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第一部 街亭の戦い
10話 医兵 白き衣は優しく病を癒やし 青き竹は静かに足を支う
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【白き衣の防波堤】
どれほど水を澄ませ、どれほど汚物を払おうとも、この「桟道」という閉鎖空間そのものが、巨大な病の苗床だった。 湿った岩肌には瘴気が澱み、十万の兵が吐き出す呼気と体臭が、逃げ場もなく充満している。
「……熱い。誰か、水を」
岩陰でうずくまる若い兵の額は、触れずとも分かるほどに煮えていた。
虚ろな目は宙を彷徨い、乾いた唇からは意味を成さぬうわ言が漏れる。 その隣では、別の兵が腹を押さえて呻き声を上げていた。下腹部を襲う激痛と、絶え間ない吐き気。彼らの体力は、敵と戦う前に、目に見えぬ「疫鬼」によって削り取られていた。
「道を開けろ! 疾医が通る!」
怒声と共に、白い生成り色(未晒し)の布を鉢巻にした一団が駆け寄ってきた。 彼らは武器を持たない。代わりに、腰には大小様々な薬袋と、鍼を入れた革のケースを帯びている。 通常の軍隊であれば、怪我人を治療する金創医(きんそうい)が数名、将軍の傍らに控えている程度だ。だが、この蜀軍には、丞相・諸葛亮により組織された「医曹」という医療の専門兵が、数多く各部隊に配置されていた。
「舌を見せろ。……苔のように白いな。湿熱だ」
年若い疾医が、熟練の手つきで兵の脈を取り、眼球を確認する。
「葛根と黄連を煎じて飲ませろ。それと、足の三里に鍼を打つ」
彼は即座に部下に指示を飛ばすと、自身の薬袋から干した薬草を取り出し、携帯用の小さな薬研単語ですり潰し始めた。 あたりに、独特の漢方薬の香りが漂う。それは汗と汚物の臭いの中で、唯一「理性」を感じさせる香りだった。
「しっかりしろ。この薬は苦いが、疫鬼を追い払う」
疾医は呻く兵の上体を起こし、竹筒の水に溶いた薬湯を少しずつ流し込む。 兵が苦しげに咳き込むが、疾医の手は止まらない。その目は慈悲深いというより、敵将と対峙する武人のように鋭く、真剣そのものだった。
「……なぜ、そこまでしてくれる」
隣で鍼治療を受けていた古参兵が、脂汗を流しながら問うた。
「昔いた軍じゃ、動けなくなった奴は谷底へ蹴落とされたもんだ。薬なんて、将軍様のものだった」
疾医は手を止めず、淡々と答えた。
「丞相の厳命だ。『兵一人を失うは、国の一角を失うに等しい』とな」 彼は兵の足に打った鍼を指先で弾いた。
「それに、我々も訓練された兵だ。お前たちが槍で敵を突くように、我々は薬と鍼で病魔を突く。これは我々の『戦』なのだ」
桟道のあちこちで、白い鉢巻の疾医たちが駆け回っている。 彼らは高熱に浮かされる者の額を拭い、腹を下した者に薬を与え、感染の兆候がある者を隔離していく。 その光景は、崩れかけそうになる堤防を、必死に人手で支えているようでもあった。
完全な衛生など望むべくもない地獄のような行軍。 だが、その絶望の淵で、彼ら「医曹」の者たちの存在だけが、兵士たちに「見捨てられてはいない」という細く強靭な命綱を握らせていた。
【匠兵という歯車】
秦嶺の湿った風は、容赦なく人の体力を奪い、足元の「道」さえも静かに蝕んでいた。
「――うわっ!」
鋭い破砕音が響き、隊列が乱れた。
桟道の老朽化した一枚板が、疲労で足元のふらついた若兵の踏み込みに耐えきれず、腐った果実のように砕け散ったのだ。若兵の片足が膝まで板の下――断崖の虚空へと落ち込み、すねの肉がささくれた木片によって無残に削ぎ落とされた。
「痛ぇ……!」 若兵が仲間によって引き上げられるが、泥と苔にまみれた脛からは鮮血が流れ出し、板の隙間から谷底へと滴り落ちる。
行軍が止まりかけた、その刹那。
「動かすな。傷が開く」 「その板を踏むな。梁まで腐ってるぞ」
二つの声が同時に響き、左右から別々の集団が滑り込んできた。 白い鉢巻の「疾医」と、青竹を背負った「匠兵」だ。
彼らは互いに目配せすることもなく、それぞれの「患部」へと取り付いた。
疾医は若兵の足元に膝をつくと、革袋から油紙に包まれた数枚の紙を取り出した。 それはただの紙ではない。止血と化膿止めの薬草を煮詰め、繊維に染み込ませて乾燥させた「薬紙」だ。 彼は水筒の水で傷口の泥を洗い流すと、その薬紙を唾で少し湿らせ、傷口へぴたりと貼り付けた。 「押さえておけ。血はすぐに止まる」 手際の良い処置に、若兵が痛みを忘れて呆然とする間に、疾医はすでに立ち上がっていた。
その背後では、匠兵が動いていた。 彼は踏み抜かれた穴を覗き込み、舌打ちを一つ。 「湿気で芯までボロボロだ。……貸せ」 彼は背中の束から、半割りにした青竹を二本引き抜くと、それを腐った板の上に橋渡し状に並べた。そして、懐から取り出した鎹を、無造作に、しかし正確無比な手つきで打ち込んでいく。 ガン、ガン、ガン。 数度の槌音が響くだけで、危険な落とし穴は、青竹による強靭な足場へと生まれ変わった。
「……す、すまない。助かった」 若兵が慌てて礼を言う。 だが、疾医も匠兵も、足を止めて誇るようなことはしなかった。
「礼には及ばん。兵を直すのが俺の仕事だ」
疾医が素っ気なく言えば、匠兵も道具を腰に戻しながら淡々と返す。
「道を直すのが俺の仕事だ。……行くぞ、次の腐った板が待っている」
二人の職人は、若兵に背を向けると、それぞれの持ち場へと足早に去っていく。
先はまだ長い。
岐山までの道のりは険しく、彼らの仕事に終わりはない。
だが、それでいい。
兵は戦い、医は癒やし、匠は造る。 誰が偉いわけでもなく、誰が欠けても成り立たない。各々が歯車となり、自らの職分を淡々と全うすること。 それこそが、丞相・諸葛亮がこの軍に植え付けた最強の規律、「蜀法」の正体であった。
若兵は薬紙の貼られた足で、青竹の真新しい感触を踏みしめ、再び前を向いた。 その背中を、見えざる法が静かに支えていた。
----------
姚伷「匠兵や水師、医兵、全て向長史の発案ではないですか?もっと誇ればいいのに」
向朗「いや。全て丞相が配置した部隊であると周知せよ。丞相は全てお見通しであると」
報われない兵站担当です。
実際には、三国時代、華佗や張仲景などの医者が有名ですが、ここに登場したような匠兵ら技術職人らは、この時代の医者は身分が低かったそうです。
どれほど水を澄ませ、どれほど汚物を払おうとも、この「桟道」という閉鎖空間そのものが、巨大な病の苗床だった。 湿った岩肌には瘴気が澱み、十万の兵が吐き出す呼気と体臭が、逃げ場もなく充満している。
「……熱い。誰か、水を」
岩陰でうずくまる若い兵の額は、触れずとも分かるほどに煮えていた。
虚ろな目は宙を彷徨い、乾いた唇からは意味を成さぬうわ言が漏れる。 その隣では、別の兵が腹を押さえて呻き声を上げていた。下腹部を襲う激痛と、絶え間ない吐き気。彼らの体力は、敵と戦う前に、目に見えぬ「疫鬼」によって削り取られていた。
「道を開けろ! 疾医が通る!」
怒声と共に、白い生成り色(未晒し)の布を鉢巻にした一団が駆け寄ってきた。 彼らは武器を持たない。代わりに、腰には大小様々な薬袋と、鍼を入れた革のケースを帯びている。 通常の軍隊であれば、怪我人を治療する金創医(きんそうい)が数名、将軍の傍らに控えている程度だ。だが、この蜀軍には、丞相・諸葛亮により組織された「医曹」という医療の専門兵が、数多く各部隊に配置されていた。
「舌を見せろ。……苔のように白いな。湿熱だ」
年若い疾医が、熟練の手つきで兵の脈を取り、眼球を確認する。
「葛根と黄連を煎じて飲ませろ。それと、足の三里に鍼を打つ」
彼は即座に部下に指示を飛ばすと、自身の薬袋から干した薬草を取り出し、携帯用の小さな薬研単語ですり潰し始めた。 あたりに、独特の漢方薬の香りが漂う。それは汗と汚物の臭いの中で、唯一「理性」を感じさせる香りだった。
「しっかりしろ。この薬は苦いが、疫鬼を追い払う」
疾医は呻く兵の上体を起こし、竹筒の水に溶いた薬湯を少しずつ流し込む。 兵が苦しげに咳き込むが、疾医の手は止まらない。その目は慈悲深いというより、敵将と対峙する武人のように鋭く、真剣そのものだった。
「……なぜ、そこまでしてくれる」
隣で鍼治療を受けていた古参兵が、脂汗を流しながら問うた。
「昔いた軍じゃ、動けなくなった奴は谷底へ蹴落とされたもんだ。薬なんて、将軍様のものだった」
疾医は手を止めず、淡々と答えた。
「丞相の厳命だ。『兵一人を失うは、国の一角を失うに等しい』とな」 彼は兵の足に打った鍼を指先で弾いた。
「それに、我々も訓練された兵だ。お前たちが槍で敵を突くように、我々は薬と鍼で病魔を突く。これは我々の『戦』なのだ」
桟道のあちこちで、白い鉢巻の疾医たちが駆け回っている。 彼らは高熱に浮かされる者の額を拭い、腹を下した者に薬を与え、感染の兆候がある者を隔離していく。 その光景は、崩れかけそうになる堤防を、必死に人手で支えているようでもあった。
完全な衛生など望むべくもない地獄のような行軍。 だが、その絶望の淵で、彼ら「医曹」の者たちの存在だけが、兵士たちに「見捨てられてはいない」という細く強靭な命綱を握らせていた。
【匠兵という歯車】
秦嶺の湿った風は、容赦なく人の体力を奪い、足元の「道」さえも静かに蝕んでいた。
「――うわっ!」
鋭い破砕音が響き、隊列が乱れた。
桟道の老朽化した一枚板が、疲労で足元のふらついた若兵の踏み込みに耐えきれず、腐った果実のように砕け散ったのだ。若兵の片足が膝まで板の下――断崖の虚空へと落ち込み、すねの肉がささくれた木片によって無残に削ぎ落とされた。
「痛ぇ……!」 若兵が仲間によって引き上げられるが、泥と苔にまみれた脛からは鮮血が流れ出し、板の隙間から谷底へと滴り落ちる。
行軍が止まりかけた、その刹那。
「動かすな。傷が開く」 「その板を踏むな。梁まで腐ってるぞ」
二つの声が同時に響き、左右から別々の集団が滑り込んできた。 白い鉢巻の「疾医」と、青竹を背負った「匠兵」だ。
彼らは互いに目配せすることもなく、それぞれの「患部」へと取り付いた。
疾医は若兵の足元に膝をつくと、革袋から油紙に包まれた数枚の紙を取り出した。 それはただの紙ではない。止血と化膿止めの薬草を煮詰め、繊維に染み込ませて乾燥させた「薬紙」だ。 彼は水筒の水で傷口の泥を洗い流すと、その薬紙を唾で少し湿らせ、傷口へぴたりと貼り付けた。 「押さえておけ。血はすぐに止まる」 手際の良い処置に、若兵が痛みを忘れて呆然とする間に、疾医はすでに立ち上がっていた。
その背後では、匠兵が動いていた。 彼は踏み抜かれた穴を覗き込み、舌打ちを一つ。 「湿気で芯までボロボロだ。……貸せ」 彼は背中の束から、半割りにした青竹を二本引き抜くと、それを腐った板の上に橋渡し状に並べた。そして、懐から取り出した鎹を、無造作に、しかし正確無比な手つきで打ち込んでいく。 ガン、ガン、ガン。 数度の槌音が響くだけで、危険な落とし穴は、青竹による強靭な足場へと生まれ変わった。
「……す、すまない。助かった」 若兵が慌てて礼を言う。 だが、疾医も匠兵も、足を止めて誇るようなことはしなかった。
「礼には及ばん。兵を直すのが俺の仕事だ」
疾医が素っ気なく言えば、匠兵も道具を腰に戻しながら淡々と返す。
「道を直すのが俺の仕事だ。……行くぞ、次の腐った板が待っている」
二人の職人は、若兵に背を向けると、それぞれの持ち場へと足早に去っていく。
先はまだ長い。
岐山までの道のりは険しく、彼らの仕事に終わりはない。
だが、それでいい。
兵は戦い、医は癒やし、匠は造る。 誰が偉いわけでもなく、誰が欠けても成り立たない。各々が歯車となり、自らの職分を淡々と全うすること。 それこそが、丞相・諸葛亮がこの軍に植え付けた最強の規律、「蜀法」の正体であった。
若兵は薬紙の貼られた足で、青竹の真新しい感触を踏みしめ、再び前を向いた。 その背中を、見えざる法が静かに支えていた。
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姚伷「匠兵や水師、医兵、全て向長史の発案ではないですか?もっと誇ればいいのに」
向朗「いや。全て丞相が配置した部隊であると周知せよ。丞相は全てお見通しであると」
報われない兵站担当です。
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