7 / 11
第七話:父と娘
しおりを挟む
満月が、夜を見下ろしていた。
薄暗い牢の格子窓から差し込む光が、膝を抱えるリンファを照らす。
風はない。音もない。
ただ時を凍らせたような沈黙だけが、リンファの孤独に輪郭を与えていた。
教団の本拠地があるオアシスまでは遠く、リンファは連日の移動を強いられた。あとどのくらいかかるのだろうか。同行している父に訊けばわかるのだろうが、正直、話したくはなかった。
目を閉じる。
ふと、脳裏に浮かぶのは、あの砂漠の夜。
イェシムと出会ったあの夜も、空には満月が浮かんでいた。あれからもう、ひと月が経つ。
彼との旅路には、不安なんて、ひとつもなかったのに。
——行くなっ、リンファ!!
今なお耳に焼きついて離れない、イェシムの叫び。
クラシスへは行かなかった。……行けなかった。彼をあの場に置き去りにしたその先など、想像したくはなかった。
だから、己を差し出した。震える足で、一歩を踏み出して。
この幽閉はその代償だが、あのときの決断に、悔いはない。
「……イェシムさん」
ぽつりと、彼の名を呼ぶ。
返事はないとわかっている。けれど、音にすることで、なぜだか不思議と心が凪いだ。
不意に。
牢の外で、何かが軋む音がした。まるで金属が砂を噛むような、ざらついた音。錠前が、かちゃりと回る。
リンファは身構えた。逃げることなどできないこの空間で、冷えた身体を強張らせる。
扉がゆっくりと開き、ひとつの影が入ってきた。
黒い外套。引き結んだ口元。そして、どこか切実な光を宿した瞳。
「リンファ」
——父だ。
「すぐにここを開ける。今が一番手薄な時間だ。早く逃げなさい」
外に漏らすまいと囁く父の声には、かすかな焦燥と、かつての柔らかさが戻っていた。
「どうし、て……」
惑い、疑い、問いかける。
これに対し、父は揺れる眼差しでリンファをまっすぐに見据えると、掠れた声でこう言った。
「……ようやく迷いを断ち切ることができた。目が覚めたんだ。お前がいなくなってから。……彼に、言われてから」
リンファは息を呑んだ。
そこには、父がいた。
言葉を探るその隙間に、本物の、父が——。
「彼の言った通りだ。お前を犠牲にして得られる幸せなど……約束された楽園など、あるはずないのに」
ヤンファンの瞳に、妻を喪った悲哀と、深い悔恨の影が満ちる。
「デアの面影に、縋るだけだった。医者としての無力を、神の名のもとに誤魔化して……。逃げていただけだったんだ、私は。許してくれ、リンファ……」
「お父さん……」
リンファは頷いた。何度も何度も頷いた。
何度も頷き、涙し、目の前の父を抱き締める。父もまた、昔のように、強く抱き締めてくれた。
長い苦しみの果て。止まっていた親子の時間が、ようやく動き始めた。
「急がないと。さあ、早く」
差し出された父の手は、乾いているがあたたかい。リンファは、迷わずその手を取った。
牢を出て、地下の隘路を進む。朽ちた石壁に沿って、親子は音を立てないよう足を運んだ。
しかし、教団の中枢は、すでにヤンファンの離反を読んでいた。
長い通路の先。
外へと続く階段に差しかかったとき、黒衣に身を包んだ男たちが、姿を現した。
彼ら教団の私兵には、容赦も慈悲もない。あるのは、教団に対する盲目的な忠誠のみだ。
「見つけたぞ!」
「逃がすな!」
閃く剣を手に、兵たちが迫る。
ヤンファンは、躊躇うことなくリンファの前へ踏み出すと、両手を広げて立ちはだかった。
リンファが青褪める。ひゅっと、喉が鳴る。
「お父さんっ!!」
「行きなさい!! 早くっ!!」
「いやよ!! お父さんを置いてなんて行けないっ!!」
兵たちが、親子を捕らえんと、一斉に踏み込んだ。
そのとき。
「リンファっ!!」
階下から、黒い影が疾風のごとく舞い上がってきた。
血の花が咲く。
砂を纏い、獣のような炯眼を湛えたその影は、曲刀で一瞬にして兵たちを斬り伏せた。
「イェシムさん!!」
「遅くなって悪い」
イェシムはリンファに微笑みかけると、最後のひとりへと向かっていった。リンファの顔に、ほのかに精彩が戻る。
しかし、ヤンファンの背後で蠢く影——今にも散らんとした命を引きずる影——が、渾身の力で刃を振り下ろした。
「ッ!」
反射的に、ヤンファンが振り返った。
直後。
「きゃあぁあぁぁぁ!!」
リンファの絶叫が、地下に響き渡った。
ヤンファンの胸元から、真っ赤な血が噴き上がる。だらりと腕が垂れ、よろめき、膝をつく。
光が失われていく中、それでも、その目だけは、しっかりと娘を見つめていた。
「リン、ファ……生き、て……」
父の最後の声を、命の色を、冷たい石床が吸い込んでいった。
「……お父さん……や……いや……っ、お父さんっ!!」
リンファが駆け寄ろうとするも、イェシムが腕を掴み、首を振る。いつ応援が来るとも限らないこの状況では、一刻の猶予もない。
イェシムは、リンファを抱きかかえるようにして階段を駆け上がり、外へと飛び出した。
リンファが囚われていたのは、町の片隅にある古い倉庫だった。月光に照らされたふたりを、夜の町が静かに見送る。
なんとか人気のない砂漠の岩陰まで辿り着いた頃、リンファは、ついにその場に頽れた。
「……お父さん……おとう、さ……っ」
声が、全身が、震える。
とめどなく零れ落ちる透明な雫が、砂を黒く塗りつぶした。
「リンファ」
傍らに膝をついたイェシムが、そっと呼びかける。
「親父さんは、お前を守るために戦った。……最後まで、お前の味方だった」
そう言い切ると、イェシムは、血と砂にまみれたその手で、リンファの身体を強く抱き締めた。リンファの頭を自身の肩に引き寄せ、ゆっくりと背中を撫でる。
「わたしのせいで……っ、お父さんが……わたしの……っ——」
「お前は悪くない。お前が背負うべき罪なんて、どこにもない」
抱き締める腕に力を込める。
ふたつの心音が、重なる。
「……大丈夫。お前は、生きていける」
砂漠の夜空に、リンファの慟哭がこだまする。その涙と嗚咽のすべてを、イェシムは受け止めた。
未来へと託された命が、揺るがぬぬくもりの中で、確かに拍動していた。
薄暗い牢の格子窓から差し込む光が、膝を抱えるリンファを照らす。
風はない。音もない。
ただ時を凍らせたような沈黙だけが、リンファの孤独に輪郭を与えていた。
教団の本拠地があるオアシスまでは遠く、リンファは連日の移動を強いられた。あとどのくらいかかるのだろうか。同行している父に訊けばわかるのだろうが、正直、話したくはなかった。
目を閉じる。
ふと、脳裏に浮かぶのは、あの砂漠の夜。
イェシムと出会ったあの夜も、空には満月が浮かんでいた。あれからもう、ひと月が経つ。
彼との旅路には、不安なんて、ひとつもなかったのに。
——行くなっ、リンファ!!
今なお耳に焼きついて離れない、イェシムの叫び。
クラシスへは行かなかった。……行けなかった。彼をあの場に置き去りにしたその先など、想像したくはなかった。
だから、己を差し出した。震える足で、一歩を踏み出して。
この幽閉はその代償だが、あのときの決断に、悔いはない。
「……イェシムさん」
ぽつりと、彼の名を呼ぶ。
返事はないとわかっている。けれど、音にすることで、なぜだか不思議と心が凪いだ。
不意に。
牢の外で、何かが軋む音がした。まるで金属が砂を噛むような、ざらついた音。錠前が、かちゃりと回る。
リンファは身構えた。逃げることなどできないこの空間で、冷えた身体を強張らせる。
扉がゆっくりと開き、ひとつの影が入ってきた。
黒い外套。引き結んだ口元。そして、どこか切実な光を宿した瞳。
「リンファ」
——父だ。
「すぐにここを開ける。今が一番手薄な時間だ。早く逃げなさい」
外に漏らすまいと囁く父の声には、かすかな焦燥と、かつての柔らかさが戻っていた。
「どうし、て……」
惑い、疑い、問いかける。
これに対し、父は揺れる眼差しでリンファをまっすぐに見据えると、掠れた声でこう言った。
「……ようやく迷いを断ち切ることができた。目が覚めたんだ。お前がいなくなってから。……彼に、言われてから」
リンファは息を呑んだ。
そこには、父がいた。
言葉を探るその隙間に、本物の、父が——。
「彼の言った通りだ。お前を犠牲にして得られる幸せなど……約束された楽園など、あるはずないのに」
ヤンファンの瞳に、妻を喪った悲哀と、深い悔恨の影が満ちる。
「デアの面影に、縋るだけだった。医者としての無力を、神の名のもとに誤魔化して……。逃げていただけだったんだ、私は。許してくれ、リンファ……」
「お父さん……」
リンファは頷いた。何度も何度も頷いた。
何度も頷き、涙し、目の前の父を抱き締める。父もまた、昔のように、強く抱き締めてくれた。
長い苦しみの果て。止まっていた親子の時間が、ようやく動き始めた。
「急がないと。さあ、早く」
差し出された父の手は、乾いているがあたたかい。リンファは、迷わずその手を取った。
牢を出て、地下の隘路を進む。朽ちた石壁に沿って、親子は音を立てないよう足を運んだ。
しかし、教団の中枢は、すでにヤンファンの離反を読んでいた。
長い通路の先。
外へと続く階段に差しかかったとき、黒衣に身を包んだ男たちが、姿を現した。
彼ら教団の私兵には、容赦も慈悲もない。あるのは、教団に対する盲目的な忠誠のみだ。
「見つけたぞ!」
「逃がすな!」
閃く剣を手に、兵たちが迫る。
ヤンファンは、躊躇うことなくリンファの前へ踏み出すと、両手を広げて立ちはだかった。
リンファが青褪める。ひゅっと、喉が鳴る。
「お父さんっ!!」
「行きなさい!! 早くっ!!」
「いやよ!! お父さんを置いてなんて行けないっ!!」
兵たちが、親子を捕らえんと、一斉に踏み込んだ。
そのとき。
「リンファっ!!」
階下から、黒い影が疾風のごとく舞い上がってきた。
血の花が咲く。
砂を纏い、獣のような炯眼を湛えたその影は、曲刀で一瞬にして兵たちを斬り伏せた。
「イェシムさん!!」
「遅くなって悪い」
イェシムはリンファに微笑みかけると、最後のひとりへと向かっていった。リンファの顔に、ほのかに精彩が戻る。
しかし、ヤンファンの背後で蠢く影——今にも散らんとした命を引きずる影——が、渾身の力で刃を振り下ろした。
「ッ!」
反射的に、ヤンファンが振り返った。
直後。
「きゃあぁあぁぁぁ!!」
リンファの絶叫が、地下に響き渡った。
ヤンファンの胸元から、真っ赤な血が噴き上がる。だらりと腕が垂れ、よろめき、膝をつく。
光が失われていく中、それでも、その目だけは、しっかりと娘を見つめていた。
「リン、ファ……生き、て……」
父の最後の声を、命の色を、冷たい石床が吸い込んでいった。
「……お父さん……や……いや……っ、お父さんっ!!」
リンファが駆け寄ろうとするも、イェシムが腕を掴み、首を振る。いつ応援が来るとも限らないこの状況では、一刻の猶予もない。
イェシムは、リンファを抱きかかえるようにして階段を駆け上がり、外へと飛び出した。
リンファが囚われていたのは、町の片隅にある古い倉庫だった。月光に照らされたふたりを、夜の町が静かに見送る。
なんとか人気のない砂漠の岩陰まで辿り着いた頃、リンファは、ついにその場に頽れた。
「……お父さん……おとう、さ……っ」
声が、全身が、震える。
とめどなく零れ落ちる透明な雫が、砂を黒く塗りつぶした。
「リンファ」
傍らに膝をついたイェシムが、そっと呼びかける。
「親父さんは、お前を守るために戦った。……最後まで、お前の味方だった」
そう言い切ると、イェシムは、血と砂にまみれたその手で、リンファの身体を強く抱き締めた。リンファの頭を自身の肩に引き寄せ、ゆっくりと背中を撫でる。
「わたしのせいで……っ、お父さんが……わたしの……っ——」
「お前は悪くない。お前が背負うべき罪なんて、どこにもない」
抱き締める腕に力を込める。
ふたつの心音が、重なる。
「……大丈夫。お前は、生きていける」
砂漠の夜空に、リンファの慟哭がこだまする。その涙と嗚咽のすべてを、イェシムは受け止めた。
未来へと託された命が、揺るがぬぬくもりの中で、確かに拍動していた。
0
あなたにおすすめの小説
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
さようなら、私を「枯れた花」と呼んだ貴方。~辺境で英雄を救って聖女と呼ばれたので、没落した元婚約者の謝罪は受け付けません~
有賀冬馬
恋愛
「お前のような見栄えの悪い女は、俺の隣にふさわしくない」
婚約者アレクに捨てられ、辺境へ追いやられたセレナ。
けれど、彼女が森で拾ったのは、アレクなど足元にも及ばないほど強くて優しい、呪われた英雄ライアンだった。
セレナの薬草が奇跡を起こし、王都を救う特効薬となったとき、かつて自分を捨てた男との再会が訪れる。
「やり直そう」と縋り付くアレクに、セレナは最愛の人と寄り添いながら静かに微笑む。
――あなたが捨てたのは、ただの影ではなく、あなたの未来そのものだったのですよ。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
妻が通う邸の中に
月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる