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第74話
病室に入ると窓からは葉を落とした寒々しい木が目に映る。
それから、抱えた花束を花瓶に生けて、枕元に置く。横を向くと、少し痩せた彰が目を伏せたままだった。
彰が僕の部屋から飛び降りて、一週間は経っていた。まだ目を覚まさない。現段階で確認できるのは、彰の身体はちゃんと健康に戻っているということ。脳へのダメージは起きて診断しないとわからないらしい。
先日頭に巻いていた包帯は、いつの間にか取られていた。
椅子に腰かけて、顔を覗き込む。真っ白だった顔は、少し血の気が戻ってきた。かさついた唇が、先ほど見た木肌のようで、チェストに収められているポーチから、リップクリームを出す。かすかな寝息を立てる唇に、柔らかなクリームをそ、と引く。硬い皮がひっかかる感覚があって、彰の身体は生きていて、再生を繰り返しているのだと実感する。
いくらか潤んだ唇を見て、ベッドに顔を伏せる。
(どうすれば、彰を守れたんだろう…)
彰の元で泣き崩れる香耶のうなじには、赤く腫れた歯型がいくつも重なって見えた。香耶からかすかに香るフェロモンが、噛んだ相手が彰だということを示していた。闇の中、覗いてしまった情事を思い出して、バツが悪くなり逃げるようにこの部屋から立ち去った。
何度か見舞いに来る中で、香耶と出会うことはあったけれど、制服を身にまとった彼は、何も言わずに一瞥だけして出て行ってしまう。僕も何を声かければ良いのかわからない。
(発情期中に、番が隣からいなくなることが、どれだけオメガにとってつらいのか…)
想像することもできない。
好きな人が隣にいて、ようやく番になれたのに、こうしてまた引き離されそうになっている。崩して考えていくと、どれだけ香耶が苦しい思いを抱えていて、我慢しているのかがじんわりと感じられる。
(誰も、しあわせになれない…)
彰が飛び降りる前に言った。
僕が番にならない人生なんて、いらないって。
(でも、彰は、香耶と…)
それに、僕は、彰とは番になれない。だって、僕は、史博の婚約者なのだから。
(大切な友達と、番うことなんて、できないよ…)
いくつかの分岐点があった。
その度に、彰と僕は結ばれることのないような道を、それぞれが選んできてしまったのだ。
最初は、可能性があった道も、僕たちがお互いの意思で離れていった。
ただ、それだけなのだ。
彰への、秘めた恋心も、その道中に置き去りにしてきたものの一つだ。
もう、僕の行くべき道の先には、違うアルファが待っている。大好きな、彼が。
それは、僕が決めた道なのだ。
(だけど、彰と香耶の、しあわせを奪うようなことはしたくなかった)
誰も僕を責めない。香耶でさえ、冷たい瞳の中には僕を責める色はない。
実の兄弟である史博は、彰よりも僕のことを心配してくれた。心療内科の先生まで紹介してくれた。さぞショックだろう、と。
誰にも責められないことが、僕を一番苦しめた。
いっそ、罵ってひどくぶたれて、痛みに泣いた方が楽だった。
彰が放った最後の一言は、僕の心をそれだけ深くえぐり取った。
僕のせいで、彰は飛び降りたのだ。それは、紛れもない事実なのだ。
(僕が、いなければ…)
大切な親友を傷つけることも、番と引き裂くようなことになることも、僕自身の胸に抱える苦しみも、ありえなかったのだ。
泣くことでさえ、図々しい。僕が、痛みを感じてはならない。自殺未遂を図るほどに追いつめられてしまった彰が一番痛かっただろうから。
清潔なシーツに、ぼたぼたと大粒の涙が吸われていく。
(彰のなのに…)
僕が汚してはならない、と身体を起そうとした時、頭に何かが触れた。それは、こめかみから後頭部にかけて、髪の毛を撫でつけるように柔く触れた。ゆっくりと視線を向けると、彰が、うっすらと微笑んで、僕をもう一度撫でた。
「いお、り…」
乾いた声だけれど、はっきりと僕の名前を呼んだ。色の薄い顔で、嬉しそうに笑う。
弛緩した身体からは、ば、と涙が溢れた。震える手を握りしめると冷たさに驚く。
「彰っ、大丈夫? 痛いとこない?」
包帯の巻かれていた場所に触れようと手が伸びてしまって、は、と気づいて、戻そうとすると彰は唇を尖らせた。
「撫でてよ?」
眉を下げて、空いている目を半分にしていじけた顔をつくる。何か傷つけてしまってはいけない、と思っているのに、彰に望まれた、と思うと、手は勝手に彰のこめかみをなぞった。彰はその手を包んで、頬を擦り寄せた。
「依織の手、あったかい…」
赤ちゃんみたいだね、と言って、力なく薄く笑った。触れた頬は幾分温かいけれど、僕よりもいつも体温の高い彰にしては、冷たすぎるくらいだった。
「彰…」
ぽつ、と言葉が零れた。ごめんね、と口が開きかけたときに、先に彰が笑った。
「依織」
柔らかい声色は、春風のような、昔から僕の大好きな彰に思えた。
「ずっと、一緒にいてくれるよね?」
無垢に微笑むその顔に瞠目するが、ね、と彰が頬を擦り寄せて、再度確認してくる。
僕は、息を飲み込んで、笑顔を貼り付けてうなずいた。
僕が選べるわけなかった。
色々な人を傷つけた僕が。
番になったばかりなのに引き離された香耶が、傷ついた親友が、こうして今も、懸命に生きているのに。
僕だけが、道の先で待っている、愛しい彼の腕の中で笑えるはずがない。
僕には、もう選べる道はない。すべて閉ざされた世界で、ただ、彰が望むままに生きるしかない。
それが僕のできる、償いだと信じて。
トイレから出ると、遠くから何かが倒れる音が響く。同時に唸り声のような悲鳴が聞こえる。急いで駆けつけると、部屋の中は惨事になっている。
「彰!」
カーテンをレールから引きはがして、金具がばちばちと辺りに飛び散る。名前を呼んで、止めようと後ろから抱き着くと、は、と身体を固めてから、一気に弛緩していくのがわかる。
「い、いおり…いた…、よかった…」
僕を見下ろすと、冷や汗をかいた彰は力なく笑った。それから、正面に向き直って、僕を抱きしめる。大きな身体は温かいけれど、がたがたと震えていた。
「ごめんね、大丈夫…僕は、ここにいるから…」
広い背中を何度も撫でる。彰は、深呼吸して落ち着こうと努力している。
(よく寝てたから、大丈夫かと思ったんだけど…)
彰が長い眠りから覚めてから、僕が見える場所にいないと暴れるようになってしまった。子どもが親の姿が見えないと不安で泣き叫ぶのと同じで、彰も僕がいないと見つかるまでありとあらゆるものを破壊する。
目が覚めて、一週間は検査入院をした。退院の許可が下りて、今は大田川の屋敷に一緒に過ごしている。
彰の部屋からは倒すようなものは極力排除された。残されたのは、机とソファ、ベッド程度だった。部屋の中に視線を巡らすと、机は跳ね飛ばされて壁に傷を作っている。クッションの中身の羽毛は辺りに散らばっている。カーテンは半面は完全に取り外され、残りは一、二個程度の金具がかろうじて布をひっかけていた。
「依織…、依織…どこにもいかないで…」
ずっと、一緒にいて。
そう何度もつぶやきながら、彰は泣き始めてしまった。
大きな身体がのしかかるように抱き着いてきて、重い。けれど、それだけ求められているのかと思うと、応えなくてはならない。
抱きしめ返して、何度も同じことを答える。
「大丈夫、僕は、ずっと彰のそばにいるよ」
ごめんね、大丈夫。繰り返し囁いて、彰が満足するまで背中を撫でる。ただそれだけ。
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