丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

22話 沈黙と重圧 走る筆先は焦燥を押し殺し 眠らぬ夜は一条の光を待つ

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【沈黙の重圧】

​ 街亭に向け、馬謖率いる別働隊が本隊の視界から消えて、十日が経過した。 

 天水郡冀県に置かれた蜀軍本陣は、奇妙なほど深い静寂に包まれている。

 だが、この静けさは、勝利を確信して待つ安らかな平穏ではない。極限まで張り詰め、きりきりと音を立てている弓弦が、今にも弾け飛ぶのではないかという、暴発寸前の緊張を孕んだ沈黙であった。

​ その重圧の震源地は、丞相・諸葛亮の幕舎である。
 そこから次々と下される命令書は、雪崩のように、私が預かる長史の執務室へと運び込まれてくる。
​「……向朗長史。漢中からの糧秣輸送、第五陣の到着が二刻遅れています」

​ 報告を上げたのは、副官の姚伷である。
 彼は常に沈着で、数字に強い。その手元の木簡には、各部隊の消耗率と補給予定が、虫が這うような細かさでびっしりと書き込まれている。彼の眉間には深い皺が刻まれ、その一本一本が、この兵站維持の困難さを物語っていた。

​「桟道での荷崩れか?」
「はい。連日の雨で地盤が緩んでおります。ですが、予備の輸送隊を先行させ、帳尻は合わせました。ただ……」

「ただ?」
「消費の速度が、想定を上回っています。特に矢の消費が。前線の緊張が高まっている証左かと」

​ 姚伷の報告は正確無比だ。私は頷き、直ちに再配分の指示書を引き寄せた。
 机の上には、未決裁の木簡が小山のように積まれている。
 私は筆を墨壺に浸し、流れるような手つきで署名を入れていく。

​ そこへ、もう一人の副官、楊顒が、幽鬼のように疲れ切った顔で戻ってきた。彼は丞相の幕舎との連絡役を担っている。その腕には、抱えきれないほどの新たな書類の束があった。

​「……向長史。丞相より、新たな指示です」

​ 楊顒の声は掠れていた。

​「違反者の処罰規定の細則と、各陣営の厠の設置場所の変更、さらに歩哨の交代時間の見直しについてまで……」

​ ドサリ、と重い音を立てて書類が机に置かれた。その音は、我々の精神を圧し潰す岩の音のように響いた。

​「丞相は……ご自身で罰二十以上の案件をすべて裁決されています。それどころか、陣の杭一本の位置まで気にされている。これでは、丞相の御身が持ちませぬ。我々下の者が行うべき雑務まで、全て背負い込んでおられる」

​ 楊顒は、以前、諸葛亮の「自ら細かい事まで行いすぎる」点について、直接諫めたことがある男だ。彼の懸念はもっともであり、その表情には丞相への深い敬愛と、それゆえの焦燥が滲んでいた。

 諸葛亮の目は、赤く充血し、頬はこけているという。睡眠を削り、食事もそこそこに、全軍の神経を一人で張り巡らせているのだ。

​「楊顒よ。丞相も分かっておられるはずだ。だが、この初戦、失敗は許されぬという重圧が、あの方を駆り立てているのだ」

​ 私は彼を宥めつつ、自らもまた、その重圧に押し潰されそうになるのを堪えていた。
 我々三人が、寝る間も惜しんで数字と文字の海を泳いでいるのは、ただ「事務処理」のためだけではない。

 この膨大な作業に没頭することで、頭の片隅に巣食う「ある懸念」から目を逸らそうとしているのだ。

​ それは、「馬謖の動向」である。

​ 姚伷が、ふと筆を止めて、虚空を見つめて呟いた。
​「街亭からの定時連絡……まだ、来ませんね」

​ その一言で、室内の空気が凍りついた。
 ペラリ、と木簡をめくる音が止まる。楊顒も顔を上げ、不安げな視線を交わす。

​「馬謖参軍の才は疑いません。彼が主張した通り、街亭の南山に陣を敷く策も、地形を利した堅陣としては理に適っておりましょう。ですが、あの自信……」

​ 楊顒は言葉を選びながら、核心を突いた。
​「もし、馬謖参軍が功を焦り、山上の要害に籠もって『堅守』するという軍令ではなく……敵を誘い込んで撃滅しようなどという、色気を出していなければ良いのですが」

​ 楊顒の言葉は、私たちが共有していた恐怖を的確に射抜いていた。
 山上の陣は、守り抜いてこそ威力を発揮する。だが、敵はそのような連弩の待ち構える堅陣に馬鹿正直に戦うとは限らない。

 馬謖は才気煥発だが、実戦経験が乏しい。机上の空論を愛するきらいがある。

​ 私は壁に掛けられた地図上の街亭から、東の長安方面へと視線を走らせた。

​「……想定では、我らの動きに気付き、魏が洛陽方面から援軍を向かわせたとしても、まだ会敵まで一ヶ月以上要するはずだ」

​ 私は自分に言い聞かせるように言った。
 だが、言葉にするほどに不安が膨らむ。

​「しかし……我らが『方寸』や『木牛流馬』を用い、常識を覆す速度で桟道を抜けたように、魏にもまた、我らの想定を超える『何か』があるとは限らぬ」

​ 大国・魏の底力は計り知れない。
 我々が技術と知恵で地勢を克服したのならば、彼らもまた、我々の知らぬ手段や策を用いて、常識外の行軍を行っている可能性は否定できないのだ。

​ もし、馬謖が「常識的な行軍速度」を物差しにして、「敵はまだ来ない」と高を括っていたとしたら……。
 その慢心が突かれた瞬間、我々が必死に計算し、繋ぎ止めている全軍の兵站線は、一瞬で断ち切られ、軍全体が壊滅する。

​「……信じよう」

​ 私はあえて強い口調で言った。それは部下たちへというより、震える自分の心を叱咤する言葉だった。

​「馬謖は、丞相が最も目をかけてきた男だ。法の重さも、この戦の重さも理解しているはずだ。我々は、彼からの吉報がいつ届いても良いように、ただ後方の憂いを断つのみだ」

「……はい、長史」
「承知いたしました。……備えましょう」

​ 姚伷と楊顒は、再びそれぞれの持ち場へと戻っていった。
 灯火の下、黙々と筆を走らせる二人の背中は頼もしく、そして痛々しい。

 この本陣の静寂を支えているのは、彼らのような実務家たちの献身だ。
​ 私は長史として、彼らと共に、丞相の「法」と、馬謖への「情」、そして見えざる敵の「速度」という巨大な天秤の間で、筆を執り続けた。

​【猛き獣の咆哮】

​ 日が傾き、夕闇が迫る頃、ようやく急ぎの決裁書類の山が片付いた。
 私は筆を置き、大きく息を吐いた。

 首筋が凝り固まり、石のようだ。このままでは思考が鈍る。

​「少し、風に当たってくる」

​ 私は二人に声をかけ、執務室を出た。

 扉を開けると、そこには静まり返った室内とは対照的な、むせ返るような湿気と、数万の兵士が発する熱気が渦巻いていた。

 煮炊きする煙の匂い、馬糞の匂い、鉄と油の匂い。
 私はその生々しい空気を肺いっぱいに吸い込み、強張った神経を解きほぐそうとした。
​ その時だ。
​「おい、そこ! 邪魔だ!」

​ 雷のような怒号が鼓膜を叩いた。
 見れば、前線の練兵場から、一際巨大な影が大股で歩いてくる。
 赤ら顔に長い髭、巨躯を包むのは無数の傷が刻まれた甲冑。手には身の丈ほどもある大刀を提げている。

 魏延文長である。

 彼は周囲の兵士を怒鳴り散らしながら、苛立ちを隠そうともせずに歩いていた。その姿は、檻に入れられた猛獣そのものだ。
​ 私と目が合うと、魏延はギロリとこちらを睨み、ずかずかと歩み寄ってきた。
 その威圧感だけで、並の文官なら腰を抜かすだろう。
​「よう、巨達の爺さん。やっとお出ましか」

​ 魏延は私の前で立ち止まると、ニカっと笑った。その笑顔は獰猛だが、私に向ける時だけは、不思議と孫が祖父に見せるような愛敬が混じる。

​「相変わらず、カビ臭い部屋がお似合いだな。昼間っから紙切れと睨めっこか? 随分と楽しそうなこって」
「カカカ。お主こそ、夕暮れ時から無駄に声が大きいぞ、文長。その溢れる元気を少しは書類仕事に回せんか?」

​ 私が軽口で返すと、魏延は「ふん」と鼻を鳴らした。
​「御免だね。俺の筆は、こいつ(大刀)だけだ。……それにしても、随分と片付いたようだな、兵站は」
​ 魏延は顎で私たちの執務室をしゃくった。

 彼は粗暴に見えて、勘が鋭い。後方の物流が淀みなく流れているのを、肌で感じ取っているのだ。

​「お主らが前線で暴れ回るための足場固めじゃよ。飯が食えねば、その得物(大刀)も振るえまい?」
「……へッ。違いねえ」

​ 魏延は私の肩を、バシッと叩いた。骨がきしむほど痛いが、これでも彼なりの親愛の情である。

 彼は視線を東――魏の都、長安のある方角へと向けた。
 その瞳に宿る色が、変わった。
 先ほどまでの粗野な光ではない。長い歳月によって練り上げられた、溶岩のような熱量が、その奥底で赤黒く燃えていた。

​「なぁ、爺さん。……長かったな」
​ 魏延が、ポツリと漏らした。
 その声の低さに、私は姿勢を正した。

​「ああ。長かった」

​ 私と魏延の付き合いは長い。
 私がまだ田舎の小さな県長だった頃。まだ彼が名もなき若武者で、野心を持て余していた時からの縁だ。

​「俺があの日、巨達の爺さんに拾われて、劉備様に仕えるようになって、もう二十年だ。……二十年だぞ、爺さん」

​ 魏延は自分の掌を見つめた。分厚いマメと、無数の古傷が刻まれた手だ。

​「荊州で誓ったんだ。いつかこの手で、漢の賊どもを叩き潰し、天下に自分の名を轟かせてやるってな。……だが、待たされた。関羽の旦那も、張飛の旦那も、先に行っちまった。俺だけが、まだ何も成し遂げちゃいねえ」

​ 彼の言葉には、慟哭にも似た響きがあった。
 先帝・劉備に抜擢され、漢中太守という重責を任された誇り。だが、それは同時に「守り」という檻に彼を縛り付けることでもあった。

 攻めたい。暴れたい。天下に己の武を轟かせたい。
 その渇望を、彼は漢中の山奥で、十年以上も押し殺してきたのだ。

​「ようやく、檻が開いたんだ」

​ 魏延は顔を上げ、ニヤリと笑った。その笑顔は、少年のように無邪気で、かつ鬼神のように猛々しかった。

​「駆ける。長安へ行ける。……あの荊州での屈辱、雨と泥にまみれた敗北の味。関羽の旦那が無念のまま散った、あの日の借りを……倍にして奴らに返してやる」

​ 彼は大刀の柄を握りしめた。
 ギリギリと、革が鳴く音がした。

​「滾るぜ、爺さん。腹の底が熱くて、血が沸騰しそうだ。二十年分だ。……二十年分の鬱憤を、全部あの長安の城壁にぶち込んでやる」

​ 魏延の体から、目に見えぬ陽炎が立ち昇っているようだった。
 それは、単なる殺意ではない。

 漢の復興という大義と、己の武名を歴史に刻みたいという強烈な自我。その二つが混ざり合った、純粋で巨大なエネルギーの奔流だった。

​ 私は眩しそうに目を細めた。
 法と理屈で国を治めるのが私の役目なら、この理屈を超えた熱量で敵を砕くのが彼の役目だ。
 
​「期待しておるぞ、文長。お主が暴れれば暴れるほど、私の仕事も増えるがな」

「カカカ! 安心しろ、巨達の爺さん。俺が通った後には、ペンペン草一本残らねえ『平らな道』ができてるはずだ。掃除の手間が省けるだろう?」

「言うようになったな。……死ぬなよ」
「誰に言ってる。俺は魏延だぞ」

​ 魏延は豪快に笑うと、背を向けた。
 その背中は、どんな言葉よりも雄弁に、蜀漢の威信を語っていた。

​【文武の双璧】

​ 魏延が去っていくのを、私はしばらく見送っていた。
 嵐が通り過ぎた後のような、奇妙な静けさが戻ってくる。

​「……ふう。相変わらず、暑苦しい男じゃ」

​ 私が扇子でパタパタと顔を扇ぐと、執務室の入り口から、様子を窺っていた姚伷と楊顒が出てきた。
 二人は顔を見合わせ、堪えきれないといった様子で苦笑をもらした。

​「……向朗長史。魏延将軍とお話しされている時は、随分と楽しそうですな」
​ 楊顒が、呆れたように言った。

​「普段の、面倒くさそうに筆を動かしている姿とは別人のようです。まるで、悪戯を企む子供のような顔をしておられましたぞ」
「違いない」
​ 姚伷も頷き、くつくつと笑った。

​「水と油、氷と炭火のように見えて、お二人が並ぶと不思議としっくりくる。……我々は二人が旧知と知っていますが、他の者が見れば驚くでしょうな」

​ 理知を重んじ、事務能力の塊のような向朗。
 武勇を誇り、猪突猛進に見える魏延。
 傍目には、蜀軍の中で最も相性の悪い組み合わせに見えるだろう。実際、魏延は長史の楊儀とは犬猿の仲だ。

​「まあ、腐れ縁というやつじゃよ」
​ 私は苦笑いしながら答えた。

​「あやつは粗暴だが、嘘はつかん。裏表がない。……腹の中に一物も二物も抱えている官吏より、よほど付き合いやすいわ。それに、あやつの『熱』に触れると、古びた私の血も少しは騒ぐのでな」

​ それに、と私は心の中で付け加えた。
 彼も私も、劉備玄徳という稀代の英雄に魅せられ、その夢の続きを見ているという点では、同じ種類の人間なのだ。

 方法が違うだけだ。彼は剣で、私は筆で、同じ夢を描こうとしている。

​「あれが、蜀の『武』の筆頭じゃ」

​ 私は二人の副官に言った。

​「やかましくて熱いが、嘘偽りはない、蜀漢の誇る大将じゃよ」

​ 二人は「やれやれ」といった顔で、しかし誇らしげに頷いた。

 (そんな大将を御しているあんたが『文』の筆頭でしょうが)

 無自覚な上司の物言いに、二人は顔を見合わせて笑うしかなかった。

​「違いないですな。……さて、長史。感傷に浸るのも良いですが、第五輸送隊の遅延処理が残っておりますぞ」

「ああ、分かっておる。……休憩終わりだ。戻るぞ」
​ 私は踵を返し、再び墨と紙の戦場へと戻っていった。

 魏延の熱にあてられたせいか、足取りは少しだけ軽くなっていた。
 友が剣を振るうなら、私は筆を振るうのみ。
 ただ、心の奥底にある不安――馬謖への懸念だけは、澱のように消えずに残っていた。

​ 眠らぬ夜は続く。

 我々は、まだ見ぬ一筋の光を信じて、筆を走らせた。
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