は、飛躍的に楽になるだろう。……だがな」
魏延は太い眉をひそめ、戦場に生きる者特有の問いを投げかけた。
「どうやって兵にそれを知らしめる? 兵とは単純な生き物よ。己が武功を挙げるべく、人より目立つよう旗指物で飾り、喊声(かんせい)を上げ、首を取ったことを誇らしげに騒ぐ。その熱気こそが、恐怖を打ち消し、軍を前に進める力となるのだ」
ひとえに戦場での士気を上げる。それは数字では測れない「熱」の問題だ。
無個性な木箱を背負い、無言で歩く軍隊に、果たしてその熱が宿るのか。魏延はそれを危惧しているのだ。
私は、歴戦の猛将の瞳を真っ直ぐに見返した。
「ええ、魏延将軍。その通りです」
私は深く頷いた。
「泥にまみれ、兵と共に汚れた肉をかじる。得た大将首を自慢し、肩を抱き合い、酒を食らう。……それが明日を生きるための糧です。長年の後方担当と言えど、私は誰よりも長く、戦場の空気を吸ってきました」
私は一度言葉を切り、明日、南鄭の演習場にて披露する予定の光景――整然たる「茶色の龍」がうねる様を、脳裏にはっきりと描いた。
「魏延殿。その懸念につきましては、明日、全軍の伍長、小隊長を集めて行う大演習にて、回答をお示しできるでしょう。私が考案した輸送法が、いかなるものか。ぜひ諸将もその目で確かめていただきたい」
私は居並ぶ将軍たちを見渡し、自信を込めて告げた。
「この度の秦嶺越えの行軍には、その『熱』は不要です。いや、邪魔になります。万全の態勢にて、誰一人病にもならず、誰一人脱落せず、気力を絶やさずに一カ月進まなければ、戦いすら始まらないのです」
私は魏延に向かって、諭すように続けた。
「この方寸の理は、熱を殺すためのものではありません。熱を『温存』するためのものです。……ひと月後、戦場に立ったその瞬間に、皆々将の方々、兵士一人一人が蓄えた熱を爆ぜさせる。そのために考案した輸送法なのです」
魏延は目を丸くし、やがてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
髭を撫でるその仕草には、納得と敬意の色が見えた。
「ふん……。なるほどな。明日の演習、見せてもらおうではないか。向朗長史の仕事が、石垣のように堅いだけではないところを」
その言葉は粗野だが、最前線で命を張る者だけが知る、兵站への最大限の賛辞であった。
続いて、趙雲将軍も静かに頷いた。
「左様。千里の行軍、飢えこそが最大の敵。向朗長史のこの緻密な計画があればこそ、我らは背後を顧みず、前の敵のみを見据えることができます。……かたじけない」
老将の重みある労いの言葉に、退屈そうにしていた若手たちも居住まいを正した。
私は深く頭を下げ、自身の席へと戻った。
その足取りは、来るべき激務への覚悟と共に、確かな誇りで満ちていた。
席に着き、再び広げられた地図を見つめながら、私は胸の内で独りごちた。
(……そうだ。これで良い)
私の仕事には、馬謖のような華やかさはない。魏延のような武勇もない。歴史書には、私のような老吏が計画した木箱の数など一行も記されないだろう。
だが、私は知っている。
英雄たちが剣を振るえるのは、私が彼らの腹を満たすからだ。
天才たちが策を弄せるのは、私が彼らの足元を固めるからだ。
この数字の羅列は、ただの計算ではない。
故郷を離れ、険しい桟道を越え、死地へと向かう名もなき兵士たちへの、私からの「約束」なのだ。
「お前たちを飢えさせない」「決して見捨てない」という、無言の誓いなのだ。「兵站」とは流れる温かい血液だ。血が通わねば、いかなる巨人も動くことはできない。
(幼常よ、お前は天を翔ける才を誇るがいい。文長は、地を揺るがす武を誇るがいい)
私は、静かに筆を置く。
(私は、泥にまみれ、汗にまみれ、この蜀漢という巨人の、最も重く、最も苦しい足取りを支え続けよう。それが、私なりの「情」の示し方なのだから)
【小さな承認】
疲労に満ちた体は、魏延や趙雲からの労いの言葉でいくらか軽くなったものの、脳裏では未だ、補給計画の数字が渦巻いていた。私は、丞相の天秤の上で、この計画がどの程度の重みを持ったのか、最後の裁定を待っていた。
軍議が解散し、諸将の列を静かに通り過ぎ、丞相・諸葛亮の上座の脇を通り過ぎた、その刹那であった。
目を閉じていた諸葛亮は、微かにその瞼を開けた。その動作は、周囲の誰にも気づかれないほど、静かであった。
我が友は、私の顔をまっすぐに見据えた。
その瞳には、長大な計画を無事に完遂したことへの、感情を排した承認が宿っていた。そして、一言だけ、静かな、しかし確かな響きをもって、私に告げた。
「……よい」
「良い」――そのたった二文字の言葉は、私の数ヶ月にわたる不眠不休の努力への、この上ない報酬であった。
彼は再び静かに目を閉じた。私の心の中の、あらゆる不安や焦燥が、その言葉一つによって洗い流されるのを感じた。
この冷徹な天才は、私の血と汗の結晶を認めたのだ。
私は心の中で深く頷き、自席を離れた。その小さな承認こそが、私がこの過酷な北伐に、規律という確かな「法」の土台と、糧という「情」で支え続けるための、最後の楔(くさび)となった。
地図上の補給線が、私には兵士たちの命の輝きそのものに見えた。
私は、誰にも気づかれぬよう、小さく、しかし力強く頷いたのだった。
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万夫不当の武もなく、神算鬼謀の智もない、ただの『人』
ただ実直に石を積みつづける好々爺。そんな主人公像の向朗でございます。
三国志に、向朗に、興味が湧いた方、ブックマーク・コメントなどしていただけるととても励みになります。
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