丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

32話 祝杯と絶望 泥の牛は痛快に敵を欺き 凍る宣告は友の情を断つ

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【木牛の舌、泥の牛】

​ 漢中、南鄭まで、あと数日の行程であった。
 秦嶺山脈の険しい桟道を抜ける冷たい風が、汗と脂にまみれた額を撫でていく。その風を感じるたびに、私の全身を覆っていた鉄板のような緊張は、乾いた砂となってサラサラと崩れ落ちていった。
​ 我々は、生き残ったのだ。

​ 馬上の揺れに身を任せながら、私、向朗は深く息を吐いた。
 振り返れば、長く伸びた隊列が、山裾を縫うように続いている。


 敗走。

 言葉にすれば、それは屈辱的な響きを持つ。だが、今の私の胸にあるのは、勝利にも似た静かなる達成感であった。

​「向朗長史。……見えますか、あの稜線を」

​ 私の側に馬を寄せ、話しかけてきたのは副官の姚伷であった。
 彼の顔は、連日の不眠不休と心労で土気色になり、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。だが、その瞳には、何か大きな仕事を成し遂げた職人のような、澄んだ光が宿っていた。

​「あれを越えれば、漢中の盆地です。我々の庭です」
「ああ。……長かったな」

​ 私は頷いた。喉の奥は乾ききっていたが、張り詰めていた心が弛緩していくのを感じる。

​ 街亭の崩壊から始まった、地獄のような撤退戦。

 名将・張郃が率いる魏軍は手負いの獣を狩るがごとき勢いで迫っていた。常識的に考えれば、蜀軍は恐慌に陥り、雪崩を打って崩壊するはずであった。

 だが、現実は違った。
 
 七万を超える軍勢と、天水、安定、南安の各郡から共に漢中に向かう十数万の民、そして膨大な輜重を、ほぼ無傷で帰還させようとしている。

​「奇跡です。……古今の戦史において、これほどの規模の撤退を、これほど鮮やかに成功させた例を知りません」

​ 姚伷が感嘆の声を漏らす。

​「これは、丞相の神算と、長史の兵站指揮の賜物です」
「よせ。私ではない」

​ 私は苦笑して首を振った。

​「これは、我々が仕掛けた『悪戯』の成果じゃよ。……敵と戦わずして、敵の時間を殺した。それだけのことだ」

​ そう。我々は剣を交えることなく、知恵と道具を使って、魏軍という巨象の足を止めたのだ。

 脳裏に、一ヶ月及ぶ「欺瞞の数々」が鮮明に蘇る。


【木牛の舌、泥の牛】

​ 最初の仕掛けは、輸送用の秘密兵器「木牛」であった。
 我々は撤退に際し、数台の木牛をわざと街道の真ん中に放置した。
 魏兵たちは、蜀軍が慌てて逃げ出した証拠だと喜び、戦利品として木牛に群がった。だが、彼らは知らなかったのだ。その木牛が、ただの荷車ではなく、精巧な機巧(からくり)仕掛けであることを。

​ ――動かぬ。おい、車輪が回らんぞ!
 ――壊れているのか? いや、さっきまでは動いていたはずだ!

​ 遠くから遠眼鏡で覗いた時、魏の工兵たちが顔を真っ赤にして木牛を押したり引いたりしている様は、実に滑稽であった。

 我々は、「木牛の舌」の機構を改造し、内部で歯車を固定させておいたのだ。解除の方法を知らぬ者が動かそうとすれば、それは数千斤の土塊と同じ不動の障害物となる。

 狭い山道で立ち往生した巨大な木牛は、後続の魏軍の行軍を物理的に阻害し、彼らはその解体と撤去に半日を費やしたという。

​ 次の仕掛けは、「泥の牛の火祭り」だ。

 ある月のない闇夜。
 我々は、天水から連れてきた数百頭の本物の牛を、木牛と同じ茶色の泥で塗りたくり、その角に松明を縛り付けた。そして、尾に火をつけ、魏軍の野営地に向けて一斉に放ったのだ。

​ ――敵襲! 木牛の大部隊だ!
 ――馬鹿な、あんな速度で動くはずが! いや、あれは改良型か!?

​ 闇の中、松明の明かりと共に突進してくる無数の「茶色の怪物」に、魏軍は恐慌を来した。彼らはそれが本物の牛だとは気づかず、何か恐ろしい新兵器による逆襲だと勘違いし、過剰なほどの防御陣を敷いて一晩中空騒ぎをした。

 翌朝、彼らが目にしたのは、のんびりと草を食むただの牛の群れであったときの脱力感はいかばかりであったろうか。

​ そして極めつけ。
 岐山の麓、桟道を越え、規格箱「方寸」を用いた、最初築いた陣。

 ここを抜かれるならば、全てが終わるという瀬戸際で、我々は最大の手品を披露した。

​ 我々は、中身を空にした数万個の方寸を積み上げ、桟道の入り口を囲うように巨大な城壁のごとき陣地を構築していた。
 高く積み上げられた箱の壁は、月光を浴びて不気味な威圧感を放っていた。
 だが、単に積んだだけではない。

 我々は、箱を置く地面の前面には、ところどころに落とし穴を掘っておいたのだ。
​ 斥候に出た魏兵が、箱を退かそうとして近づく。すると、ズボリと地面が抜け、悲鳴と共に姿を消す。
 別の兵が、恐る恐る隣の箱を動かす。何もない。
 さらに別の兵が動かす。また落ちる。

​ 「確率の罠」だ。
 全ての箱に罠があるわけではない。だが、どこに罠があるか分からない。この疑心暗鬼が、魏軍の足を止めた。

 「うかつに手を出すな! 孔明の罠だ! 何が仕掛けられているか分からぬ!」

 張郃や郭淮は、疑り深くそう深読みし、遠巻きに包囲して夜明けを待つという愚策を選んだ。
​ そして、夜が明け、朝霧が晴れた時――魏軍の目の前に広がっていたのは、「無」であった。
​ 巨大な城壁に見えたものは、忽然と消滅していた。

 実際には、夜陰に乗じて内側から順次搬出しており、最後に残った一皮だけの「壁」を、仕掛け紐一本で引き倒し、谷底へ落としただけのこと。

 だが、それを知らない魏兵たちにとっては、神隠しに等しい現象だったろう。

​ ――妖術だ! 孔明が城を消した!
 ――これ以上進めば、我々も消されるぞ! 

​ 恐怖は伝染し、物理的な損害以上の制動となって魏軍を縛り付けた。

 種を明かせば、私が長年かけて規格化し、計算し尽くした輸送方法の応用に過ぎぬ。だが、恐怖に囚われた敵には、それが魔法に見えたのだ。

​「……カカカ。あの時の張郃の顔、見てみたかったのう」
​ 馬上で思い出し笑いをすると、姚伷もつられて笑った。
​「まったくです。彼らは、我々の残した『抜け殻』と戦っていたのですから」

​ 痛快事であった。

 武力で劣る我々が、知恵と工夫だけで、天下の大軍を翻弄したのだ。この勝利の味は、何物にも代えがたい。

【帰路】

​ 休憩のため、高台に陣取った私は、眼下に広がる光景を見下ろした。

 そこには、延々と続く撤退の列があった。
​ 兵士だけではない。
 列の中には、多くの民衆の姿があった。
 天水、南安、安定の三郡から、蜀の徳を慕ってついてきた民たちである。

 家財道具を山のように積んだ荷車を押す男たち。幼子の手を引く母親、杖をつきながら、必死に歩を進める老人たち。

 撤退に際し、体力のない老人、病弱な者、幼子らは秦嶺を越えられず、連れて行くことはできない。途中で倒れれば、助ける手立てはない。と彼らに伝えていたが、それでも共に漢中に去ることを選ぶ者が多かった。

​ 本来、撤退戦において、足の遅い民衆は最大の「足手まとい」である。
 冷徹な軍略家であれば、彼らを切り捨て、囮にして逃げるだろう。魏軍ならば、迷わずそうしたに違いない。

 だが、我々はしなかった。

 彼らを守るために行軍速度を落とし、兵士たちは自分の食料を分け与え、荷車を押してやった。

​「……美しいな」

​ 私は、思わず呟いていた。
 泥と汗にまみれた、薄汚い行列だ。だが、私にはそれが、この世で最も尊いものに見えた。

​「勝つ軍は強い。だが、負けてなお崩れぬ軍こそが、真に強い軍だ」

​ 私の独白に、姚伷が深く頷く。

​「丞相の掲げる『王道』が、単なる綺麗事ではないことの証明です。民を見捨てぬ軍。だからこそ、民も我々を信じてついてくる」

​ この撤退戦は、敗北ではない。
 我々は土地を失ったかもしれないが、それ以上に価値のある「人の心」を得たのだ。

 その確信が、私の疲れた体に新たな活力を注ぎ込んでいた。

【遠き願い】

​ その時、隊列の最後尾の方から、激しい土煙が近づいてくるのが見えた。
 敵襲か?
 兵士たちに緊張が走る。だが、その土煙の先頭を駆ける影を見て、歓声が上がった。

​「魏延将軍だ! 殿(しんがり)部隊が戻ったぞ!」

​ 異様に巨大な馬上の影。
 赤ら顔に長い髭。鬼神のごとき形相。

 魏延文長である。

​ 彼は、最後まで敵を食い止め、味方が安全圏へ逃れる時間を稼ぎ続けていたのだ。

 その姿は、凄惨の一言であった。

 鎧は返り血と泥で元の色が分からぬほど汚れ、兜の飾りは吹き飛び、愛用の大刀には無数の刃こぼれがある。

 どれほどの激戦を、どれほどの修羅場を潜り抜けてきたのか。想像するだけで身がすくむ。
​ 魏延は、私の姿を認めると、馬を寄せてきた。

 そして、ニカっと笑った。

 血と泥にまみれた顔の中で、その白い歯だけが輝いていた。

​「おう。巨達の爺さん。また生き残ったか」

​ その軽口に、私は目頭が熱くなるのを感じた。
 無事だったか、文長。よくぞ、生きて戻ったな。

​「ああ。……また、お前さんに助けられたな」
​ 私は、心からの感謝を込めて言った。

​「お主が後ろを守ってくれなければ、この行軍は成らなかった。……礼を言うぞ」
「けっ。思ってもないことを」

​ 魏延は照れくさそうに鼻を鳴らし、乱暴に頭をかいた。

​「全部、お前の木箱の仕業じゃねぇか。俺はただ、ビビって足が止まった魏兵の尻を、少し蹴飛ばしてやっただけだ」

​ 魏延はそう悪態をつきながらも、その視線は私の背後に続く、延々たる撤退の列に向けられていた。
 民衆の列。
 安堵した顔で歩く親子。蜀兵に礼を言う老人。
 誰一人として、欠けてはいない。

​「……だが」

​ 魏延の瞳に、ふと熱いものが宿った。
 彼は、眩しそうに目を細めた。

​「民が、皆ここに居る。……誰も、墜ちていねぇ」

​ その言葉の響きに、私は胸を突かれた。
 彼の脳裏に、そして私の脳裏に、同じ光景が蘇っていたからだ。

​ 二十年前。荊州。
 曹操軍に追われ、民を引き連れて逃げたあの日。
 阿鼻叫喚の地獄絵図。泣き叫ぶ子供、家族を引き裂かれ、殺されていく民たち。我々は無力だった。

 あの時の無力感、守れなかった悔しさは、古参の将にとって消えることのない古傷として、心に刻まれている。

​ だが、今回は違う。

 我々は敗走している。だが、崩れてはいない。民一人、荷駄一つ見捨てることなく、全員を連れて帰ってきたのだ。

​「ああ。……誰も墜ちておらんよ、文長」

​ 私の言葉に、魏延は口元を歪めて笑った。

​「へッ。……悪くねえ気分だ。あの日の借りを、少しは返せたかな」

​ それは、武功を誇る笑顔ではなかった。
 守るべきものを守り抜いた男の、安堵と誇りに満ちた、少年のような笑顔だった。

​「違いない」
​ 私は頷いた。

 夕日が、秦嶺の山々を赤く染め上げている。
 その光の中で、並んで馬を進める老軍師と猛将。
 私たちは言葉を交わさずとも、互いの胸中にある熱いものを共有していた。

​ 負け戦ではある。だが、そこには確かな「誇り」と「希望」があった。
 この軍は強い。この国は強い。

 そう信じられるだけの証を、我々はこの撤退戦で掴み取ったのだ。

​ ――だが。
 その希望が、間もなく最も残酷な形で砕け散ることを、私たちはまだ知らなかった。
 運命の早馬が、砂塵を上げてこちらへ向かっていることを、まだ誰も気づいていなかった。

【堕ちた秀才】

​ 魏延との再会を喜び、互いの健闘を称え合った、その直後のことであった。
 西の空に残っていたわずかな朱色は、急速に広がる夜の群青に飲み込まれようとしていた。

 気温が下がる。先程まで心地よく感じていた風が、急に刃物のような冷たさを帯びて肌を刺した。

​ その時だ。
 隊列のさらに後方から、一騎の早馬が、狂ったような速度で砂埃を巻き上げながら突進してきた。
 伝令兵だ。だが、その様子は尋常ではなかった。
 彼は本陣の旗印を目がけて、馬を潰す勢いで鞭を入れている。その顔色は、夕闇の中でもはっきりと分かるほどに蒼白で、死人のようだった。

​「……なんだ、あの慌てようは」

​ 魏延が眉をひそめる。
 私もまた、胸の奥で警鐘が鳴り響くのを感じていた。
 撤退は成功したはずだ。追撃も振り切った。今さら、これほど慌てる理由は何だ? まさか、どこかの部隊が全滅したのか?

​「報告! 急ぎ丞相へ! 重大事案であります!」

​ 伝令兵は、私たちの前で馬から転げ落ちるように降りた。膝が震え、まともに立てていない。
 私は馬を降り、彼の肩を掴んで揺さぶった。

​「落ち着け! 何があった。魏軍の奇襲か? それとも趙雲殿の身に何かが?」

​ 私の問いかけに、伝令兵は激しく首を振った。
 そして、呼吸を整える間も惜しんで、震える唇から信じがたい言葉を吐き出した。

​「ま、馬謖参軍が……発見されました!」

​ 発見?

 その奇妙な言葉選びに、私は違和感を覚えた。戦死でも、帰還でもない。「発見」とはどういうことだ。

​「昨日……漢中への入り口付近にて、薄汚れた姿で、山中を逃走しているところを……我らの後詰め部隊の検問により、捕縛されました!」

「……捕縛、だと?」

​ 私の思考が停止した。
 捕縛。それは、敵に対して使う言葉だ。あるいは、罪人に対して。
 参軍である馬謖が、味方に「捕縛」された?

​「……間違いないのか」

「は、はい! 間違いなく、馬謖参軍ご本人です! 誰かあるか、縄を解けと喚いておられましたが、逃亡兵として拘束いたしました!」

​ 目の前が真っ暗になった。
 戦死でもなく、行方不明でもなく。
 あろうことか、一ヶ月もの間、敗残の兵をまとめることもせず、ただ己の身一つを守るために山中を逃げ回り、最後は味方の網にかかって捕らえられたというのか。

​ もし彼が、敗戦の責任を負い、自ら縛について丞相の前に現れたのであれば、まだ情状酌量の余地はあったかもしれない。

 あるいは、王平と共に最後まで戦い、戦場に散っていれば、悲劇の将として名を残せただろう。

​ だが、彼は自ら名乗りを上げた街亭から、真っ先に兵を捨てて逃げたのだ。
 軍律を破り、友を裏切り、そして最後には自らの罪からも目を背け、生に執着して逃げ回った末の、無様な捕縛。

 それは、武人としても、文官としても、いや、人の上に立つ者として、最も恥ずべき最期であった。
​「……終わりだ」
​ 私は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
 馬謖という男のあまりの弱さに、ただ立ち尽くすしかなかった。

​「……逃げた、だと? 戦わずに?」

​ 低く、地を這うような声が聞こえた。
 魏延である。
 彼は、伝令兵を睨みつけていたが、やがてその視線を外し、吐き捨てるように言った。

​「くだらねえ」

​ 侮蔑の言葉すら、彼には勿体ないといった様子だった。
 魏延は無言で手綱を引き、馬首を返した。
 さきほどまで、私と共有していた「民を守り抜いた誇り」。その温かな余韻は、馬謖の行為によって泥靴で踏みにじられ、汚されてしまった。
 魏延の背中は、失望と軽蔑で凍りついていた。

​【凍る報告】

​ 掌中の木簡が、千鈞の重みを持って腕にのしかかる。

 そこに記された事実はただ一つ。

​ 『馬謖、逃亡の末、味方の手にて捕縛』

​ その一文が、老いた私の指先から血の気を奪い去る。
 漢中に至る山道は、本来ならば生還の安堵に満ちているはずであった。だが今の私にとって、この道は処刑台へと続く階段に他ならなかった。

 一歩踏み出すたびに、胸の奥底から「行ってはならぬ」という悲鳴が込み上げてくる。
 私は今、自らの手で、亡き友の弟を「法」という名の断頭台へ送り届けようとしているのだ。

​ いかに才に溺れ、驕りから軍律を破ったとはいえ、馬謖は、あの馬良の弟なのだ。

​ 脳裏に、今は亡き親友の顔が、そして遠い荊州の夜が、鮮明に蘇る。
 若き日の孔明を囲み、天下の行く末、王道の在り方、そして何よりも「人の世の義」について語り明かした、二度と戻らぬ日々。
 あの頃、馬良は常に私と孔明の間を取り持ち、その類まれなる人格で我々を和ませてくれた。
 そして、その傍らにはいつも、兄の服の裾を掴み、瞳を輝かせている少年の姿があった。幼き日の馬謖である。

 彼は我々を実兄のように、あるいは師のように慕い、その双眸には漢室再興という大義への、一点の曇りもない希望が宿っていた。

​ 『向朗殿。諸葛亮殿。……この弟を、幼常(ようじょう)を、どうか導いてやってくだされ』

​ 劉備様に従い夷陵に向かった、馬良が遺した言葉が、呪いのように私の心を締め付ける。

 あの夜、共に笑い、共に夢見た親友の弟。その馬良がこの世に遺した愛弟が、今や軍律を犯した大罪人として、鎖に繋がれている。

​(孔明とて、同じはずだ。私と同じ痛みに身を裂かれているに違いない)

​ 私は己にそう言い聞かせた。
 諸葛亮は馬良を誰よりも深く信頼し、その弟である馬謖を、次代を担う才として、実の息子のように慈しんでいた。
 今の彼の胸中もまた、冷徹なる「法」と、断ち切れぬ「情」との間で、修羅の如き葛藤に苛まれていることだろう。

​ かつて先帝・劉備様より「馬謖は言葉が実質を上回る、重く用いてはならぬ」との忠告を受けた時、丞相はその警告を噛み締めつつも、なお馬謖の才を信じ、あえて私情を懸けて彼を登用した。
 その情が今、最大の過ちとして、彼自身が守るべき法の前に切っ先を向けている。

​ 私が真に恐れるのは、馬謖の死そのものではない。
 孔明が、その「情」を自らの手で殺し、「法」を執行した後に訪れるであろう、彼の魂の底なしの孤独だ。

 この報告を届けることは、親友である彼に「我が子を殺せ」と迫るに等しい。

​ いつしか私の背は、冷たい汗に濡れていた。 

 この簡を渡すことは、かつての荊州の夜の灯火を、私自身の指先で永遠に吹き消すことだ。だが、長史として軍の規律を背負う身、その重圧から逃れる道など残されていない。

​ 私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。肺腑に染み渡る冷気と共に、心の中で亡き友に詫びた。

​(馬良よ……許せ)

​ 覚悟を決め、私は鉛のようになった足を引きずり、諸葛亮の待つ本営の天幕へと歩み出した。

【宣告】

​ 諸葛亮の天幕は、外の喧騒が嘘のように、重く冷たい静寂に包まれていた。

 入り口の幕を上げると、冷え切った空気が肌を刺す。
​ 天幕の中央、揺らめく蝋燭の灯りの下で、丞相は机に向かっていた。
 しかし、その手にある筆は動いていない。硯の墨は乾きかけている。

 彼は、私の入室を、いや、私が運んできた絶望を、すでにその背中で感じ取っていたのだろう。

 私が口を開かずとも、この耐え難い沈黙と、引きずるような足音が、すべてを雄弁に物語っていたからだ。
​ 私は震えそうになる手を逆の手で強く押さえ、馬謖が捕縛された旨を記した報告の簡を、彼の机上に置いた。

​ カタン。

​ 乾いた音が、天幕の空気を裂いた。
 それはまるで、断頭台の刃が落ちる音のように、私の耳に響いた。

​ 孔明は、その簡に指一本触れようともせず、ゆっくりと顔を上げた。
 その瞳を見た瞬間、私は息を呑んだ。

 そこには、悲しみも、怒りも、驚きもなかった。
 ただ、底なしの「無」があった。
 あらゆる感情を深淵の底に沈め、氷の蓋をして封じ込めた、能面の瞳。かつて荊州の夜に語り合った「情」も、先帝から託された「義」も、今の彼の眼差しの中では、すべてが凍てついていた。凍てつかせるしかなかったのだ。

​「向朗長史」

​ 彼の声は、わずかな抑揚もなく、ただ機械のように響いた。

​「……事実は、間違いないか」

​ その問いに、私は身震いした。
 彼は「馬謖は無事か」とも、「何があった」とも聞かない。ただ、報告書にある事実の真偽のみを問うた。

​「は……相違ございませぬ」

​ 私の声は掠れ、胸の奥では、悔恨と憤怒が渦を巻いていた。
​「逃亡を図ること一月、漢中に入る手前にて、後陣の兵により捕縛されました。……本人は、罪を認めております」

​ 馬謖の愚かさへの怒り。そして、その愚かさが、情によって繋がれた友の弟を、法の刃の下に引きずり出したことへのやり場のない絶望。

 私は、何か弁護の言葉を探そうとした。だが、喉が張り付いて声が出ない。

​ 私は理解している。

 もしこれが、戦い抜いた末の「敗戦の罪」であれば、孔明は自らを降格し、馬謖に対しても厳重な処罰や降格で済ませる道があったかもしれない。

 だが、「逃亡」は違う。
​ 十万の将兵の命を預かりながら、自らの保身のために陣を捨てて逃げるという行為は、軍律における絶対的な背信であり、軍の統制を根底から覆す大罪だ。

 今回、命がけで撤退を成功させた将兵たちに対し、逃げた大将を生かしておけば、示しがつかない。国の規律が崩壊する。

 それは、他ならぬ諸葛亮自身が、この北伐に際して全軍に敷いた「信賞必罰」という鉄の掟である。

​ 私が言葉を失っている間、孔明は長い沈黙を続けた。
 その沈黙は、永遠のように感じられた。
 それは孔明の中で、人間としての「情」と、丞相としての「法」が殺し合う時間であった。

 机の下、彼の膝の上で、握りしめられた拳が震えているのを、私は見た。
 爪が掌に食い込み、血が滲んでいるかもしれない。
 彼は今、心の中で泣き叫ぶ自分自身を、必死に殺しているのだ。
​ やがて、その沈黙を破ったのは、私の心を粉々に砕く、短く低い響きだった。
 孔明は、机上の簡を冷たく見つめたまま、静かに、しかし断固として告げた。

​「……処刑せよ」

​ その言葉は氷のように冷たく、私の目から溢れ出そうになる涙を、一瞬にして凍らせた。
 拒絶も、慈悲も、許されない。
 ただ、法という名の刃が、振り下ろされただけであった。



----------あとがき----------
さて。次の話が、「泣いて馬謖を斬る」シーンとなります。
この物語の第一話序文で書いたシーンの再登場となりますが、劇的に印象を変えた話を作成しております。

何故諸葛亮は泣いたのか。
何故向朗は、免官となったのか。
なぜ、徐庶、龐統、馬良の友人と言われる向朗が、諸葛亮の友人とは言われないのか。

稚拙な文で、皆様に向朗、諸葛亮、馬謖の想いが伝わるか。

伝わってほしいですね。お楽しみください。
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