婚約破棄されましたが、それよりシェフを呼んでください。

鏡おもち

文字の大きさ
1 / 28

1

しおりを挟む
「イザバラ・フォン・ベルシュマン! 貴様のような冷酷で食い意地の張った女との婚約など、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」

煌びやかなシャンデリアが輝く王宮の大夜会。
その中心で、王太子ジュリアン・ド・ラ・メールが声を張り上げた。

彼の隣には、守ってあげたくなるような儚げな表情を浮かべた男爵令嬢、カトリーヌが寄り添っている。

「……」

対する公爵令嬢イザバラは、微動だにしない。
ただ、その右手には銀のスープスプーンが握られていた。

彼女の視線はジュリアンではなく、目の前の器に注がれた黄金色のコンソメスープに釘付けである。

「聞いているのか、イザバラ! これまでの貴様の悪行、カトリーヌへの数々の嫌がらせ、私はすべて把握しているのだぞ!」

ジュリアンがさらに語気を強める。
周囲の貴族たちは、ついに「氷の美食令嬢」が年貢の納め時を迎えたかと、固唾を呑んで見守っていた。

「……ふぅ」

ようやく、イザバラの口から吐息が漏れた。
彼女はおもむろにスプーンを置き、ハンカチで優しく口元を拭うと、ようやく婚約者であった男に目を向けた。

「殿下、一つよろしいでしょうか?」

「ふん、命乞いか? あるいは見苦しい言い訳か? どちらにせよ私の心は変わらんぞ」

イザバラは静かに、しかし断固とした口調で告げた。

「このコンソメ……牛骨の焼きが甘いのではありませんか?」

「……は?」

ジュリアンの顔が、驚愕で引き攣った。
カトリーヌも、用意していたはずの「いじめられた令嬢の涙」を引っ込めて、目を丸くしている。

「ですから、このスープですわ。全体的な透明度は及第点ですが、鼻に抜ける香りにわずかな焦げの苦味ではなく、血抜きが不十分な雑味が混じっています。王宮の厨房ともあろう場所が、これでは困りますわね」

「貴様……今、私が何を言ったか分かっているのか! 婚約破棄だと言ったのだぞ! 公爵家への泥塗り、そして王家からの追放だ!」

「ええ、存じております。婚約破棄、結構ではありませんか」

あっさりと、イザバラは頷いた。

「この三年間、殿下との食事は苦痛以外の何物でもありませんでしたもの。私がフォアグラのテリーヌの温度管理について指摘するたび、殿下は『また食べ物の話か』と不機嫌になられましたわね」

「当たり前だ! 愛を語るべき場で、なぜソースの煮詰め具合を議論せねばならん!」

「愛などは胃袋を満たしませんわ。ですが、完璧なベアルネーズソースは心を満たしてくれます。価値観の相違ですわね、お互いに」

イザバラは、まるで今日の天気が少しばかり曇りだと言われた程度の反応しか見せない。
彼女にとって、王太子妃という地位よりも、今この瞬間のスープの不出来の方がよほど重大な問題なのだ。

「それに殿下、そちらのカトリーヌ様でしたかしら」

「ひっ……! い、いじめるおつもりですか!?」

カトリーヌが怯えたふりをしてジュリアンの背後に隠れる。

「安心なさって。いじめなどという非効率なことはいたしませんわ。ただ、アドバイスです。殿下はジビエ料理を召し上がる際、必ずクランベリーのソースをたっぷりとおかけになります。でもあれ、本当は肉の臭みを消すためではなく、単に殿下の味覚がお子様……いえ、甘いものをお好みだからですわ。お気をつけになって」

「き、貴様ぁ! 私を侮辱するか!」

「事実を申し上げたまでです。さあ、婚約破棄の件は承諾いたしました。書類は後ほど公爵家へお送りくださいませ。お父様には私から『食の好みが致命的に合いませんでした』と報告しておきますわ」

イザバラは優雅にカーテシーを決めた。

「おい、待て! まだ話は終わっていない! 追放だぞ! 貴様はこの夜会から今すぐ叩き出され、社交界の笑い者になるのだ!」

「叩き出される……。あら、それは困りましたわね」

イザバラが初めて困惑の表情を見せた。
ジュリアンは勝ち誇ったように口角を上げる。

「ふはは! ようやく事の重大さに気づいたか!」

「いえ……。メインディッシュの『仔羊のロースト・トリュフソース』をまだ頂いていないのです。これを楽しみに、お昼をサラダだけで済ませたというのに……」

会場に、失笑とも驚愕ともつかぬ妙な空気が流れた。
今まさに人生最大の危機を迎えているはずの令嬢が、メインディッシュの心配をしているのだ。

「狂っている……。この女、やはりどこかおかしい!」

「失礼な。私は至って正気ですわ。ですが、王家の方にそこまで言われて居座るほど、厚顔無恥ではございません。……ああ、無念。あのトリュフの香りを嗅がずに去らねばならないなんて」

イザバラは未練たっぷりに、会場の奥にある厨房の方を振り返った。
その目は、去りゆく恋人を追う悲劇のヒロインのそれではなく、獲物を逃した猟師の鋭さだった。

「では、失礼いたします。殿下、カトリーヌ様、どうぞお幸せに。……ああ、カトリーヌ様。そのドレス、少しお腹周りがきついのではありませんか? 王宮のタルトはバターが豊富ですから、お気をつけあそばせ。オホホホ!」

高笑いを残し、イザバラは颯爽と会場を後にした。
背後でジュリアンが「二度と顔を見せるな!」と叫んでいたが、彼女の耳にはもう届いていない。

「……さて」

王宮の門を出たところで、イザバラは夜空を見上げた。

「自由だわ。これでようやく、殿下の好みに合わせた『健康的で上品な(味の薄い)食事』から解放される。お父様には怒られるかしら? いいえ、あの人も筋金入りの美食家ですもの、このスープの出来を話せば分かってくださるはず」

彼女の胃袋が、グゥと小さく鳴った。

「そういえば、王宮の近くに、夜遅くまで開いている裏通りのビストロがあったはず。あそこのオニオングラタンスープは、確かじっくり三日間炒めた玉ねぎを使っているとか……」

婚約破棄。追放。悪役令嬢としての破滅。
そんな言葉は、今の彼女にとって「食後のデザートを何にするか」という悩みよりも軽い。

「行きましょう。新しい人生の幕開けは、最高の夜食と共に!」

イザバラはドレスの裾を少しだけ持ち上げ、足取りも軽く夜の街へと踏み出した。
彼女の冒険は、まだ一口目を味わい始めたばかりなのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~

あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。 「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?

彼女が高級娼婦と呼ばれる理由~元悪役令嬢の戦慄の日々~

プラネットプラント
恋愛
婚約者である王子の恋人をいじめたと婚約破棄され、実家から縁を切られたライラは娼館で暮らすことになる。だが、訪れる人々のせいでライラは怯えていた。 ※完結済。

王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!

ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」 卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。 なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。

『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ

夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」 華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!

婚約破棄された王太子妃候補は第一王子に気に入られたようです。

永野水貴
恋愛
侯爵令嬢エヴェリーナは未来の王太子妃として育てられたが、突然に婚約破棄された。 王太子は真に愛する女性と結婚したいというのだった。 その女性はエヴェリーナとは正反対で、エヴェリーナは影で貶められるようになる。 そんなある日、王太子の兄といわれる第一王子ジルベルトが現れる。 ジルベルトは王太子を上回る素質を持つと噂される人物で、なぜかエヴェリーナに興味を示し…? ※「小説家になろう」にも載せています

『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています

六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。 しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。 「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!

【完結】悪役令嬢は断罪後、物語の外で微笑む

あめとおと
恋愛
断罪され、国外追放となった悪役令嬢エレノア。 けれど彼女は、泣かなかった。 すべてを失ったはずのその瞬間、彼女を迎えに来たのは、 隣国最大商会の会頭であり、“共犯者”の青年だった。 これは、物語の舞台を降りた悪役令嬢が、 自由と恋、そして本当の幸せを手に入れるまでの、 ざまぁと甘さを少しだけ含んだショートショート。

王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない

エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい 最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。 でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。

処理中です...