丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

26話 崩壊 儚き理(ことわり)は狂気に砕け 絶望の雨が街亭を濡らす

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【理への逃避】

​ 魏延の不吉な予言と、私が提示した「死兵」という最悪の想定は、幕舎の空気を重く、粘りつくような絶望で塗りつぶしていた。

 張郃の軍は、勝利以外に生き残る道のない、飢えた狼の群れ。
 その事実が突きつけられた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、幕舎は蜂の巣をつついたような騒乱に包まれた。

​「馬謖参軍に、その狂気が止められるのか!?」
「二万の精兵を擁しているとはいえ、相手は死に物狂いだぞ! 兵法もへったくれもない!」
「魏延将軍を出せ! 今すぐ救援に向かわせるのだ! 間に合わんぞ!」

​ 将軍たちが口々に叫ぶ。
 ある者は顔面を蒼白にし、ある者は地図を叩いて唾を飛ばす。誰もが、理屈を超えた「死兵」という存在の不気味さに、本能的な恐怖を抱き、戦慄していた。

​ 混乱が極みに達しようとしたその時、一人の古参将校が、震える声を張り上げてその流れを堰き止めようとした。

​「……お、落ち着かれよ、諸将!」

​ 彼は周囲を見回し、自分自身を落ち着かせるかのように早口でまくし立てた。

​「冷静になられよ! 相手が死兵であろうと、物理的な不利は覆せぬ! 街亭は山間の要衝、そこに陣取れば、いかな大軍といえど容易には抜けぬ!」

「そ、そうだ! 馬謖参軍は丞相の愛弟子、才気溢れるお方だ。敵が飢えていることなど百も承知であろう。……ならば、挑発に乗らず、堅く守ればよいだけのこと!」

​ その言葉は、溺れる者が掴んだ藁のように、恐慌(パニック)に陥りかけた将たちの理性を繋ぎ止めた。

​「左様……。そうだ、我らには地の利がある」
「街亭がある安定郡は、既に我らに呼応して反乱の火の手が上がっている。敵地での補給はままならぬはずだ」

「攻城兵器を持たず、食料もない軽騎兵一万で、要害に籠もる二万の大軍を抜くことは、兵法の理屈では不可能に近い。……一日だ。いや半日でも耐えれば、糧のない敵軍は自壊する!」

​ 彼らは必死に「常識」と「理屈」を口にし、自分たちの優位性を再確認し合っていた。そうでもしなければ、正体不明の恐怖に飲み込まれてしまいそうだったからだ。
​ 私もまた、心の中で必死に叫んでいた。祈るように。

 (あぁ、そうだ。とはいえ、一日耐えればよいのだ!)
 (糧のない張郃軍は、引くしかない。引けば皇帝の命により処刑されるとしても、餓死するよりはマシだ。引いてくれれば、こちらの勝ちだ)
 (そのための策ならば、馬謖であれば……あの聡明で、誰よりも兵法書を読み込んでいた幼常であれば、きっと……!)

​ 私は、馬謖の自信に満ちた顔を思い浮かべようとした。
 彼は優秀だ。誰よりも論理的だ。死兵の突撃? そんな無謀な突撃は、高所からの連弩と落石で粉砕すればよい。それが兵法の常識であり、正解だ。

​「……ふん」
​ その時、冷ややかな声が響いた。
 長史参軍・楊儀であった。
 彼は扇子で口元を覆い、汚らわしい害虫を見るような目で地図を睨んでいる。

​「所詮、鎧もない軽騎兵。……ひたすら高台から連弩を放てばよいのです」

​ 楊儀の声には、敵への恐怖ではなく、生理的な嫌悪感が滲んでいた。

​「味方の陣が一つ二つ越えられ、前線の将兵が討たれようとも、関係ありません。……そのような、人としての尊厳を捨て、獣に堕ちた死人ども、全て絶滅させればよろしいのです。馬謖参軍も、それくらいの非情さは持ち合わせているでしょう」

​ 楊儀の言葉は残酷だったが、同時に我々が縋りつきたい「正解」でもあった。

 情け容赦なく、機械的に処理すれば勝てる。
 そう、理屈では負ける要素はないのだ。
 張郃が死兵となろうとも、物理的な壁と数の有利、そして補給の差は覆せない。我々は、その「理」に縋り、不安を押し殺して次の報告を待った。

​【理の崩壊】

​ その「理」が、脆くも崩れ去ったのは、それから数刻の後のことであった。

​ ガタガタッ!!

​ 幕舎の外が再び騒がしくなり、制止する衛兵を振り切って、二人目の伝令兵が転がり込んできた。

 馬謖の直属の者ではない。その独特の髪型と装束は、副将についていた王平将軍が率いる無当飛軍(むとうひぐん)――氐族出身の兵であった。

​ 伝令の姿は、先ほどの者よりもさらに酷い有様だ。背には深々と矢が突き刺さり、片腕はだらりと垂れ下がっている。口端からは、血の混じった泡を吹いていた。

 彼は、我々の前までたどり着く力もなく、入り口付近で崩れ落ちた。

​「ほう、報告……ッ!」

​ その悲鳴に近い声が、我々の心臓を鷲掴みにした。
 近くにいた将校が駆け寄り、怒鳴るように問う。

​「どうした! 馬謖参軍は防ぎきったのか!? 敵は退いたか!」

​ だが、伝令兵は首を横に振った。その目からは、血の涙が流れていた。

​「馬謖参軍……馬謖軍、敗退!!」
「な……ッ!?」

​ 廷内がどよめく暇もなかった。伝令兵は、最後の力を振り絞り、目の当たりにした地獄を叫んだ。

​「馬謖参軍は山上の要害にて堅守迎撃の構えを取りましたが……張郃軍が止まりませんでした! 奴らは……奴らは人間ではありません!」

​ 伝令兵の瞳孔が開き、恐怖の記憶が再生される。

​「矢の雨をものともせず、騎兵の縦陣のまま、山を駆け上がってきました! 連弩で射殺された味方の屍を、後続の馬蹄が踏み砕き、肉塊に変え、積み上がる死体を坂道代わりにして、柵を乗り越えてきたのです!」

​ 想像を絶する光景に、私は息を呑んだ。
 死体を踏み越える? 味方の屍を、土嚢の代わりに?

​「馬鹿な……!」
「正気の沙汰ではない!」

​ 将軍たちが悲鳴を上げる。だが、報告は止まらない。

​「そのまま我が陣内へ突入! その餓鬼のごとき狂気に、兵たちは恐慌を来たしました! 誰も戦えません……。あれは軍隊ではありません、悪鬼の群れです! 全軍瓦解……! が、街亭は……落ちました!!」

​ ガシャッ!
 誰かが水差しを落とした音がした。だが、誰もそれを気に留めなかった。

​ その瞬間、私の頭の中で、積み上げてきた全ての「理」と「法」が、音を立てて崩落した。

 兵法も、地形も、数の有利も関係ない。

 ただ「生き残るために喰らう」という生物としての生存本能が、理屈で作られた陣形を、物理的に食い破ったのだ。

​「……言わんこっちゃない」

​ 魏延が、吐き捨てるように唸った。

 その言葉は、誰を責めるでもなく、ただ虚しく幕舎に響き渡った。

​【最後の盾】

​ 黒い旗の正体を知り、廷内が凍りついたその静寂を、伝令兵の肺から絞り出すような咳込みが破った。
 ゴボッ、と血を吐き出す。

 彼は床に崩れ落ちそうになりながらも、最後の気力を振り絞って顔を上げた。その瞳には、見てきたばかりの地獄が焼き付いているようだった。

​「……まだご報告……せねばなりませぬ……」

​ 私は駆け寄り、彼の泥まみれの肩を支えた。その体は、高熱を発しているように熱かった。

​「無理をするな。……だが、話せ。全滅なのか? 誰か、誰かその狂乱を止める者はいなかったのか!」

​ 伝令兵は、荒い息の下から、切れ切れに言葉を紡いだ。

​「馬謖参軍の軍が……恐慌を来たし、武器を捨てて雪崩を打って崩れ落ちる中……ただ一隊、我が王平将軍の部隊のみが、踏み止まりました」

​ 王平。

 あの岩のように寡黙で、文字も読めぬと一部の将校から侮られていた、実直な男の顔が脳裏に浮かぶ。

​「王平将軍は、敗走する兵に向かって太鼓を打ち鳴らし、狂ったように叱咤し……敵の猛攻を一身に引き受けました。私が伝に立つ時、街亭から二十里後退した地点で、再度の防衛線を構築し、辛うじて交戦中であります!」

「二十里……!」

​ 廷内からどよめきが起きた。
 全軍が総崩れとなる中、わずかな手勢で追撃を食い止め、しかも後退しながら陣を張り直すなど、並大抵の統率力ではない。

 彼は、馬謖がもたらした大穴を、自らの命を盾にして塞ごうとしているのだ。

​「王平が……あの王平がか!」
「あやつ、そこまでの将器であったか……」

​ 将軍たちが驚愕の声を漏らす。だが、それは同時に、総大将である馬謖への不信を浮き彫りにするものでもあった。

​【消えた旗】

​ 王平の奮戦に一縷の望みを見出したものの、私の胸を締め付ける最大の不安は消えていなかった。
 私は、震える唇を抑えながら、最も恐ろしい問いを口にした。

​「……それで、総大将は、馬謖参軍は、幼常はどうしたッ!」

​ 彼が生きて指揮を執っていれば、まだ軍を立て直すことは可能だ。
 王平と合流し、反撃の狼煙を上げているかもしれない。
 だが、伝令兵の目が泳いだ。

 彼は言いづらそうに顔を歪め、首を横に振った。

​「……わかりません」
「分からぬとはどういうことだ! 総大将ぞ! 王平と共にいるのではないのか!?」

​ 私の絶叫に、伝令兵は涙を流した。

​「……旗が見えませぬ」
「な……?」
「敵の騎兵が本陣を突き崩した際、…大…将の旗が、ありませぬ!」

 本陣が崩壊し、その主将の旗を見た者がいない。
 それは即ち、乱戦の中で討ち取られたか、あるいは……。

​ 私の視界が暗転した。
 泥にまみれ、無残な骸となって転がっている光景ならば、まだよい。悲しいが、それは武人の本懐だ。

 だが、もし彼が恐怖に駆られ、背を向けて逃げ出したのだとしたら……。

​(幼常……まさか、お前……)

​ 私は支えていた伝令兵と共に、その場に膝をついた。
 王平が命を燃やして「法」を守ろうとしているその時、総大将である馬謖の行方は知れず。

​ 上座の諸葛亮は、依然として一言も発していなかった。
 だが、その羽扇を持つ手が、わずかに震えているのを、私は見た気がした。
 絶望の雨が、我々の心に降り注いでいた。
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