丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

31話 撤退戦(趙雲)赤と黒の狼煙は非情を告げ 沈黙の忠義は漢の背を護る

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【鉄の龍、身をよじる】

建興六年、初夏。秦嶺(しんれい)山脈の峻険な谷間を、蜀漢の別働隊が東へと進んでいた。
先頭を行くのは、白髪混じりの髪を高く結い、揺るぎない威厳を纏った老将・趙雲子龍である。その傍らには、実直な面持ちの副将・鄧芝(とうし)が控え、常に周囲の地形に鋭い視線を走らせていた。

異変が起こったのは、陽が西の稜線にかかり、谷底に長い影が落ち始めた頃だった。
西の彼方、本陣のある街亭の方角から、二色の煙が天を衝いた。「赤」と「黒」。それらは風に煽られながらも、不吉な双龍のごとく絡み合い、雲間に消えてゆく。

「……な!……そう、であるか」

趙雲は手綱を引き、静かに呟いた。
赤は進撃、黒は死地。その相反する色が同時に上がることは、蜀軍にとって「作戦の全面破綻」と「即時撤退」を意味する非情の合図であった。
数日前、二本の青の煙、渭水東進の奇襲という作戦決行の狼煙が届いたばかりであった。……しかし。

「将軍、赤と黒です! 丞相よりの撤退信号に間違いございません!」
物見の兵が声を震わせる。軍内に動揺が広がりかけたその瞬間、趙雲の鋭い声が山峡を圧した。

そう。本軍に何が起こったというのか。 だが、今必要なのは「理由」の探求ではない。
「命令」の遂行だ。 この単純極まりない信号一つで、十万の命運を左右する決断を下さねばならない。それが、別働隊を任された将の孤独であり、丞相からの絶対的な信頼の証でもある。

事前に命令されていた時間は、「一ヶ月」。我々の部隊が魏軍の追撃の矛先を一身に受け止め、本陣の撤退を支える時を稼ぐこと。それこそが、我々に課された使命である。
あの「作戦の全面破綻」と「即時撤退」を伝える狼煙に込められた、悲痛な非情な想い。

(丞相。あなたが非情の法を徹底するならば、私は沈黙の忠義を徹底しましょう)

「慌てるな! 狼煙を確認した。これより我が軍は作戦『乙』――『鉄の反転』へと移行する。全軍、反転せよ!」

趙雲の迷いのない号令に、兵たちは弾かれたように動き出した。

通常の軍であれば、この幅二丈(約4メートル)にも満たない桟道で、万の兵と数百台の荷車を即座に逆転させるのは不可能に近い。
だが、彼らが携えているのは、行軍長史・向朗が心血を注いで開発した『木牛』と、規格統一された木箱『方寸』であった。

「匠兵(しょうへい)隊、作業開始! 楔(くさび)を抜けッ!」

鄧芝が陣頭に立ち、木槌を振るう。

兵たちは流馬の車体から特定の楔を引き抜き、枘(ほぞ)を外した。釘を一切使わず、精密な幾何学のみで組まれた木牛は、数瞬のうちに「車輪」「車軸」「枠組み」という部品へと分解される。
兵たちはその場でくるりと踵(きびす)を返し、南――漢中の方向を向くと、分解された部品を逆順に組み上げ直した。

カカン、カカン。

乾いた木槌の音が連鎖する。
北を向いていた荷車の列が、わずか一刻(いっとき)も経たぬうちに、すべて南を向いた完璧な輸送陣形へと再構築されたのである。

「向朗殿の『理(ことわり)』……真に恐るべきは、この瞬発力にありますな」

鄧芝が感嘆の声を漏らすと、趙雲は静かに頷いた。

「左様。今、退却は敗走ではない、高度な機動である。向朗殿がこの茶色の木箱に込めた執念、しかと我らが引き継がねばならぬ。鄧芝殿、これより我らは殿(しんがり)の任に就く。魏軍十万をこの桟道の迷宮に誘い込み、天水に向かった本軍が撤退できるまでの間、引きつけなければならない」

趙雲の沈黙の忠義が、撤退という名の戦いの中で静かに燃え上がった。

【第二章:紅蓮の幾何学】

撤退を開始して三日。背後には、魏の名将・曹真(そうしん)が放った追撃の精鋭が迫っていた。

趙雲は、自らの槍で道を塞ぐ前に、向朗が「悪戯」と称して授けた計略を解き放つことにした。

「鄧芝殿、仕掛けの場所だ。匠兵を急がせよ」

趙雲が指差したのは、桟道が絶壁の角を大きく回り込み、追撃側の視界が完全に遮られる難所であった。
鄧芝は即座に匠兵を率い、予備の『方寸』を積み上げ始めた。
茶色の木箱が、一分の隙間もなく桟道を封鎖する。

魏兵の先鋒が角を曲がった時、彼らの目に飛び込んできたのは、蜀軍が慌てて物資を捨て、急造の防壁を築いたかのような無機質な木箱の壁であった。
「蜀軍め、袋の鼠(ねずみ)となって慌てたか! 箱など蹴散らせ!」
魏兵たちが怒号を上げ、斧や槌を手に木箱の山に取り付いた。だが、彼らは気づいていない。積み上げられた『方寸』の裏側、魏兵からは死角となる面に、大量の枯れ草と油が仕込まれていることを。

「趙雲将軍、敵が壁に張り付きました」
鄧芝の報告に、趙雲は短く応じた。
「……放て」
合図と共に火矢が放たれる。火は枯れ草に燃え移り、『方寸』に引火した。

ゴォォォッという轟音と共に、木箱は巨大な火塊(ひだまり)と化し、狭い桟道を紅蓮の炎で埋め尽くした。
「熱っ! 近寄れん! 道そのものが燃えているぞ!」
魏兵の悲鳴が谷底まで響き渡る。断崖の道でこの規模の火に突き当たれば、逃げ場はない。

向朗の狙いは、単なる殺傷ではない。この「茶色の箱」が一度牙を剥けば不可侵の地獄に変わるという恐怖を、敵の脳髄に刻み込むことにあった。

「鄧芝殿、次の計略へ。敵が火を恐れている間に、さらなる『疑念』を植え付けるぞ」

趙雲と鄧芝は、立ち昇る黒煙を背に、静かに闇へと消えていった。

【第三章:虚実の迷宮】

火が収まった後も、魏軍の追撃は執拗であった。
だが、彼らの前にはまたしても「茶色の箱」が立ちはだかる。
今度は道の端に、整然と数箱、蓋が壊れた状態で置かれていた。中からは、黄金色の粟(あわ)がこぼれ出している。
「蜀軍の糧食だ! 奴ら、あまりの急ぎに食糧まで捨てていきおった!」

思いがけない糧秣の確保に、飢えと疲労に喘いでいた魏の追撃兵たちが、今宵はたらふく食えると我先にとその粟に群がった。

だが、趙雲と鄧芝は遠くの岩陰から、その惨状を予見して冷ややかに見守っていた。

「……向朗殿の『苦味』、そろそろ効く頃ですな」
鄧芝が呟く。

夕方、粟を口にした兵たちが一斉に顔を抑えて悶絶した。
向朗が仕込むように伝えていたのは、致死の毒などではない。もとよりいつ使うか分からない毒といった余剰品は、この行軍に持ち合わせていない。

向朗が仮に糧秣が奪われる際に混ぜるよう授けた策は、「傷薬」である。

いつもより多い食事を済ませた魏兵は、腹痛に悩まされることになる。

「腹が、腹が焼けるようだ!」

死ぬことはないが、一度口にすれば、その後はどんなに美味そうな食糧を見ても疑心暗鬼に囚われることになる。

翌日、魏軍がさらに進むと、今度は別の箱の蓋に、『傷薬・特級』という丁寧な張り紙がなされていた。

魏の将校たちが慎重に蓋を開ける。中に入っていたのは、付近で拾い集めた「ただの枯れ葉」の山であった。

「な……我らを愚弄しているのか!」

曹真の軍は、一箱ごとに足を止め、検分し、疑い、時間を浪費していった。


「よくぞまあ、これほど人を食った真似を思いつくものです」

鄧芝が呆れを通り越した感嘆を漏らす。
趙雲は、静かに答えた。

「鄧芝殿。規格が統一されているということは、中身が『虚(から)』であっても敵には『実(じつ)』に見えるということだ。向朗殿は、諸葛丞相の石兵八陣を木箱で再現するというのだろう」
魏軍の心は、数え切れないほどの「茶色の木箱」によって、完全にへし折られていた。


【箕谷の風、古人の残り火】

 極限の撤退が続くある夜。

 秦嶺山脈を吹き抜ける風は、剣の刃のように鋭く、兵たちの肌を刺す。曹真率いる魏の大軍を引きつける「囮(おとり)」としての重圧が、その寒さを一層際立たせていた。

 総大将・趙雲と、副将・鄧芝は、天幕の外で揺らめく篝火を囲み、暖をとっていた。爆ぜる薪の音だけが、沈黙を埋めている。

 火を見つめていた鄧芝が、ふと独り言のように漏らした。

「……趙雲将軍。あの、向朗長史のことですが」

「向朗殿が?どうかしたか」

「いえ。昔からあのような御仁なのですか? 先の夷陵の戦いでも、丞相が南中へ向かわれた時も、そして此度も、後方で兵站を一手に引き受けておられる。……事実、我軍は一度として糧道(りょうどう)が絶たれたことがない」

 鄧芝はそこで言葉を切り、自身の膝に置いた手を見つめた。

「その手腕は確かに見事です。丞相の古くからの友人と伺っておりますが、ですが……何と言うか、丞相のような神算鬼謀とも、古の蕭何(しょうか)のような能吏とも違う。ただの好々爺に見えて、時に子供のような無茶もする。……どうにも、捉えどころがないのです」

 趙雲は、干し肉を噛み切りながら、喉の奥で低く笑った。

 白髪交じりの髭が、炎に照らされて赤く染まる。かつて長坂坡を単騎で駆け抜けた虎威将軍も、今は穏やかな古木のような佇まいを見せている。

「あぁ。知らぬ者からすれば、その真価は見えにくかろうな。……鄧芝。貴殿が我らに合流したのは入蜀の後であったか」
「はっ」
「ならば、向朗殿を知るには、少し昔話をしてやらねばなるまい。……もう二十年近く前、あの『赤壁』の後のことだ」

 趙雲は目を細め、遠い記憶の糸を手繰り寄せた。

「赤壁で曹操が敗走した後、荊州は大混乱に陥った。主無き土地を巡り、曹操、孫権、そして我が君・劉備様が入り乱れる激戦の地となったのは知っておろう」

「はい。南郡の争奪戦ですね。三つ巴の激戦であったと伺っております」

「その頃、向朗殿はある小さな県の長をしていた。名を『臨沮(りんしょ)』という」

「臨沮……!。北の襄陽と、南の江陵のちょうど中間。まさに南北の軍勢が往来する、死地ではありませんか」
 鄧芝が息を呑む。激流の中の小舟のごとき立地だ。
「左様。我が軍は南から、曹操軍は北から、孫権も東から南郡で争う。その混乱の渦中だ。……そこへ、義陽郡の豪族であった魏延(ぎえん)殿が、私兵を引き連れて臨沮に逃げ込んできたそうだ」
「魏延将軍が、向朗殿の元へ?」
「うむ。魏延殿もまた、寄る辺なき流浪の身であった。……さて、鄧芝。ここで向朗殿はどうしたと思う? 劉備様に味方して、曹操軍の背後を襲ったと思うか?」
 鄧芝は考え込んだ。
「向朗殿は劉表様の旧臣で、劉備様とも懇意だったはず。ならば、魏延殿の武勇を得て、劉備軍に呼応したのでは?」
 趙雲は首を横に振った。
「否(いな)。……彼らは、徹底して『不戦』を貫いたのだ」
「不戦? ……天下を分かつ三勢力がぶつかり合うど真ん中で、そのような小県が中立を保つなど、狂気の沙汰です」

「私もそう思う。臨沮の手勢など、魏延殿の私兵を合わせても二百に満たぬ。地図の上の墨一滴にも等しい存在だ。だが、向朗殿はやってのけた」

 趙雲は、まるで昨日のことのように、その時の向朗の口上を真似てみせた。老いた声に、凛とした響きが宿る。

「軍勢が押し寄せ、臣従せよと迫る使者に、向朗殿は杖をついてこう言ったそうだ。『戦をするには税と糧が必要であろう? 我らの税と糧を納める先は、漢(みかど)である。……そなたは、天子の勅命を帯びておるのか?』」

「それは……」
 鄧芝は絶句した。暴力が支配する乱世において、あまりに正論、あまりに融通の利かぬ官僚的な理屈だ。屁理屈と言っていい。
 だが、下手に彼らに戦を仕掛けたならば、たちどころにその軍勢は逆賊の汚名を被ることとなる。

「『税の納め先が決まってから来い。我々は漢の民だ。盗賊に渡す糧はない』……とな。呆れたことに、曹操軍に対しても、孫権軍に対しても、同じことを言って追い返したらしい」
「しかし、力ずくで奪いに来れば……」
「無論、小競り合いはあった。だが、その全てを魏延殿が叩き伏せた。『理』を説く向朗殿と、『武』を振るう魏延殿。……水と油に見えるあのお二人は、この時から妙な呼吸で繋がっておったのだな」

 趙雲は懐かしそうに目を細めた。
 理屈で煙に巻き、暴力で押し返す。その奇妙な共闘関係は、混乱する荊州において異様な輝きを放ち始めたという。

「驚くべきは、その後だ。数ヶ月も経たぬうちに、向朗殿らの不戦に周囲の県が同調し始めた。……気がつけば、臨沮より西、益州との境にある秭帰(しき)、夷道(いどう)、巫(ふ)、夷陵(いりょう)の各県が、向朗殿らとともに行動を始めたのだ」
「な……!」
 鄧芝は戦慄した。
 地図を脳裏に描く。それは南郡の西半分、長江の上流域を完全に扼(やく)する配置だ。
「結果として、南郡は曹操、孫権、劉備、そして『向朗・魏延連合』という四つ巴の様相となった。……その数、万余」
「一万……! 数百の兵が、たった数ヶ月で群雄に並ぶ勢力に化けたのですか」

 趙雲は頷き、焚き火に薪をくべた。炎が爆ぜ、火の粉が舞い上がる。

「我らが荊南四郡を平らげ、意気揚々と軍を進めた時も、向朗殿は我らの前に立ちはだかった。『誰に税を納めればよいのか、詔(みことのり)はあるのか』とな。……劉備様ですら、苦笑いをして引き返されたことがある」

「そして、ようやく漢を継ぐと言われた劉備様、諸葛亮と二人は会談し、改めて我らの傘下となったのだ。」

 鄧芝は背筋に寒気が走るのを感じた。
 一見、愚直なほどの真面目さ、あるいは頑固さに見える。

 だが、それは小県が巨象たちの足元で生き残るために計算し尽くされた、老獪極まりない「生存戦略」ではないか。
 漢の官吏としての筋を通すことで大義名分を得て、魏延という牙で身を守り、周辺の弱小勢力を糾合して、無視できない「塊」となる。

 それは、まさに「兵站」の極意――己の地盤を固め、人材と物資を確保し、揺るぎない補給線を維持する思想そのものではないか。
 二人の抑えた南郡の西半分、長江の上流域は、その後の劉備軍の蜀入、夷陵の戦いで、最前線となり兵站を支えてきた。どこまでが向朗の策だったというのか。

「あの方はな、鄧芝。……戦はせぬが、戦わせぬための『場』を作るのが恐ろしく上手いのだ。兵站も同じよ。物が滞れば争いが起きる。だから向朗殿は、意地でも流れを作る」

 趙雲は立ち上がり、秦嶺の闇を見据えた。
 その先には、向朗が作り上げた「木牛流馬」という名の、巨大な輸送の仕掛けが動いているはずだ。

「捉えどころがない、と言ったな。……当然だ。向朗殿は誰の枠にも収まらん。ただ、その時々で『あるべき理』を形にしているだけなのだからな」

 鄧芝は、遠く漢中の方角を振り返った。
 杖をついた好々爺の笑顔が浮かぶ。だが、その笑顔の奥には、万の軍勢を退け、国一つを動かすほどの、底知れぬ胆力が潜んでいるのだ。

「……恐れ入りました。兵站の憂いは無用、ということですか」
「ああ。向朗殿がいる限り、我らの糧は必ず足りる。……我らは安心して、囮(おとり)としての死に場所を探せるというものよ」

 二人の将は笑い合い、夜明け前の冷気の中で、再び戦支度へと戻っていった。

【空箱の計】

 切り立った断崖に横穴を穿ち、太き木材を差し込んで板を敷いただけの桟道は、常に風が唸り、雲が足元を流れる異界である。

 ある日、撤退する蜀軍を追撃する魏軍の前に現れた。
 細き道の中央に、それは「一箱」だけ、不自然に置かれていたのだ。

 追撃を急ぐ魏軍の先鋒が、その箱を見つけた瞬間、波が引くように足を止めた。

 深い静寂が、桟道を支配する。

 聞こえるのは、谷底から吹き上げる風の音と、兵たちの荒い呼吸音のみ。

「……また、あの箱か」

 魏の将が、忌々しげに、そして怯えたように呟いた。
 これまでの数日間、彼らはこの「茶色の正方形」に、散々いたぶられてきた。ある箱は紅蓮の炎を吹き出し、ある箱は開けた者の目を焼く粉末を散らし、ある箱は腹を捩る毒を盛っていた。

 兵たちは盾を重ね合わせ、重厚な亀の甲羅のような陣を敷く。

 槍を突き出し、一歩進んでは止まり、伏せては様子を伺う。

 次は床から槍が飛び出すのか。あるいは、箱を開けた瞬間に桟道が爆破されるのか。

 たった一箱の存在が、数千の精鋭を、這いずる虫のような鈍重さへと変えていた。

 やがて、極限の慎重さをもって、数名がそろりと蓋に手をかけた。

 皆が唾を飲み、死を覚悟したその刹那。
 カコリ。
 乾いた音を立てて蓋が開いた。

 中から飛び出したのは、槍でも炎でも、毒煙でもなかった。

 ――空。

 底に溜まったわずかな埃が、秦嶺の風に舞っただけ。
 そこには、何一つ入っていない、空の箱。

「……何もないだと?」

 魏の将は、しばしの呆然の後、顔を真っ赤にして絶叫した。

「蜀の古狸めが! 我らを、我ら大魏の精鋭を、ただの空箱で数刻(三時間)も足止めしたというのか!」
 怒りに任せ、彼は木箱を蹴り飛ばした。
 空の『方寸』は、風を孕んでひらひらと舞い、まるで笑うように、深い谷底へと吸い込まれていった。

 その光景を、数里先の断崖の影から、蜀軍の殿(しんがり)を預かる趙雲と鄧芝が遠目に見ていた。

 趙雲は馬上で手綱を静かに握り、鄧芝はもはや呆れ果てたという顔で溜息をついた。

「……趙雲将軍。信じられますか。本当に空箱一つで、魏の進軍が数刻止まってしまいました。向朗長史の説明、そのままの光景です」

 鄧芝の言葉には、感嘆というよりは、あまりに人を食った知略への戸惑いが混じっている。
 蜀漢きっての堅実な武人である彼にとって、この「戦い」は、もはや己の知る戦の範疇を超えていた。

 趙雲は白髪混じりの髭を撫で、ふっと口元を綻ばせた。

「あの方……あの好々爺(こうこうや)なら、今の光景を見て、満足げにこう申すであろうな。『これぞ、空箱の計!』とな」

「ああ……言いかねませんな、長史なら」
 背後に控えていた古参兵たちからも、堪えきれぬといった風に忍び笑いが漏れた。

「次はどの箱に何を入れるか、長史の顔を思い浮かべるだけで、この撤退戦がいたずらの仕込みのように思えてきます」
「まったくだ。魏兵にとっては、道端の小石すら長史の罠に見えているだろう。今や『方寸』は、彼らにとって死を招く呪いの箱そのものだ」

 本来ならば、極限の緊張と疲労に包まれるはずの撤退戦である。
 だが、今の趙雲軍には、奇妙な活気が満ちていた。

 次は魏軍をどうやって担いでやるか。あの大軍が、ただの箱を前に右往左往する様をいかにして楽しむか。
 それは凄惨な殺し合いの中に見出した、あまりに不謹慎で、しかしそれゆえに強固な、士気の源泉となっていた。

 趙雲は、再び南――漢中へと続く道を見据えた。
「行くぞ。次の難所にも、巨達(向朗)殿の『贈り物』を置いておかねばならぬ」
 趙雲の白馬が嘶(いなな)き、茶色の鱗――『背甲(はいこう)』を纏った兵たちが、軽快な足取りでそれに続く。

 魏軍が次に目にする「方寸」には、果たして何が入っているのか。
 あるいは、またしても「空」なのか。
 その疑念という名の鎖が、魏軍の足を一里ごとに重くし、蜀漢の命脈を静かに、確実に守り抜いていた。

【撤退】

「連弩隊、配置につけ。「方寸」に火を放つ」

私は静かに命じた。大声で怒鳴る必要はない。

「射程に入っても、我が合図があるまでは決して発射するな。一人でも命令を破れば、破綻が待っている」

我々の任務は、魏軍を撃破することではない。こちらの存在を過大に見せかけ、敵に「攻める損得」を計算させることにある。我々の軍規が崩れ、無秩序な攻撃を始めれば、魏軍は即座にこちらの焦りを見抜き、本軍の追撃に移動するだろう。

兵士たちの間に張り詰めた沈黙が落ちる。 迫りくる魏の大軍を前にして、矢を番えたまま微動だにしないこと。それは、突撃して敵を斬るよりも遥かに強い胆力を要する。

狭隘な山道を利用し、我々は後退する。 追撃してくる魏軍が、最も進軍速度を緩めざるを得ない地点、すなわち隘路を選び、そこで初めて連弩を解き放つ。
そして忌まわしき木箱「方寸」の存在。

 蜀の連弩は、その威力もさることながら、一斉射撃による「音」と「密度」で敵の戦意を挫く。一度の交戦は短く、魏軍が態勢を立て直そうとする頃には、我々は既に煙のように消え、次の陣地へと後退している。

食事は乾飯を噛むのみ。睡眠は数刻。秦嶺の冷たい風が、疲弊した兵士たちの頬を容赦なく叩いた。 だが、誰一人として弱音を吐く者はいなかった。 それは精神論ではない。我々が守っているのが、ただの陣地ではなく、丞相・諸葛亮と、漢中へ向かう蜀漢の命脈そのものであることを、全員が理屈を超えて理解していたからだ。

桟道や橋を破壊する作業は過酷を極めた。 我々が通り過ぎた道を、自らの手で焦土に変えていく。それは、二度と戻れぬ決別を、一歩ごとに刻み込む行為であった。

一ヶ月。 それは、気が遠くなるような、神経を削り取る時間の連続だった。何度も魏軍の挑発に乗り、反撃に出たくなった。しかし、その度に私は冷静さを取り戻した。我が軍に与えられた命令は、勝利ではない。「時間」を稼ぐことのみ。

そして、秦嶺山脈の深き谷で、ついに本軍の撤退が完了したという次の狼煙を受け取ったとき、私は初めて、張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。

「任務完了。これより、予定の山道から漢中へ帰還する!」

私の号令に、疲弊しきった兵士たちが、歓声ではなく、深い、本当に深い安堵の溜息を漏らした。 我々は勝ちはしなかった。だが、法と規律の鎖によって、蜀漢という国を、確かに繋ぎ止めたのだ。
 
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