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第一部 街亭の戦い
25話 黒旗の鬼神 舞う黒旗は美しき絶望を告げ 逃げ場なき牙は喉元に迫る
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【泥まみれの証言】
魏延の不吉な予言が、幕舎の空気を重く、そして冷たく塗りつぶしていた。
私は、震える膝を両手で抑え込みながら、床に伏せる伝令兵を見下ろした。
彼の全身は泥と乾いた血にまみれ、呼吸は荒く、瞳孔は極限の恐怖によって開ききっていた。彼は単に報告に来たのではない。地獄の淵を覗き込み、そこから這い戻ってきたのだ。
兵站を預かる長史として、感情に飲み込まれるわけにはいかない。
敵の規模、速度、そして何よりその「質」を、正確に解剖しなければならない。
「……待て」
私は努めて冷静な声を出し、兵の前に膝をついて視線を合わせた。
「馬謖参軍からの伝達事項は分かった。だが、それとは別に、おぬし自身の目で見たことを申してみよ。……他に、何か見ていないか?」
私の問いに、兵士はビクリと肩を震わせた。
「な、何、でございましょうか……」
「魏軍の旗だ。張郃のものだけであったか? 他に、別の将の旗印や、見たことのない旗はなかったか?」
私の脳裏には、いまだ解消されぬ疑問があった。
一万の騎兵。補給なしの強行軍。
張郃がいかに名将とはいえ、一将軍の独断で可能な作戦ではない。そこには、国家としての意志、あるいは「強制力」が働いているはずだ。
伝令兵は、恐怖の記憶を掘り起こすように視線を彷徨わせた。
「は、はい……。全軍、馬に乗っておりました。土煙の向こう、先頭には黄色の大旗……『張』と書かれたものが、猛然とはためいていました。あれは間違いなく、張郃将軍の旗です」
「それ以外は?」
「それ以外……いえ、他に……」
兵士は一瞬言い淀み、何かを思い出したように顔色をさらに蒼白にさせた。
「あ、ありました……。一際大きな、漆黒の旗が」
「黒……?」
「はい。旗の先端には、白い紐のようなものが無数に飾られ、風に踊っていました。文字はありません。黒一色です。何を意味するものか、私ごときにはわかりません……。」
「黒の大旗に、白き飾り紐(節)……!」
その報告を聞いた瞬間、私の脳裏に雷鳴のような衝撃が走り、心臓が早鐘を打った。
点と線が繋がる。
あり得ない速度。捨てられた輜重。そして、黒の大旗。
(やはり)
【獣の嗅覚】
廷内がざわめく中、重々しい足音が響いた。
魏延である。
彼は腕組みをしたまま、伝令兵の方へとのっそりと歩み寄った。その目つきは鋭く、獲物の血の匂いを嗅ぎつけた狼のようだ。
「おい、小僧」
魏延のドスの効いた声に、兵士が縮み上がる。
「敵の兵ども……どんな顔をしていた?」
「か、顔……ですか?」
「そうだ。遠目で表情は見えなくとも奴らの臭いは分かるだろう。飢えた顔か? 疲れた顔か? それとも、獲物を見つけて喜ぶ顔か?」
兵士はガチガチと歯を鳴らしながら答えた。
「め、目が……。誰も笑っていませんでした。喚声などなく。誰も、一言も発さず……馬に鞭を入れていました。……怖かったです。まるで、死人のようで」
魏延は「ふん」と鼻を鳴らし、私の方を向いてニヤリと笑った。だがその笑みに、いつもの陽気さはない。
「当たりだ、巨達。……俺の鼻が正しかったようだ」
魏延は自分の胸板をドンと叩いた。
「こいつらは『軍隊』じゃねえ。『飢えた死人』の群れだ」
「死人……だと?」
眉をひそめたのは、幕僚の一人、楊儀であった。
彼は常に潔癖で、魏延のような粗野な手合いを毛嫌いしているが、この時ばかりは魏延の言葉に耳を傾けていた。
「どういうことだ、魏延。言葉を飾らず分かるように言え。張郃といえば精鋭で名を馳せておろう」
「精鋭だからこそだ。……いいか、俺には分かる。戦場ってのはな、理屈じゃねえ匂いがあるんだ」
魏延は虚空を睨みつけた。
「俺たちが今、こうして『勝てる』と息巻いてる時の匂いは、乾いていて熱い。だが、今の話を聞く限り、奴らの匂いは違う。……鉄と、血と、脂汗の混じった、腐ったような匂いだ。後ろから刃物を突きつけられて、前へ走るしかねえ奴らの匂いだ」
魏延の言葉は、抽象的でありながら、恐ろしいほどの説得力を持っていた。
長年、死線をくぐり抜けてきた武人だけが持つ、野生の嗅覚。
それが、私の導き出した「推論」を、感覚的に裏付けていた。
「……文長の言う通りかもしれん」
私は乾いた唇を舐め、震える声で告げた。
「皆様、心して聞かれよ。……あの黒い旗は、恐らく魏帝より『特進』の位を授けられた証である」
【皇帝の命】
「特進、とな?」
重々しい声を発したのは、蜀軍の重鎮、呉懿将軍。
「確か、三公に次ぐ地位としての名誉職ではなかったか? 功ある老臣に、恩賞として与えられる飾り物じゃろうて。それを戦場で掲げるとは、どういう意味じゃ」
呉懿の疑問はもっともだ。平時において「特進」とは、単なる箔付けのための称号に過ぎない。
だが、今は非常時だ。
「平時ならば仰る通りです、呉懿将軍」
私は首を振った。
「だが、戦場において、皇帝から特別に『特進』の旗印を賜るということは、意味が全く異なる。……それは皇帝の代理として、通常の軍階級を超越して全権を振るう者して任命されている!」
幕舎にどよめきが走った。
それは皇帝の裁可が必要な格上の将軍であっても、張郃の判断で即座に斬首できる権限を与えたとでも言うのか。
「……なるほど。そういうことか」
吐き捨てるように言ったのは、楊儀であった。
彼の整った顔が、極度の不快感と嫌悪感で歪んでいる。
「おぞましい……。実に、おぞましいやり口だ」
楊儀は扇子を口元に当て、汚らわしいものを見る目で地図上の魏軍を睨んだ。
「張郃には全ての権限が与えられているのでしょう。沿道の都市から物資を強制徴発する権利も、逆らう者を即決で処刑する権利も。……そして同時に、彼自身もまた『進むこと』のみを命令されている」
楊儀の鋭い洞察が、事態の核心をえぐり出した。
「即ち『勝利には最大の報酬を。だが勝利以外の結果は求めていない。敗北、あるいは遅滞は、将軍であろうと兵卒であろうと、即座に一族郎党死罪』という、皇帝・曹叡からの宣告でもあるのであろう」
私は、魏軍の狂気じみた進軍速度の謎が完全に解けたと同時に、底知れぬ恐怖を感じた。
そうだ。彼らは補給線を捨てたのではない。「勝って敵の物資を奪うか、さもなくば死か」という、退路のない地獄へ自らを投じたのだ。
「補給を捨て、死兵となって進む魏兵か……」
楊儀の声が震えた。それは恐怖ではなく、生理的な嫌悪からくる震えだった。
「彼らを突き動かしているのは、勝利への渇望や高揚感などという人間的なものではない。後ろに下がれば『処刑』という、絶対的な恐怖で、兵を獣のように駆り立てているのです。……穢らわしい。それは軍略ではない。ただの狂気、野蛮人の所業!」
秩序と形式を重んじる楊儀にとって、許しがたい蛮行に映ったのだろう。
だが、その蛮行こそが、我々の想定を破壊した。
私は結論づける。
「敵軍の魏兵たちでさえ、その異様な威圧感を放つ黒い旗を見て、本能的に悟ったに違いあるまい。あそこには、通常の理屈や兵法が通じぬ『鬼神の旗』があると」
魏延が唸る。
「張郃軍は……槍に貫かれようが構わず進む。これは戦争ではない。飢えた獣だ」
張郃が、国家としての狂気を体現した「黒い旗」を掲げ、疾風のごとく迫っている。
街亭は、我々の想像を絶する地獄と化そうとしていた。
【静かなる扇】
幕舎内は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「馬謖に撤退を命じるべきだ!」「いや、魏延将軍を急行させよう!」「間に合うものか!」
焦燥と不安が、言葉となって飛び交う。
だが、その喧騒の中心にあって、ただ一人、深淵のような静寂を保っている人物がいた。
丞相、諸葛亮孔明である。
彼は玉座に座り、手にした白羽扇を胸元で止めたまま、微動だにしていなかった。
その瞳は、地図の一点を見つめているようでいて、何も見ていないようでもあった。あるいは、遥か彼方、街亭の空に浮かぶ暗雲を、その心眼で見通しているのか。
「……丞相」
私が恐る恐る声をかけると、孔明の視線がゆっくりと私に向けられた。
その瞳の奥には、悲哀とも、諦観とも、あるいは燃えるような決意ともつかぬ、複雑な光が揺らめいていた。
彼は何も語らなかった。
いつもなら、的確な指示を矢継ぎ早に飛ばすはずのその口は、真一文字に結ばれている。
羽扇を持つ指に、わずかに力が込められているのが見て取れた。扇の柄が、きしりと音を立てるほどに。
(……分かっておられるのだ)
私は悟った。
丞相ほどの知謀があれば、私の説明など聞かずとも、伝令の一言で全てを理解したはずだ。
魏帝の覚悟。張郃の殺意。
そして、それに相対する馬謖の未熟さ。
馬謖。
丞相諸葛亮は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
その視線は、再び地図上の街亭へと落とされる。
何かを言おうとして、やめたようにも見えた。あるいは、言葉を口にすれば現実になるかのようだった。
ただ一つ確かなことは、我々が描いた完璧な絵図面が、黒い旗を掲げた鬼神の暴力的な速度によって、今まさに無慈悲に引き裂かれようとしているという事実だけであった。
魏延の不吉な予言が、幕舎の空気を重く、そして冷たく塗りつぶしていた。
私は、震える膝を両手で抑え込みながら、床に伏せる伝令兵を見下ろした。
彼の全身は泥と乾いた血にまみれ、呼吸は荒く、瞳孔は極限の恐怖によって開ききっていた。彼は単に報告に来たのではない。地獄の淵を覗き込み、そこから這い戻ってきたのだ。
兵站を預かる長史として、感情に飲み込まれるわけにはいかない。
敵の規模、速度、そして何よりその「質」を、正確に解剖しなければならない。
「……待て」
私は努めて冷静な声を出し、兵の前に膝をついて視線を合わせた。
「馬謖参軍からの伝達事項は分かった。だが、それとは別に、おぬし自身の目で見たことを申してみよ。……他に、何か見ていないか?」
私の問いに、兵士はビクリと肩を震わせた。
「な、何、でございましょうか……」
「魏軍の旗だ。張郃のものだけであったか? 他に、別の将の旗印や、見たことのない旗はなかったか?」
私の脳裏には、いまだ解消されぬ疑問があった。
一万の騎兵。補給なしの強行軍。
張郃がいかに名将とはいえ、一将軍の独断で可能な作戦ではない。そこには、国家としての意志、あるいは「強制力」が働いているはずだ。
伝令兵は、恐怖の記憶を掘り起こすように視線を彷徨わせた。
「は、はい……。全軍、馬に乗っておりました。土煙の向こう、先頭には黄色の大旗……『張』と書かれたものが、猛然とはためいていました。あれは間違いなく、張郃将軍の旗です」
「それ以外は?」
「それ以外……いえ、他に……」
兵士は一瞬言い淀み、何かを思い出したように顔色をさらに蒼白にさせた。
「あ、ありました……。一際大きな、漆黒の旗が」
「黒……?」
「はい。旗の先端には、白い紐のようなものが無数に飾られ、風に踊っていました。文字はありません。黒一色です。何を意味するものか、私ごときにはわかりません……。」
「黒の大旗に、白き飾り紐(節)……!」
その報告を聞いた瞬間、私の脳裏に雷鳴のような衝撃が走り、心臓が早鐘を打った。
点と線が繋がる。
あり得ない速度。捨てられた輜重。そして、黒の大旗。
(やはり)
【獣の嗅覚】
廷内がざわめく中、重々しい足音が響いた。
魏延である。
彼は腕組みをしたまま、伝令兵の方へとのっそりと歩み寄った。その目つきは鋭く、獲物の血の匂いを嗅ぎつけた狼のようだ。
「おい、小僧」
魏延のドスの効いた声に、兵士が縮み上がる。
「敵の兵ども……どんな顔をしていた?」
「か、顔……ですか?」
「そうだ。遠目で表情は見えなくとも奴らの臭いは分かるだろう。飢えた顔か? 疲れた顔か? それとも、獲物を見つけて喜ぶ顔か?」
兵士はガチガチと歯を鳴らしながら答えた。
「め、目が……。誰も笑っていませんでした。喚声などなく。誰も、一言も発さず……馬に鞭を入れていました。……怖かったです。まるで、死人のようで」
魏延は「ふん」と鼻を鳴らし、私の方を向いてニヤリと笑った。だがその笑みに、いつもの陽気さはない。
「当たりだ、巨達。……俺の鼻が正しかったようだ」
魏延は自分の胸板をドンと叩いた。
「こいつらは『軍隊』じゃねえ。『飢えた死人』の群れだ」
「死人……だと?」
眉をひそめたのは、幕僚の一人、楊儀であった。
彼は常に潔癖で、魏延のような粗野な手合いを毛嫌いしているが、この時ばかりは魏延の言葉に耳を傾けていた。
「どういうことだ、魏延。言葉を飾らず分かるように言え。張郃といえば精鋭で名を馳せておろう」
「精鋭だからこそだ。……いいか、俺には分かる。戦場ってのはな、理屈じゃねえ匂いがあるんだ」
魏延は虚空を睨みつけた。
「俺たちが今、こうして『勝てる』と息巻いてる時の匂いは、乾いていて熱い。だが、今の話を聞く限り、奴らの匂いは違う。……鉄と、血と、脂汗の混じった、腐ったような匂いだ。後ろから刃物を突きつけられて、前へ走るしかねえ奴らの匂いだ」
魏延の言葉は、抽象的でありながら、恐ろしいほどの説得力を持っていた。
長年、死線をくぐり抜けてきた武人だけが持つ、野生の嗅覚。
それが、私の導き出した「推論」を、感覚的に裏付けていた。
「……文長の言う通りかもしれん」
私は乾いた唇を舐め、震える声で告げた。
「皆様、心して聞かれよ。……あの黒い旗は、恐らく魏帝より『特進』の位を授けられた証である」
【皇帝の命】
「特進、とな?」
重々しい声を発したのは、蜀軍の重鎮、呉懿将軍。
「確か、三公に次ぐ地位としての名誉職ではなかったか? 功ある老臣に、恩賞として与えられる飾り物じゃろうて。それを戦場で掲げるとは、どういう意味じゃ」
呉懿の疑問はもっともだ。平時において「特進」とは、単なる箔付けのための称号に過ぎない。
だが、今は非常時だ。
「平時ならば仰る通りです、呉懿将軍」
私は首を振った。
「だが、戦場において、皇帝から特別に『特進』の旗印を賜るということは、意味が全く異なる。……それは皇帝の代理として、通常の軍階級を超越して全権を振るう者して任命されている!」
幕舎にどよめきが走った。
それは皇帝の裁可が必要な格上の将軍であっても、張郃の判断で即座に斬首できる権限を与えたとでも言うのか。
「……なるほど。そういうことか」
吐き捨てるように言ったのは、楊儀であった。
彼の整った顔が、極度の不快感と嫌悪感で歪んでいる。
「おぞましい……。実に、おぞましいやり口だ」
楊儀は扇子を口元に当て、汚らわしいものを見る目で地図上の魏軍を睨んだ。
「張郃には全ての権限が与えられているのでしょう。沿道の都市から物資を強制徴発する権利も、逆らう者を即決で処刑する権利も。……そして同時に、彼自身もまた『進むこと』のみを命令されている」
楊儀の鋭い洞察が、事態の核心をえぐり出した。
「即ち『勝利には最大の報酬を。だが勝利以外の結果は求めていない。敗北、あるいは遅滞は、将軍であろうと兵卒であろうと、即座に一族郎党死罪』という、皇帝・曹叡からの宣告でもあるのであろう」
私は、魏軍の狂気じみた進軍速度の謎が完全に解けたと同時に、底知れぬ恐怖を感じた。
そうだ。彼らは補給線を捨てたのではない。「勝って敵の物資を奪うか、さもなくば死か」という、退路のない地獄へ自らを投じたのだ。
「補給を捨て、死兵となって進む魏兵か……」
楊儀の声が震えた。それは恐怖ではなく、生理的な嫌悪からくる震えだった。
「彼らを突き動かしているのは、勝利への渇望や高揚感などという人間的なものではない。後ろに下がれば『処刑』という、絶対的な恐怖で、兵を獣のように駆り立てているのです。……穢らわしい。それは軍略ではない。ただの狂気、野蛮人の所業!」
秩序と形式を重んじる楊儀にとって、許しがたい蛮行に映ったのだろう。
だが、その蛮行こそが、我々の想定を破壊した。
私は結論づける。
「敵軍の魏兵たちでさえ、その異様な威圧感を放つ黒い旗を見て、本能的に悟ったに違いあるまい。あそこには、通常の理屈や兵法が通じぬ『鬼神の旗』があると」
魏延が唸る。
「張郃軍は……槍に貫かれようが構わず進む。これは戦争ではない。飢えた獣だ」
張郃が、国家としての狂気を体現した「黒い旗」を掲げ、疾風のごとく迫っている。
街亭は、我々の想像を絶する地獄と化そうとしていた。
【静かなる扇】
幕舎内は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「馬謖に撤退を命じるべきだ!」「いや、魏延将軍を急行させよう!」「間に合うものか!」
焦燥と不安が、言葉となって飛び交う。
だが、その喧騒の中心にあって、ただ一人、深淵のような静寂を保っている人物がいた。
丞相、諸葛亮孔明である。
彼は玉座に座り、手にした白羽扇を胸元で止めたまま、微動だにしていなかった。
その瞳は、地図の一点を見つめているようでいて、何も見ていないようでもあった。あるいは、遥か彼方、街亭の空に浮かぶ暗雲を、その心眼で見通しているのか。
「……丞相」
私が恐る恐る声をかけると、孔明の視線がゆっくりと私に向けられた。
その瞳の奥には、悲哀とも、諦観とも、あるいは燃えるような決意ともつかぬ、複雑な光が揺らめいていた。
彼は何も語らなかった。
いつもなら、的確な指示を矢継ぎ早に飛ばすはずのその口は、真一文字に結ばれている。
羽扇を持つ指に、わずかに力が込められているのが見て取れた。扇の柄が、きしりと音を立てるほどに。
(……分かっておられるのだ)
私は悟った。
丞相ほどの知謀があれば、私の説明など聞かずとも、伝令の一言で全てを理解したはずだ。
魏帝の覚悟。張郃の殺意。
そして、それに相対する馬謖の未熟さ。
馬謖。
丞相諸葛亮は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
その視線は、再び地図上の街亭へと落とされる。
何かを言おうとして、やめたようにも見えた。あるいは、言葉を口にすれば現実になるかのようだった。
ただ一つ確かなことは、我々が描いた完璧な絵図面が、黒い旗を掲げた鬼神の暴力的な速度によって、今まさに無慈悲に引き裂かれようとしているという事実だけであった。
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