黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第76話








「楠、大丈夫か?」

 視線を向けると机を挟んだ先に、心配そうに眉間に皺を寄せた芳野がいた。額を押さえていた手のひらをすぐに芳野に向けて、笑顔を貼り付ける。

「大丈夫、ちょっと寝不足なだけ」

 うまく笑えていたと思ったけれど、芳野はさらに皺を濃くして身を乗り出した。

「楠には感謝してる。だから、僕で力になれるならなりたい」

 真摯に見つめてくる瞳は、彼らしく素直で透き通っている。本当に僕のことを思ってくれているのだとよくわかる。今度は自然に頬がゆるんだ。

「ありがとう。芳野が味方だと思うと、すごく心強いよ」

 困ったら芳野を頼るよ、そう約束して手もとの報告書に向かい直った。
 寝不足は本当だった。
 今回の、依織先輩の発情期はきつかった。
 べっとりと違うアルファの香りがしていて、血管がびきびき、と色々なところから鳴っていた。
 そのアルファを見つけ出して、暴力的なことを考えてしまった。そんな恐ろしい自分に鳥肌が立つ。今まで平穏であることだけを望んできた自分が、自ら台風の中心になろうとする日がくるなんて思いもよらなかった。

「透…」

 舌足らずな口元で、僕に必死に抱き着いて名前をつぶやく、小さく頼りない依織先輩を見ると、目の前の彼を一番にしたいという気持ちが勝った。
 今回は保健室に大人がいて良かった、と心の底から思った。

(あの時、先生がいなければ…)

 どうなっていたかわからない。
 あのまま、依織先輩が発情期で酩酊としている中で、力でねじ伏せてうなじを噛んでいたかもしれない。大切な愛しい存在を、自らの牙で傷つけてしまったかもしれないと思うと、背筋が凍る。
 緊急抑制剤を打たれても、依織先輩はぐずっていて、なかなか僕を離してくれなかった。その間も、僕以外のアルファのにおいと、依織先輩のすべてを惑わす官能的なフェロモン香に頭が沸騰するように熱く、全身に鳥肌が立ち、震えすらも出ていた。

「透いないと、だめ…さみし…、やだ」

 いつも凛とした年上の彼が、子どものように甘えてくることが嬉しくない男がいるだろうか。今でも思い出すと、八重歯がうずいてたまらなくなる。
 少しでもこびりつくように香っているアルファのフェロモンが消えるように、僕のセーターを渡すと嬉しそうに微笑んで頬ずりする依織先輩に愛おしさで目の前がくらんだ。
 前回よりも強い衝動に、毎日のように自らを慰めた。昨夜も、寝静まるまでかなりの時間を要してしまった。瞼を降ろすと依織先輩がいて、気を抜くとひどく乱れた彼を想像してしまうのだ。

(いつからこんなになってしまったんだろう…)

 今まで性欲というものを感じなかった人生なのに、依織先輩と出会ってから、狂ってしまった。色に溺れ、一人で精を吐きだしては強い罪悪感に押しつぶされてしまいそうになる。けれど、身体は言うことを聞かない。
 さらに、それが止められない理由がもう一つあった。

(もう、あれから二週間経つ…)

 発情期は終わっているはずだった。それなのに、依織先輩と会えない。
 連絡すらつかない。
 愛しさに襲われて、つらいだろうからそっとしておかないと、と気遣う気持ちがあるにも関わらず、毎日、メッセージを送ってしまった。返信も既読マークもつかないそれに、依織先輩が一人で苦しんでいることが想像された。

(だったら、いっそ…)

 あの時…、と考えてしまう自分を恐ろしく思う。
 こんなにも自分が、アルファらしい征服欲を持ち合わせていることをはじめて知る。今までの人生で何かに強くこだわったり、欲したり、衝動的になることがなかったのだ。

(依織先輩だけ)

 僕を愚かで恐ろしく、それでいて生きていると実感させてくれる大きな存在は、依織先輩だけだった。
 それだけ愛おしく、かけがえのない存在。僕にとって、唯一の存在と、連絡が取れない。
 教室に一度だけ尋ねたが、欠席が続いているらしかった。
 会えない不安が、より一層、噛んでしまえばよかった、という衝動を導き、終いには発散しないと暴発してしまいそうなほどの熱を身体に孕ませる。
 噛めなかった後悔と、会えない不安と、触れたくてたまらない欲望がせめぎ合って、身体を蝕み、衰弱させていく。

(こんな自分、依織先輩に見せられない…)

 汚い醜い自分の本能を抑え込み、いつもの自分に戻りたいと強く願う。芳野にも見抜かれている。このままでは、依織先輩に気づかれしまう。
 次に会う時までには、いつもの僕に戻らないと、と思うのに、会えない時間が膨らめば膨らむほど、元には戻れない気がして、ずっと滾々と冷たく重い感情が身体に湧き出ては溜まっていく。

(依織先輩…、会いたい)

 どこにいるんですか。
 会いたいです。

 ずき、とこめかみが痛む。軽く押さえるが痛みは消えない。消す方法は、愛しいあの人に会うこと以外ないのだ。
 無意識についた溜め息に芳野が、もはや呆れたようにこちらを見ていたらしかった。







「ほら」

 ぱさ、と頭に何かが当たる。目線をあげると芳野が立っていた。
 パトロール帰りだった。僕も行くと言ったのに、体調が悪いのを心配した芳野は、僕ではない風紀委員と一緒に行ってしまった。仕方なく電話番と書類整理をしていると、いつの間にか帰ってきていた芳野が僕に一枚のプリントを渡した。

「これ…」
「楠が気にするのは、この先輩のことだけだろ?」

 それは、ここ数週間のシェルターの利用履歴だった。
 顔の広い芳野に力を貸してくれる人は多くいるのだろう。何度も大きくまばたきをして、芳野とプリントを交互に見ると溜め息をつかれてしまう。それから、プリントを指差して、ここ、と言われる。指示に従って視線を落とすと、依織先輩の名前があった。

「少し長いが、発情期を終えて、名戸ヶ谷先輩はシェルターを退出している」

 退出した日付は、すでに一週間も前のものだった。

「寮も調べてきたが、一週間、帰っていないそうだ」

 芳野の一言に目を見張って思わず立ち上がってしまう。見上げていたはずの顔は、立ち上がると随分目下にあった。しかし、まっすぐとした瞳は僕よりもずっと逞しく真実が見えている。

「ど、どういう…」

 芳野が冗談を言っている気配はまったくない。しかし、僕には、何がどうなっているのか一切わからない。
 嫌な予感しかしない。
 咄嗟に、ポケットに入っていた携帯を取り出して、依織先輩の電話番号にかけてみる。それは、コールを鳴らすことなく、電源が入っていないという無機質なアナウンスを流す。もう一度かけてみるが、もちろん結果は変わらなかった。
 あまりにも冷たいアナウンス声が耳の奥に反響する。

「寮長に確認を取った。シェルターから出たあと、すぐに迎えがきたらしい」
「迎え…?」

 まばたきすら忘れて、震える瞳で、今頼りにできる小さな相棒を見下ろす。芳野は、すっきりとした眉を凛々しく上げて美しい唇を動かす。

「大田川の使いだそうだ」
「おお、たがわ…」

 あの先輩か。
 生徒会で、依織先輩の友達の。それでいて、じっとりと依織先輩をいつも見つめている。

(発情期のときのアルファのにおいも…)

 一度、依織先輩と至近距離で過ごしていることに腹が立って、風紀の名を借りて割り込んでしまった。あの時に嗅いだニオイと同じだと過去を振り返る。
 以前、依織先輩は自分のものだと言い捨て、僕に威嚇してきたあの男を思い出す。



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