琥珀色の救済 ~執着の庭で、壊れた私は優しさと影に溶けていく~

宮松 ふみ

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111.古い土の記憶

二度目の夜。五つが重なった瞬間に、体が戻った。

頭は「貞親さん」だとわかっていた。
それでも——体は、一年前に戻った。

---

梅が帰ってきたのは、翌日の昼前だった。

「ただいま戻りました」

玄関で靴を揃える梅の顔は、少し疲れているようにも見えたが、声は張りがあった。
澪が「おかえりなさい、梅さん」と迎えると、梅は澪の顔をちらりと見て、「よく眠れたみたいね」とだけ言った。

何もかもわかっている顔だった。

梅は台所に入り、冷蔵庫を確認した。
鍋は綺麗に洗われていた。食材は適切に使われていた。
流しは拭き上げられ、布巾は干されていた。

「……きちんとしてあるわね」
「頑張りました」
「偉い」

梅は澪の頭をぽんと撫でた。小さな手だった。
洗濯機の中のシーツを見て、何も言わなかった。

---

日常が戻った。

月曜日。澪は仕事に行った。
水曜の初プレゼンに向けて、帰宅後は書斎で九条院に練習相手をしてもらった。
九条院は容赦なかった。
「結論が遅い」「数字を三つ以上並べるな」「質問されたら二秒待て。即答は浅く見える」。

「鬼教官……」
「穏やかに言っています」
「これで穏やかなんですか」
「現役時代なら、まだ座らせていません」

水曜日。プレゼンは十分で終わった。
永瀬が最後に一つだけ質問した。澪は二秒待ってから答えた。
永瀬の眉がほんの一瞬上がった。——それが、合格の印だった。

帰りの電車で九条院にLINEを送った。

〈終わりました。二秒待ちました〉

三秒後。熊スタンプ。その下に一行。

〈よくできました。〉

澪はスマートフォンを胸に当てて、電車の中で笑った。

---

木曜日。梅が外泊の支度をしていた。

「姪の検診に付き添うので、今夜は泊まります」
「行ってらっしゃい、梅さん」

二度目の、梅のいない夜。

夕食は豚の生姜焼き。少しだけ焦げた。ちょうどいい具合に。
九条院の箸が止まらなかった。合格。

食後、書斎でお茶を飲みながらプレゼンの報告をした。
穏やかな夜だった。前回と同じ。梅がいない邸の、静かな空気。

「澪」
「はい」
「おいで」

九条院がお茶を置き、手を差し出した。

一言だった。
説明もなく、確認もなく。ただ——おいで。

澪はその手を取った。

---

寝室。布団に並んで横になった。

九条院の手が澪の髪に触れた。
耳の後ろから、うなじへ。ゆっくりと撫でる。

それから——枕元の黒い絹の布を手に取った。
前回からそこにある。畳まれて、枕元に。

「目を閉じて」

澪は目を閉じた。
絹が目の上に置かれ、後頭部で結ばれた。世界が暗くなった。

「前回の続きを、少し」

九条院の声が近くで言った。

「今夜は——後ろから」

体が動かされた。
横向きにされ、背中が九条院の胸に触れた。
後ろから抱かれる形。腕が澪の腹に回り、体が引き寄せられた。

背中に体温。腹に腕の重み。後頭部に呼吸。

「手首を——」

左の手首が、布団に押しつけられた。
強くはない。でも、動けない。

唇が澪の耳に近づいた。息がかかった。

「澪」

囁き。低く、近く。吐息が耳の中を撫でた。

「きれいですよ」

舌が——首筋に触れた。
耳の下から鎖骨に向かって。ゆっくりと。

——その瞬間。

澪の体が凍った。

---

暗闇の底が、抜けた。

寝室が消えた。九条院の体温が消えた。二月の夜の空気が消えた。
——代わりに、別の場所が来た。

蛍光灯。白い。

深夜のオフィスだった。
パソコンのモニターが青白く光っている。
デスクの上に散らばった書類。
プレゼン資料。
数字が並んでいる。
——数字が、合わない。
合わないのは自分のせいだ。
自分がミスをしたから。
自分が無能だから。

『澪。今日のプレゼン、見たよ。ひどかったね』

曽根の声だった。

優しい声。心配そうな顔。
眉を下げて、少し首を傾けて。
——その表情を見ると、体の力が抜けた。

この人が言うなら、本当にひどかったのだろう。
自分は駄目な人間だ。
この人がいなければ、何もできない。

『でも大丈夫。俺がいるから。俺たちがいるから。な?』

背後から腕が回った。曽根の腕。
オフィスの椅子に座ったまま、後ろから抱きしめられた。肩に顔を埋められた。
温かかった。——温かかったから、逃げられなかった。

『お前、たるんでるんじゃないか』

御影の声。正面から。
冷たい目。切れ長の目が、蛍光灯の光を反射していた。
デスクの端に腰を下ろし、澪を見下ろしている。

『今日のあれで、クライアントが納得したと思うか。——思わないだろ』
『……申し訳ありません』
『申し訳ないで済むなら、俺たちは要らないんだよ。——わかってるのか?』

わかっている。わかっているから、ここにいる。
この人たちがいなければ、自分は何もできない。
プレゼンもできない。資料も作れない。一人では、何も。

椅子から立たされた。
曽根の手が肩に置かれている。
御影がネクタイを緩めた。

『罰だ。——わかるな』

わかっていた。
ミスをしたから。罰。
当然のこと。
この人たちが正しい。
自分が悪い。
自分が無能だから。

デスクの上に、体を折り曲げられた。
書類の上に頬が当たった。数字が並んだ紙の上に。ミスをした数字の上に。

スカートがめくり上げられた。ストッキングが引き裂かれた。
——びり、という音が、静かなオフィスに響いた。

『もう、ここまで濡らして……身体は正直だな』

御影の指が、直接秘所に触れた。下着を横にずらして。乱暴に。

『ひっ……!』
『声出すな。まだ誰か残ってるかもしれないだろ』

指が中に入った。二本。準備もなく。
乾いた内壁が擦れて、痛かった。
——でも体は反応していた。濡れ始めていた。
それが一番恥ずかしくて、一番つらかった。
痛いのに。嫌なのに。体だけが、勝手に。

『ほら。こんなに濡らして。——お前、本当は気持ちいいんだろ?』
『ちがっ……』
『嘘つくな』

指が奥まで入った。ぐちゅ、と音が鳴った。
自分の体から出ている音。止められない。止まらない。

同時に——曽根が背後から耳元に唇を寄せた。

『いい子だ、澪。我慢しなくていいよ。俺たちの前では、素直でいて』

囁き。優しい声。耳に息がかかる。
背後から腕が回り、ブラウスの上から胸を掴まれた。揉まれた。乳首を指で挟まれた。

『あっ……やめ……っ』

『やめないよ。——お前が望んだんだろ? 
俺たちのところに来たのは、お前だ』

お前が望んだ。
お前が来た。
お前が選んだ。

——その言葉が、何度も何度も繰り返された。
繰り返されるたびに、体の力が抜けていった。

そうだ。自分が望んだのだ。
自分が選んだのだ。
だから——これは罰ではない。
自分が望んだこと。

御影の指が三本になった。ぐちゅぐちゅと水音が響いた。
オフィスの、静かな空間に。
自分の体が出している音が、恥ずかしくて死にたかった。

『もっと開け。——脚。閉じるな』

脚を掴まれた。開かされた。
デスクの上に上半身を折り曲げたまま、脚を開かされて、後ろから指を出し入れされている。
曽根の手が後ろから胸を弄んでいる。
乳首を摘まれ、転がされ、引っ張られる。
二人同時。前と後ろから挟まれて。

『あっ……あっ……ん……っ』

喘ぎ声が漏れた。——聞きたくない声。

この声は自分のものではない。
自分の体が勝手に出している声。
心は蚊帳の外にあった。天井を見ていた。
蛍光灯の白い光。自分の体が別の場所にある。遠い場所に。

『お前、イきそうだろ。——止めてやろうか?』

御影が指を抜いた。ぬちゅり、と音がした。
空になった内壁がきゅっと収縮した。
——足りない。体が求めている。嫌なのに。嫌なのに、体が。

『イきたいなら言え。「イかせてください」って』

『……っ』

『言えないのか。——じゃあ、まだ足りないな』

何かが取り出された。バイブレーター。
——いつからそこにあったのか。最初から。最初から、こうなるとわかっていて。

スイッチが入った。低い振動音。
それが秘所に押し当てられた。クリトリスに直接。

『ひっ……! やっ……それ……!』

『動くな。——これで足りなきゃ、もっと上のを使うぞ』

振動がクリトリスを刺激し続けた。
逃げられない。御影の手が腰を押さえている。曽根の腕が後ろから体を固定している。
二人に挟まれて、身動きが取れない。

同時に——曽根の唇が耳元に触れた。
舌が耳を舐めた。首筋に歯を立てた。噛まれた。痛い。でも体は——。

『あぁ……っ、あぁ……っ……!』

体が震えた。もう止められない。
頭は嫌だと言っている。でも体は——。

『ほら。イきそうだろ。——言え。「イかせてください」って。俺たちに』
『……イか、せて……ください……』
『もっと大きい声で。——誰にイかせてほしいんだ?』
『曽根さんと……御影さん……イかせて、ください……っ』
『いい子だ』

御影がバイブレーターの振動を上げた。最大。
体がびくびくと跳ねた。
膣内にまだ指が入っていて、前はバイブレーター、後ろから曽根の手が胸を揉み、耳を舐め、首を噛んでいる。

全部同時。三方向。逃げ場がない。
体の全部が、この二人に占領されている。

『あああああっ……!!』

絶頂が来た。体が痙攣した。愛液が溢れた。
太腿を伝い、ストッキングの破れた隙間から滴った。
デスクの上の書類が濡れた。ミスをした数字の上に。

絶頂の余韻の中で——死にたかった。

体は気持ちよかったのだ。
この二人に触られて。
嫌だったのに。怖かったのに。
体だけが感じた。

心は蚊帳の外で、天井を見ていた。
蛍光灯の白い光。冷たい光。

『お前が望んだんだ。——忘れるなよ』

御影の声が、遠くから聞こえた。


忘れない。
忘れない。
お前が望んだ。

お前が選んだ。お前が——。



---



——澪。

声が聞こえた。

蛍光灯ではない声。
白い光ではない声。
温かくて、深くて、静かな声。

「澪。——目隠しを外します」

結び目がほどかれた。黒い絹が取り除かれた。

光が戻った。

蛍光灯ではなかった。
行灯の、琥珀色の明かりだった。

九条院の顔が、目の前にあった。
正面に。後ろからではなく。
目が合った。

穏やかな目。——その奥に、鋭いものがあった。

「今——何を思い出しましたか」

澪は自分の体を見下ろした。
震えていた。全身が。歯がかちかちと鳴っている。
左手の掌に、爪の跡が赤く残っていた。

「わからない……わからないです」

嘘だった。
わかっていた。全部、見えた。

蛍光灯。
デスクの上の書類。
曽根の腕。
御影の指。
バイブレーターの振動。
破られたストッキング。

自分の喘ぎ声。
「イかせてください」と言った自分の声。

全部、思い出した。思い出したくなかった。
一年かけて、この家で、貞親さんのそばで、少しずつ遠くなっていたはずの記憶が——後ろから、目隠し、手首、耳元の囁き、首筋。
五つが重なった瞬間に、全部戻ってきた。

「体が勝手に……止まれなくて……頭は貞親さんだってわかってるのに、体が——」
「ええ」
「怖くなかったんです。
怖くなかったのに——体だけが、勝手に——」

涙が溢れた。

九条院は澪の肩に手を置いた。そっと。触れるだけ。

「体は、頭より先に覚えているんです」
「……」
「前に言いましたね。植え替え直後の木は、新しい土に馴染むまで時間がかかる。
根が古い土の記憶を持っているから」

澪は頷いた。
覚えている。
この家に来たばかりの頃——梅の手に触れて体が固まったとき、九条院が言った言葉だ。

「あなたの体には——私ではない誰かが残した記憶がある。
それが、特定の条件が揃った時に蘇った」
「思い出した……全部……っ」
「頭が忘れていても。体は一年では忘れられないことがある」

澪は九条院の胸に顔を埋めた。
泣いた。声を殺さなかった。梅がいないから。この邸に二人しかいないから。
声を上げて泣いた。

九条院は澪の髪を撫でた。ゆっくりと。何も言わなかった。

「ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
「せっかく——貞親さんが触れてくれたのに——」

「謝るのは、あなたではない」

九条院の声が、低くなった。
怒りではなかった。
もっと静かなもの。もっと深い場所にあるもの。

「話せるときでいい。——今夜は、このまま」

澪は泣き続けた。
九条院の胸に顔を押しつけて、声を上げて。
体が震えていた。さっきの硬直とは違う震え。
泣くことで、力が抜けていく震え。

九条院はずっと澪の頭を抱え、髪を撫で続けた。
この子が泣き止むまで。眠るまで。何時間でも。

---

やがて澪の泣き声が途切れ、呼吸が深くなった。
泣き疲れて眠りに落ちていく。九条院の腕の中で。

寝息が規則的になっても、九条院は手を止めなかった。

暗い寝室で、天井を見ていた。

澪の体が凍った瞬間を、何度も反芻していた。

後ろから。目隠し。手首。耳元の囁き。首筋。
——五つが重なった時、この子の体は一年前に戻った。

一年。

昨年の冬。雨の夜。公園のベンチで崩壊していた澪を連れ帰った夜から、一年が経つ。

一年かけて、この子は笑えるようになった。
仕事に就いた。友人ができた。
「好きです」と言えた。
「いないと困る」と自覚した。椿の練り切りを作って泣きながら渡した。

一年で、ここまで来た。

だが——体は、まだあの場所にいた。

芦沢の報告書で読んだ断片が、今夜の光景と重なった。
二人同時。拘束。目隠し。耳元で囁きながら。「お前が望んだ」と言わせながら。
——書類の文字が、澪の体の硬直に変換された。

九条院は目を閉じた。

怒りがあった。
曽根と御影への。
一年経っても消えない痕を刻んだ者たちへの。

だが怒りの裏に、もう一つの感情があった。

——私もまた、同じ場所に手を伸ばしている。

目隠し。手首。後ろから。囁きながら触れる。
九条院が澪にしていることの形は、曽根と御影がしたことと——重なる。

違う、と言い切れるか?

愛しているから。
この子が望んだから。「怖くないです、貞親さんだから」と言ったから。
——それは、曽根が澪に「お前が望んだ」と言わせたのと、何が違う…?


違う。——はずだ。
だが、決めつけはしない。それは危険な思考回路だ。


九条院は澪の寝顔を見た。
泣き腫らした目。頬に涙の跡。
でも、穏やかに眠っている。この腕の中で。

全部、やり直さなければならない。
あの二人が残した記憶を、全て——自分の手で。

それは庭師の仕事ではない。
男の仕事だ。

だがこの仕事を始める前に——この子が自分から語るのを、待たなければならない。
何があったかを。何をされたかを。

この子はいつも、予想を超えてくる。
待てば——話してくれるだろう。自分から。

九条院は澪の髪を一筋、指に巻きつけた。
眠る子の、柔らかい髪。

夜は静かだった。
庭の風の音だけ。
しろの冬囲いの藁の下で、見えない芽が——春を待っている。

---

「謝るのは、あなたではない」

全てを止めて、正面に回った。
それだけで、この人が何者かがわかります。
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