黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第33話








 ジジ、と窓の外から音がする。古典をひたすらぼそぼそとつぶやき続ける教師をよそに、日差しの強い青い空を見上げる。近くにある立派な木から、蝉の鳴き声がした。

(もう、夏なんだ…)

 僕が、影になってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。一週間ほどのはずだと思われるが、もう一年にも感じられた。背中に感じる強い視線に気づかないふりをするのにも、何も感じなくなっていた。
 出来るだけ彰と話さないように、香耶の隣を歩くようにした。もしくは、二人の一歩後ろを歩く。彰はしつこく隣にきて話しかけようとするが、香耶が易々とそうはさせなかった。彰は香耶のことは、ぞんざいには扱わなかった。

「そういえばさ」

 前の小柄な生徒が、さらにその前の席の生徒に小声で話しかけた。古典の教師があまりにも囁き声で、僕からはそちらの声の方がよく聞こえてしまう。

「昨日の帰りに、ここにイケメンきたんだけど」
「へー、誰?」
「いや…知らない…。けど、身長高くてスタイルよかったし、短髪で好青年~!って感じですごいイケメンだった」
「僕も見た! 知らない顔だったけど、制服的に二年生なんだよね…」
「それ、二年生でも話題になってるらしい。後輩が騒いでた。クラスメイトがとんでもないイケメンだった!って」
「マジ…? 夏休み前にぜひお知り合いになっておきたい…」
「オシリアイってどういう漢字で言ってる~?」

 みるみる会話は周囲の生徒たち複数名を巻き込む形となり、最後は下品にくすくす笑い合って終わった。
 それだけ話題になっているということなのだろう。

(二年生…か。透は、元気にやってるのかな…)

 その噂の人は、透と同じクラスだったりして。
 だったら、透はその人と友達になるのだろうか。きっと、ならないんだろうな。この低俗な学園では。
 人としての本質を見極められないで、何を大切にしているのだろうか。
 彰の周りに集まる人も、香耶の周りに集まる人も、すべてが下品に見えてきた。目をぎらぎら輝かせて、少しでも隙があれば、遊びませんか? なんて顔をしている。それをわかっていながら、香耶は相変わらず他のアルファの残り香を漂わせているときがある。彰は彰で、香耶ではなく僕と言う違うオメガにちょっかいをかけている。

(それが、アルファらしいとか、オメガらしいだなんて、言われたくない…)

 僕が、普通の家の普通の子だったら。
 権力も財力も、何もいらない。一般的なベータの生活をしていたら、もっと楽だったのだろうか。

(好きな人と結ばれる運命も、あったのかな…)

 つい、虚しい空想に浸ってしまうときがある。
 自分の空想を嘲笑する気力もなくなってしまった。
 それでも、まだ、透に会いたい、という叶いもしないことを願ってしまう瞬間が、どうしてもあることに僕は苦しさばかりが募っていった。







 何も書いていないノートにオレンジの直線が差し込んでいることに気づいた。顔をあげると、図書室の細い窓から、夕日が僕の瞳を照らす。
 また、僕は図書室で時間を潰す生活に戻っていた。
 香耶と彰は一緒に生徒会室にいる。生徒会メンバーに会わせたくない彰は、またここで時間が来たら落ち合うという流れを求めた。
 大きく変わってしまったのは、僕は、もう何も手につかなくなっていたことだ。
 ノートを開いても参考書を開いても、何も書く気にならない。じゃあ、と気分を変えて読書にしようと思っても、無数に本がつまっている本棚を見つめて、急にどうでもよくなってしまう。
 だから、こうしてまっさらノートをぼう、と見つめて時間が経っていく。ただ、ひたすらに。

(空っぽだ…)

 自分が、何もない抜け殻の、空っぽな入れ物でしかない気がする。
 ついこの前までは、生きていることを実感して、常に心が動いて、毎日が輝いて見えた。梅雨が抜けて、空は雲ひとつないすっきりとした夕焼けなのに、僕の心は何も映さない。何も動かない。
 彰が香耶の目を盗んで、空き教室に引っ張って、僕にキスをしてきても、もう何もできなかった。嫌だと拒絶する気もしばらくすると失せてしまった。僕は人形だから、持ち主の思うままでいいのだ。
 がら、と戸が開く音がした。
 もうテスト前も開けて、すっかり図書室は寂しい風景になっていた。今日の当番の図書委員がカウンターでひたすら本に熱中している。他は、ここからは見えない個別スペースになっている自習机に数人、受験生らしい人たちがいた。
 全員、僕が姫だとか、僕が彰の愛人だとか、そういう風に見てこない。興味がないのだ。それが、心地よくて、僕はこの場所が好きだった。

(そう、誰からも関心を持たれなくていい…それでいい…)

 ふ、と日向の香りがした。温かく、優しい、僕の大好きな香り。
 なつかしい、と思うと、ほろりと心がほどけて軽くなる。そんなことは気のせいなのに。
 腕時計が光を反射して、ちか、と瞳を照らす。目を細めて時間を確認すると、いつもの時間には早い。けれど、何もしないノートが目の前に開いているのもなんだか憂鬱で、カバンへとしまい込む。がた、と隣の机に誰か着席した音がする。
 図書室内は空席がほとんどなのに、なぜ隣に来るのか。なんとなしに気になっただけだった。それが嫌だとかいいとか、そういう感情もなく、ただ、ちらり、と見やったのだ。
 一瞬で、時が止まったようだった。
 隣に座った青年は、まっすぐ僕を見つめていた。高い位置にある瞳は、夕日を吸い込んで、幾重にもきらめき、優しく潤んでいる。その瞳は、間違いなく、僕が最も会いたかった人なのだ。

「依織先輩」

 柔らかに色づく唇がゆったりと僕の名前に動いて、優しく深い声が僕の身体に染み入るように馴染む。溢れる感情を叫び出しそうになってしまい、唇を噛み締める。

「やっと会えました」

 ふ、と破顔するその顔は、僕の大好きな優しいものだった。
 遠くでかしゃん、とペンが落ちる音がして、は、と意識を取り戻す。カバンの紐を握りしめて勢いよく立ち上がり、彼の手首を掴んだ。



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