丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

24話 死兵 猛き獣は死兵の飢えを知り 硝子の堅陣は音なく砕く

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​【楽観の陥穽】

​ 街亭からの急報がもたらされた直後、冀県城の本陣幕舎には、主要な将軍と幕僚たちが緊急招集された。

 卓上には詳細な地形図が広げられ、赤い駒と青い駒が対峙している。
 だが、集まった諸将の顔に浮かんでいたのは、絶望的な恐怖ではなかった。むしろ、報告された敵の行動があまりに兵法の常識を外れていたため、彼らの理性は「敵の暴走」と判断し、奇妙な楽観をもたらしていたのである。

​「……張郃が来た、だと? いかに名将といえど、血迷ったか」

​ 口火を切ったのは、前線指揮官の一人である将軍だった。彼は地図上の距離を指で弾き、鼻で笑った。
​「報告によれば、敵は一万の軽騎兵のみ。……常識で考えれば、街亭に着く頃には、兵馬ともに疲労困憊しておりましょう」

​ 彼は周囲を見渡し、同意を求めた。

​「左様。対する馬謖参軍は二万の精兵を率い、要害である南山に陣を構え、既に数日を経ております。その守りはもはや要塞の様相を呈しているはず。攻城兵器も持たず、疲れ切った騎兵が突っ込んできたところで、鉄壁の守りを崩せるとは思えませぬ。……むしろ、飛んで火に入る夏の虫ではありませんか?」

​ 彼らの言葉は、正論であった。
 騎兵の最大の利点は機動力であり、衝撃力だ。だが、それは平原での野戦において発揮されるものであり、山上に築かれた堅固な陣地を攻めるには最も不向きな兵科である。

 裸同然で駆けつけた騎兵など、堅陣の前では波に砕ける飛沫に過ぎない。
 そう信じたいという願望と、兵法書の常識が、幕舎の空気を支配しようとしていた。

​【宿老の疑念、能吏の計算】

​「……待たれよ」

​ その安易な空気に水を差したのは、呉懿将軍であった。
 先帝・劉備の義兄にあたり、数多の戦場を潜り抜けてきたこの宿老は、豊かな白髭を撫でながら、渋い顔で地図を睨んでいる。

​「確かに、兵法の理屈ではそうだ。だが、相手はあの張郃だぞ。黄巾の乱の昔から戦場に立ち続け、先帝や丞相と何度も干戈(かんか)を交えた古狸じゃ。……その張郃が、みすみす死にに来るような真似をするか? 何か、我々の読み落としている『裏』があるのではないか」

​ 呉懿の言葉は、戦場で培われた「勘」に基づいていた。理屈では説明できない胸騒ぎ。それが彼を慎重にさせている。

​「裏、とおっしゃいますと?」

​ 問い返したのは、参軍の楊儀である。
 彼は常に冷静で、感情を排した論理的な思考を好む。その細い指が、地図上の荊州から街亭までの街道をなぞった。

​「呉将軍の懸念ももっともですが、物理的な制約は絶対です。……荊州から街亭まで、およそ二千里。一日百里を越えて踏破するなど、馬の心臓が破裂します」

​ 楊儀は、まるで複雑な方程式を解くように、早口でまくし立てた。

​「考えられる可能性は一つ。……『替え馬』です。魏は国家の威信をかけ、沿道の駅站(えきたん)や都市に、あらかじめ膨大な数の軍馬を用意させていたのでしょう。乗り潰しては乗り換え、乗り潰しては乗り換え……そうして、馬の命を燃料にして速度を稼いだ」

​ 楊儀の推測に、幕僚たちがどよめいた。
 それは、兵站を無視した「狂気」の沙汰だが、魏という大国の国力ならば不可能ではない。

​「だとしてもです」
​ 楊儀は冷徹に続けた。

​「馬は替えられても、人の疲労は蓄積します。鞍の上で揺られ続けた兵士たちの体力は限界でしょう。やはり、戦力としては半減していると見るべきです」

​ 楊儀の分析は理知的であり、誰もが納得しかけた。
 だが、私はその結論に頷くことができなかった。
 兵站を司る者として、私の脳裏には常に最悪の図式が描かれているからだ。

​【沈黙の主座】

​ 議論が交わされる中、主座に座る諸葛亮孔明は、一言も発していなかった。
 彼は白羽扇を膝の上に置き、半眼を開いてじっと虚空を見つめている

 その沈黙は、単なる静止ではない。

 台風の目のような、恐ろしいほどの重圧を孕んだ静寂であった。

​ 彼は聞いているのだ。
 将軍たちの楽観も、呉懿の懸念も、楊儀の計算も。

 その全てを咀嚼し、彼自身の脳内で展開されている「盤面」と照らし合わせている。

 そして、その表情がピクリとも動かないことこそが、事態の深刻さを雄弁に物語っていた。もし楽観論が正しいなら、彼は微かに頷くはずだ。だが、彼は石像のように動かない。

​(丞相も、感じておられるのだ。……この戦いが、兵法の理屈を超えた領域に入ってしまったことを)

​ 私は意を決して、声を上げた。

​「諸将よ。その見立ては、相手が『常識の範疇』で動いている場合に限られる。だが、もし……これが国家の総力を挙げた『特例』であり、さらに彼らの精神が『常軌を逸した状態』にあったとしたら?」

​ 全員の視線が私に集まる。

 私は乾いた唇を舐め、恐るべき仮説を口にした。

​「楊儀の言う通り、馬は替えたであろう。食料も水も、沿道の城から無尽蔵に供給させたはずだ。……だが、それだけでは説明がつかん。人は疲れる。恐怖もする。それらをねじ伏せて進ませる強制力が働いているとしたら?」

​「もし、手持ちの糧すら持たず、極限まで荷を外して槍一本で突き進むとしたら? 彼らが皇帝からの厳命により『勝利しなければ死』という極限状態に置かれているとしたら? 
……国運を背負った決死の覚悟で、士気は極限まで高まっている恐れがある」

​ 廷内が静まり返る。
 死兵。それは、最も相手にしたくない敵だ。

​「今の張郃軍は、軍隊というより放たれた矢……止まることを知らぬ凶器となっている可能性を、否定できるか? 疲れているから弱い、などという常識は通用せんぞ」

​【飢えた狼の論理】

​ 私の提示した最悪の想定に、将たちの顔から血の気が引いていく。
 その重苦しい沈黙を破ったのは、低く、腹に響くような笑い声であった。

​「くくっ……。違いねえ。巨達の言う通りだ」

​ 幕舎の入り口近く、柱に背を預けていた巨漢が、ゆらりと体を起こした。

 魏延であった。

 彼は腕を組み、面白そうに、しかしその瞳には氷のような冷たい光を宿して目を細めている。

​「生きて帰ることを考えず、ただ敵を殺すことだけを目的にした死兵となれば、その程度の無茶は可能だ。……なに、我らの明日の出陣も、似たようなものではないか」

​ 魏延は明日、自らが率いる騎兵八千で敵中深くへ切り込む奇襲作戦を控えている。

 彼には分かるのだ。

 死地へ飛び込む前の、あのヒリヒリとするような感覚。理性が飛び、本能だけが研ぎ澄まされていく、あの独特の高揚感が。

 彼は張郃の狂気を、理屈ではなく肌で理解していた。同じ「人殺し」としての共感すら滲ませている。

​ だが、魏延の笑みはふと消え、鋭い獣の眼光が地図上の街亭を射抜いた。

​「だがな。奴らには、我らと決定的に違う点がある」

​ 魏延は声を潜めた。それは獲物を狙う猛獣の唸り声に似ていた。

​「俺たちは十日分の糧を持っていく。だが、長史の申すように輜重を捨てた手勢のみであれば、おそらく張郃は、明日の飯すら持っていないだろう。……街亭に堅陣があることすら想定せず、ただ『天水に蜀軍(エサ)がいる』とだけ聞かされて走ってきたはずだ」

​ 魏延が一歩、前へ出る。
 その威圧感に、楊儀がたじろぐ。

​「いいか、よく聞け。奴らが明日生き残るためには、街亭にある蜀軍の食料を奪うしかないのだ。……奴らは、戦いに来たのではない。『狩り』に来たのだ」

​ その言葉の重みに、再び廷内が凍りついた。
 戦いではない。狩り。

​「飢えた狼の群れが、肉を求めて柵に押し寄せるのと同じだ。柵が頑丈だろうが、山の上だろうが関係ねえ。食わなきゃ死ぬんだ。爪が剥がれても、牙が折れても、奴らは柵を食い破って中に入ってくるぞ」

​ 魏延は、私と、そして上座で沈黙を守る丞相・諸葛亮を見据えて問うた。

​「仮に張郃が、そのような飢えた死兵の群れで、なりふり構わず襲い掛かってきたとしたら……」

​ 魏延の脳裏には、馬謖の顔が浮かんでいるのだろう。
 才気煥発で、弁が立ち、兵法書を暗記している秀才。だが、その手で人を殺した経験の少ない、温室育ちの参謀。

​「綺麗事の兵法しか知らぬ馬謖に、その生存本能剥き出しの殺気が耐えられるのか? ……食われるぞ」

​ 魏延の不吉な予言は、幕舎の空気を重く、暗く塗りつぶした。
 堅陣という「城」に守られた馬謖と、飢餓という「死」に背中を押された張郃。

 その勝敗は、もはや兵法書の理屈では測れない、生物としての強さの領域にあることを、私たちは悟らざるを得なかった。
​ 諸葛亮が、わずかに羽扇を動かした。
 その瞳の奥に、悲痛な色が走ったのを、私は見逃さなかった。
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