丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

33話 法と情 泣いて馬謖を斬る

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【絶望】

「……処刑せよ」

 その声は、あまりにも静かで、あまりにも短かった。
 天幕を支配していた沈黙が、その一言によって決定的な「死」へと凝固する。

 私は、自分の喉が引きつるのを自覚した。
 弁護の言葉、慈悲を乞う叫び、あるいは怒声。それらが喉元までせり上がってきたが、私は無理やり飲み込み、砂利を噛むような思いで一言だけを絞り出した。

「……御意」

 深く頭を垂れ、逃げるように踵を返した。
 背後には、再びあの重苦しい沈黙が、墓石のように鎮座していた。
 丞相・諸葛亮孔明は、私の退出を見送りもしない。ただ机に向かい、微動だにせず、自らの言葉がもたらした血の匂いに耐えているようだった。

 天幕を出る。

 外の世界は、皮肉なほど静謐な夜に包まれていた。
 漢中の山々から吹き下ろす夜気は肌を刺すように冷たい。だが、先ほど浴びせられた諸葛亮の言葉、あの骨髄まで凍らせる絶望の冷気には及ぶべくもない。

 馬謖は、敗戦、そして逃亡の罪で明日処刑されるだろう。
 私は天幕の支柱に手をつき、荒くなった呼吸を整えた。

 吐く息が白い。

 その白さが、これから消えゆく若者の命のように儚く見えた。

「……ふう」

 大きく息を吐き出し、夜空を見上げた。
 満天の星が輝いている。あの星の下で、馬謖は今、何を思っているのだろうか。縛められ、土牢の冷たさに震えながら、かつて夢見た栄光の残骸に埋もれているのか。

 脳裏に、かつての光景が蘇る。
 荊州の、暖かな夜。

 若き日の孔明がいた。私の親友であり、馬謖の兄である馬良がいた。そして、その傍らで目を輝かせ、「僕もいつか、兄上や孔明様のような軍師になります!」と無邪気に笑っていた少年の馬謖がいた。

 あの才気煥発な瞳。溢れる才を隠そうともせず、少し生意気で、けれど誰よりも漢室の復興を信じていた若者。
 それが、明日、首を刎ねられる。
 他ならぬ、彼が最も崇拝していた師の手によって。

【覚悟】

「処刑せよ」

 その一言が、頭の中で反響し続ける。
 私情を挟まず、功ある者も罰し、愛する者も斬る。

「泣いて馬謖を斬る」。後世、それは美談として語られるかもしれない。法家としての完成であり、一国の宰相として、あまりに正しい姿だ。規律こそが軍の命であり、それを曲げれば組織は腐敗する。

 頭では分かっている。私は長史だ。法の番人だ。
 だが、その「正しさ」が、私の背筋を氷柱のように貫いていた。

 寒気が止まらない。

 これは、本当に我々が目指した国の姿なのか。

(孔明よ、……お前は蜀漢を、氷の城にするつもりか)

 私は震える拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みだけが、今の私が生きている証だった。
 法がなければ、敗戦が続き、人材も資源も乏しい我が国は立ち行かない。法は、国の骨格だ。それは認めよう。

 しかし、骨格だけでは人は生きられない。

 そこに温かい血が流れ、肉が躍動してこそ、人は「情」に動き、「義」のために命を燃やすことができるのだ。

 思い出せ。
 先帝・劉備玄徳様がおられた頃を。

 あの御方は、決して完璧な君主ではなかった。戦には負け続け、判断を誤ることもあった。時には感情に任せて理屈に合わぬ行動をとることもあった。

 だが、我々はなぜ、あの人の下に集ったのだ。
 法が厳しいからか。報酬が高いからか。

 違う。

 あの人の発する熱、不器用なまでの人間味溢れる「情」に惹かれ、「この人のためなら死ねる」「この人と共に夢を見たい」と思ったからこそ、我々は自らの血肉を捧げようとしていたではないか。

 魏延を見ろ。あの荒くれ者が、なぜ二十年も荒野で耐え忍んだか。先帝への恩義と情愛があったからだ。
 趙雲を見ろ。老骨に鞭打ち、一軍を引き受けたか。この国に、守るべき愛おしさがあったからだ。

 だが、今の孔明はどうだ。

 あの街亭の敗戦以来、彼は自らの心を氷に閉ざし、蜀漢という国を、法だけで動く冷徹な器械に変えようとしているように見える。

 愛弟子である馬謖を、顔色一つ変えずに斬る。
 その姿を見た将兵たちはどう思うか。

「法を犯せば殺される」
「失敗は許されない」
「丞相は、血も涙もない」
 恐怖で統制は取れるだろう。軍律は守られるだろう。

 だが、そこからは「国のために死のう」という熱狂は生まれない。
 失敗を恐れ、保身に走り、ただ命令を待つだけの、冷たい骸の軍団が残るだけだ。

(それでは、魏には勝てない。……天下の心は掴めない)

 魏という巨大な敵に立ち向かうには、我々は「正しさ」以上の何かを持たねばならぬのだ。

 それは「熱」だ。

 理屈を超えた、狂おしいまでの情熱だ。

 それを失った蜀漢は、ただの小さな地方政権に成り下がり、やがて歴史の闇に消えていくだろう。

【覚悟】

 私は、自分の胸に手を当てた。
 老いた心臓が、早鐘を打っている。

 ……ああ、面倒くさい。

 できることなら、こんな厄介ごとは御免こうむりたい。さっさと仕事を終わらせて、書庫に籠もって古書を読み耽っていたい。政治の汚泥も、人の死生も、書物の中だけで十分だ。

 周りからは、志が足りない、何を考えているか分からぬ古狸だと思われていることも知っている。それでいいと思っていた。

 だが今、この胸の奥で燻っている残り火はなんだ。
 消そうとしても消えない、この苛立ちはなんだ。

 骨格が凍てつくならば、誰かがそこに熱き血を注がねばならない。
 法が絶対ならば、誰かがその法を犯してでも、人の情けを叫ばねばならない。

 誰もが孔明を恐れ、沈黙するならば、誰かがその沈黙を破らねばならない。

 それができるのは誰だ。

 これから出世を望む若手にはできない。法を遵守する楊儀のような堅物にもできない。
 共に荊州を知り、劉備様の熱を知り、そして孔明の苦悩も、馬家の悲劇も知る者。

 そして、いつ官職を追われても未練のない、老い先短い「志」のない私しかいないではないか。

「……やれやれ。損な役回りだな」

 私は自嘲気味に呟いた。

 だが、不思議と足取りは軽くなっていた。
 迷いは消えた。
 私は夜空を見上げた。
 荊州の星は遠い。だが、胸の奥には、まだあの夜の残り火が、馬良と語り合ったあの熱が、確かに残っている。

 友よ。

 お前は、国の頂点に立つ者として、非情にならざるを得ないのだろう。その苦しみは察するに余りある。お前が泣いて馬謖を斬るならば、その涙すらも凍らせて、完璧な宰相を演じきらねばならぬのだろう。

 ならば、私は。

「孔明よ、お前が法の鬼となって馬謖を斬るなら、私は情の愚者となって、彼を送ろう」

 私は、馬謖の処刑に反対し、丞相に逆らったと糾弾されるかもしれない。
 長史の職を解かれ、庶民に落とされるかもしれない。

 上等だ。

 だが、その前に。
 私は、馬謖という男が、ただの卑怯な逃亡者としてではなく、かつて我々が愛した「馬氏の五常」の末弟として、人間らしく逝けるよう、最後の手向けをしてやらねばならぬ。

 そして、軍の中に「情」の場所を残さねばならぬ。

「向朗という老いぼれが、情にほだされて馬鹿なことをした」。そう笑われることで、兵たちの心に「蜀にもまだ、人間味のある馬鹿がいる」という安堵を残せるならば、安いものだ。

 私は、天幕の入り口で足を止めた。
 夜風は相変わらず冷たい。
 だが、私の視線はすでに、ここではない「明日」の光景を見据えていた。

 明日の処刑場。
 そこは、法と情がぶつかり合う、最後の戦場となるだろう。
 私は、懐に入れた一冊の書物――馬良の形見である書簡を強く握りしめ、闇の中へと歩き出した。

 その背中は、もはやただの老骨のものではなかった。
 一人の覚悟を決めた、男の背中であった。


【愚者】

そして馬謖処刑の日が明けた。

翌朝、漢中本営の広場は、死の帳(とばり)が下りたかのように静まり返っていた。

数万の兵と民が、広場の中央に繋がれた人物を見つめている。かつて白羽扇を揺らせて才気を誇った馬謖の手首には荒縄が食い込み、着衣は泥と汗にまみれ、見る影もない。
しかし、その顔にはかつての驕りも、死を前にした激しい抵抗もなかった。あるのは、ただ自らの招いた運命を呆然と受け入れる虚無。

敗戦の報告と悲鳴が行き交った喧騒は、潮が引くように過ぎ去り、今はただ、重く冷たい沈黙だけがこの空間を支配している。
将兵たちの圧力、そして民たちの押し殺された呻き。 

「あの男の才など、紙切れに書かれた文字に過ぎなかった」 
「多くの友が、あの男の愚かさで死んだ」

無言の声が、広場に充満する。掴みかけていた勝利を逃した、才に溺れた若き将への怨嗟。静寂で凍りつく法廷であった。

その沈黙を切り裂くように、私は声を張り上げた。

「お待ちくだされ、丞相! 幼常の才は、一度の失敗で捨て去るには、あまりに惜しすぎます! 彼には、必ずやこの罪を償い、国家に尽くす道があろう! この蜀漢には、彼の才が必要なのです!」

私はその厳粛な場で、長史という重職も、老いの分別もかなぐり捨て、馬謖の助命をなりふり構わず叫んだ。

丞相の足元に縋(すが)りつき、涙を流し、理屈の通らぬ情を喚き散らす老いぼれとなるのだ。 誰もが眉をひそめるだろう。私の失態を嘲笑うかもしれない。

だが、それでいい。

すべてが凍りついた、この敗戦の空気の中で、誰かが理屈を超えた「熱」を見せねばならぬ。法という氷の刃が振り下ろされる前に、人間としての見苦しいほどの「情」が爆発したという事実こそが、将兵たちの凍てついた心の底に届くのだ。

「裁きの場であるぞ。控えよ向朗長史!」
楊儀が金切り声を挙げる。それを諸葛亮は羽扇をかざし制す。

「ならぬ。……馬謖。汝は軍律を破り、街亭を失い、全軍を危機に陥れた。そしてその敗戦の責を全うせず、逃げ出したのだ。その罪、死罪を免れぬ」
私の絶叫に対し、上段の諸葛亮の声が響く。 

それは、いかなる感情の混入も許さない、乾ききった音。

「丞相! それでも、彼が必要であろう! 一度の失敗に、これまでの功績を無にしてはならない!」

楊儀が睨みつけるが、私は引き下がれない。引き下がってはならぬのだ。私の叫びは、法を司る場において許されざる私情の暴発であった。だが、この瞬間、私は長史ではなく、ただ一人の友として、眼の前の友の心に巣食う「冷徹な孤独」に抗わなくてはならない。

「軍律は、誰もが法の前に平等でなければならぬ。もし今、ここで馬謖を許せば、他の将兵はどうなる。街亭で、彼の命令に従い命を落とした数千の兵たち、そして撤退戦で散っていった彼らの命の重さを、そなたは私情で軽んじるのか」諸葛亮が応じる。

「しかし……法の前に、法の前ならばこそ、情が必要であろう!!」

私は床に頭を擦り付け、言葉にはならない叫びをあげ、頬を熱い涙が伝い、土を濡らす。
友が、蜀を支える冷厳な「骨」であり続けるのであれば、私はあえて身を焦がして、この国を、そして友を、温める「血」となろう。

「法は、国家の骨格である。いかなる者も、丞相たる私も、この法の上に立つことは許されない。才ある者を許せば、明日、凡庸な兵士が『なぜ馬謖は許され、我々は罰されるのか』と疑いを持つだろう。その瞬間、軍律は崩壊し、故・先帝より託された大業は潰えるのだ」
諸葛亮それでも丞相として情を排除し、国家という絶対的な法の執行を宣言する。 数万の兵が、民が沈黙する。その冷酷な宣言に。

(届かぬか……。いや!)
「何が大業だ!孔明!お前は玄徳様のあの大きな手を忘れたのか!」

叫ぶ。

――それは、陽だまりのような記憶だった。
かつて、どれほどの敗戦を重ねても、どれほど泥にまみれても、劉備玄徳という男は常に笑っていた。 

荊州で敗れ、夷陵で敗れ、多くの若者を失い、絶望の淵に立たされた時でさえ、彼は残った者たちの肩を抱いた。
その手は、ゴツゴツとして分厚く、そして火傷しそうなほどに温かかった。

『生きておれば、道はある』 『わしにはお前たちがいる。それだけで、また天下を夢見ることができる』
その大きな手が、震える部下の背を叩くたび、冷え切った心に血が通い、萎縮した魂に再び火が灯った。 
理屈でも、法でもない。ただ「この人と共にありたい」と思わせる、太陽のような情熱。
失敗を許し、その悔しさを次の力へと変えさせる、底なしの包容力。 それが、我々の愛した蜀漢(くに)ではなかったか。

「あの御方は、人が人を想う情こそが、世を照らす光だと信じておられた! だからこそ我らは、あの大きな手に惹かれ、命を預けたのだ!」

向朗は血を吐くように叫ぶ。
「それがどうだ、孔明! 今のお前の手は、氷のように冷たい! その手で幼常を斬り、法を守ったとして、その先に玄徳様が夢見た『人の国』はあるのか! 誰もが法に怯え、息を殺して生きる国が、我らの目指した漢室の復興なのかッ!」

向朗の叫びは、並み居る将兵の胸を突き刺した。
彼らの瞼の裏にも、あの温かい笑顔が浮かんでいた。敗走の最中、自分の愛馬から降り、泥まみれとなったなけなしの糧を牽かせ、自らも徒歩で泥道を歩いた主君の姿。薄い煮汁を雑兵とも分け合い、「次は勝とう」と豪快に笑ったあの声。

処刑場を支配していた冷たい空気の中に、かつての熱い風が吹き込んだようだった。 諸葛亮の羽扇を持つ手が、白くなるほど強く握りしめられ、羽扇が震えていた。

「……ならぬ。ならぬのだ、向兄」

その声は、私の怒りを押し留めるような威厳あるものではなかった。
 喉の奥から絞り出すような、嗚咽へと変わっていた。

「情に流され、理を失えば……国はまた道を誤る。あの夷陵のように……!」

諸葛亮は羽扇を強く胸に押し当てた。まるで、そこに空いた巨大な穴を塞ごうとするかのように。
その瞬間、広場に集まる全ての人々が見た。天才軍師と呼ばれる男の瞳の奥で渦巻く、暗く、果てしない悔恨の炎を。

​「あの時……なぜ私は成都に……私は、私なれば……!!!」

彼はうわごとのように漏らした。
 その言葉を聞いた瞬間、皆、彼の苦しみの正体を悟り、息を呑んだ。
 彼自身の脳裏には、今も焼き付いて離れない光景があるのだ。

 彼は誰より後悔していた。

情熱の太陽であった劉備が、情ゆえに軍を興し、夷陵の炎の中に消えていった日を。
最も敬愛する主君が火の海で孤立し、陸遜の猛火に焼かれていたその瞬間、自分は成都に留め置かれ、安全な執務室にいたという事実。主君が泥水をすすり、兵たちが焼死していく中、自分は涼しい顔で筆を走らせていたという、軍師としての致命的な罪。

(あの日、私が傍にいれば……!)

​ 彼の悲痛な表情が、そう叫んでいるように見えた。
 幾千の夜、夢の中で繰り返し叫んだであろう悔恨が、治りきらない古傷のように彼を苛んでいる。

 戦場の地図なら頭に入っている。敵の配置も、風向きも、すべて分かっていたはずだ。

自分が傍にいれば、あの布陣は止められた。
軍配を振るっていれば、陸遜ごときの火計など逆に利用し、呉軍を長江の藻屑にできたはずなのだ。
 何度、脳内の盤面で勝利したことか。
 何度、夢の中で劉備様を救い出し、共に凱歌をあげたことか。
 だが、現実の彼はそこにいなかった。
 陛下の「情」を止められず、自分の「理」は遠く離れた場所にあり、結果として蜀漢は翼を失った。

​ 私が殺したのだ。
 私の不在が、あの方を殺したのだ――。
​ 孔明は、そう自らを責め続けていたのか。
 だからこそ、彼は二度目の過ちを許さない。情で国が傾くことを、死んでも許容できないのだ。

「私が……私だけは、鬼にならねば……!!」

​ 諸葛亮は、血が滲むほど強く唇を噛み締めた。

​「玄徳様は、最期にこの国を、この孔明に託された。情で滅びかけたこの国を、生き延びさせよと遺言されたのだ。ならば、私は心を殺してでも『理』の柱となろう。愛弟子だろうと、我が身だろうと、国の害となるならば斬り捨てる。そうでなければ……!」

​ 彼は天を仰いだ。
 張り詰めていた糸が切れ、堰を切った涙が蒼白な頬を伝い落ちる。

​「そうでなければ、私は……あの方に……………………玄徳様。……なぜ、あの時……」

沈む。崩れ落ちる。

その響きは、神の名に縋る敬虔な祈りのようでもあり、夕闇の中で迷子になった子供の泣き声のようでもあった。
 天下の奇才と謳われ、冷徹な仮面を被り続けた丞相・諸葛孔明。
 その仮面の下にあったのは、あまりに人間臭く、あまりに脆い、喪失を抱えた一人の男の姿であった。

その一瞬の崩壊に、数万の将兵は言葉を失い、ただ涙に沈む丞相の姿を、瞬きすら忘れて見守るしかなかった。氷のように冷たい言葉を発する彼の目から、一筋の涙が静かに流れているのを。止めることが出来ない情熱の流れを。

【泣いて馬謖を斬る孔明】

その時。

「……もう、良いのです。向兄」

静かな、本当に静かな声が、広場に響いた。

縄に縛られ、地面に跪かされていた馬謖が、私を見ていた。
呆然としていた表情は消え、その瞳には、恐怖も、未練も、驕りもなかった。あるのは、濁りきった泥水を濾過した後に残る、澄み切った一滴のような、静謐な光だけだった。

「幼常……」

馬謖は、私に向かって、静かに首を横に振った。
その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。それは死を嘆く涙ではない。自らの過ちを悔い、そして自らの運命を従容として受け入れた者だけが流せる、浄化の涙であった。

「向兄。あなたの情け、身に染みます。……ですが、……これ以上、丞相を苦しめないでください」

彼は、私を「長史」ではなく、かつて荊州の廬(いおり)で共に先ゆく未来を語り合った頃のように「向兄」と呼んだ。その懐かしい響きが、永遠の別れの合図であることを悟り、私は言葉を呑み込む。 

そして、馬謖は向き直り、遥か上段に座す諸葛亮を見上げた。

 「丞相」 

その声は、広場を埋め尽くす万の兵の隅々にまで届くほど、凛と澄み渡っていた。 

「この幼常の不明、軍律を冒涜せし大罪。……もはや、慈悲は願いません。法に従い、我が首を刎ねていただきとうございます」 

諸葛亮の羽扇を持つ手が、微かに、微かに震えていた。それは羽扇が滑り落ちそうになるのを、必死に指の力だけで理性で繋ぎ止めているかのような、痛々しい痙攣であった。 

馬謖は、涙を流しながらも、子供のような無垢な笑みを浮かべた。

「ただ……最期に。父を早くに亡くし、兄・馬良をも失った私にとって、丞相は……厳しき師であり、慈深き父であり、そして誰よりも慕う兄でありました。 ……これまでの多大なる温情、そして私ごときに夢を託してくださったこと……心より、感謝いたします」

馬謖は深く、深く頭を垂れた。地面に額を擦り付け、慟哭を噛み殺すその背中は、あまりに小さく、脆かった。

永遠とも思える沈黙が落ちた。風さえも息を潜めた静寂の中、諸葛亮の唇が動いた。 

「………………ああ」

それは、肯定の言葉でもなく、悲嘆の声でもなかった。 言葉になる前の、魂の底から漏れ出した、たった一音の「情」の残響であった。 

諸葛亮は立ち上がろうとして、よろめき、椅子に手をついた。震える手が虚空を掴もうとする。

その距離は遠い。物理的には、断罪する者と断罪される者、天と地ほどに離れている。

だが、その場にいた誰もが――私だけでなく、姚伷が、楊顒が、魏延も、王平も、そして広場を埋め尽くす兵士、民たちでさえも――確かに感じたのだ。

丞相の涙が、言葉が、まるで目に見えない腕となって階段を駆け下り、泣き崩れる馬謖の震える肩を、力強く抱きしめたことを。

師が弟子の肩を抱き、弟子が師の胸で泣く。 法によって引き裂かれようとしている二つの魂が、最後の瞬間に、法を超えた「情」によって一つに結ばれていた。

「…………処刑せよ」

その声は、涙で濡れていた。

もはや誰も、何も言わなかった。馬謖は一礼し、衛兵に促されることなく歩き出した。

彼は一度も振り返らなかった。振り返れば、師の決意が鈍ることを知っていたからだ。その背中は、蜀漢の誰よりも気高く、そして痛々しいほどに孤独だった。

残された者たちは、ただその場に泣き崩れた。 漢中の空に響くのは、風の音ではない。それは、法という冷徹な刃が、師弟の絆を永遠に断ち切った瞬間の、万の兵の慟哭であった。


----------あとがき----------
「孔明よ、お前が法の鬼となって馬謖を斬るなら、私は情の愚者となって、彼を送ろう」

諸葛亮、馬謖、そして向朗のそれぞれの想い。

私の拙い文章では、読んでいただけた方に伝わるかどうかわかりませんが、この物語の始まり最初に「序文」で書いた同じシーンとの違いを感じとっていただけたなら、感無量でございます。

伝わるといいなぁ。

三国志に、向朗に、興味が湧いた方、ブックマーク・コメントなどしていただけるととても励みになります。
あと一話エピローグで第一部完結となります。
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