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第34話
背丈も身体の厚みも僕よりも大きい透は、僕の意思通りに後についてきてくれた。それすら嬉しくて、鼻の奥が痛む。
近くにあるミーティングルームに入る。たまたまどこの委員会も使用していなかったため空室だった幸運が、神さまのいたずらのように感じる。
後ろ手にドアが閉まる音がして、僕は透の手首を離す。しかし、今度は逆に、僕の手首を掴まれてしまった。
「依織先輩…」
透が名前を呼んでくれるだけで、血液を通って心臓に届き、全身が震えるほど喜んでしまう自分がいる。情けなくて瞼を降ろして息を詰める。
「あ、え、っと…、元気、でしたか?」
わかってしまう。
背中から、透が困り顔をしながらも、僕に話しかけてくれている健気さが伝わってくる。
「えっと…その…、あ、依織先輩と植えたオクラに花が咲きました! だから…」
梅雨前に、二人で小さなポットに種を植えた。それの芽が出て、可哀そうだと言いながらも一緒に間引いた。水もあげて、苗が育つと、一緒に畑に植えた。あの苗だ。
昨日のことのように、一瞬一瞬ずつが頭の中に浮かんで、あの時抱いていた温かな感情がこみ上げてくる。
「また、来てくれませんか…?」
僕を問いただすでもなく、誘う言い方が透らしい奥ゆかしさと思いやりがあって、さらに僕を追い詰めた。
何度も何度も、深呼吸をして心拍を下げようと努力する。言わなきゃいけない、と勇気を出させる。
(言ったら…、もう、終わりなんだ…)
でも、それでいいんだ。
そうしないと、僕たちは…、透は…。
自分の運命を呪った。
僕が、オメガでなければ。
愛しい透との将来があったかもしれない。
「僕、依織先輩と…、会いたいです…できれば、もっと…、毎日でも…!」
「もう来ないで」
透の言葉に耳を塞いで、叫ぶように言い捨てる。しん、と空気が張りつめる。だけど、止まれない。止まってはいけない。
「もう、透と会うのやめる。だから、来ないで」
手のひらを握りしめる。全身がぶるぶると震え出す。それでも、僕の手首を大きな手のひらが優しく包んで離さない。
「ど、してです、か…? 僕、何か、依織先輩の嫌なことしましたか? だったら、直しますから…っ」
「っ、わかんないの?」
(声、震えてないかな)
もう手首も離してほしい。そうでないと、本心でないことに気づかれしまいそうだから。
だけど、この手を振り払ったら本当に終わりだ。そう覚悟しているのに、まだ未練がましく、どうしても透を離したくない。傷つけたくない。
それが一番残酷なのに。
(ダメだ…、離れないと…そうでないと、透が…)
「僕が…」
透が、ぽつりと独り言のように小さくつぶやいた。
「僕が…、貧乏だからですか…?」
ぐう、と喉の奥が踏みつぶされるように苦しかった。
でも、僕には選択肢がないから。
「…っ、そう!」
叫ぶように肯定する返事をする。後ろで透が息を飲んだのが空気で伝わってくる。
「僕が…アルファらしくないからですか?」
「そうだよ…っ、僕は…オメガだから」
オメガだから、力あるアルファに逆らえない。本能でも権力でも上位にあるアルファの言うことに従うしかないのだ。それが野生としても理性ある人間世界であっても、同じなのだ。摂理なのだ。
ぎゅ、と強く手首を握られて痛みに肩をすくめる。それに気づいた、透が、ごめんなさい、と急いで言って、ついに手首を離してしまった。
自由になってしまった片手をぶらり、と身体の横にさげて、それを見下ろす。寂しそうな左手だった。
「そう、ですよね…! 依織先輩のような美人で、賢くて、優しくて…そんな人に、僕なんかが…」
はは、と無理矢理明るく笑う透に、胸がぐしゃぐしゃになじられる。
「…僕、陰気くさいから先輩に嫌われたのかと思って、ちょっと頑張ってみたんです…」
久しぶりに美容院なんか言っちゃって…。と続けて力なく笑った。
(だからか…)
驚いた。
久しぶりに会った透は、変わっていた。立ち上がった時に、以前よりも背が伸びた気がした。何よりも、長かった前髪をさっぱりと眉上あたりまで切って、根本から立ち上がるようになっていた。だから、どこまでも透き通った瞳が爛々とまっすぐに見えてしまう。吸い込まれそうだった。透の人柄そのものを表すように優しく垂れた目元は、人好きされるものに違いない。
ふんわりとした前髪は分けられていて、後ろも軽く刈り上げていて、アルファらしい男らしさが増していた。爽やかなのに、どこか野性味があって、ずっと心臓が高鳴っていた。今までの優しい笑みがさらに甘い気がして、思わず唾を飲んだ。
笑った際に見える八重歯が、前よりも気になった。ちらり、と白い八重歯が見えると、うなじがざわめくのだ。
瞳を合わせた、たった一瞬だったのに、こんなにも事細かく透の変化に気づいて、汗が滲むほど体温が上がってしまう。
(きっと、みんなが噂してたのは、透のことだ…)
もとから、美しい青年だった。
手を加えるとこんなにも光るだなんて、周りが知らなかっただけだ。
(あんなに目立つことを嫌っていたのに…、それなのに、僕のために…)
「だけど…遅かった、ですね…。あ…遅かったも、何も、ないか…」
はは…、と乾いた笑いで必死に明るく振る舞う。これも、僕が傷つかないように、僕に嫌な思いをさせないように、という優しさが透けて見える。ずっと一緒にいた。いつも僕を救ってくれた。だから、わかってしまうのだ。
「僕は…、好きな人に、嫌な嘘をつかせて、泣かせることしか、出来ないんですね…」
「…うそ、じゃ、っ、ない…」
(ここでちゃんとしなきゃ…、でないと…透は…、僕は…)
だけど、我慢できなかった。堪えていた嗚咽が、言葉の隙間からかすかに漏れた。それを飲み込んで、自分を奮い立たせて言葉を言い放つ。
「嫌い…、嫌い、大嫌いだった…っ!」
その言葉に、自分の心がめちゃくちゃに傷つけられる。正反対の言葉を、誰よりも愛しい彼にぶつけなくてはならない現実が憎くて仕方ない。それよりも、何もできない無力な自分が許せない。
言い放ったあと、反射のように室内は静まり返り、沈黙が続いた。この沈黙が、透が傷ついている何よりの証拠だと痛感する。
(後には、引いちゃいけないんだ…)
必死に身体を硬くさせて、覚悟が揺るがないように食いしばる。少しでも、泣いていることを透に悟られないように。
「僕は…」
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