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第14話
軽い身体で、寮を出た。朝焼けが過ぎた日差しはまだ柔らかくて、街もまだ静けさを持っている。そんな澄んだ空気が心地よくて、深呼吸する。
ようやく、一週間が経った。
(発情期をつらいって思ったの、はじめてだったな…)
今までは、風邪みたいなものだと思っていた。
だから、世間一般の発情期はつらい、よくがんばったね、という言葉がいまいち理解できていなかった。
けれど、今回のようなことを、世の中のオメガは三月に一度、経験しているのだとようやく思い知ったのだった。
そうはいっても、つらかったのは、最初の一日だけだった。目が覚める度に身体が熱くて、意識がある内はずっと自慰行為をしていた。薬も何度か飲み足したが、効き目があったのは、二日目以降だった。二日目も、薬が効いたのか、発散した成果なのかはわからない。
何よりも、僕を打ちのめしたのは、オメガの僕が、ずっとあるアルファを求め続けていたということだった。
(あんな、透、知らない…)
僕は夢の中で、透とずっといやらしいことに明け暮れていた。目が覚めれば、それを思い出して、精を発散させた。
透の裸体も、あんな意地悪な仕草も、妖艶な笑みも知らない。見たこともない。想像したこともなかった。
それなのに、夢の中では当たり前で、たくさん泣いて透にすがったし、透は僕をたくさん泣かせて、たくさん甘やかした。
(夢は、己の願望が出るって聞いたことがある…)
あれは僕が、願望、なのだろうか。
腹の奥が熱玉でも押し付けられたかのように燃えるように熱くなる。喉が絞られて、息がしにくく、涙が滲んできた。
(僕がオメガだから、あんなこと考えたんだ)
自分のことが心底嫌になる一週間だった。
最初の一日は、何もわからずに、ただ肉欲に溺れるだけだった。それはそれで苦しかったが、本当につらかったのは、そのあとだった。
二日目の夜、目が覚めると意識は軽かった。ただただ、身体が重くて、頭も痛んだ。暗闇の中、ヘットライトをつけると、様々な液体で汚れた自分がいて、ぞっとした。熱いシャワーで流したけれど、忘れようとすればするほど、意地悪な透が瞼に浮かんで、その度に下腹部が重くなった。
通常よりも多く薬を飲んだから、副作用で頭痛もひどかった。けれど、その痛みで何も考えられなくなるなら、その方が楽だった。
体調が回復したのは三日目からだった。そこからは、自己嫌悪と透への謝罪でいっぱいだった。
ようやく、その鬱々とした考えも消化できて、今日の社会復帰日となる。
この発情期で、僕の最も強い願望がわかった。
それは、透のことが好き、だということだった。
夢の中の透は、何度も僕に好きだと言った。その瞬間が一番気持ち良くてたまらなかった。現実世界で自慰行為に浸っているときも、何度も好きだと一人つぶやいた。
(恥ずかしい…)
大切な人を、夢の中で勝手に性的な対象として使ってしまったことへの罪悪感は果てしない。
己の獣としての醜さも強く案じられて、恥ずかしくてたまらない。
それなのに。
(透に、会いたい…)
会いたくてたまらないのだ。
透に会って、あの柔らかくて深い声に名前を囁いてもらいたい。
前髪で隠れている、透き通った瞳をにじませてほしい。
僕だけに、あの優しくて甘い笑みを見せてほしい。
気づけば、植物園の前に立っていた。
もう、無意識でもたどり着けるようになるほど、慣れた道のりになってしまった。
(こんな早朝に、いるはずない)
会いたいのに、と思う反面、まだ会えない、とも思う。
一週間、想像上の透はずっと傍にいた。それ以上の近い距離にいた。いきなり面と向かって会うのは気が引ける。だから、まずは、彼の存在を感じられる場所に先に行って、予習という心づもりをつくっておきたかった。
カバンから、彼から借りたままのタオルハンカチを出す。ベージュ色をした、彼の持ち物らしい淡く優しい色のものだった。親指で撫でると、それはふわり、と柔らかい。
発情期がひどい時、彼から借りたこれに必死に縋って、己を慰めていた。
鼻先にあてると、日向の匂いと甘い果実の香りが入り混じる。
(透の匂い…)
いい匂いだと、頭の芯がぼう、としてくる。
だから、洗うのがためらわれて、まだそのままで持っている。けれど、彼に返さないといけない、という理性もあって、とりあえず持ってくるだけ持ってきた。
(どうしよう…)
できるなら、手元にずっと置いておきたい。
(透のもの、だから)
だから、手にしておきたい。
(でも、返さないと…)
うじうじと爪先でタオル地を弄ぶ。ふと風が変わって、日差しの匂いがした。もう、そんなに日が昇ったのだろうかと顔をあげたその時、目の前のドアが開く。
「わっ! 依織先輩!」
朝日を浴びた、本物の透がそこにいた。
僕を見つけると、目を見開いてから、垂れている目をさらに垂らして、頬を上気させて、甘く微笑む。
(わ…)
風が吹くと、彼の香りが鼻腔から身体へと流れこんできて、毛先までびりびり、と痺れるように細胞が反応する。
(会いたかった)
世界がきらめいて見える。
彼がそこにいるだけで、身体の温度があがり、血が騒ぎ、命が活性化する。
湿度を含んだ風すらも心地よく、小さな植物園だって楽園のようだ。
「透…」
(会いたかった)
言葉にできない思いを込めて、彼の名前をつぶやく。
瞳が交わると、透はさらに頬を緩ませて、長い睫毛が伏せるほど笑みを深くした。それから、小さくうなずいた。
「依織先輩」
それは、まるで、僕もです、と言っているような声だった。
嬉しくて、涙が滲んで、朝日のきらめきがもっと増している。
「一週間も、どうしたん…」
風向きが追い風に替わる。透は何かを言いかけたが、鼻を少しだけ鳴らすと黙ってしまった。首をかしげると、透は急に視線を外して、風のいたずらで長い前髪が顔を隠してしまった。
「え、そ、か…依織先輩って…そう、か…」
「透…?」
そっぽを向いて、何やらぼそぼそ独り言を唱える彼の様子が変で、心配するように呼び掛けるが、わたわたと驚いているようだった。
「えっと、その、こういう、ときは、えっと…」
僕は彼が何に動揺しているのかわからずに、首を傾いだまま、眉間に皺を寄せる。
透が、深呼吸を何度かして、唇を引き結んで僕に向き直った。急に肩に力が入ってしまう。
「依織先輩」
「はい?」
「お疲れさまです」
頬を赤らめながら、にっこりといつもの温かい笑みを見せた透はそう言った。
何のことか全然わからずに、う、うん? と答える。
「よく頑張りましたね」
何気ないだろう。透は、手を差し伸べると、そのまま僕の頭をぽんぽん、と淡く叩いた。
幼子にするような仕草なのに、急に接触されて、僕は固まってしまう。それから、じわ、と耳先まで熱が集中する。何のことを言っているのか、全くぴんと来ていないけれど、彼が励まし、労わってくれていることが伝わってくる。
(も、もしかして、発情期開けって、バレてる…?)
自然の摂理だから仕方のないことなのだけれど、透だからこそ居た堪れない。
なんでわかったのだろうか、と指先が固まる。濡れた瞳で手のひらごしに見上げると、風が向きを変える。ふわ、と日向よりも果実の甘みを強くした香りが漂う。
(あ…)
もしかしたら、これ、かもしれない。
彼にも、僕の匂いがわかったのだろうか。だとしたら、すごく恥ずかしいけれど、オメガとしてアルファに見つけてもらえたような恍惚とした気分にもなる。
「あ、りがと…?」
顔を少しずらして、彼を見上げながらつぶやく。今度は彼の指先が固まって、あ、あ、と挙動不審になりながら、顔を真っ赤にさせて、今度は自分の頭を掻いていた。
そんな反応をされると、僕も心音が高鳴り、身体が硬くなってしまう。
しばらく、二人で何も言わず、たまに目が合って慌てて、どきまぎと立ったまま、もじついていた。
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