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第70話
セーターを握りしめている指先がずきり、と痛んでみると、彰の歯列がかさぶたとなって残っていた。それは、複数回噛まれたことがわかる痕だった。それだけ、彰は僕というオメガを求めていたということだった。
(親友って、言ってたのに…)
元気がない僕に気づいて、笑顔で励ましてくれた彰は、心の中では違うことを考えていたらしい。
襲われた時のことを思い出すと、恐怖に身体が震えた。それを慰めてくれる人は、誰もいない。だから、自分で自分を抱きしめて温めるしかなかった。
(いつから…)
彰は、いつから、親友ではないと思っていたのだろう。
(ずっと、なのかな…)
僕が、一方的に仲直りしたと思っていたことは、本当は彰につらい現実を強要するだけだったのかもしれない。だから、あんなことになってしまったのかもしれない。
拳をつくると、噛まれた傷が皮膚をひきつり、ずきずきと痛みを生む。けれど、それ以上に、僕は彰を傷つけていたのだと思うと涙を流す自分を許せなかった。
(友達の彰を、諦めなかった僕がいけないんだ…)
彰が、僕を好いていることはわかっていた。しかし、親友であったときの優しい彰との時間は楽しくて、僕のかけがえのない時間だった。だから、それを失うことは、恐ろしくて、寂しいことだった。僕は、親友である彰を失いたくなかった。
その結果が、彰に無理を強いることだったのだ。
(僕が、透に、ただの親友って言われたら…)
考えただけで、胸が痛んで、涙が滲んだ。傍にいることが、一番苦しい選択だということも裕に想像できた。
本当に彰のことを思うのであれば、もう、近くにいることは、できない。
頭の中に、出会った時からの幼い彰から、順に今の凛々しい彰になるまでの過程が浮かんでいく。苦しい時に、いつでも傍にいてくれたのは、彰だった。
(本当に、それでいいのだろうか…)
彰と一生、傍にいないと決めるとしたら、それでいいのか疑問が浮かぶ。
(僕を、あんなに強く求めてくれるアルファ…)
もう、一生出会わないのかもしれない。
愛しい、広い背中が思い浮かぶ。けれど、彼は、僕を今、一人にさせている。それが透なりの優しさなのだと思う。
けれど、彰は、本能のままに僕を求めてくれた。一番長い時間を共に歩いてきた。いつも、傍にいてくれた。
(透は、発情期の僕に二回も出会っている…)
それなのに、どちらも冷静で、僕は結局、この部屋で一人苦しんだだけだった。
彰だったら…
脳裏に一瞬でも、かすめた考えに、鼻の奥がつん、と痛んで、急いで枕に顔を埋めた。
(違う違う、僕が好きなのは、透だけ…)
他のアルファではいけない。
優しくて、穏やかで、僕に愛情を尽くしてくれる透だけ。
発情期の僕を大切にしてくれた。紳士な透らしい。その優しさもわかる。僕を尊重してくれていることもわかる。
だけど。
内腿が吐き捨てた精液でねばついて、気持ちが悪い。それでいて、擦りすぎてそれ自身も痛い。へその下あたりが、ずっと鈍痛が続いていて、目の奥も鼓動の度に痛む。
アルファであるはずの彼に、相手をしてもらえない一人ぼっちの発情したオメガである自分を振り返ると、オメガとしての魅力が足りないのか。それとも、透のアルファ性が…。
「違う…」
混沌とする頭と発情期の最中、前後はよくない考えに飲み込まれる。
「違う、違う…」
熱い眦に気づかないように、枕に必死に顔をこすりつける。
(愛するアルファに、求めてもらえないことが、こんなにも…)
心を深く傷つけることだと、知りたくなかった。
だから、本能のままに求めてくれたアルファが頭に深く残るのは、発情期で頭がおかしいからだ。
「僕が、好きなのは…」
優しい笑顔は、風に吹かれて散る花びらのように、はらはらと消えていき、見えなくなってしまった。
さらに三日かかって、僕はシェルターから寮の自室へと帰った。部屋についてから、忘れていたスマートフォンの充電を行う。その間に身の回りの整理を行っていると、充電をし始めて動き出したそれが、ちかちか、と光り出した。
ベッドに腰掛けて、内容を確認する。
着信が複数件と、メッセージが入っていた。どちらも、透からだった。
毎日、体調を気遣うメッセージと植物園の写真と、何気ない日常の連絡が入っていた。
「透…」
マメに連絡をくれる一つひとつの言葉に優しさが満ちていて、ふ、と頬がやわらいで、肩の力が抜けた。
(何も心配することないや…、やっぱり、発情期中はネガティブになるだけなんだ…)
透の思いが身体に沁み込んで、とくとく、と心音を大きくさせる。じわ、と滲むように好きという感情が溢れていく。
無事、部屋についたことを連絡しようと、メッセージ入力画面を開いた瞬間に、ぱっと画面が切り替わり、バイブレーションが鳴り始める。着信を知らせるそれらに驚くが、その主にさらに目を疑う。
ごく、と唾を飲み込んでから、受話器を取るマークをタップする。
「も、もしもし…」
『依織? 元気かい?』
低い声は電波を通すと、なお低く聞こえる。
「はい、今、部屋に帰ってきたところです…」
『そうかい。発情期だったんだろう? 今回は長かったね』
(どうして、それを…?)
なぜ、学園外にいる史博がそのことを知っているのか不思議だった。僕以外、誰も知るはずのないことなのに。一気に背筋が凍えて、汗が滲む。
『元気そうで良かった。 ところで、急で申し訳ないのだが、今から大田川の屋敷に来れるかい?』
「今から、ですか?」
いきなりのことに思わず聞き返してしまった。
何か予定があったのを忘れてしまっていたのか、急いで頭の中を駆け巡る。
『そうなんだ。年末のパーティーで依織の正式な発表を行うのに、有名なデザイナーのアポイントメントが今日の夜しかとれなかったんだ』
それを逃すといつになるかわからないこと。たまたま史博自身も夜は都合がつきそうだったため、僕にも同席してほしい、という電話だった。
こめかみが、どくん、と強く波打ち、ずきずきと頭が痛んでくる。
(どうしよう…)
伝えないと。
僕は、史博さんと婚約できません、と。
「…史博さんに、一任します…」
そういうことは直接言わないといけない。嫌なことを先延ばしにしているだけだ。
けれど、意気地なしの僕は、先延ばしにすることを選んだ。
(もう少し、冷静に考えて…。ちゃんと納得してもらえるように…)
準備がもっと必要だ。ちゃんと。
電話口で沈黙が続き、息をつめて待っていると、長い溜め息が聞こえる。
『依織…、私を困らせないでほしい』
はっきりとした声色は、電話越しなのに圧を強く含んでいた。それだけで、身体は強張り、血の気が引いていく。
「あ…、その…」
謝罪をした方がいいのだろうか。それとも、いっそ、本当の気持ちを言ってしまおうか。
戸惑っていると、電話口の奥から何か人の声が聞こえる。
『依織、もう切るよ。もう柴田を迎えに行かせたからそろそろ着くはずだ』
「え? そんな、いきなり…っ」
『先生たちには私の方から連絡してあるから、依織はそのまま降りて、寮の前で待っていなさい』
「ふ、史博さ…っ」
じゃあ、また今夜。
言うだけ言って、史博は電話を切ってしまった。依織は、真っ暗になった画面を見下ろして、痛むこめかみを指先で揉んだ。
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